第217話 待ち合わせて登校
ピピピピピピ――
アラームの音が、耳の中に響いた。
「……んぁ」
俺はぼんやりと目を覚ます。
真っ先に目に入ったのは木目の天井だった。
お世辞にも綺麗とは言いがたい、ところどころに腐食が見られるそれは、当然ながら、現実の俺の部屋のものじゃない。
あれー? 俺、何してんだっけ……?
ぼんやりとしたまま、再び目を瞑ると、瞼の裏に簡易メニューが現れた。
あ、MAOの中か。
俺は条件反射的に瞼の右下に表示されたデジタル時計を見る。
午後4時、8分……?
「――やべっ!」
俺は慌ててベッドから飛び上がった。
そうだ――約束の時間までちょっとあったから、昼寝してたんだ。
そして、その『約束の時間』は……確か、午後4時ちょうど。
「やべーっ!」
同じことを叫びつつ、俺は木造のワンルームを飛び出そうとして、一瞬、立ち止まった。
ベッドの横には大きな姿見があり、今の俺の姿を映し出している。
黒と緑を基調とした軽剣士の姿――ではなく。
真っ黒な学ランを、ラフに前を開けて羽織っている、古風な学生の姿がそこにはあった。
よし。ちゃんと制服だな。
確認した俺は、自分に割り当てられた部屋から、《学生寮》の廊下へと出る。
歩くたびにミシミシと鳴る廊下には、俺と同じく黒い学ランを着た男たちが、思い思いに屯していた。
その合間を縫うようにして走り、階段を駆け下りて、玄関で革靴に履き替える。
立て付けの悪い引き戸をガラリと開けて外に飛び出すと――
――そこに、セーラー服の少女が待ち構えていた。
「遅いっ! 10分遅刻ですよ、先輩っ!」
そいつは怒った顔で腰に手を当て、桜色のツーサイドアップを風に靡かせる。
白と空色を基調とした明るい色合いのセーラー服は、晴れ渡った青空を思わせた。なら、その上に靡く桜色の髪は、まさしく新入生を出迎える桜並木といったところか。
リアルで制服を着ているときはタイツやストッキングを穿いていることが多いが、空色のプリーツスカートから伸びる細い脚は、和風装備のときと同じく白いニーソックスに覆われていた。
その姿を検分しつつ、ううむと俺は唸る。
「前に見たときも思ったけど、セーラー服にピンク髪だと、ギャルゲーのヒロインみたいだな」
「前に言われたときも言いましたけど、そういう先輩は没個性で、ギャルゲーの主人公みたいですよ」
「それは攻略しろって言ってんの?」
「やれるもんならやってみてくださいよ」
挑発するようにくすりと笑う桜髪の女――チェリー。
妹の友達にして、学校の後輩にして、ゲームにおける唯一無二のパートナーであるそいつに、俺は意を決して告げる。
「さっさと行くぞ。遅刻する」
「んちょっ……! 何さっさと行こうとしてるんですか! 先輩が格好つけようとして私がせせら笑う流れでしょう、今のは!」
「昨日やっただろそれは! この制服をもらったときによ!」
俺は小走りに石畳の坂を駆け上り始める。
チェリーも「何度やっても面白いのに~」などとほざきながら、俺の隣に追いついてくる。
「私と一緒に登校できるのが楽しみだからって、そんなに急がなくてもいいんですよ?」
「じゃぁかしい。お前と一緒に登校なんてぞっとしねえよ!」
喋りながら目指すのは、延々と続く坂の先。
小高い丘に大きく広がる街を見下ろすようにして建つ一つの施設だ。
面白味のない四角い建物に、整然と並んだいくつもの窓。
日本人ならば見覚えのない者はいないだろう、ファンタジー世界に似つかわしからぬ現代的建造物。
――学校。
ここは《百空学園》。
マギックエイジ・オンライン最大の学園都市である。
始まりは、一人の女の来訪だった。
「先輩、メロン食べます? ご近所さんにもらったんですけど」
「おー、食うー」
特にイベントもなく、新しいクエストを見つけたわけでもなく、俺たちは半ば惰性でログインしては、家でぐだぐだする生活を送っていた。
まあネット上に残った昔のプレイレポートによれば、MMORPGがチャットソフトと化すのなんてよくあることだ。
精力的なプレイヤーである俺たちにも、こういうのんびりした期間はたまにあることだった。
「お、このメロン美味しいですね。どこで採ったんでしょう?」
「メロンって結構レアだよな。サウスドリーズ樹海を探せば手に入るのかね?」
「セローズ地方のほうに畑を作ってる農家の人がいるって聞いたこともありますけど」
「わざわざゲームで農家をやるって、物好きもいたもんだよなー」
そんな風にぼーっと過ごしていたところ、
――リリンリリーン……。
と、来客を知らせるベルが鳴り響いた。
チェリーがメロンをしゃくしゃくごくんと飲み込んで玄関を振り返る。
「誰でしょう? またご近所さんですかね?」
「任せたー(しゃくしゃく)」
「もう。たまには先輩も出てくださいよ! 私の分のメロン、残しておいてくださいね!」
文句を言いつつも、俺の対人スキルがゴミなのを知っているので、チェリーは「はーい!」と返事をしながら小走りに玄関へと向かう。
うーむ、このメロン、美味い。
……ちょっとくらいチェリーの分を食ってもバレないんじゃね?
などと魔が差した、まさにその瞬間だ。
「はい、あ~ん」
「んぐ」
口元にメロンが一切れ差し出されてきて、俺はそれを口に含んだ。
一緒に余計なもの――指も咥えてしまったが、それはすぐに引き抜かれる。
「ケージ君、美味しい~?」
「んまい」
しゃくしゃくしゃく。
……ん?
今の声、誰??
「よいしょっと」
俺が隣を見るその前に、謎の声の主が自ら、その顔を覗かせてきた。
俺の膝の上に頭を乗せることで。
まず目に入るのは、子供のような体格にはあまりに不釣り合いな胸だ。寝転がった衝撃でふるんっと揺れて、仰向けになった今もなお、重力に負けることなく俺に向けて突き出されている。呼吸で上下に動いているだけでも、なぜか誘っているように見える蠱惑の塊。
そして、その肢体を覆うのは青や紺を基調としたロリィタ。
本来、ロリィタってのは露出を低くするもんだって聞くが、こいつの服はそれに則っているようでいて絶妙に反している。
シースルーのレースのケープを羽織っているせいでパッと見は防御力高く見えるんだが、その下はパーティドレスのように大きく胸元が開いているのだ。
しかもよく見ると、胸と胸の間までぐりっと深く切れ込みが入っているせいで、ケープの合わせのところから、真っ白な双丘の狭間が垣間見えるようになっている。
より近くで、より強く自分を見つめた者にご褒美をあげようという、そういうファッションなのだった。
その『ご褒美』を間近から俺に見せつけながら、そいつ――《UO姫》ことミミは、からかうように笑った。
「我慢、しなくちゃダメだよ、ケージ君? チェリーちゃんにバレちゃうからね……?」
「いや、お前、どこから出てきた?」
「ん~……」
UO姫は答えず、さっきメロンを食べたとき、俺の唾液で濡れた人差し指を自分の唇に運ぶ。
――ぱくっ。
ピンク色の唇を開いたと思うと、俺の唾液を舐め取るようにして、自分の指に舌を這わせ始めた。
「んっ……ちゅぷっ。れろれろ……っは、おいし……❤」
「いやだから、いきなり人ん家に現れて人の膝に寝っ転がって、何やってんだって訊いてんだよ!」
「うきゃあーっ!?」
腰を浮かせると、俺の太腿に後頭部を置いていたUO姫は、呆気なくソファーの下に転がり落ちた。
俺はべしゃっと床に落ちたUO姫の脇に手を差し込むと、そのままぐいっと顔の上まで持ち上げる。
「おら。これで逃げられないだろ」
「やーめーてーっ! 子供扱いはやーだーっ!」
俺より30センチ以上背の低いUO姫は、空中で足をばたばたさせる。
かと思いきや、軽く頬を赤らめて、そっと目を逸らした。
「でも……ケージ君に全部支配されてるこの感じ、悪くないかも……」
「お前、何でもありだな……」
「それに――ね、気付いてる?」
艶然と微笑みつつ、UO姫は脇を締めて、俺の両手を捕まえる。
と同時――俺の手のひらに押されて、背丈に不釣り合いな巨乳がぐいっと真ん中に寄った。
「今……ミミのおっぱい、触ってるよ?」
「……………………」
「ふぎゃっ!」
俺はすぐに手を離し、UO姫を床に落とした。
一応言っておくが、女性の胸やお尻などのセクハラ判定箇所に対しては、触っても何も感じないようになっている。
「――先輩! 女の声が聞こえたんですけど!」
ようやくチェリーの奴が玄関から戻ってきた。
チェリーは俺の足元で尻餅をつき、「いたたた……」と腰をさすっているUO姫を見て、スゥ―――ッ、と目を細める。
「……どこから、入ってきたんですか? その害虫は……」
「ひどいなあ。人を蚊みたいに言わないでよ、チェリーちゃん」
感覚としては同じなんだが。いつの間にか入ってきて、いつの間にかすぐそばにいる。
UO姫は立ち上がると、ウッドデッキのテラスに繋がる掃き出し窓を指差した。
たった今気付いたが、窓の一部が綺麗にくり抜かれている。
「普通に、ピンポンダッシュしてあっちから入ってきただけだよ?」
「不法侵入を『普通』と呼ばないでください泥棒姫」
「だって玄関から入ろうとしても入れてくんないじゃん」
「っつーか俺の《索敵》スキルにも引っかからないってどういうことだよ」
「だってミミ、敵じゃないし~♪ それに《隠密》はアーチャーの必須スキルだし☆」
そういやこいつ、弓使いだったな……。
MAO最大級の攻略クランのリーダーとはとても思えないコソ泥テクニックを披露したUO姫は、当然のようにソファーに座り直す。
背丈が小学生並みだから、足をぷらぷらと宙に揺らしていた。
「やれやれ。今日もケージ君を寝取るの失敗したし、本題に入りますか」
「挨拶代わりに寝取ろうとするのやめてくれます?」
「今日も彼女ヅラしてんねぇ! ぷぷっ、抱かれたこともないくせにね」
「自分だってないでしょうが! どの視点からせせら笑ってるんですかあんたは!」
「ミミはありますぅー! ファンアートとか同人誌の中で何回もぐちゃぐちゃにされてますぅー!!」
フィクションをカウントすんな!
日々SNSで年齢制限のかかった自分を大量生産させている新手の変態は、勝手にインベントリからティーポットを取り出し、紅茶を飲み始めた。
チェリーは相変わらずがるがると唸りながら睨みつけていたが、どうやら素直に本題とやらを聞いたほうが早く帰ってくれそうなので、俺はUO姫の対面に座る。
「本題ってなんだよ。もうさっさと言え」
「つれないなぁ。たまにはミミともイチャイチャしてよ」
「たまにはも何も、誰ともイチャイチャなんてしてねえんだよ」
「あ、そうだ。イチャイチャといえば、書籍化おめでとう。ミミもきただりょうま先生に描いてほしいんだけどどこにお金払えばいいの?」
「知らねえよ! 1万冊くらい買えば!?」
大体、あの本はブランクが書いたのであって、俺たちが祝われる謂われはねえんだよ!
「仕方ないにゃあ。集英社への圧力は後回しにして、本題を話そっか」
ようやくだよ。
チェリーが威嚇するように俺のそばに座ると、UO姫はにっこりと笑って告げた。
「ケージ君、チェリーちゃん――学生にならない?」
「「……は?」」
突拍子のない申し出に、俺たちは眉をひそめる。
UO姫は「順を追って話そっか」と言って、優雅に紅茶に口を付けた。
「《百空学園》。聞いたことない?」
「そりゃあ知ってるよ。有名だろ」
「企業がやってるVtuberのグループでしょう? 確か、メンバーの全員が同じ学校に通ってるっていう設定の。MAOにも拠点を構えていますよね」
VR産業に影響を与えたオタク・コンテンツを語るとき、挙がる名前はいくつもある。
例えば、『攻殻機動隊』。
例えば、『ソードアート・オンライン』。
例えば――『Vtuber』。
Vtuber――バーチャルユーチューバーという存在がこの世に生まれ出でたのは、もう10年以上も前のことだ。
2010年代の後半に突如として生まれ、燎原の火のごとき勢いで成長した一大ムーブメント。
Vtuberブームによって、3Dアバターの作成環境やそれを操作する手段が急速に整備され、バーチャルという概念は一気に民衆の手が届く存在になった。
それまでにも、今で言うところの視聴覚没入型VRゲームが世に出てはいたものの、普及率はお世辞にも高いとは言えず、一部のオタクが愛好しているに留まっていた。
それがVtuberという文化によって、瞬く間に市民権を獲得したのだ……。
もちろん、俺は直撃世代じゃないから歴史としてしか知らないわけだが、現在においてもVtuberの人気は続いている。
中でも《百空学園》は頭一つ飛び抜けた人気で、SNSでファンアートを見ない日はなかった。
……まあ、同じくらいの頻度でファンアートを描かれまくっている女が、今、俺の対面で紅茶を啜っているわけだが……。
「VtuberさんがVRMMOで活動するのも珍しいことではなくなりましたけど、百空学園の方は、割と早くからMAOにいらっしゃいましたよね」
「確か何人かはバージョン1からいるぞ。本格的に拠点を構えたのはバージョン3からだったと思うが」
「相性がいいと思ったんだろうね。VtuberとVRMMOが」
UO姫の発言に、俺とチェリーは首を傾げた。
「そりゃあ相性はいいだろ」
「VtuberのVとVRMMOのVは同じ『バーチャル』ですよ?」
「だから良くないんだけど……まあいいや。これはミミの個人的な意見だし」
UO姫はカチャリと紅茶のカップをソーサーに置いた。
「その《百空学園》に、ミミの友達がいるんだけど」
「男か?」
「男の人ですね?」
「女の子だよ! ミミにだって女友達くらいいるの!」
自分も女なのにわざわざ『女友達』って言っちゃう辺り、苦労が偲ばれる。
「とにかく、その友達に相談を受けたんだよね。『MAOで、誰か頼れる人はいないか』って」
「頼れる……?」
「何か、困り事の気配ですね」
「そうなんだよね~。百空学園でさ、もうすぐ学園祭があるらしくて。その準備で大忙しなところに、これまた厄介なものが舞い込んじゃったんだよね~」
百空学園の学園祭か……。もうそんな時期か。
おそらく現在、VR空間で行われるイベントとしては、世界で見ても最大級の規模を誇る一大イベントだ。
「そろそろ勿体ぶるのはやめてください。何が起こったんですか? 私たちに何をさせたいんですか?」
「聞く~? 聞いちゃう~?」
「さっさと言え!!」
「《赤統連》」
UO姫が口にした単語に、俺もチェリーも、思わず口を噤んだ。
「MAOのありとあらゆる犯罪者プレイヤーを束ねる《赤統連》――その直轄メンバーの一人から、予告状が届いたの」
「……《殺人予告状》ですか?」
「狙われてるのは誰だ?」
《赤統連》直轄メンバー――超凄腕PK集団《ブラッディ・ネーム》。
連中は必ず、犯行前に《殺人予告状》を出すことで有名なのだ。
しかし、UO姫はかぶりを振った。
「殺人じゃないの」
「え?」
「百空学園に予告状を出してきたのは、《赤統連》第六席・《虚面伯》」
虚面伯。
その名が重々しく、俺の耳に響いた。
「《赤統連》において、唯一の人を殺さない《ブラッディ・ネーム》――《怪盗女優》の異名を取る大泥棒だよ」




