第215話 いつかこの世界が当たり前に
エリスはチェリーが淹れたお茶に口をつけると、音もなく上品にカップをソーサーに戻した。
「それじゃ、そろそろ本題に入るね?」
「できれば初っ端から入ってほしかったな……」
「またまたぁ~。ケージも嬉しかったでしょ~?」
にこにこと邪気のない笑顔で言ってくるエリスに、『いや、ちっとも嬉しくなかった』と言うのも角が立つので、俺は無言を選択した。
こいつは何を言っても無敵なチェリーやUO姫とは違うのだ。
そのことについて、『扱い違いませんか?』と抗議されることもあるが、相手を選んだ言動を心掛けていることを褒めてほしいところだ。
「それで? メイアちゃんを引き取るというのは……どういうことですか?」
チェリーに尋ねられ、対面のソファーに座るエリスは、並んで座る俺たち三人をさっと見回した。
「大した話じゃないよ。単純に、ケージとチェリーの二人でずっとメイアちゃんの面倒を見るのは大変だろうから、わたしたちのほうで預かるよ、ってこと」
「わたしたち、ってのは……エムルの教団のことか? それとも……運営のことか?」
「どちらでもある、と答えるのが適切かなあ」
エリスが小首を傾げると、金の髪がさらりと揺れる。
「今までは、二人が学校行ってる間とかは、恋狐亭の女将さんに面倒見てもらってたんでしょ? それがわたしたち、聖旗教団のメタNPCになるってだけの話――まあ、メイアちゃんも1から10まで面倒見なきゃいけないような歳でもないし、親離れってやつかな」
「親離れ……」
呟いて、メイアは左右に座る俺とチェリーを順番に見た。
不安に揺れるようなその様子を見て、エリスはさらに言い添える。
「もちろん、行動を制限するようなことはないから、ケージとチェリーにはいつでも会いに来れるよ? ……ただ、今繋がってるケージのバーチャルギアとのリンクはいったん切っちゃうんだけど」
「バーチャルギアとのリンクを切る……?」
「それって、どういうことですか?」
「んーとね……そもそも、メイアちゃんがどうやって現実世界に出てきてるのかっていう話から始めたいんだけど、いいかな?」
俺たちはうなずいた。
それは元々気になっていた部分でもある。
現実世界にいるときのメイアは、どういうメカニズムで世界を認識しているのか?
「これも至極単純だよ。バーチャルギアが観測した周囲の情報を元に、リアルタイムでVR空間を描画して、メイアちゃんはそこにダイブしてるの。だから実は、メイアちゃんはバーチャルギアがあるところからは離れられない」
「えっ? そーなの?」
メイアが目をぱちくりとさせて、首を傾げた。
そういえば、それは確認してなかったな。
現実世界でメイアを一人きりにするなんて、危なっかしくて考えもしなかった。
エリスはメイアを眺めて、ほんわかと言う。
「そうなんだよー。ギアから離れた場所には、世界そのものがないからね。その中でも特にケージのバーチャルギアは、現実の世界でのセーブポイントみたいな役割なの。遠くに離れすぎたら自然にケージのところに戻ってくるし、あっちに移動したときはケージの周りに現れるようになってる」
「なんで俺なんだ? 最初に見つけた人間にリンクされると考えても、あのときはチェリーも一緒にいたし……」
「それはわかんないよ。メイアちゃんが選んだんだから」
「メイアが?」
「選んだ?」
「うん」
エリスはお茶で唇を湿らせ、
「メイアちゃんが一番信頼したプレイヤーにリンクされるように設定した、って《Nano》の人から聞いたよ。だから、どうしてケージだったのかっていうのは、メイアちゃんしかわかんない」
俺たちの視線がメイアに集中した。
メイアは困ったように眉根を寄せる。
「ちっちゃい頃の話でしょー? 覚えてないよ、そんなの」
「……だよな」
「でも、たぶんだけど――一番カッコ良かったんじゃないかな?」
そう言って、メイアは薄く笑いながら俺の顔をじっと見た。
「聞いた話だと、その直前にしてたんでしょ、ボス戦? わたしね、不思議なんだけど、パパの戦闘を初めて見たとき、なんだか懐かしいなって思ったの。もしかしたら、お母さんのお腹の中で――《ダ・フレドメイア》の中で、パパの戦いぶりを見てたのかも」
「――ああ」
チェリーが溜め息をつくように、声を零した。
「それは……なるほど、ですね」
「え?」
「え?」
「え?」
俺、メイア、エリスの視線が、一斉にチェリーに集まる。
チェリーはハッとして口を押さえた。
「……あれあれ~? ママ、今のってどういうこと~?」
「珍しいなあ。チェリーがあっさり認めるなんて。でもでも、確かにケージの戦いは見ててキュンと来ちゃうよね!」
「ちっ、ちがっ……! 口が滑っ――じゃなくて! 《ダ・フレドメイア》のラストアタックを取ったのが関係してるって予想してたんです! あながち間違いじゃなかったなって思ったんです!」
俺は顔を逸らして知らんぷりをした。
ここは関わらないのが吉。
「こほんっ!」
チェリーはわざとらしい咳払いをして、本題への復帰を試みた。
「それで! 先輩のギアとのリンクを切ってどうするんですか?」
「相変わらず恥ずかしがりだなあ。わたしを見習ったほうがいいよ?」
「そうだそうだー! エリス様を見習えー! おっぱいを押しつけろー!」
「うるさいですっ! いいからさっさと話を進めてください!」
「仕方ないなあ……。ケージとのリンクを切るのはね、メイアちゃんには新機能の開発に協力してほしいからだよ」
新機能?
聞き捨てならない言葉に、俺はエリスの顔を見た。
「また何かシステムが増えるのか?」
「本格的な実装はずっと先みたいだけどね。わたしたち仮想世界の住人が、現実世界に自由に移動できるようになるシステムを、今、《Nano》が作ってるの」
「それって……メイアちゃんのように、ですか?」
「そうそう。いつかわたしとも向こうの世界で会えるようになるかもね!」
すべてのNPCがメイアみたいに現実世界に出てこられるようになるって言うのか?
メイアが二つの世界を行き来できるのは、そのプロト版みたいなシステムだったってことか……。
でもまた、なんでそんなことを?
「ケージたちはこの世界に来て、建物を作ったり、汽車を作ったりして、いろんな影響を与えてきたでしょう?」
エリスはチェリーが淹れたお茶をスプーンでかき混ぜる。
「それと同じように、電子人類も現実世界に行って、いろんな影響を与えられるようにしたい――それが《Nano》の人たちの考えみたい」
あまりに壮大な話で、俺たちは黙らざるを得なかった。
それって……もはや、VRの域を超えてないか?
今まで仮想世界は、俺たちの住む現実世界の中に包括されているようなイメージだった。
だが、もし、仮想世界の存在が現実世界に出てきて、影響を与えるようになれば――もはや、仮想世界は現実世界とまったく対等の異世界。
いわば、電子上にできた『国』じゃねえか。
「これ以上は守秘義務があるから、勘弁してね?」
そう言って、エリスは口の前で指をバッテンに交差させた。
その形は、俺にアルファベットのXを連想させた。
……わざとなのだろうか?
その仕草から、俺はある言葉を思い出した。
AR・VR・MR等、現実感に関する技術はいろいろあるが、素人目には違いがいまいちわかりにくい。
だからなのか、これらをひっくるめて総称する言葉がある。
XR。
クロス・リアリティ。
日本語に直せば――《交差現実》、というところか。
エリスが語った《Nano》の構想が真実ならば、まさにこの言葉通りの世界が実現する。
世界と世界が交差し、混じり合う、新時代の『現実』の在り方。
MAOが"VR"MMORPGから"XR"MMORPGに進化するとき、世界がどうなってしまうのか。
一介のプレイヤーでしかない俺には……想像もつかなかった。
「とにかく、その技術の開発に、現実世界と仮想世界、両方の世界で育った唯一の電子人類であるメイアちゃんに協力してほしいっていうのが、まずひとつ」
「そういう風に育つよう仕向けたのは《Nano》じゃねえか」
「なんだかマッチポンプ感がありますけど、話はわかりました。……まずひとつってことは、まだあるんですか、メイアちゃんを引き取りたい理由が」
「もうひとつは、この世界の話。今朝、わたしが送った信書はちゃんと届いた?」
エリスの質問に、メイアが自分でうなずいた。
「ナインノース・エリアに誰も入らないようにしてって話でしょー? 言う通りにしておいたよ?」
「ありがとうね! ……北の魔族国家とは、今、接触を試みてるところ。向こうもかなり警戒してるはずだから、ゆっくり時間をかけていくつもりだよ」
「とりあえず穏便に事を運びたいと、向こうも思っているはずですよ」
チェリーが言う。
「いきなり現れた得体の知れない国と何の準備もなく戦いたいなんて、普通なら思いません」
「そういうこと。だから、いくらか時間は稼げると思う。だけど……」
「……それが永遠に続くとは限らない、か?」
俺の言葉に、エリスは神妙にうなずいた。
「わかるでしょ? 何かちょっとした問題で大爆発しかねない、火薬庫みたいな状況になるのは想像に難くない。だからポータルの使用制限をお願いしたんだし……。でも、そういう中でも、攻略を進めようとするプレイヤーは出てくると思う。わたしたちの目的は北の果てに辿り着くこと……それは今もなお、変わってないんだから」
《精霊郷》に辿り着くには、北の魔族国家を突っ切らなければならない。
そのために、かの国と友好関係を築いて素通りさせてもらうのか、それとも今まで通り侵略し、植民し、力尽くで押し通るのか……。
その選択は、プレイヤーの一人ひとりに委ねられているのだ。
「北との友好関係を築くには、無理にでも攻略をストップさせないといけない。そのためには象徴が必要なんだよ。みんなが『この子が仲良くしようって言うなら仕方ない』って思えるような、友好の象徴が」
「もしかして、それをメイアちゃんに?」
「そういうこと。……ダメなんだよね、わたしだと。ほら、聖女だからさ。魔族とはまるっきり、敵対的な立場なんだよね」
あはは、と誤魔化すように、エリスは笑った。
実際、魔族にとって、エリスは殺戮兵器みたいなものだろう。
何せ、エリスが持つ《聖旗》というアイテムにはとんでもない効果がある。
というのも、一定範囲内の味方に対して、強力な《魔族特攻》を付与するのだ。
エリスがいる限り、魔族と事を構えて負ける気はしない――そんな奴が魔族と仲良くしようなんて言ったって、ついてくる奴はいないだろう。
「その点、メイアちゃんはプレイヤーに人気もあるし、何よりエルフだしね。わたしたちよりかは、北の人たちに近い存在でしょ? 北と南の架け橋にするのに、これ以上の適役はいないよ――メイアちゃんにはぜひ、北の人たちと仲良くするのに協力してほしいの」
エリスはメイアの目をじっと見た。
メイアは黙り込み、難しそうに何か考え込んでいる。
その間を埋めるように、チェリーが口を開けた。
「話を聞いていると、メイアちゃんって、今後のMAOにおいてかなり重要な立場じゃないですか?」
「うん、そうだね。たぶん、今この世界にいる誰よりも。……だから、わたしたちで引き取るのは、安全対策という意味合いもあるの」
「安全……? 《幽刃卿》みたいにメイアを狙ってくる奴がいるってことか?」
「正直に言って、可能性は否定できない。ただ、ひとつ安心してほしいんだけど、クロニクル・クエストが終わったメイアちゃんは、例の蘇生不可能ルールは適用されない。扱いとしては完全にプレイヤーと同じで、《アバターリビルダー》で蘇生もできるし、リスポーンもするはず」
「ってことは、やっぱり今までのメイアちゃんは蘇生不可能だったんですか……?」
「さすがに救済措置は用意してたみたいだけどね。ケージたちが優秀だったから、出番なしで終わっちゃったけど」
もしメイアが死んだら、何かしらのイベントをこなすことで蘇生させることができた、ってことか……。
たとえ一時的なものだとしても、メイアが死ぬところなんて見たくはない。
そうならずに済んでよかったと心底思う。
「今のメイアちゃんはHPを失っても消滅にはならない。ならないけど、悪意をもって襲われるっていうのはそれだけで気分が悪いからね……。そうさせないためには、現在のMAOでの最強戦力であるわたしたちが守るのが一番いい。でしょ、二人とも?」
納得せざるを得なかった。
聖女騎士団はクロニクル・クエストの攻略には関わらない。だが、単純な戦闘力で言えば絶対的なものがある。
俺たちはエリスのこともよく知っていて信頼が置けるし、メイアを預けるならこれ以上の相手はいない。
……あとは、メイア自身がどう思うかだ。
俺、チェリー、エリスの視線が、メイアに集中した。
視線をわずかに俯けて考え込んでいたメイアは、両隣の俺を、チェリーを順繰りに見て、
「……パパ、ママ」
と、確認するように呼ぶ。
「わたしは……もし、エルフの里を襲ったようなことがまた起こるなら、それを止めたいと思う。何より、パパやママ、ミミお姉ちゃんたち、みんなが侵略者になっちゃうのは……いやだ。みんなには気持ちよく、笑って、この世界で暮らしていてほしいの」
答えはもう言っているようなものだ。
それでも、メイアは言葉にして証明を求めた。
「同じ家で――同じ世界で暮らしていなくても、パパとママは、わたしのパパとママだよね?」
言葉に迷う必要さえない。
「当然」「です!」
答えと同時、チェリーがメイアの肩をぎゅっと抱き寄せる。
しばらく遅れて、俺も恐る恐る、躊躇いがちに、メイアの肩を抱いた。
仮想世界でできた娘は、現実世界の人間と少しも変わらず、暖かくて柔らかい。
きっと、本当に区別のない時代が来る。
現実世界、仮想世界、そんな風に分ける必要さえない時代が。
今、ここにあるメイアという存在が、その未来を確かに感じさせてくれた……。
エリスがソファーから立ち上がって、言う。
「それじゃあ、支度をしてくれるかな? ……ごめんね。本当はもう何日か、家族水入らずの時間を作ってあげたかったんだけど。何かあってからじゃ遅いから」
「ううん。大丈夫です」
エリスに堂々とした声で答え、メイアは一人、立ち上がる。
「たとえ血が繋がっていなくたって、たとえ生きる世界が違ったって、わたしたちは家族ですから――これから、何度だって会えばいいんです」
ソファーに座ったまま見上げる少女の背中は、ダ・フレドメイアの死骸の中で出会ったときとは比べものにならないくらい、大きく見えた。
エリスは微笑ましそうに「そっか」とうなずいて、
「……うーん、わたしもなってみたかったなあ、ケージとチェリーの娘」
「今から遅くありませんよ、エリスさん? 私が母親として、じっくりと慎み深さを教えてあげます」
「んーん。やっぱいいや。娘じゃケージの赤ちゃん産めないし」
「そういうところを直そうって言ってるんです!」
――そして。
メイアはエリスと騎士団に連れられて、帰ってきたばかりの家を去った。
メイアと共に過ごしたのは、一体何日のことになるだろう。
決して長い月日じゃなかったはずなのに、その背中を見送る俺の胸には、身体の一部を失ったような喪失感があった。
……の、だが。
「パパ、ママ、じゃーねー! また今度、打ち上げでねー!」
……そういえば、ホワイトデーの打ち上げで顔を合わせるんだった。
この世界は広いようで狭い。
どうやら寂しがる必要はないらしい。
かくして、ログハウス風の家には元通り、俺とチェリーだけが残った。
しかし、ひとつだけ、家の中に増えたものがある。
壁際の棚に置かれた、いくつもの写真立て。
その一番手前には、メイアが今より幼い頃にドットアート・シティで撮った写真があった。
その隣にもう一枚、新たな写真が増えたのだ。
背後には恋狐亭。
手前には数十人ものプレイヤーたち。
そして、その真ん中に笑顔で映る、メイアと俺たち二人。
あの山脈での冒険を共に乗り越えた仲間たち。
――これにて、有言実行だ。
ハッピーエンドはここに結実した。
俺たちはまた、ひとつの物語を終え。
それぞれの物語に帰っていく。




