第207話 呪われし想い - Part3
『――竜母様、竜母様。変わらない恵みに感謝します』
厳かな祝詞のような。
それでいて、親しい友人への挨拶のような。
硬さと柔らかさが相半ばした少女の声が、自分の耳を穏やかに満たす。
竜母ナインを内部から蝕んだ《呪王》は、その意思を乗っ取ることで、封印を監視するエルフたちを――竜巫女を欺くようになった。
それに気付きもせず、長命ゆえの緩やかな時間を生きるエルフたちは、何年も何十年も変わることなき信仰を保ち、使命を全うし続けた。
そうだ。
来る日も、来る日も、飽きもせず。
勤勉に、敬虔に――竜巫女の任を帯びたエルフの少女は、『竜母様』の元へと通い続けたのだ……。
『――あなたは、なぜそうも毎日、笑っているのです』
それを見守っていたのは、ただ一人、竜母のふりをした《呪王》だけだった。
『変わり映えのしない毎日に、見え透いた将来に、倦むことはないのですか?』
しかし時折、演技が剥がれることがある。
竜母の声を借りて、《呪王》本人の言葉が零れることが。
エルフの少女はそれを疑いもせず、きょとんと首を傾げて答えた。
『なぜ倦むことがありましょうか、竜母様。こうして毎日、あなた様とお話しすることができるのに』
――私には、わからなかった。
耳の奥で、《呪王》の心の声がした。
――私にとって、世界はずっと地獄だった。ずっと悪夢だった。変わらない明日など、望んだことがなかった。終わるのなら早く終わってくれと……そう、呪ったことしか。
――何が楽しいと言う。何が嬉しいと言う。
――竜巫女などと無意味な役目を押しつけられ、何も為すことなく子を産んで死ぬ、そんな一生の、何が。
彼女は求めたはずだ、と《呪王》の心は呟いた。
何かを望むことさえできなかった彼女は、今日とは違う明日を求めたはずだ、と。
『――竜母様、竜母様。変わらない恵みに感謝します』
なのに、少女は変わらない。
100年間。
長命なエルフにとっても長い時間。少女が女性に変わるのに充分な時間を経てもなお、彼女の表情からは笑みが消えなかった。
……いつしか、《呪王》は重ねて見ていた。
明日をも知れぬ身ゆえに、今このときを笑って過ごしていた彼女と。
明日をも知りきった身ゆえに、いついつまでも笑って過ごす彼女を。
それは。
――馬鹿な。
――馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な。
100年間。
長い時間だった。
一人の女性に情が移るのにも。
心に刻まれた傷が癒えるのにも。
あまりに、充分すぎる時間だった。
しかし、《呪王》は認められない。
――あの絶望が。呪いが! たかが100年で風化し、薄まるなどということは……!!
有り得てはならないことだった。
今生でたった一度と決めたこの気持ちが、たかが時間の積み重ねなどに上書きされる。そんなことは、決して有り得てはならないことだった。
彼女のことを忘れ。
空いたスペースに、別の何者かを収まらせるなど。
そのような――おぞましいこと。
壊れゆく自分を、必死の思いで支え続ける。
あの日の悲しみを、何度も何度も思い返して。
そして……それとは別の部分で。
《呪王》は、毎日語らうその少女に、願うのだ。
穏やかな、変わらない笑みを浮かべ続ける彼女に。
昨日よりも素晴らしい今日を、今日よりも愛おしい明日を、知ってほしいと――
その願いは、果たして、叶うこととなる。
『――竜母様、竜母様! どうか聞いてください!』
その日の彼女の笑顔は、いつもの、穏やかなそれではなく。
今にも跳び上がらんばかりの、眩いまでの輝きに満ちていて。
彼女は。
慈愛に満ちた手つきで。
自分のお腹を、さすったのだった。
『わたし、子供ができたんです』
昨日より素晴らしい今日を、彼女は知った。
自分の出る幕など、元よりありはしなかった。
それに気付いた瞬間、胸を突き刺した痛みこそが、すべての引き金だったのだ。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
影絵のような神殿が霧消した後には、長く続く一本道だけが残っていた。
ああ……なんとなく、わかる。
この先に、いる。
「……先輩」
チェリーからの呼びかけに、俺はうなずきをもって答えた。
《呪王》にとってのメイアは、決して、ただの竜巫女なんかじゃない。
メイアを攫うとき、ヤツは『祝言でも挙げようか』だなどと嘯きやがったが、あれは自分でも認めきれない未練の残骸だ。
自らのアイデンティティを破壊した、忌まわしい思い人が。
他の男との間に作った、娘。
その、恐ろしく生々しく、恐ろしく複雑な感情は、恋愛経験のひとつもない俺には計り知れない。
愛しいのか。憎たらしいのか。
そのどちらでもないのか。そのどちらでもあるのか。
そして、そのすべてを、今。
生け贄に捧げるという形で、無に帰そうとしているのだ―――
「……何が呪いだ」
繰り返すが、《呪王》の感情は俺には計り知れない。
しかし、これだけは言える。
それは、呪いなんかじゃない。
お前は、呪われてなんかいない。
呪われた想いなんて、この世のどこにもありはしないんだ。
お前はきっと、お前の言う通り。
――間違ってなんか、いなかった。
それを思い出させてやるには、どうすればいい?
方法なんて、ひとつしかないだろう。
見せるしかないんだ。
お前に『呪われている』と断じられた俺たちが、見せつけて証明するしかないんだ。
残り時間、23分。
ついにようやく、最終幕に辿り着いた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
――ドクン――ドクン――
暗い一本道を進めば進むほど、不気味な脈動は大きくなった。
空気がどろりと粘性を帯びていく。
息苦しく感じるほどの、異様な存在感。
それが壁のように押し寄せて、押し返されるようにすら思え始めた頃。
俺たちは、最奥に到達した。
巨大な空間の真ん中に、ひとつの臓器がある。
――ドクン――ドクン――
一定のリズムで伸縮を繰り返すそれは、そう――心臓だった。
丸太のような血管で壁や天井と繋がった心臓には、真っ黒な泥肉がびっしりとへばりついている。
ときおり、うぞうぞと蠢く泥肉の中に、緑がかった金髪の少女が埋もれていた。
「メイア!」
「メイアちゃん!」
俺たちが呼びかけると、メイアの顔がぴくりと動く。
意識があるのか!?
メイアは泥肉の中でようよう顔を持ち上げると、俺たちの姿を見た。
「……パパ……ママ……気を、つけて……!」
か細い声が絞り出された、そのとき。
――ドクン――ドクン――ドグンッ!!
巨大な心臓が、異常に強い鼓動を打った。
「……もう……竜巫女の、力は―――」
直後、足元が強く揺れた。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
ズッ、ウウウン――――!!
木造の壁や天井がめきめきと軋みを上げ、恋狐亭のロビーは騒然となった。
「なにっ、なにっ!? 地震!?」
「そんな程度じゃ……! みんなっ! とにかく外へ!!」
セツナの指示で、プレイヤーたちは雪崩を打って出入り口に殺到する。
押し合い圧し合い、やっとの思いで外に出ると、彼らはおよそ信じがたい――現実世界であれば決して目にしえない光景を、目にすることとなった。
「……うっそー……」
「こっ、こんなのアリなのぉ!?」
崖上に建った恋狐亭の位置からは、かつて《呪転磨崖竜ダ・モラドガイア》および《呪転太陽竜ダ・フレドメイア》との戦場になった、広大な高原を望むことができる。
そこに、幾筋もの地割れが刻まれ。
ごりごりと地肌同士を擦り合わせるように、蠢いている。
よりわかりやすいのは、遠目に見える山々の連なりだった。
ナイン山脈を形成する山々の稜線が、不規則に動いている。
決して、地震の震動などではなかった。
それは、そう、まるで巨大な恐竜のたてがみが揺れるかのような――
「山脈が……動いてる」
ズゥン……ウンッ、ウ、ウウン―――!!
足元が動く。
揺れるのではなく、動く。
自らの骨肉でもって。
自らの意思をもって。
「あっ……!! 上……!!」
トドメとばかりに、決定的な現象が起こった。
星々煌めく夜の空に、真っ青に輝く棒が、大きく大きく横切ったのだ。
プレイヤーの誰もが、見慣れたものだった。
どんな初心者であれ、必ず見たことのあるものだった。
それは、空の果てから果てまで届くほどの。
恐ろしく長く、恐ろしく多い――――
――――超巨大な、HPゲージだった。
超然と、その名が現れる。
この場所が、誰の支配下にあるかを知らしめるように。
終末の名前が、天に刻まれる。
《呪転竜母ダ・ナイン Lv200》。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「竜母ナインが……動き出した!?」
「そんな……! 時間はまだ20分ありますよ!?」
ぐらんぐらんと不規則に揺れる足元に気を配りながら、俺は黒い泥肉に覆われた心臓を見上げる。
その中に囚われたメイアは、苦しげにしながらも意識を保っている。
だから、まだ封印は効いているはずだ……! 呪転した竜母ナインが本格的にムラームデウス島の破壊を始めるまでは、まだ猶予があるはず!
「……その前に――」
「――やるしか、ありませんね」
俺たちの目の前に、弱点がある。
呪いに蝕まれつつある、竜母ナインの心臓が。
これを破壊すれば――あるいは解放すれば。
竜母ナインの活動は、強制的に停止せざるを得ない。
『――― オ ォォ オ オ ―――!!』
洞窟を吹き抜ける風のような、空虚な声がした。
竜母の心臓に張りついた泥肉が、うぞうぞと動いて不気味な模様を作る。
それはまるで、泣き叫ぶ男の顔。
自分も感情さえも呪わなくてはならなくなった、哀れな男の成れの果て。
「……パパ、ママ……!!」
依然、泥肉の中に囚われたまま、メイアが必死に叫んだ。
「少しで、いい……! 《呪王》を、抑えて! そうしたら、わたしが……!!」
否やを言おうはずもない。
できた娘の我が侭だ。
たまには聞いてやるのが――親の甲斐性ってもんだろう。
「先輩。終わりました」
「ああ。それじゃ、開幕から全力だ!」
チェリーが《聖杖エンマ》を掲げ、流れるような祝詞を紡ぐ。
俺は《魔剣フレードリク》を構え、蠢く泥肉を見上げる。
泥肉は血管を伝い、壁や天井を覆い始めた。
波打ち、泡立ち、たまに人間の顔のような模様を形作り、ぼとりぼとりと、泥団子のような球体をいくつも地面に落とす。
それは、卵だった。
見る間に亀裂が入り、内部の暗闇でギラリと眼光が輝く。
文字通りの竜の母。
真っ黒に呪転したドラゴンどもが、次々と殻を破って生まれ出でる……!!
しかし俺は、チェリーは、竜母ナインの心臓にへばりついて泣き叫ぶ男の顔を、依然として見据え続けた。
マギックエイジ・オンラインのサービスが始まって、どれほどになるか。
俺たちを含む多くのプレイヤーが、それぞれの物語を、それぞれの歴史を紡ぎ、世界を発展させ、己を鍛え上げてきた。
そのすべてを、お前の呪いが潰すのが早いか。
そのすべてが、お前の呪いを祓うのが早いか。
さあ――一緒に遊ぼうぜ。
「――――《魔剣再演》――――!!」
「――――《聖杖再臨》――――!!」




