第219話 怪盗女優
――キーンコーンカーンコーン。
「おっ、誰だ?」
「ムロっぺじゃね? 確か5時半から枠取ってたはず」
「じゃあ体育館か。行こうぜ!」
聞き慣れたチャイムが百空学園の全域に響き渡ると、そこらに屯していた学生服のプレイヤーが一斉に動き出した。
時計塔を出た俺とチェリーは、なんとなくそれに乗って体育館を目指す。
百空学園の体育館は、リアル学校のそれに比べると恐ろしく巨大だった。
どちらかといえば、『アリーナ』とか『競技場』とでも呼んだほうが適切な規模感だ。
中に入り、階段で二階に上がり、人混みに紛れて白線が引かれたコートを見下ろす。
と、制服の上にパーカーを着たダウナー系の少年と、派手な金髪を派手にカールさせたギャル系の少女とが、その真ん中で喋っていた。
「みんな集まってきたねー! じゃあムロっぺ、そろそろ自己紹介しよっか!」
「百空学園eスポーツ部所属、氷室白瀬です。よろしく」
「前から思ってたんだけどさ~、もっとなんかないの?」
「思いつかないんで。お手本見せてくださいよ、先輩」
「見敵必殺、ギャルレート上昇中! 百空学園eスポーツ部所属、千鳥・ヒューミットでーす! よろり~ん☆」
「ギャルレートってなんすか先輩。キルレートとかけてるんすか。ダジャレっすか。マジかっけえっすね」
「うわーん!! 後輩がいじめるー!!」
どこかにスピーカーでもついているのか、二人の声は鮮明に体育館中に響き渡る。
だだっ広いフロアの真ん中で話す二人に反応して、二階席の視聴者たちは思い思いに笑い声を漏らしたり、ヤジを入れたりした
「なんか、配信ってより、テレビのロケ現場みたいだな」
さっきのチャイムは、この学園内でメンバーの誰かが配信を開始したことを知らせるものだ。
MAO上の百空学園は、ファン同士の交流の場でありつつ、メンバーが配信に使う巨大な舞台セットでもある。
この巨大な学園のどこかで、ほとんど常にメンバーによる配信が行われており、ログイン中のファンは自分の目と足でそれを見に行くことができるのだ。
チェリーは手すりに腕を預けて配信者たちを見下ろしながら、
「あれに私たちも出るってことですよね……。何だか実感が湧きませんけど」
「実感の湧かなさで言ったら、自分が出てる小説が本屋に並んでるのも大概だけどな」
「慣れの問題ですよ。見てくださいよこの人数! セツナさんやろねりあさんの配信に顔を出すのとは次元が違いますよ」
フロアをぐるりと囲む二階席は、なんとほとんど満席だった。
ここだけで軽く四桁はいる。
動画サイトでの視聴者数は1万人に近いだろう。
普通なら、MAO内でこれだけの人数が一箇所に集まる、というだけでも異常事態なのに、この学園ではこれが日常茶飯事なのだ。
それが、年に一度のイベントに合わせた特別なコラボ配信ともなると――
「……なんかお腹痛くなってきた……」
「それは私の台詞ですよ。この手のゲームは一応、私の担当なんですからね」
そう言ってチェリーは、メニューから1枚の画像を表示させた。
それはついさっき、天初百花と雨矢鳥フランに見せられた、一通の手紙。
《予告状》だ。
『輝く夜に月が昇れば、私は時を告げましょう。
緞帳は天より降りて、そして地に着き、幕を引く。
扉を閉めても無駄なことです。
舞台は一度。夢見るように過ごしましょう。
永遠の夢など、何処にありましょうや。
赤名統一連盟 虚面伯』
末尾には、狙うアイテムの名前と、今夜22時に参上する旨が記されている。
「……見れば見るほど怪文書です」
「よくもまあ、逆にネタにしてやろうなんて考えたよな。配信者のたくましさには恐れ入るわ」
そう。
悪名高き《赤統連》の第六席・虚面伯から送りつけられたこの犯行予告を、百空学園はあろうことか『美味しいネタ』だと捉えたのだ。
予告状自体は仕込みではない。
ガチの本物。想定にも計画にもなかったものだ。
しかし、『これは面白い』と思った百空学園の名だたる配信者たちは、学園祭に合わせた特別企画として、虚面伯との対決を配信に乗せることにした。
そして、そのための有識者として、MAOでも随一の実力と実績がある――とUO姫が吹き込んだ――俺たちに白羽の矢が立ったというわけだ。
もちろん、断ることだってできたんだが……。
「ううーん……なかなかやりますね、虚面伯。私、好きなんですよね、こういう謎解き」
「だろうな。俺はパズルならできるけど、こういうミステリーっぽいのは苦手だ」
「私だけで出演してもよかったんですよ?」
「……毒を喰らわば皿までっていうだろ」
「私が毒なんですかね? 配信が毒なんですかね? どっちが食べられちゃうんですかね?」
くすくす、と笑いながら、チェリーは予告状を撮った画像を矯めつ眇めつする。
こいつが興味を持ったのが運の尽きだった。
チェリーがやりたいと言った時点で、俺には選択肢なんてないのだ。
ほら。こいつだけじゃ近接戦に不安があるだろ?
一応、ボディーガードっつーか、そのくらいの義務はあると思ったんだよ、先輩として。
「予告状が宣言しているのは今夜の10時。配信はその1時間前に始まる予定です。その前に対策を練っておかないとですね。できれば現場を見ておきたかったんですが……」
そう言って、チェリーは体育館の窓の外を見る。
そこには、さっきまで俺たちがいた生徒会室がある、巨大な時計塔が聳えていた。
今夜、虚面伯が狙う『お宝』は、その屋上に安置されているという。
「仕方ないだろ。現場を解放すれば、それだけ付け入る隙を生む。それより俺としては、なんであんなもんを狙うんだって疑問のほうが強いな」
「《晴天組の秘宝》――ですか」
「秘宝なんて言っちゃあいるが、話を聞いた限りじゃ、それほどレアなもんだってわけでもないだろ? 単に、思い出があるってだけで――」
俺は、配信への出演を承諾した後のことを思い出す。
生徒会室を出た俺たちを、雨矢鳥フランが一人で追いかけてきたのだ――
「……すみませぇん。あと少しだけ、いいですかぁ?」
下に向かうエレベーターへ向かっていた俺たちの背中を、気の抜けた声が呼び止めた。
振り返ると、着る毛布の裾を床に引きずった雨矢鳥フランが、ふにゃっとした微笑みを湛えていた。
「どうしたんですか? お仕事があったのでは……?」
当然、応対するのはチェリーだ。
生徒会室でも、俺はほとんど喋ってない。こいつがいて良かったなって、こういうときだけは思う。
雨矢鳥フランは大きなツインテールを振るように、ささっと左右を見回した。
天初百花は、用事があるとかでとっくに下に降りているはずだ。
「……あの、狙われているアイテムのことでぇ……」
密やかに話し出した雨矢鳥フランに、チェリーは小首を傾げた。
「そういえば、まだ聞いていませんでしたね。この時計塔のてっぺんにあるという話でしたが」
「はい……。《晴天組の秘宝》って、呼ばれてます」
「《秘宝》? そんなに高価なものなんですか……?」
「いえ……レア度7の、ただの剣です」
レア度7?
確かにレアアイテムに分類されはするが、わざわざ盗まなければならないほどとは思えない。
下手すれば、プレイヤーショップで叩き売りされていてもおかしくない程度の代物だ。
「でも……あたしたちにとっては、秘宝なんです。《晴天組》が……このゲームで、初めて見つけた、レアアイテムなんで……」
「《晴天組》……?」
「知らないんですかっ!?」
思わず呟いた俺に、雨矢鳥フランは目を剥いて詰め寄ってきた。
「百空学園の今の人気を作った《晴天組》をっ! まさか、知らない!? 本気ですかっ!?」
「は、はい……。すみません……」
な、何この人……。いきなり声がでかくなったんだけど……。
「いいですか? 《晴天組》はですね、百空学園一期生、初代生徒会の会長と副会長だった、百花せんぱいと晴屋京せんぱいの二人ユニットなんです! 完璧超人設定の百花せんぱいに対して、京せんぱいは凡人設定! 百花せんぱいに無理やり生徒会に入れられたっていうことになってるんですけど、ご存知の通り実際の百花せんぱいはポンコツで! 京せんぱいのほうが要領が良くて! 凡人のはずの京せんぱいのほうがリードする関係だったんです! 二人で隔週のラジオをやられてたんですけど、百花せんぱいがふつおたの漢字を全然読めなくて、そのたびに京せんぱいが呆れた感じで指摘して、その空気感がもうっ……もう! なんていうか! いいんですよ!」
オタク特有の早口だった。
さっきまでのたらたらした喋り方が嘘だったかのようだ。
「……でも……」
雨矢鳥フランは急にテンションを下げて、今にも泣き出しそうな顔で続ける。
「1年くらい前に……京せんぱいは、百空学園を卒業しちゃって。《晴天組》は解散して……」
「なるほど。引退した方の思い出が詰まったアイテムなんですね」
チェリーが一行で内容をまとめた。
情緒ゼロだなコイツ。
「雨矢鳥さんは、《晴天組》のファンだったんですか?」
「はい。入学する前から――というか、京せんぱいの卒業と入れ替わりだったんで、直接話したことはないんですけどねぇ……。あたし、《晴天組》に憧れて、百空学園のオーディション受けたんです」
「それじゃあ、夢が叶ったんですね。憧れの天初さんとラジオをされてるんですから」
何気なしにチェリーが放った一言が、空気をさらに一変させた。
雨矢鳥フランの表情がすうっと消えて、冷たい声が零れる。
「解釈違いです」
「はい?」
「運営の陰謀です。《晴天組》が解散するから次は《雨天》って、安直にも程があります。百花せんぱいのパートナーは京せんぱいなんです! 代わりなんていないんです! あたしなんかが、あたしなんかがぁあぁぁぁ……!」
頭を抱えて唸り始めた雨矢鳥フランを前に、チェリーが固まる。
……何やら、地雷を踏み抜いたらしかった。
チェリーは固まった笑顔のまま、
「え、えーと……自信を持ってくださいよ。雨矢鳥さんが人気になったからこそ、学園トップの天初さんとのユニットができたんでしょう?」
「そうですっ! あたしだって頑張ったんです! 並み居るアンチの声を振り切って! 正々堂々生徒会入りして! でも、百花せんぱいには京せんぱいのことを忘れてほしくないんです……。でもでも、あんまり《晴天組》のことばっかり気にされるとそれはそれで寂しいし……。ううう……!」
なんか……わかってきた。
この人が、UO姫の友達だって理由。
人格のひん曲がり方が、かなり似てるんだ……。
「とにかく!」
雨矢鳥フランは急にチェリーの手を握って、顔を間近に近付けながら言った。
「守ってください、あの剣を……! あの剣にはログが残ってるんです! 『晴屋京が入手した』っていうログが! 世界で一本しかない剣なんです……! よろしくお願いしますっ!」
その勢いに、チェリーはこくこくとうなずくことしかできなかった。
「――ふー。やっと出られました」
人でごった返した体育館をやっとの思いで脱出し、チェリーが一息つく。危うくはぐれるところだった。
空を見上げると、太陽はだいぶ西に傾き、赤く染まりつつある。
件の虚面伯対決配信は午後9時から始まる。1時間前集合としても午後8時。その前に夕食を摂るとしても、まだ1時間くらい余裕があるな。
「これからどうする?」
何とはなしに歩き出しながら言うと、チェリーが隣に追いつきながら、
「学園内を下見しておきたいですね。今夜の対決がどういう展開になるかはわかりませんが、地理を把握しておくに越したことはありません」
「だよな。現場を事前に見ておければベストだったんだろうが……」
俺は生徒会室のある時計塔を見上げる。
虚面伯のターゲット――《晴天組の秘宝》は、あの塔の屋上に安置されているという。
当然ながら厳戒態勢で、誰も入れないようになっているらしい。学園メンバーも含め、誰もだ。
「ま、あまり気負っても仕方がありませんよ。観光気分で回ってみましょう」
「そんなんでいいのか?」
「いいんです。……先輩と大手を振って学校を歩くなんて、そうそうできませんしね?」
くすくすっと悪戯っぽく笑うチェリー。
そりゃ確かに、リアルで俺とこいつが学校の中を歩いてたら大騒ぎになるだろうが……。
チェリーは俺の腕をぐいっと引いた。
「ほら、行きましょう! あの校舎なんてどうですか?」
「へいへい」
チェリーに引きずられるようにして、俺は近場にあった四階建ての校舎に入る。
どこもかしこも学園祭の準備で騒がしいが、この校舎はもうあらかた終わっているようだ。
一階の廊下を歩きながら、教室の中を覗き込んでみたが、最低限の教室らしさ――黒板とか――を残したままに、内装はすっかり飲食店のそれになっている。
「すごいですね。本当に学園祭っぽいです」
「こういう店、ありそうだよな。学園祭がコンセプトの喫茶店」
「学ランやセーラー服のコスプレをしたり?」
「……まさにそういう服を着てるときに、コスプレとかいうなよ」
「ふふっ。リアルでも見たいかなーと思って。私のセーラー服!」
二階、三階、四階と上がっていく。
最上階である四階には店が入っていないようで、無人の教室がそのままになっている。
「開いてるんですかね?」
チェリーが教室のドアをがらりと開き、「お邪魔しま~す」と中に入っていく。
「おい、いいのかよ?」
「ダメだったら鍵が閉まってるでしょう? ……わ、すごい! 後ろの黒板に細かい落書きがしてありますよ。ディティールが凝ってますね」
確かに、ゲームで作ったとは思えない、ものすごい生活感だった。
黒板の落書きはもちろん、ジュースの紙パックが放置されていたり、一部の机に教科書が置き勉してあったり――もはや偏執的だな。誰が作ったんだ?
チェリーは机を覗き込んだりしながら教室の奥に進み、窓を開け放つ。
桜色の髪を軽く押さえながら、「おおー……」と外を眺めた後、風に揺れるカーテンに目を留める。
「……先輩」
「あん?」
「私、前からやってみたいと思ってたことがあるんですよね」
言うや否や、チェリーは揺れるカーテンを掴み――
くるんっと、その中に包まった。
足だけを出した簀巻きの状態で、チェリーは「おおー!」と謎の感心の声を上げる。
「何やってんだ、お前……」
「クラスで誰かがこんな風にして遊んでるの、見たことありません? 私、やったことないんですよね。ほら、清楚キャラなので」
「キャラなのは認めるんだな」
カーテンの中から顔だけ出して、チェリーはにやにや笑う。
「先輩の前でだけは、何も演じないで、素のままでいられるんです……」
「殊勝なことを言いたいなら、にやにや笑うのをやめろ」
「おっと」
わざとらしく笑みを引っ込めるも、チェリーはすぐにくすっと笑って、
「そういえばぁ……クラスの子は、友達と一緒にカーテンに包まって遊んでたんですよねー……」
「はあ」
俺が曖昧に答えると、チェリーはカーテンを片側だけ広げた。
一緒に腕を広げ――まるで、もう一人分、スペースを作るように。
「ご一緒にいかがですか、先輩?」
……俺に、お前と、同じカーテンに包まれ、と。
チェリーはにやにや笑いを隠しもしない。からかっているのは明らかだ。
つまり、俺がやるべきはひとつ。
俺はカーテンに包まったチェリーに近付いた。
チェリーは俺の顔を見上げ、ぱちくりと目を瞬いてみせる。
「……え、ちょ、先輩――」
――やっぱりな。
狼狽した様子を見せるチェリーを見て、俺は得心する。
それから、そいつが包まったカーテンを掴み、思いっきり引っ張った。
「きゃーっ!?」
チェリーはいっしょにくるくると回ると、目を回して壁に手を突いた。
「なっ、何をしゅるんですかあっ!」
「別に。カーテンを引こうと思って」
俺は適当に言って、
「それより、屋上行こうぜ」
「屋上?」
「ここより眺め良さそうだしさ、現場の時計塔もよく見えるかもしれないだろ」
この教室の窓からも時計塔が見えている。窓枠にてっぺんが見切れているが、屋上ならよりはっきりと見えるだろう。
チェリーは「うーん」とあざとく顎に指を当て、
「そうですね。学校の屋上というのも、実際なかなかのファンタジー空間ですし」
「だろ?」
そして俺たちは、四階のさらに上、校舎の屋上に出る。
今時、屋上に出られる学校は少ないだろう。
あるとしても、落下防止のフェンスが高々と聳えていたりして、風景を楽しむには不適。
だが、ここはゲームだ。
腰の高さくらいの柵がぐるりと囲っているだけで、夕焼けに染まった百空学園や、その周囲に広がる校下街を一望することができた。
「おおーっ!!」
柵に手を突いて、チェリーは感動した声を上げる。
「これは……丘の上に建てようと考えた理由がわかりますね。街が真っ赤に染まって――ふふ。絶好の告白ポイントじゃないですか?」
誘うように送られてくる流し目を、俺は無視した。
チェリーは気にした風もなく、柵に肘を置き、
「私たちの学校にもこんな場所があったら……って、思っちゃいますよね。きっと先輩は、暇さえあればここに入り浸って、ゲームばっかりしてるんだろうなあ」
「……かもな」
「で、私がちょっかいかけに行って。……んんっ、んー……」
チェリーは喉を調整し、
「『せーんぱいっ♪ 何やってるんですかっ?』」
普段とは似ても似つかないかわいこぶった声を出す。
俺がしらっとした視線を返すと、ぷくっとわざとらしく頬を膨らませた。
「『なんですかぁ、ノリ悪いですよっ? せっかく可愛い後輩が会いに来てあげたのにっ』」
「きしょっ」
「きしょ!? キショいって意味ですか!?」
まあ、いかにも真理峰がやりそうなムーブではあるけどな。
チェリーは身体を後ろに傾け、手すりを掴んで支えながら、
「私、学校では一人になる機会、全然ありませんし。……だから、まあ、こういう場所にちょっと憧れるわけですよ。学校でも先輩をイジれたら退屈しませんしね?」
「……そうだな。こんな場所でもなけりゃ、学校じゃ一言も話せないだろうしな」
「ねー。先輩が嫉妬を買って殺されちゃいます。ふふふ――」
俺はチェリーの手首を掴んだ。
「……え?」
掴まれた手首を見て、チェリーは怪訝そうにする。
「どうしました、先輩? ……あ。します? 告白」
「あの本を鵜呑みにしたか?」
「……、はい?」
いつものように。
見慣れた調子で。
小首を傾げてみせるそいつに向けて、俺は告げる。
「――俺とチェリーが同じ学校に通ってるってのはな、ブランクの脚色なんだよ」
チェリーと同じ顔をしたそいつは、束の間、凍りついた。
しかし、すぐに。
「……あ、あはは」
乾いた笑いを零して、取り繕う。
「わかってますよ。今のは仮定の話で――」
「そんなに虐めたら可哀想ですよ、先輩」
バン、とドアが閉まる音がした。
チェリーの顔をしたそいつは、桜色の髪を翻し、屋内に続くドアの方向を見る。
閉まったドアの前に――もう一人、チェリーがいた。
セーラー服のまま、手には《聖杖エンマ》を持ち、不敵な笑みを湛えて、俺が手首を捕まえたもう一人の自分を見据えている。
見間違えることなどない。
あっちが、本物だ。
「……なるほど、ね……」
俺が捕まえているほうのチェリーは、それを見てぼそりと呟いた。
瞬間、笑みの質が変わる。
俺をからかう、小悪魔ぶったそれから、胡散臭い道化のようなそれに。
「迂闊でしたね」
慎重な足取りで距離を詰めながら、本物のチェリーが言う。
「ちょっとした敵情視察のつもりだったんでしょうが、化ける相手を私にしたのが運の尽きです」
「騙せると思ったか? たかが見た目と性格を真似たくらいで」
俺は手首を捕まえる手に力を込めながら、
「歩幅を合わせるのが遅かったな。本物のチェリーなら、俺と歩くスピードを合わせるのに0.5秒もかからねえんだよ」
そう。体育館を出て、歩き始めたとき――そのときにはすでに気付いていた。
そして決定的だったのは、カーテンの一幕。
今のチェリーは、俺が反撃する様子を見せても、あんなに簡単にキョドらないんだよ。
「――ハハ。ハハハハハハハハっ!!」
偽チェリーが唐突に高笑いする。
それに面食らった直後――
するり、と、俺の手の中から手首の感覚が消えた。
同時に、目の前にいたはずの、偽チェリーの姿も。
「……っ!? どこにっ――」
「先輩! 柵っ!!」
言われた瞬間、俺は振り向きもせずに柵から距離を取った。
チェリーの隣まで下がり、改めて振り向いたとき――柵の上に、一人の女が立っていた。
背に負った夕日が逆光となり、その姿はシルエットとなっている。
しかし、その程度では隠せないほど、その女の風体は特徴的だ。
身に纏うのは真っ黒なセーラー服。胸元のスカーフは鮮やかな真紅。プリーツスカートから伸びる長い足には、厚手の赤タイツを穿いている。
セーラー服の上にはマントを羽織り、頭には昭和の学生みたいな学帽を被っていた。
学帽の下には、真っ赤な髪が伸びている。
基本は首の辺りで切り揃えられたショートボブだが、右のこめかみの辺りから胸の辺りまで、一本の三つ編みが垂れて、先端にはシルクハットを模った髪飾りがあった。
さっきまでチェリーの名を示していたネームタグは、今は《LordIF》に変わっている。
IF?
Fは『Face』で『面』か。だったらIは……?
「お初にお目に掛かるね」
女は道化じみた胡散臭い笑みを顔面に貼りつけると、学帽を取って豊満な胸元に当て、深々と腰を折った。
「《赤統連》が第六席《虚面伯》――しがない大泥棒さ」
丸く、細いはずの柵の上で、しかし女――虚面伯は、少しもバランスを崩さない。
恐るべきアバターコントロール。
そして恐るべき、演技力だった。
おそらく、体育館だろう。
体育館を出るとき、その人混みに紛れて、本物のチェリーと入れ替わったのだ。
そしてそれからの数十分、俺でなければわからないほど完璧に、チェリーを演じ続けた――
「他者のアバターへの変身――」
チェリーが聖杖エンマを構えながら言う。
「《ブラッディ・ネーム》の独占魔法ですね」
「さすが、よくご存知だ。あの《幽刃卿》を倒しただけはある」
独占魔法。
修得条件を秘匿したり、入手場所を占拠するなどして、一部のプレイヤーが独占している魔法のことだ。
以前戦った《幽刃卿》が物質を透過する能力を持っていたように、《ブラッディ・ネーム》はそれぞれが、それぞれのプレイスタイルに合った独占魔法を有していると言われている――
他者のアバターに変身する魔法。
それが虚面伯の独占魔法だとして、どこまで変身できるのか?
ステータスはコピーできるのか? 装備品も? 世界に一つしかないユニークウエポンである俺たちの武器さえも複製できるのか?
それに、条件はなんだ? 何の条件もなしに変身できるようになるとは思えない。どんな条件を整えてチェリーに変身した……?
「おお、怖い怖い。こうして相対しているだけで、丸裸にされそうな勢いだ」
虚面伯はおどけるように肩を竦め、
「なるほど――百空学園は、ずいぶんと強力な助っ人を用意したようだね」
「なぜ、百空学園を狙うんですか?」
チェリーが問う。
「あなたが狙う《晴天組の秘宝》は、ただ個人的な思い出があるだけの、何の変哲もない剣です。たとえ盗み出したところで大した稼ぎにはなりません」
「どうでもいいさ、価値なんてね。要は面白いかどうかなんだよ」
虚面伯は道化のような薄ら笑いを浮かべた。
「怪盗という舞台を、より面白く演出してくれるマクガフィン。僕が狙うのは、盗んで面白くなるものだけだ。この学園に集う配信者たちとおんなじさ。彼らは面白い配信ができるなら何でもする。僕も面白い怪盗ができるなら何でも狙う。利害が一致しているんだよ。ほら、実際、彼らは僕の登場をネタにしようとしているだろう?」
……まさに劇場型だな。
こいつはMAOの世界を、世間を沸き立たせるのが目的なのだ。
でなければ、怪盗なんて物好きなプレイスタイルは選ばないだろうが。
「もちろん、もらえるものはもらう。あとで盗んだものを返却するなんて興醒めなことはしない。真に迫ったパフォーマンスこそが、虚構の舞台にリアリティを与えるのだからね」
「……俺たちも、キャストの一人ってわけか」
「その通り。せいぜい頑張ってくれたまえ、探偵諸君?」
虚面伯はくつくつと笑う。
一歩でも後ろに下がれば墜落死する状況だとは思えない余裕だった。
「ずいぶんと余裕ですね」
じり、とチェリーがわずかに距離を詰める。
「この屋上から、どうやって逃げるつもりですか? そこから飛び降りても死ぬだけですよ」
「それに答えてしまってはネタバレだよ」
「《往還の魔石》でも使うつもりですか」
「僕を幽刃卿と一緒にするのはやめてほしいね。彼のやり方はフェアじゃない」
そう言うと虚面伯は、インベントリから一個の石を取り出した。
《往還の魔石》だ。
別名・ブクマ石。あらかじめ記録した地点に一瞬でワープできるアイテムだ。
それを――
――虚面伯は、俺に向かって投げつけた。
俺は思わずその石をキャッチする。
本物だ。紛れもなく往還の魔石。
どういうつもりだ?
往還の魔石の最大所持数は1個。1個しか持てないアイテムだ。
その1個を俺に渡した以上、虚面伯はワープして逃げることが不可能になった――
「種も仕掛けもございません」
マントを大きく広げ、さらにセーラー服のスカートも限界まで摘まみ上げる。
誘惑じゃない。
どこにも何も隠していないことを示しているのだ――マジシャンが開いた手のひらを見せるように。
「帰る前に訊いておこうか」
虚面伯は悠然とした声音で言った。
「先ほどの、同じ学校なのは脚色だという話、果たして本当なのかな? 一人のファンとして気になってね」
「……さあな。想像に任せる」
俺は体重を出足に移し、ダッシュする準備をした。
虚面伯は「ふふ」と笑い、
「では、好きに想像させていただこう」
にわかに視界が暗くなった。
夕日が地平線に沈んだのだ。逆光に慣れていた目が、一気に暗黒に包まれて――
――まさか、このタイミングを狙って!?
「それでは今宵――輝く夜の月下にて」
気障な台詞と共に、虚面伯が仰向けに倒れた。
四階分の虚空があるだけの、屋上の外へ。
「んなっ……!」
「落ちやがった!」
俺たちは慌てて柵に飛びつき、下を覗き込む。
地面までは、軽く15メートルはあるだろう。
衝撃を受け止めてくれそうな木も、草むらもない。ただ硬い石畳があるのみだ。
いかに耐久力を鍛えていても、あの落ち方をすれば墜落死は免れない。
にもかかわらず――そこには、存在しなかった。
確かに落下したはずの虚面伯の姿が、死体である人魂でさえも。
代わりに、……俺は、見つける。
一階下の教室。
さっき、チェリーに化けた虚面伯と入った教室の窓が、開けっ放しになっているのを。
そう――
――窓を開けたのは、虚面伯だった。
「……逃走経路を確保するために開けておいたのか……」
「あの時点で、正体を見破られて逃げることになる展開を考慮していた、と……?」
チェリーが愕然と呟く。
だとしたら、恐ろしいほど頭の切れる相手だった。
それはともすると、チェリーにも匹敵するかもしれない……。
「ふう……」
俺は息をついて緊張を解き、柵に背中を預けた。
「どうやら、想像以上に手強い相手みたいだな……。お前の演技も完璧に近かったし」
「どこがですか。私、あんなあざといこと言いませんよ。なんですか、『ご一緒にいかがですか、先輩?』って」
「あれはめちゃくちゃ似てた」
「どこがですか!」
「……でもまあ、本物のほうがもっとウザいかな」
今のこいつは、俺がちょっと近付いたくらいじゃ、あんな風に取り乱したりしねえだろうし。あのクソ雑魚っぷりは完璧にブランクの小説のせいだよな。
などと考えていると、チェリーがじっ……と俺を見つめていた。
「……先輩。尾行しながら見てましたけど」
「ん?」
「私に化けた虚面伯と、ずっと微妙に距離取ってましたよね」
「……そうか?」
「そうですよ。どうしてか当ててあげましょうか?」
「いらん。……おい!?」
唐突にチェリーが腕に絡みついてくる。
桜色の髪が首をくすぐり、大きな瞳が間近から俺を覗き込んだ。
そして、薄い唇が呼気と共に、小さく囁くのだ。
「(距離……取らないんですか?)」
俺は……目を逸らした。
「……今更だろ。お前は」
「ふふふ! 虚面伯も、私じゃなくて先輩に化ければ良かったのに。もしかしたらわからなかったかもしれません」
「おい!」
「冗談ですよ」
いつも通り悪戯っぽく笑いながら、チェリーは俺の目を見上げる。
「絶対に――わかります」
その、確信に満ちた、揺れのない言葉に。
しかし逆に、俺の脈がかすかに揺れる。
「……ああ、くそ……」
「ふふふふふ!」
――輝く月が昇り始める。
最初の夜が、始まる。




