第212話 新たなる世界
――オオォォォオオオオオォォォォォンンン――
高く高く、鐘の音のように荘厳に。
大きな断末魔が、山脈に木霊する。
どこに口があるとも知れない、竜母ナインの末期の声。
しかして、その音色は決して悲しくも寂しくもなかった。
まるで誰かの門出を祝うかのような――そんな、未来に満ちた断末魔だった。
その声に打ち払われたかのように、山脈上空を覆っていた闇が引いてゆく。
取り戻された本来の夜空では、星々が踊るように輝き、大きな月が王のごとく君臨していた。
その《母月》のそばに侍る小さな《子月》――放逐されたかつての《魔神》も、今日ばかりはその魔性の輝きを弱めているようであった。
【CHRONICLE QUEST CLEAR!】
ナイン山脈に参集した、数千、数万のプレイヤーたちに、高らかなシステムメッセージが届く。
【勇敢なる冒険者たちの活躍によって、一人の少女と一つの世界が救われた。呪われし王は名もなきままに冥府へと去り、封印された戦場もようやく争いを終えるだろう。幾星霜の年月を越えた呪いの因果は、今ここに断ち切られたのだ。これを讃えて、ムラームデウス島の精霊たちは冒険者たちに惜しみなき褒賞を与える。】
【貢献度ランキング】
【1位:メイア】
【2位:チェリー】
【3位:ケージ】
誰も驚きはしなかったし、誰も疑いはしなかった。
今回のMVPは彼女に他ならないと、誰もが確信していた。
夜の山脈に、歓声が轟く――
まるでハリウッド映画のエンディングのような大騒ぎを、高台から静かに見下ろす影があった。
「見届けたかな、ウェルダ」
「はい、先生」
「書けるかな、ウェルダ」
「……はい、先生」
「そうか。ならば、わたしもついにお役御免ということなのだろう」
白衣の裾が夜風に靡く――
白と黒が入り交じった長髪を翻し、冒険者でもなければ魔族でもない、単なる白紙は、遙か北の空を見やった。
「神話の終わりは近い」
呪転領域は解放された。
もはやプレイヤーたちを阻むものは何もない。
彼らは山脈を越え、ムラームデウス島の北半分に広がる世界に出会うだろう。
そして、新たな物語を紡ぐに違いない。
「物語に神はいらない――世界と人とがあればいい」
その言葉を最後に、白衣の作家は闇に消えた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「――んあ?」
俺は寝ていたことに気付いた。
つまりは目を覚ましたわけだが、瞼を開けるとなんと夜空だった。
屋根がない?
いやいやいや、何を寝惚けてる。
俺はさっきまで竜母ナインの身体の中で戦ってたんだろ。
それで、崩れてきた瓦礫にチェリーと押し潰されて……。
リスポーンしたのか?
「んん……」
すぐ隣から声がして、影がのっそりと起き上がった。
明るい月明かりに、桜色の髪が照らされている。
チェリーだ。
「んふぁ……先輩? どこですか、ここ……?」
「さあ……? 気付いたらここで寝てた……」
俺たちが寝っ転がっていたのは、柔らかな原っぱの上だった。
周りを見渡せば、360度夜の森。
灯りは真上から指す月光だけで、人の気配は少しもしない。
「先輩。死亡演出出ました?」
「いや……俺たち、死んだんじゃないのか?」
「だったら恋狐亭に飛ばされるはずなんですよね……。ええっと、地図地図……」
チェリーはアイテムストレージを呼び出して、新聞ほどもある大きな地図を取り出す。
持っているだけで行ったことのある場所がマッピングされていく、人類圏外攻略の必須アイテムなのだが――
「ん?」
「え?」
奇妙だった。
俺たちの現在地は、光点ではっきりと示されている。
その周りには、森と思しき緑が広がっている。
しかし、その外には何もない。
俺たちがいる場所は、俺たちが今まで行ったことのある場所から、かなり離れていたのだ。
より具体的には――平面距離で、北に5キロくらい?
俺たちは立ち上がると、月の位置を頼りに南の方角を見た。
木々に遮られて見えにくいが……雪の積もった山が見える。
「あの……先輩……」
「……なんだ?」
「あれって……天空都市がある雪山ですよね……?」
「……たぶん」
天空都市。
それすなわち、俺たちMAOプレイヤーが到達した中で、最も北に位置する場所。
今、俺たちは、それよりもさらに北にいる。
つまり。
「……………………」
「……………………」
ひとつ息を呑んで、俺たちは反対側――つまり北の方角を見た。
山が見えない。
ここよりも高い標高に地面がない。
それすなわち、下り。
天空都市より北に行こうとした人間は、俺たちが戦いに奔走したこの3日の間にももちろんいた。
しかし、不可能だった。
雪山を下りた辺りのところで、呪転領域の入口のような真っ黒な壁が隔たっていて、進行を完全に阻んでいたのだ。
俺たちの視線の先には、それらしき壁は見て取れない。
MAOバージョン3に背景はない――基本的に、見える場所は全部行ける。
心臓が早鐘を打った。
巨大なナイン山脈に阻まれ、様子を窺うことすらできなかったムラームデウス島北側の世界――
それが、この向こうにあるのだ。
と、そのときだった。
連携している通話アプリから着信音がした。
「うわっと……セツナ?」
「恋狐亭に戻ってこないから心配したのかもしれませんね」
配信用のカメラもセツナに返してしまったから、俺たちがどこにいるのかわからないのか。
そりゃそうだな。俺たちもどうしてこんなところにいるのかわかってないんだし。
俺は通話に応答した。
「もしも――」
『パパ!? ママ!? 今どこにいるのーっ!?』
通話の向こうから響いてきたのは、爽やかなイケメンボイスではなく、可愛らしい愛娘の声だった。
俺は驚いて仰け反りつつも、
「め、メイアか? 俺たちは今――」
『うっ、嘘ついたでしょっ! ブクマ石で戻ってこられるって言ったのに! 私だけのけ者にして―――!!』
「あ、あー。ごめんなさい、メイアちゃん。一人しか戻れないって言ったら嫌がるかと思って……時間もなかったし……」
『そんな我が侭言わないもん!! わたし……もう、子供じゃないもん』
言葉とは裏腹に子供じみた、涙混じりの声。
……悪いことしたな。
そうだよな……もう、のけ者は嫌だよな。
「悪かった、メイア。謝る。もうのけ者にはしない」
『ほんとに?』
「本当だ。だからお詫びに――」
チェリーに目配せをすると、『ああなるほど』という顔をして、俺の言葉を継いだ。
「メイアちゃん、これから私たちのマップをスクショして送るから、迎えに来てくれる? そのついでに――きっと、面白いものが見られるよ」
「セツナたちも聞いてるか? お前らも来いよ。フロンティアプレイヤーの特権みたいなもんだろ、これは」
俺は、未だ誰も歩いたことのない、北の空の下を見やる。
「見に行こうぜ、新しい世界を」
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
実のところ帰り方がわからなかった俺たちは、およそ1時間経って無事、メイアやセツナたちに発見された。
「もう! ホントに怒ってるからね、わたし! 嘘つくなんてサイテー!」
「うぐっ……娘からの『サイテー』、想像以上に胸に来る……」
「……私、明日からお父さんに少しだけ優しくしようと思います」
メイアはぷいっとそっぽを向いてみせた後、ちらりとこっちを見てくすくすと笑った。
この娘、母親の悪影響を受けすぎだ。
「だーれだ?」
「うおっ!」
急に視界が塞がれたかと思うと、背中に何かが抱きついて、俺は後ろにふらついた。
ふわりと漂う甘い香り。
足を使って腰にしがみつかなければならないくらいの小柄な身体。
そして、その感触こそないが、背中の辺りに不自然な空白があることからわかる、小柄さに不釣り合いな巨乳――
「お前……UOひ――」
「当てられたらデートしてあげる♥」
「――あっぶね! なんつートラップ仕掛けてきやがる!」
「ふうー」
「んぎゃああ!」
耳に息を吹きかけられて、ぞくぞくという感覚が背筋を駆ける。
俺が振り払うのに先んじて、UO姫は俺の背中からしゅたっと降りた。
急になくなった重みに、俺は肩透かしを喰らう。
振り返ると、黒髪ぱっつんにロリータ服を着たあざとさの塊みたいな女が、「ぬふふ」と小振りな唇を吊り上げた。
「(続きは誰もいないところでね?)」
本能に訴えかけてくるUO姫の振る舞いは、そのつもりがなくても鼓動を乱される防御不能の攻撃だ。
まんまと引っかかったのが悔しくて、俺は痛いところを突くことにした。
「お前、前から思ってたけど、芸風がチェリーと被ってるぞ」
「ああーっ!? 言ってはいけないことをーっ!」
「どういう意味ですか先輩! 私、芸なんてしてませんけど!」
UO姫はぷくっと頬を膨らませて、巨乳を持ち上げるように腕を組んだ。
「ふんだ。今回はケージ君、すっごく頑張ったから、サービスしてあげようと思ったのに。は~、やっぱり余裕があるな~! 全世界に向けてキス配信をした人たちは~!」
「「う゛っ!!」」
痛いところを突かれた。
見事なカウンターだった。
「ミミでさえ無理やりはよくないって我慢してるのにさ~! 一方的にぴちゃぴちゃチューしてさ~! 外堀埋めまくっちゃってさ~!」
「そ、そういうつもりだったわけでは……」
「うわっ、淫乱ピンクが来る! 逃げよっ、ケージ君! 今度は押し倒されるよ!」
「押し倒しませんよっ!」
怒ったチェリーにUO姫はキャーッと悲鳴を上げ、俺の背中に隠れる。
板挟みになった形だがそこは慣れたもんで、俺はぼーっと夜空を見上げて関わらないようにした。
「もう時間も遅いし、早いところ行こうか」
セツナが微笑ましそうに苦笑しながら、一同に言った。
この場には、メイアやUO姫の他にも、ろねりあパーティやゼタニート、ストルキンたちがいる――セツナ主催攻略合宿のメンバーだ。UO姫は匿名参加だったが。
「今のところ、この辺りにモンスターは見かけない。たぶんすぐに山を下りれると思うよ」
「そういや、このエリアの領主って誰なんだ? 俺じゃなかったんだが」
普通、人類圏になったエリアの統治権は、エリアボスのラストアタックを取ったプレイヤーに与えられる。
が、救助を待つ間に確認してみたところ、俺が領主になった様子はなかった。
「あ。それはねー、なんとわたしでーす!」
と、ピンと手を挙げたのは、なんとメイアだった。
「メイアちゃんが領主? このエリアの?」
「はーい! わたし、王様!」
「元々ここは、メイアちゃんのお母さんの国だったわけだしね。妥当だと思って、そのままにしてあるよ。……というか、呪竜遺跡の辺りのナインセントラル・エリアも、恋狐亭のあるナインサウス・エリアも、全部メイアちゃんを領主にしちゃおうかって話してて」
無言でうなずいたのは、頭良さげな眼鏡をかけたストルキンである。
確かあいつが、ナインサウス・エリアの暫定領主だったはずだ。
「このナイン山脈は、これからムラームデウス島の北と南を繋ぐ交通の要衝になる」
くいっと眼鏡を押し上げつつ、ストルキンは言った。
「ここがどこか特定のクランの領地になるのは、これからの攻略に支障を来しかねない。エムルのように運営預かりにしてしまったほうが、何かと都合がいいだろうと考えたんだ」
なるほど……。
ムラームデウス島にはいくつかNPCが領主を務める国があるが、そういうところは大体、実質的に運営が実権を握っている。
例えば教都エムルの領主は《聖女エリス》というNPCだが、あいつは現実世界の存在を認識するメタNPCで、ゲームのキャラクターというよりは運営の一人のような立場になっている。
ゲーム内の環境に関してプレイヤーから上がった意見について、エムルの真ん中に建つ城で会議したりもするし、MAO内の経済にデフレなりインフレなりが起こったときには、金融政策を打ち出して経済の正常化を試みたりするのだ。
個人や組織の利益ではなく、ゲーム全体の公益のための存在にする。
領主をNPCにするというのは、つまりそういうことである。
ストルキンの言う通り、ナイン山脈は運営預かりにしたほうが無難だろう――恋狐亭も馬鹿にならない観光資源になってるし、空中都市だってこれからそうなるに違いない。
「それにしたって、一人で三つのエリアを領するとなると、MAOでも有数の大領主になるよな……」
「どんな国にしよっかなー。とりあえずお菓子屋さんがいっぱい欲しいなー。お菓子屋さんは税金なしにしてー。野菜は嫌いだから重税にしちゃおうかなー」
「あの、ウチの娘が暴君になろうとしてるんですけど。大丈夫ですよね? ちゃんと運営が悪の道から引き戻してくれますよね?」
「ま、まあ、メイアちゃんのことは、運営が何かしら扱いを考えるんじゃないかな……たぶん」
困り笑いをするセツナ。
……確かに、実際のところ、メイアだっていつまでも俺にくっついてるわけにもいかないよな。
今までは恋狐亭で面倒を見てたけど、ナイン山脈の攻略が終わった今、あそこを拠点にしてたプレイヤーもいなくなってしまうわけだし……。
「……後のことは後で考えましょう、先輩。今はあっちです」
チェリーはそう言って、北を指差す。
「そうだな……。日付も変わってるし、今日のところは北の様子を見て解散だな」
「はい。新エリアを見るまでが攻略です!」
そうして、俺たちは北へ向かって歩を進めた。
森を抜け、岩場を歩き、ひたすら山を下っていく。
リアルならあっという間に音を上げていたことだろう、自然のままの道程だった。
何せ、ここは人類未踏の地。魔族に敗れる前の人類さえ住んでいなかった場所なのだ。歩きやすい道なんてあるはずが――
「……あれ?」
チェリーがピタリと立ち止まって、足元を見た。
「……なんか……ここ、踏み固められてませんか?」
「言われてみれば……?」
足で地面を叩いてみると、硬い感触が返ってくる。
舗装されてるってわけじゃない。これは、生き物の足で自然と踏み固められた――
「……動物でしょうか?」
「あるいはモンスターか……」
可能性としてはそれしかないはずなのに、どうもしっくりと来ない。
さらに山を下りていくと、山脈の外、地上の様子が見えるようになってきた。
夜闇に霞む地平線を眺めていると、今度はメイアが首を傾げる。
「……ねえ、パパ、ママ? あれ、見える?」
「あれって?」
「どれ? メイアちゃん?」
「あっ、そっか。わたし、遠くがよく見えるスキルがあるから……。えっとね、地平線の近くに、光? が見える気がして……」
「「……光?」」
火山でもあるのだろうか、というのが最初の発想だった。
だが、もしそうじゃないとしたら?
「みんな! あっちに丘がある! あそこからなら地上がよく見えるかも!」
セツナがそう言うので、俺たちは揃って丘の上に登る。
期待通り、そこからは地上の様子がよく見晴らせた。
闇の中に広がる荒野。
月明かりに照らされた森。
大きな影になった山。
そして――
光。
光、光、光、光。
まるで夜空のようなそれは――
「…………街…………?」
――それは、文明の光。
営みの光。
いくつもの建物が放つ、街の光。
……人類未踏の地。
そのはずだ。そのはずだった。
だったら、あの街はなんだ?
あの光はなんだ?
一体、何が住んでいる?
「……考えておくべきでしたね……」
唇を触りながらチェリーが言う。
「かつての人類は、魔族に北から攻め寄せられて、最南端に追いつめられた……。ですが、途中にはこのナイン山脈があったはずなんです。《呪王》によって呪転されつつあったこの山脈が……。人類が敗北したのは、それを乗り越えてきたわずかな少数派でしかなかったとしたら……!」
「マジかよ……」
誰も知らなかった。
ナイン山脈に阻まれて、人類の誰もが知らなかった。
交通の断絶とは、すなわち文明の断絶。
文明の断絶とは、すなわち世界の断絶。
ここから先は、今までとはまったく違う世界なのだ。
ナイン山脈によって完全に隔てられていた世界が、今日初めて繋がったのだ。
予想がついた。
あの街に住んでいるのが誰なのか。
「今まで私たちがやってきたのは、『奪還』であり『開拓』でした」
かつて魔族に奪われた土地を取り返し、荒れ野に街を築き上げる。
それがMAOバージョン3で繰り返されてきたこと。
「ですが、ここから先は……元々、人類の土地なんかじゃありません。未開拓の荒れ野でもありません。そこには文明がある。生活がある。私たちの知らない世界がある。ここから南の世界では『開拓者』であれた私たちは、ここから北の世界では、まったく別の――――」
そう、と。
チェリーは……その言葉を、見つけ出してしまった。
「――――『侵略者』になるんです」
MAOバージョン3《ムラームデウスの息吹》、後半。
ムラームデウス島北側の世界。
そこには、魔族の国があった。




