第222話 怪盗劇場・第一夜
「《エアガロス》!」
月光の中、《晴天組の秘宝》が安置された展示ボックスの上に虚面伯が着地した直後、真っ先に動いたのはチェリーだった。
詠唱したのは風属性の攻撃魔法。
俺は混乱した。何せ百空学園の中はPK禁止の《法律》がある――魔法で攻撃したところで、虚面伯のHPを削ることはできないはずだ。
せいぜい、その豪風によって身体を吹き飛ばすのが関の山――あるいは、この時計塔から突き落としてしまうのが狙いなのか?
俺の予想は見当外れだった。
チェリーが狙ったのは、虚面伯ではない――その頭上。
夜空に舞う怪鳥型モンスターと虚面伯を繋ぐラインだった。
きらりと光る細い何かが、ぷちりと千切れ飛んだのが見えた。
この段に到り、ようやく俺は気付く。
虚面伯は怪鳥型モンスターに乗って空からやってきた――であれば、モンスターと自分を糸などで繋いでおき、目的を達した後にモンスターに引き上げてもらえば脱出は容易!
「――来るとすれば、空しかないと思っていました」
告げるチェリーと、不敵に笑う虚面伯の視線が交錯する。
「見え透いてますよ。この程度の手品で人を騙せるとでも?」
「ふふ――こいつは失敬」
虚面伯は頭に被った学帽を取ると、屋上の外側に向かって放り投げる。
鮮やかな赤髪が外気に触れ、俺の目に鮮烈に焼きついた。
そして。
ガンッ! と――足元の展示ボックスを強く蹴りつける。
けたたましい音を立て、透明な展示ボックスが割れた。
その破片と共に、ふわりと床に舞い降りながら――虚面伯は、解放された《晴天組の秘宝》の柄を手に取る。
それを見るや否や、金髪ギャルの千鳥・ヒューミットが叫んだ。
「ムロっぺ!」
「わかってる!」
答えながら、パーカー少年・氷室白瀬が足元の床を強く踏み叩く。
すると、その床板がボコリとヘコんだ。
感圧板――何かのスイッチ!
ガシャコン! とピストンが作動する音が重奏した。
瞬時である。
瞬きのうちに、俺たちのいる屋上展望台を、巨大な煉瓦の壁が囲っていた。
せり上がってきたのだ、屋上の縁から。
高さは10メートル以上にもなるだろう。その表面にはぬるりとした光沢があり、あらゆる登攀スキルを無効化するコーティングが施されていることが窺えた。
つまり、あの壁を越えるには飛び越えるしかない。
しかし、10メートル以上ともなると、おそらくMAOでトップクラスのAGIを持っている俺でも飛び越えることはできない。
いわんや虚面伯をや、だ。
これがさっき、氷室白瀬が言っていた対策か――これで虚面伯は、俺たちの背後にある階段でしか脱出することができなくなった!
「ふふ」
追いつめられたはずの虚面伯は、しかし愉しそうに微笑んだ。
「さあ、いよいよ開演だ」
《晴天組の秘宝》を右手に持ちながら、虚面伯は左手をインベントリの中に突っ込む。
取り出されたのは、青く輝く石。
《往還の魔石》だった。
俺たちも、そして動画を見た天初たちも知っている――それは、使うために取り出したのではない。
虚面伯は《往還の魔石》を、夜空高くに放り投げた。
鋭い放物線を描き、硬い床に激突した魔石は、軽い音を立てて粉々に砕け散る。
その行動が物語った。
ワープなど使わない。
それでもこの檻から逃げてみせよう。
それは奇跡の開演を告げるもの。
俺たちに――世界に突きつける挑戦状。
――『怪盗宣言』。
ようやく、俺は動いた。
背中から《魔剣フレードリク》を音高く抜き放ちながら、虚面伯との距離を瞬時に詰める。
ネームタグから虚面伯のレベルは割れている。その数値は97。
それさえ変身魔法による偽装である可能性はあるが、レベル120に近い俺とは開きがある。
その上でAGIに極振りしている俺ならば、単純な素早さで虚面伯に後れを取ることはない。距離を詰めてしまえば二度と逃がすことはない!
目前で魔剣を振り上げた俺を見上げ、しかし虚面伯は悠然とした微笑を崩さなかった。
「残念ながら、今宵の舞台に殺陣は不要だ」
言葉と同時だった。
激しい閃光が視界を覆った。
――目眩まし!?
やはりジェスチャーが見えなかった……! 今の台詞の中にベロジェスチャーを仕込んだのか……!?
視界を奪われたままに振るった剣は、何の手応えも返さなかった。
どこだ……? どこに行った……!?
「皆さん! 階段の前を固めてください!」
チェリーが叫んでいる。
いかに視界を奪おうと、出入り口がひとつだけなのは同じ。階段の周囲さえ人の壁で固めてしまえば、虚面伯は脱出できないはずだ。
はず、なのに。
――ギイッ……バタン。
それは、確かに聞こえた。
扉が開き、閉まる音。
何者かが、屋上から塔の中へと入っていった音が――
ようやく視界が戻る。
俺の前には、すでに誰もいなかった。
振り返ると、チェリーや天初たちが全員で階段の周囲を固めていて、そして、驚いた顔で階段の下を振り向いている。
「今……誰か……」
「逃っがすかあーっ!!」
叫んで、千鳥・ヒューミットが階段に飛び込んだ。
「千鳥先輩っ――ああくそ!」
続いて、氷室白瀬が。
「え、えっ……ど、どうすっと……」
「あのぉ、あたしたちは~……」
「天初さんと雨矢鳥さんはここに! ――先輩!」
「おう!」
わたわたする天初百花と完全に置き去りにされている雨矢鳥フランをチェリーに任せ、俺は階段を駆け下る。
前を行く二人を追いかけながら、頭の端で考えた。
どうやって階段を守る人の壁をすり抜けた?
跳び越えたのか? いや、そんな大ジャンプをすれば、着地の際に必ず物音がする――そんな音は決して聞こえなかった。
階段を下りた先の扉を抜け、一本道の廊下で氷室白瀬と千鳥・ヒューミットに追いついた。
廊下の先にはエレベーターの扉がある。
千鳥・ヒューミットが、その操作盤に噛みつかんばかりの勢いで、
「先輩たちの剣を返せえーッ!!」
獰猛に吼えながら、『▼』のボタンを連打した。
すぐにエレベーターの扉が開く。
「「え?」」
俺と氷室白瀬の声が重なった。
お、おい……待てよ。どういうことだ!?
千鳥・ヒューミットはエレベーターの中に駆け込むと、俺たちを振り返って叫ぶ。
「何してんの!? 早く追いかけないとさ!」
「ちょっ……と、待ってください、千鳥先輩」
珍しく戸惑った様子で言い、氷室白瀬は足を緩める。
俺も開いたエレベーターの前で立ち止まり、
「……中には、何もないよな……?」
「ない……ですね」
俺の確認に、氷室も同調した。
エレベーターの中には何もない。
「なになに? どうしたん!?」
「……ケージの上にも何もない……」
氷室がエレベーターに首だけ突っ込み、天井を見上げた。
同じようにしてみると、透明な天井にも、何か乗っている様子はなかった。
ケージの上にも何もない。
「ちょいちょいちょい! なんなん!? 二人してさ! 虚面伯、下に逃げたんでしょ!? 追いかけるんじゃないの!?」
「いえ、先輩……それは、有り得ないんですよ」
「は!? なんで!?」
「エレベーターが下りてなかった……」
俺は思わず呟いた。
「チェリーが確認してた。このエレベーターは人が乗って扉が閉まると、自動的に動き出す――裏を返せば、人が乗ってないと動かないってことだよな……?」
「その通りです。……つまり、空のケージだけを上や下に送り出すことはできない」
「??? だから?」
察しの悪い千鳥・ヒューミットに、氷室は辛抱強く説明する。
「いいですか、先輩? このエレベーターを使って虚面伯が下に降りたとしましょう。そのとき、エレベーターのケージはどこにありますか?」
「は? そりゃ下っしょ」
「ですよね? でも今、扉がすぐ開きましたよね? 下からケージが上ってくるのを待つ時間なんてありませんでしたよね?」
「え? 上にあったってこと? じゃ、虚面伯が下からケージだけ上がらせたってことじゃん?」
「それができない、という話を今したんですが」
「え? え?」
千鳥・ヒューミットは目を白黒させて、
「じゃあ……虚面伯は、このエレベーターを使ってないってこと?」
「そうです。まだこの階にいます」
俺は廊下を振り返る。
屋上に続く階段からエレベーターの扉までは完全なる一本道。
窓もなければ、調度品が置いてあるということもない。
逃げることも隠れることも、完全に不可能だ。
一体、どこに消えた?
俺たちは廊下を逆戻りし、階段の下に出る。
階段の上からチェリーと天初、雨矢鳥がこちらを覗き込んでいた。
「先輩! 虚面伯は!?」
「いない……! エレベーターを使った様子もない! どこかに消えた!」
「消えた……!?」
チェリーは驚きつつも、難しそうな顔になって階段の中を見渡した。
階段にも、人が隠れる余地はない。
「即時ログアウトはできないんです。消えるわけがない……。どこかに隠れているはずです! 探しましょう! 二手に分かれて――」
チェリーの言葉が途切れた。
その視線は、身体の脇にどけてある、ウインドウに向いていた。
「……皆さん……」
感情を押し殺すような声だった。
「地上の配信、見られますか」
地上の? 時計塔の周りに集まった野次馬視点の配信のことか。
俺たちはそれぞれ、首を傾げながらも配信を開く。
配信は、時計塔の入口――開いた大扉を映していた。
野次馬たちのさざめくような声が、いくつもいくつも入りこんでくる。
『嘘だろ?』
『どうやって……』
『やば』
『マジかよ……』
エントランスの奥から、一つの人影が歩み出てくる。
マントを靡かせ。
学帽を目深に被り。
一振りの剣を、右手に携えて。
怪盗が、再び月下に姿を現す。
誰もが息を呑んで、その瞬間を目撃した。
光と共に、忽然と消え去って。
その足跡さえ辿らせずに、天から地へと舞い降りた少女。
彼女は野次馬たちを見回すと、超然的な微笑を湛えた。
『いかに高く堅牢な壁を巡らせようとも、女神の怒りを鎮める木馬は妨げられない』
そして、右手に持った剣を頭上に掲げ、
『お宝――確かに頂戴した』
言葉と同時に、ピカッと光のエフェクトが瞬く。
《窃盗》スキルが発動したのだ。
その効果により、剣の所有権が虚面伯に移動した。
剣をインベントリに納めると、虚面伯は学帽を取って深々と一礼する。
その体勢のまま、静かに消えた。
ログアウトだった。
時計塔の外には、即時ログアウト不可のルールが働いていない。
一拍の沈黙の後――歓声が湧き起こった。
百空学園のファンであるはずの野次馬たちが、一様に一夜の奇跡を讃えた。
《怪盗女優》。
その異名の通りに、虚面伯は今夜の主役の座さえ、鮮やかに盗み出したのだ。
虚面伯がいた場所には、一枚のカードが落ちている。
怪盗劇場は、一夜だけでは終わらない。
『月の兎は歌うでしょう。
我らの歩みに幸よあれと。
月の兎は歌うでしょう。
自らの光に瑕疵はなしと。
月の兎は歌うでしょう。
水面に映る影とも知らずに。
赤名統一連盟 虚面伯』




