第216話 私たちしか知らない空
『――誰にも、わかるものか』
呪いの声がする。
誰に認められることもない想いに身を削られた、男の声が。
『どうせ認めないのだろう。千の言葉を尽くしても、万の時間を費やしても! どうせ、お前たちは――!!』
それは諦観であり、怒りだった。
自分の中の想いを証明できないことへの、もどかしさだった。
ああ、わかる。
わかるよ。
難しいんだ、それは。
誰にでもわかる言葉じゃないと、誰にでもわかる関係じゃないと、誰も、理解なんてしてくれない。
だけど。
『――先輩』
声がする。
この世に、たった一人の理解者の。
『私と先輩は、何がどうなっても、私と先輩ですよね?』
――リリリリリリリ!!
携帯端末のアラート音が、耳元でやかましくがなり立てた。
ぱちりと、目を開く。
視界にあるのは、現実世界の、自分の部屋の天井だ。
俺は手を伸ばして端末を手に取り、目覚ましアラートを停止させると、のっそりと身を起こした。
欠伸をひとつ。
3学期も終わりかけだが、今日はまだ学校がある。
さっさと制服に着替えないと……。
俺はベッドの上でぼうっとしたまま、机のほうを見やった。
パソコンのキーボードの横には、少し前に用意しておいたものが出してある。
綺麗にラッピングされた箱だった。
3月14日。
今日は全国的に、ホワイトデーである。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「うううっ! ありがとうございますっ、真理峰さん……! このクッキー、一生大切にします……!」
「あー、うん。できれば食べてほしいかな」
「いらんのやったらもらうでー」
「――あっ! ちょっ、こらっ、デカ椿! 返せえーっ!!」
170センチ以上の長身であるツバキさんが、私のホワイトデープレゼントを頭上に掲げる。
身長が140センチちょっとしかないイチゴさんは、必死にぴょんぴょんしてそれを取り返そうとするけれど、全然届きそうにない。
友人たちの間で繰り広げられる無惨な身長差の暴力を眺めて笑っていると、レナさんがすいっと近付いてきて、こっそりと囁いた。
「(今のうちに行きなよ、サクラちゃん。待ち合わせしてるんでしょ~?)」
「(そのニヤニヤ笑いはすごく腹立つけど、ええまあ、はい、ありがとうございます、行ってきます)」
「(行ってら! あたしも後で会館行くから!)」
未だ醜い争いを続ける二人の友人に挨拶して、私はするりとその場を離れた。
イチゴさんは名残惜しそうだったけれど、残念ながら今日は先約がある。
足早に校門を抜けると、通りを二つほど行ったところの路地に身を潜める。
先輩と学校帰りに待ち合わせをするときに使うのは、実はもう20メートルほど先に行ったところにある曲がり角だ。
だから今日はその手前に隠れて背後を取り、驚かせてあげようという算段である。
先輩、リアクションいいんだよね。
またホラーゲームをやらせてみたい。VRだと私も巻き込まれちゃうから、普通のやつやってるのを横で見てたい。
私は路地から歩道を覗き込んで先輩が来ないか見張りつつ、驚かせ方を思案した。
背中にいきなり抱きつく――は、ちょっと恥ずかしいし。
耳元で囁く――は、二人きりならともかく、街中ではちょっと……。
肩を叩いて視線を誘導した隙に前に回り込むのはどうだろう?
いきなり現れたように見えてビックリするかも?
顔をちょっと近付けておけば、この前のキ――じゃなくて、医療行為を思い出して赤くなってくれそうだし。
よし、決まった。
私があたふたとしながら赤くなる先輩の顔を想像していると、ちょんちょん、と誰かに肩をつつかれた。
え、と反射的に、後ろに振り返る。
誰もいなかった。
薄暗い路地があるだけ。
気のせい……?
そう思いながら目を歩道側に戻すと、
「よう」
「ひあっ……!?」
先輩の顔があった。
意外と長い睫毛の長さがわかるくらいの距離に。
私が軽く跳び上がりながら仰け反ると、先輩は「くっく」と悪戯小僧の顔をした。
「どうした? 顔が赤いように見えるけど? 熱か?」
「ち、ちがっ……!」
私は自分の顔が熱くなっているのを感じながら、それでも言い返した。
「そんなことありませんよっ! 気のせいです! 自意識過剰です!」
「それならいい。俺は体調を気遣ってやっただけだからな」
嘘八百を~っ……!
体調を気遣っている人が、そんな悪い笑い方するわけないでしょう!
ああもう……! まさか私が引っかかる羽目になるなんて……!
私は先輩をじろりと睨め上げた。
「……どうしてわかったんですか? 私がここにいるって」
「お前の後ろを歩いてたら路地に隠れたのが見えたから、回り込んできた。案の定、しょうもないことを企んでたな?」
「……し、知りません」
「視野が狭いぞ。《隠密》スキルもない尾行に気付かないようじゃ、そのうちPKに痛い目に遭わされるぞ」
「私は先輩と違ってゲームの癖を現実には持ち込まないんです!」
まったく、このゲーム脳は! たまに普通の曲がり角をクリアリングしながら歩いてしまうような人と一緒にしないでほしい。
私は膨れっ面を見せつつ、一人でせかせかと歩き出した。
先輩は謝りもせず、「くくく」と笑いながら私の隣を歩く。
勝ち誇っていられるのも今のうちだ!
「あ」
と。
私は『ホワイトデーセール!』というどこかのお店の看板の前を通り過ぎた、ちょうどそのタイミングに合わせて、たった今思い出しましたという風な声を出した。
「今日は、3月14日ですね、先輩?」
ほのかに口角を上げながら、隣の先輩を見上げる。
ちょっとした催促であり、ちょっとした反撃だ。
誤魔化すのが下手な先輩のことだから、これで多少は挙動不審になってくれると思ったのだけど――
「あん? そうだな」
先輩の反応は、思ったより素っ気ないものだった。
……あれ?
この反応……もしかして、忘れてる?
いやいやまさか、と思うけれど、ゲーム脳な先輩なら有り得ない話じゃなかった。
MAOのホワイトデーイベントも、少なくとも公式ではやらないみたいだし……。
本当に?
本当に、私へのお返しのこと、忘れてる?
不安が込み上げてきた。
あれだけ手の込んだ渡し方をしたプレゼントに何の見返りもないとなれば、私はとんだ道化だ。
……もし本当に忘れられていたら、何かその場で買わせよう。
固く心に決めつつ、私は冒険者会館のある寺町三条に向かった。
「あっ! パパ~! ママ~! 昨日ぶり~!」
階段を下った地下、隠れ家的バーやライブハウスみたいな場所にあるドアを開け、私と先輩は冒険者会館に入る。
すると、テーブル席に座っていた緑がかった金髪の女の子が、嬉しそうに私たちに手を振った。
メイアちゃんだ。
「昨日ぶり、メイアちゃん。エリスさんのところはどう?」
「えっとね、すっごい広くて、すっごい豪華で、まだちょっと落ち着かないかなぁ。でも、みんな優しいよ? ほら見て! この服、エリス様が選んでくれたの!」
椅子から立ち上がったメイアちゃんは、MAOの中での妖精風の服ではなく、現代のファッションに身を包んでいた。
ぴっちりめのトップスで綺麗な身体のラインを見せつつ、下はデニムのミニスカートにデニール高めのタイツ。すらりと伸びる長い足がよく映える。
可愛いというよりは綺麗、あるいは格好いいという雰囲気で、身長高めのメイアちゃんにはよく似合っていた。
私は腕を組んで唸る。
「エリスさん……なかなかやりますね……」
「えへへ~。お姉ちゃんたちにも褒められた~」
メイアちゃんと同じテーブルにはいつもの面子――ろねりあさんを始めとする4人組とセツナさんがいた。
セツナさん、相変わらず、女子に混ざっていてもあまり違和感がない。
「いやあ~、現代版メイアちゃん、マジいいよ! 超カッコいい! ウチの学校来たらめっちゃモテるよ!」
私服の双剣くらげさんが興奮気味に言う。
ビキニアーマー姿のほうが見慣れているから、普通の――というか、露出度の低い格好をしているとかえって違和感のある私がいた。
「私の記憶が正しければ、皆さんの学校って女子校じゃありませんでしたっけ……?」
「だからモテるって言ってんじゃん!」
「はい。すごくおモテになると思いますよ」
「歩くだけでキャーキャー言われるよね、きっと」
「ろねりあちゃんと、同じくらいモテるかも……」
くらげさんのみならず、ろねりあさんもポニータさんもショーコさんも口を揃えた。
先輩が隣で「そういうのマジであるんだな……」と呟く。同感。
というか、ろねりあさん、女の子にもモテるんですね……。
「恋バナをしてるのはここかあーっ!! ……きゃあーっ!? メイアちゃんカッコいいーっ!!」
「ふふーん!」
そうこうしているうちにレナさんもやってきて、打ち上げのメンバーがおおよそ揃った。
攻略合宿は結構な大所帯だったけれど、オフラインで集まれる面子はこのくらいだ。
厳密にはもう一人、気に食わない奴がいるんだけど、あの女はわざわざ待たなくて良し。
「あんまり羽目を外さないよーに。それと、暗くなりすぎないうちに帰るよーに。よろしく~」
カウンターの着物を着崩した女性が、気だるげに注意喚起をする。
冒険者会館京都支部の管理人にして《Nano》の社員であるタマさんだ。
はーい、と私たちは答え、それぞれ自分のドリンクを手元に用意する。
主催のセツナさんが立ち上がり、慣れた調子で喋り出した。
「それでは、予定時間になったので打ち上げを始めたいと思います。改めまして、ナイン山脈完全攻略おめでとう! 乾杯!」
「「「かんぱーい!!」」」
そうして、パーティが始まった。
私たちは複数のテーブルを自由に行き来しつつ、食べ物を摘まんだり、飲み物を飲んだり、攻略の思い出話に花を咲かせたりする。
「今回は本当に助けられたよ、ろねりあさん。君がサポートしてくれなかったら、僕だけであの面子をまとめられたか……」
「いえいえ! セツナさんの人望あってこそですから」
何かと前に立つことが多かったセツナさんとろねりあさんが、対面の席に座って和やかに談笑するのを見るにつけ、メイアちゃんがすすすっと私のそばに寄ってきた。
「ママ、ママ。実際のとこ、どうなの? あの二人……」
「……そこに目をつけるとは、我が娘ながら見上げたものだね、メイアちゃん」
「ねっ、ねっ! やっぱりそういうこと!? そういうことだよねっ!?」
あの二人は昔から絡むことが多く、配信のリスナーにも半ばコンビとして認められているようなところがある。
けれど、恋愛的な感情があるかといえば微妙なラインで、今は良き仲間といった感じだろうか。
傍目には美男美女で、すごく見栄えのする二人なんだけど。
「ふふふふふ……。火のないところに煙を立てる。それが古来より我らに伝わる、掛け算の極意よ……」
すすすっともう一人近付いてきたかと思えば、レナさんだった。
ものすごく迷惑な極意だ……。
レナさんは黒幕めいた笑みをセツナさんとろねりあさんに向けて、
「いざゆかん我が姪よ。少子化に歯止めをかけるのだ!」
「かけるのだーっ!」
レナさんがおもむろに「席チェーンジ!!」と叫んだ。
かと思うと、レナさんとメイアちゃんが二人がかりで、ろねりあさんの椅子を押して無理やり移動させ始める。
「きゃっ!? な、な、なんですかっ!?」
「まあまあまあ」
「まあまあまあ!」
「何がですか!?」
「……なるほど! 意を得たり!」
意図を悟った双剣くらげさんまで一緒になってろねりあさんの椅子を押し、ぴっちりとセツナさんの隣につける。
二人の肩が触れ合い、びくっとしてすぐに離れた。
驚いたように互いを見つめ合い、そして即座に目を逸らす二人を見て、周りの面子が拝み出す。
「ああ~、てぇてぇ~」
「セツろねてぇてぇ~」
「マッチポンプもいいとこだね君ら!」
「せめて配信内に留めてくださいよそのノリ!」
「ダブルツッコミ助かる~」
私はその様子を横から眺めてけらけら笑った。
あのノリ、自分がされるのは嫌だけど、横で見てるのはすごく楽しい。
――リリン、と鈴が鳴った。
それは会館入口ドアの上部に付けられている、来客を知らせるベルだ。
「……こんにちは」
控えめな調子でドアから顔を出したのは、私にとって因縁の女だった。
服装はタートルネックの白いセーターと紅茶色のロングスカート。それとフレーム太めの眼鏡をかけている。
一見地味に見えるけれど、セーターを山みたいに盛り上げる胸の谷間にバッグの紐を通しているのはどういう了見なのか。わざわざたすき掛けにする必要があるのか。普通に肩に掛けろ。
アルティメット・オタサー・プリンセス、《ミミ》の現実の姿。
私にとっての、もう一人の『先輩』。
「こんにちは、ミミさん。もう始めちゃってるよ」
「うん。遅れちゃってごめんなさい」
「いやいや、こっちこそ」
セツナさんと挨拶を交わすリアル媚び姫は、ゲーム内に比べれば幾分か常識的で、大人しい。
もちろん、わざとやっているのだ。
オタクは二次元の世界では露出度の高い女の子が大好きだけれど、三次元の世界では逆なのである。それを知り尽くした女の振る舞いだった。
リアル媚び姫の目が、私の顔に向く。
一瞬、視線と視線がぶつかりあった。
けれど彼女はふいとそっぽを向くと、セツナさんに渡されたドリンクを手に、カウンター席のほうに向かった。
そこには、タマさんと何か話している先輩がいた。
無言で先輩の隣に座るリアル姫。
先輩はすぐに気付いて隣を見たけど、リアル姫のほうはカウンターテーブルの天板に目を落とすばかりだった。
「……ケージ君」
少しの間を置いて、遠くからでは聞き取るのが難しいほどの小声で、タートルネック巨乳女が言う。
「ゲームだと、言えなかったんだけど」
「ん?」
「お疲れさま。……ごめんね、あっさり脱落して」
「地上で指揮してくれてただろ。お前は人を顎で使ってるほうが似合ってるよ」
「もう。わたしもたまには怒るよ?」
くすりと笑うリアル姫。
珍しく変なちょっかいをかけず、普通に話している――それが逆にあざとい。
「あれあれ~? 邪魔しに行かないでいいんですかな、チェリーちゃ~ん?」
テーブル席から二人の様子をちらちら窺っていると、双剣くらげさんがによによして煽ってきた。
私はオレンジジュースで唇を濡らしつつ、ふっと余裕の笑みを浮かべる。
「今更先輩があの女のあざとトラップに引っかかるわけないじゃないですか。どうせ今回も無様に撃沈するに決まってるんですから、優雅に見物と洒落込みますよ」
「うわ~お。上から目線を飛び越えて神から目線だよ。さすが公開キスをしたお方は違いますわぁ~」
「あれは医療行為ですけど、でもまあ、もし今あの女の色香に惑わされたりしたら、先輩は大炎上しますよね」
「こわっ。外堀どころか辺り一面埋め終わってるじゃん。こわっ!」
そう、心配などしていない。
先輩はあれで意外と自分をしっかり持っている人だし、そこには信頼の実績があるのだ。
ま、いつまでも騒いでいるのも子供っぽいし? たまには大目に見てあげるのが、落ち着いた大人の対応というものだろう。
と、私が優雅にグラスを傾けた、そのときである。
「……ああ、そうだ。忘れないうちに渡しとくわ」
と、先輩が鞄から、ラッピングされた箱を取り出した。
……えっ。
リアル姫の前に置かれたそれを、私は遠目に凝視する。
まさか、それ。
「あ……ホワイトデー。覚えてて、くれたんだ?」
「そりゃな」
カランとコップの氷を鳴らす先輩を、私は注視せざるを得なかった。
忘れてなかったの!?
じゃあ、私のは……?
リアル姫が、ラッピングされた箱をそうっと手に取る。
「これ……クッキー、とか?」
「いや、それも考えたんだけどさ。なんかすげえ上等そうなチョコだったし、釣り合わないかと思って、もっと使えそうなの買ってきた」
「じょ……上等そうって……て、手作りだったんだけど……」
「マジで? めちゃくちゃ上手いんだな、料理」
肩を縮こまらせ、テーブルの下でそわそわとブーツ同士を擦らせる媚び姫。
うわっ……あれガチだ! 演技じゃない! 本気で照れてる!
……たまに天然が混じるのもあざといんだよね、あの人。
結局、うまい返しが思いつかなかったのか、彼女は変に強い声で、
「……あっ、開けていい!?」
「ん、いいぞ」
傍目にはバレバレの照れ隠しで、彼女はそそくさとラッピングを開けた。
すると中から出てきたのは――
「……眼鏡ケース?」
「眼鏡かけてたよなーって思って。バーチャルギア入れるのにも使えるしな。俺も使ってるやつ買ってきた」
「俺も使ってるやつ!?」
俺も使ってるやつ!?
そ……それって、いわゆるペアルックというやつでは……?
眼鏡ケースなんてそうそう人に見せることはないと思うけど、それが逆に、なんというか、秘密っぽいというか、うううぐぐぐ……!!
私がささくれ立った感情と戦っていると、リアル姫はもらった眼鏡ケースを、無駄に盛り上がった胸の真ん中にきゅっと抱き締めた。
「あ……ありがと……。こんな素敵なもの、もらえると思わなかった……」
「ただの日用品だよ。まあ使ってくれたら嬉しい」
「も、もちろんっ! 大切に使うねっ!」
媚び姫は立ち上がると、ぱたぱたと逃げるようにしてカウンター席を離れた。
「(あああ~~~~っ!! どうしよっ、超うれし~~~~~っ!! わたしチョロすぎる~~~~~~っ!!!)」
先輩には見えないところで、リアル姫はニマニマと緩みきった顔をする。
パーフェクトコミュニケーションだった。
せ、先輩のくせに、どうしてその女の好みをピンポイントで突くのっ! もらってもどうしようもないレトロゲーでも贈っておけばいいものをっ……!
というか、私は? 私へのお返しは!?
私は再びタマさんと何か話し込み始めた先輩を睨みながら、グラスの中身をガチャガチャとかき混ぜた。
「それじゃ、ほんとお疲れ様~!」
「ばいば~い!」
日が暮れた頃、打ち上げはお開きになり、セツナさんやろねりあさんたちはめいめいに繁華街に消えていった。
レナさんも「にゅふふ」と怪しげな笑みを私たちに向けつつ、ろねりあさんたちと一緒に去っていく。
変な気を回すついでにカラオケに行くらしい――メイアちゃんもそちらについていくようだ。
私も誘われたのだけど、あまり遅くなると親に心配をかけてしまうので断った。この辺り、いつでも瞬時に家に帰れるメイアちゃんが羨ましい。
私と先輩の他に残ったのは、リアル媚び姫だけだった。
ニットセーターをむやみに盛り上げる巨乳女は、先輩に近付くとちらちら上目遣いをくれやがりつつ、
「あの……ケージ君。眼鏡ケース、本当にありがと……。その……また、そのうち、連絡しても……いい、かな?」
「ん? そりゃいいけど、別に」
「あ、ありがと……。うん」
今日はすっかり乙女モードらしく、媚び姫は軽く顔を俯けて、ニヤニヤと唇を緩ませた。
あんまり素直に嬉しそうだから、私も文句を言いづらい。
……と思いきや、だった。
先輩の隣にいる私に、リアル姫の目がすいっと向いたかと思うと、「ふっ」と見下すような息をこぼしたのだ。
「今日のわたしは機嫌がいいから、ケージ君に送ってもらえる権利は譲ってあげるね、桜?」
むっ……ムカつく~~~~~っ!!
余裕ぶった態度がムカつくし、中学の頃の呼び方をわざわざ使うのもまたムカつく!
その程度で心の広さをアピールできると思うな! 今までの自分の行いを思い返せ!!
いろんな種類の怒りが喉に詰まって何も言えないでいるうちに、姫先輩は一歩、二歩と私たちから離れ、
「それじゃあ、また――MAOでねっ❤」
一瞬だけ《ミミ》の顔になってウインクし、くるりと背を向けた。
吐き気がするほどあざとい。
心なしか弾んだ足取りで去っていく背中に、私は心の中で塩を撒いた。
「さあ、早く帰りましょう、先輩! ここにはあの女の毒が残ってます!」
「疫病系のスキルでも持ってんの、あいつ?」
私が歩き出すと、先輩はすぐに隣に来てくれた。
人通りの多いアーケード街を、二人で歩く。
……前に、この辺りを先輩と歩いたときは、まだ真冬だった。
少しでも身を寄せ合わせて、寒さを紛らわせようとしていた。
けれど、もう三月。
冬も終わりが見えている。
手を繋ぎ合う必要もなければ、コートのポケットで暖まる必要もない――
私は歩きながら、隣にいる先輩の顔をこっそりと見上げた。
……バレンタインのお返しをくれる気配は、未だにない。
もしかして……私があげたチョコ、気付かれてない?
こっそり鞄に忍ばせただけだったから?
いやいや、まさか1ヶ月も鞄の中を見てないなんてことありえな……ありえ…………。
…………。
…………。
…………、先輩なら、あるいは。
ま、まさか、あのチョコ、不発に終わってたの!?
先輩、ゲームの中でしかチョコもらってないと思ってる!?
う、嘘でしょ……? あのチョコ、結構頑張って用意したのに……。
ああもうっ、余計な小細工をするから!
「……あ」
自己嫌悪で死にかけていると、先輩が不意に声をあげた。
「ちょっと……寄り道してもいいか?」
「え? 寄り道……ですか?」
まさか、ここで解散?
ホワイトデーらしいこと何もなしで?
と思いきや、先輩はこちらを見て、
「悪いけど、ついてきてくれ」
と。
少し強引に、私の手を握った。
「うえっ?」
我ながら間抜けな声が漏れる。
もうちょっと可愛らしい反応はできなかったのかと後悔する。
でも、だって、本当に驚いたのだから仕方がない。
先輩に握られ、引っ張られていく手が、じんわりと暖かい。
1ヶ月前、バレンタインのときは、手袋代わりに手を繋いだ。
でも、今のこれには、何の理由もない。
寒くもないのに、必要もないのに、手を繋いで歩いている。
抱き締められたことだってあるはずなのに……どうして、こんな小さな接触が、こうも暖かく感じられるんだろう。
先輩は私を連れて、雑居ビルの階段を上った。
一体どこに行くつもりなのか見当もつかないでいると、先輩は一番上まで階段を上がりきる。
一番上。
つまり、屋上。
ビルの屋上には、バーベキューなどに使うと思しきテラスがあった。
他に人影はない。
京都らしい平べったい夜景が、柵の外に広がるばかりだ。
なんでこんなところに?
状況がわからないでいるうちに、先輩は私を連れて、屋上テラスの縁まで移動した。
ビルと言っても、京都には景観保護条例があるから、大して高いものでもない。
地上を見下ろせば、行き交う車や、歩道を歩く人々がはっきりと見て取れる。
ただ、喧噪だけが壁を一枚隔てたかのように遠く、私と先輩の間には、淡く柔らかな静寂が漂っていた。
「……あの、先輩……?」
無言のまま私の手を握りっぱなしでいる先輩の様子を窺う。
明らかに、様子が変だ。
ちょっと顔が強張っているようにも見えるし……心なしか、繋いだ手にも力が籠もっているような?
「……あー。えっと、その……」
先輩はあちこちに目を泳がせながら、意味のない呻き声をこぼす。
打ち上げのときには見せなかった、先輩らしい挙動不審。
それを見て、妙に嬉しくなっている私がいた。
先輩が、素を見せてくれてる。
格好付けるでもなく、体裁を繕うでもなく、あるがままの自分を、私には。
先輩はぎこちなく私の手を放すと、鞄の中をごそごそと探った。
その時点で、私には予想がついた。
そして、その予想の通りに――先輩の手は、鞄からひとつの、ラッピングされた箱を取り出す。
「ホワイトデー……の、やつ。三倍返しになってるかは、知らんけど」
声はぶっきらぼうだし、目は全然合わせてくれないし、人にプレゼントをするときの態度としては落第点もいいところだった。
けれど私は、今ばかりはそれを茶化すことなく……差し出された箱を、素直に受け取る。
「……ちゃんと、用意してくれてたんですね」
「当たり前だろ……。忘れたらどんな目に遭わされるか。催促もされたし……」
そういえばしたっけ、催促?
チョコに気付かれてないんじゃないかと思ったけど、そこについてもそのとき確認したような……。
記憶力には自信があったけど、どうにも人間の脳というのは、たまにバグってしまうことがあるらしい。
「……とりあえず、開けてくれるか?」
「いいんですか?」
「ああ。その……ここで、開けてほしい」
なんだろう。
いま開けてほしいってことは、お菓子の類じゃないってことかな。
不思議に思いながら、私はラッピングを丁寧に剥いだ。
箱のサイズは、あの姫気取りと同じくらいだ。
じゃあもしかして、私にも眼鏡ケース……?
蓋を、開ける。
緩衝材と一緒に、中に入っていたのは――
「……眼鏡?」
ケースではなく。
折り畳まれた眼鏡そのものだった。
「ARグラスだ」
先輩が言う。
「大した機能はついてない、単純なやつだけど……」
「えっ……単純なって言っても、結構しますよね? いいんですか? そんなの……」
「ああ、いや、それ自体はさ、タマさんに――っていうか、《Nano》に用意してもらったやつだから。この屋上もそうだが」
「え? え?」
《Nano》に用意してもらった?
この屋上も?
さっぱり状況が見えない。
「まあ、自分のバーチャルギアを使ってもらうのでもよかったんだが……メイアも来る以上、絶対に持ってくるだろうしな。でも、一応形に残るものも用意しろってタマさんに諭されて……。とにかく、とりあえず、掛けてくれ、それ」
「え、あ、はい……」
言われるまま、私は箱から取り出したARグラスを掛ける。
相変わらず京都の夜景が見えるばかりだ。
グラスモードのバーチャルギアだといろいろUIが表示されたりもするんだけど、これは本当にAR映像を見るためだけの単純なものらしい。
「バレンタイン」
いつもより幾分か真剣な響きが、静かな夜気に乗った。
「それから、まあ、他のことも、もろもろ。……ありがとうな。たぶん、お前がいなかったら、今、俺はこんな風に、楽しく過ごせてなかったと思う」
それは。
それは、私の台詞だ。
先輩がいなかったら、私は今、こんなに――
「――だから、これは」
先輩が、指で何かを操作した。
「ほんの、お礼だ」
京都の広い夜空に、大輪の花が咲く。
ヒュウウ~……という細い音が聞こえ、小さな光が空に上ったかと思った、直後だった。
煌びやかな炎の花。
夜空を覆うほどに大きなそれが、二つ、三つ、四つ――次々と立ち上っては咲き誇る。
肌にビリビリと振動が伝わった。
視界いっぱいを、色とりどりの輝きが埋め尽くした。
花火。
こんな季節に?
呆然とする私の視界の端には、街を行き交う人々が映っている。
私たちのいるところから、わずか十数メートル下を歩く人々は、だけど間断なく炸裂する花火に見向きもしていなかった。
見えていないのだ。
AR――この眼鏡を掛けた人間にだけ見える花火なのだ。
「先輩……これって……」
「作った」
「作った!? 先輩が!?」
驚いて隣を見ると、花火の輝きに照らされた先輩が、照れ臭そうに頭の後ろを触っていた。
「タマさんに習ってさ。1ヶ月前から、合間合間にちょこちょこ……。ツールがよくできてて、意外と簡単だった」
「えっ……イチからですか……? わ……私のために……?」
「……まあ。お前に催促されたときには、意外と時間ないのに気付いて焦ったけどな――なんとか間に合って、よかった」
そう言って、先輩はほっとしたように頬を緩める。
先輩は決して、こういうロマンチックなことをしない人間だった。
どちらかといえばゲームの世界に住んでいるような人で、私のことだって、最初は渋々付き合ってくれているだけだった。
なのに、こんな。
こんな――
「――今、俺たち以外の誰にも、あの花火は見えてない」
普段と何も変わらない様子で通りを行き交う人々の頭上で。
私たちしかいない、たった二人の世界で。
私たちにしか見えない、壮麗な光の花に照らされて。
「俺たち以外の誰にもわからない。俺たち以外の誰にも理解できない――」
先輩は、たった一人隣に立つ、私の顔を見つめる。
「それでいいんだよな?」
花火の輝きに横ざまに照らされる、私の先輩。
「もちろんです……。もちろんです、先輩」
世界にただ一人のその顔を、私もまた見つめ返し。
「私と先輩は、誰がどう呼んだって、私と先輩でしかありません――」
――だから。
胸の高鳴りの導くままに、今度は私から、先輩の手を握った。
「あと、もう少しだけ……お返し、もらっても、いいですか?」
お返しは高くつくって……言いましたから。
だからこれは、当然の要求。
私は瞼を閉じて、顎を少し上げた。
こんなことをするのは初めてだったから、うまくできているかなんてわからない。
でも、不安はなかった。
もう私たちは、この程度のことで揺らぎはしないって、わかっているから。
先輩の手が、ぎこちなく私の腰を抱き寄せる。
その遠慮がちな力の入れ方が何だか先輩っぽくて、私は笑うのを堪えなければならなかった。
肌が触れ合い、体温が混じる。
胸が重なり、鼓動が混じる。
唇が近付き、息遣いが混じる――
そして、頭の中に電気のようなものが弾けた。
全身がビリリと痺れたように感じたのは、たぶん、AR花火のせいじゃない。
嬉しくて、楽しくて、どうしようもないくらい幸せで、ずっとこのままでいたいくらいで――そういう気持ちが、唇から手足の先まで、一気に行き届いてしまったからだ。
ああ、もう。
私はきっと、この感覚を二度と忘れられない。
痺れは一瞬で去り、私はゆっくりと瞼を開けた。
間近に、私にとってかけがえのない、たった一人の理解者の顔がある。
その瞳を、今までにないくらい近くから覗き込みながら、私はくすりと微笑んだ。
「歯が当たりました」
「わ、悪い……」
「いいですよ、許してあげます」
いつものように。
上目遣いで、悪戯っぽく笑う。
「……もう一回、してくれたら」
――気持ちなんて、とっくの昔に通じ合っていた。
だからこれは、確認行為でさえなく。
私たちの関係には、少しの影響も与えない。
私たちしか知らない空に、私たちしか知らない花が咲く。
まるで祝うような輝きが、ひとつに重なった影を、長く長く世界に落としていた。
3rd Quest Ⅴ - 最強カップルと呪われし想い
おわり




