第232話 【ASMR】(非実在)同棲彼女の目覚ましボイス
諸々の用事を済ませ、俺は昼過ぎにMAOにログインした。
今日から百空学園の学園祭だ。
総計ウン百万、下手すりゃ数千万人ものファンを抱えるグループ、百空学園が催す、世界屈指のVRイベント。
俺とチェリーは待ち合わせて、この祭りを回ることにしていた。
今夜に控える虚面伯第三の事件に、昨夜の事件の捜査……それに、《杞憂の民》に依頼された天初百花殺人事件。
やることは山積みなのにいいのかとは思うが、どうもチェリーには余裕があった。すでに何かが見えているような……。
昨夜もログアウト前に、昨日の事件を映した配信のアーカイブを見返しながら、俺にこんな風に言ったのだ。
――先輩。わかりますか? そう、アルタード・ラットマンの群れです――先輩に反応して一斉に敵意の目を向けた瞬間がありますよね。その瞬間に、一匹だけ背を向けているラットマンがいませんか――?
それが何を意味するのかは教えてもらえなかった。
とにかく、その会話があった直後から、チェリーの意識はすっかり学園祭のほうに向かってしまったのである。
名探偵ムーブをすっかり気に入っちまって……おかげで俺はヤキモキさせられっぱなしだ。
ログインドアを通って、俺は氷室白瀬に用意してもらった部屋に出る。
高級そうな絨毯が敷き詰められたツインルームには、まだチェリーの姿はなかった。ちょっと早かったか。
ガラス張りの窓から見下ろせる百空学園は、完全に祭りの色彩を帯びていた。あえて手作り感溢れる飾り付けが灰色の校舎を彩り、企業名が記されたアドバルーンがあちこちから空に伸びている。
まだ開場前のはずだが、百空学園敷地内に繋がる門の前には、すでに大行列ができていた。
校下街の坂道が完全に人の海だ。
あれに並ばなくていいのはラッキーだよなあ。
「……くあ……」
欠伸が出た。
この二日ほど、慣れないことの連続で、ちょっと疲れてるのかもな……。なんか眠い。
チェリーが来るまで、昼寝でもしてるかー……。
そう思って俺は、自分のベッドにもぞもぞと潜り込んだ。
潜り込んで……しまった。
「……すう……すう……」
ん?
なんだ……この、胸の辺りをくすぐる、吐息のようなものは……。
なんだ……この、布団の中にある、柔らかな物体は……。
なんだ……この、頭の奥が痺れるような甘い香りは……!
恐る恐る、布団の中を覗き込んだ。
黒髪の、頭があった。
その時点で、チェリーではなかった。
俺の胸の中で、胎児のように小さく丸まっていたのは。
小学生のような小柄な身体にサキュバスみたいな巨乳を持つ女だった。
「ゆーおッ……!?」
「むふー♥」
驚いてベッドから飛び出そうとした俺の胴に、妖怪ベッド潜み女――もといUO姫の腕が、蛇のように素早く絡みつく。
捕まったあ!
UO姫の格好はいつもの改造ロリィタではなく、レースでスケスケのネグリジェだった。
体格に不釣り合いな巨乳が俺のお腹に押し付けられ、むにゅりと潰れて形を変えている様は、いかに感触がないと言えども目に毒だった。
こいつ、起きてんだろ。
わざとやってんだろ!
っつーかどうやって入ってきた!?
混乱で頭がぐるぐるになる俺をよそに、UO姫は「ん……」と吐息を零しながら、つぶらな瞳をゆっくりと開いた。
そして、俺の顔を見上げると、ふにゃりと安心したように微笑む。
「ふへ……おはよ、ケージ君……」
うぐっ。
……悔しいが、ちょっと可愛かった。ちょっとだけな。ちょっとだけ。これがスマホゲーのイベントシーンだったらガチャを回していたかもしれない。
UO姫はじっと俺の顔を見つめながら、もぞもぞと顔を近づけてくる。
「どうしたのぉ? 顔赤いよぉ? 風邪ひいた? ……あ、それともぉ……」
クスッと悪戯っぽく笑ってから、UO姫は耳元で囁く。
「(……昨日のこと、思い出しちゃった?)」
からかうように囁きながらも……UO姫の赤ちゃんのように丸みを帯びた頬は、かすかに赤らんでいるように見えた。
……そういう設定か!
どんなゴリ押しだ! そんな既成事実の作り方があってたまるか!
「(昨日はすごかったね♥ 壊れちゃうかと思ったぁ……♥ ケージ君は疲れてない? え~? 大丈夫なの? ……あ、本当だ。朝からすっごく元気だね……♥)」
いや何も言ってねえのに会話してる風に喋るな。
え? なんだこれ? ASMRってやつ? 吐息と囁き声が一緒に耳に入ってきて、背筋がぞわぞわする。
これ以上はマズい……! この淫魔を引き剥がさなければ!
「(今日はお休みだからぁ……もうちょっとだけ、ベッドの中でイチャイチャしよっか? だいじょーぶっ♪ ケージ君はじっとしてていいよ? ミミがぁ、いーっぱい♥ 癒してあげるからね~……♥ あ~ん――)」
うぎょあああ! 耳を舐めようとするな!
焦りのあまり悲鳴も上げられず、無言で頭を逃がそうとする俺。
UO姫は見た目の割にSTRが高く、悪戦苦闘していると――
隣のベッドのそばに、ドアが出現した。
「おはようございますー。先輩、来てます――か……?」
一瞬の猶予もなかった。
ドアを開いてログインしてきたチェリーと、ベッドの中でUO姫に耳を舐められそうになっている俺の目が、バッチリ合ってしまった。
「……………………」
「……………………」
そうっと。
ドアが閉じられようとした。
「いやいやいや待て待て待て待てぇ!!」
俺は火事場の馬鹿力でUO姫を振り払い、閉じられかけたドアにギリギリで腕を挟む。
「聞け、話を! わかるだろ! いつものだよ!」
「ううっ……! ひぐっ」
「泣いてる!?」
「焦らしすぎなのはわかってますけどぉ……! チャンスがあっても何もしないのは先輩のほうじゃないですかぁ……! なのになんで……ううーっ……!!」
「落ち着けバカ! ここMAO! 何もできねえだろ!」
「え~? ひどいよぉケージ君。昨日はあんなに激しかったのにぃ……」
「うるせーボケ!!」
愉快犯にはこのシンプルな罵倒で充分である。
果たして、なんとかチェリーを宥めすかすことに成功すると、俺たちはUO姫をベッドの上に正座させた。
UO姫は扇情的なネグリジェのまま、反省の色が少しも窺えないニコニコ笑顔を浮かべた。
「本人直送、ミミの事後寝起き癒しボイスは楽しんでくれたかなぁ?」
「ぶっ殺しますよ」
チェリーの目が据わっていた。
探偵役の真っ最中でありながら、今まさに殺人を犯しますという目だったが、UO姫はどこ吹く風で、キョトンと小首を傾げる。
「何かダメだった? 本番のシーンは省いたんだけどぉ……」
「存在する時点でダメでしょうが!」
「チェリーちゃんが寝てる隣でやるつもりだったのに、二人ともログアウトしてるんだもん」
「どうやったらそんな発想が出てくるんですか! 前世はいやらしい策謀を張り巡らせて人間を破滅させるタイプの悪魔だったでしょうあなた!」
「もしかしたらサキュバスだったかもしれんと思うことはありまぁす♪」
ペロリとあざとく舌を出すUO姫。
ホントにコイツ、性欲のたかがぶっ壊れてるとしか思えんからな。
「これが全年齢ゲームでよかったねチェリーちゃん。何でもありのゲームだったら、ミミも何でもありでやってたからね?」
「あなたなんかの誘惑に先輩が揺らぐわけないでしょう」
「どうかなぁー? さっきの感じからするに、実は気にしてるんじゃないの~? そろそろ何かさせてあげないと愛想尽かされるんじゃないかなーとか思ってんじゃないの~?」
「お、思ってません……!」
ムキになって否定すんなっつの。余裕を持て、余裕を。
……今更愛想尽かすわけないだろ、んなことで。
「お前、どうやって入ってきたんだよ?」
チェリーの分が悪そうだったので、話題を変えた。
UO姫は唇を指でなぞり、「ふふ」と妖艶に笑ってみせる。
「ケージ君とエロいことがしたいですって氷室君に言ったら入れてもらえましたー♪」
「何やってんだあいつ!」
「『面白そうだからいいですよ』って言ってたよ?」
これだから配信者は!
昨日のマジックミラーの壁を見たが、まだ棚で塞いである。まさか他にもあるんじゃねえだろうな……?
「……まさか、それだけのために来たんじゃないでしょうね? どれだけ暇なんですか?」
「ケージ君とイチャイチャするのが暇人のやることだって言うなら、一番の暇人がミミの目の前にいるんだけどぉ……。まあもちろんそれだけのためじゃないよ? 学園祭のイベントにお呼ばれしたからさー、控え室代わりに部屋貸してもらっただ・け♪」
出演者か。まあUO姫はかなりの有名人だからな。雨矢鳥フランと友達だっていうし、その関係だろう。
「それより二人とも、ずいぶん苦戦してるみたいだね?」
笑いながら、UO姫が不意に言った。
「もう二つも盗られちゃったんでしょ? 虚面伯に。珍しいねぇ、こんなに手間取るなんて」
「戦って倒すだけでいいなら簡単だけどな。今回ばかりは勝手が違うっつの」
「心配せずとも、目処はついてますよ。紹介したあなたの面子は潰れません」
「ふうん。じゃあわかってるんだ? 昨日の事件で、虚面伯がタクトを盗み出した方法も?」
「ええ」
チェリーはあっさりとうなずいた。
「わかってますよ。タクトが盗まれた手順も――そして、それに協力した共犯者も」




