第172話 ゆうべはおたのしみでしたね、と言いたい女たち
「はあ゛~~~…………」
軍議を終えたあと、日付も変わりそうな頃になって私が帰ってきたのは、呪転領域の外にある恋狐亭だった。
一応、セツナさん主催の攻略合宿はまだ継続中である。
まさかこんな大事になるとは誰も思わなかったから、有名無実化している感はあるけれど、私も先輩も、恋狐亭を拠点にしているのは変わらない。
ひと気のない温泉に身を浸し、私はぐでーっと岩場に突っ伏した。
お風呂はリアルのほうで作戦開始前に入ってしまったのだけど、もう一度入りたくなったのだ。
アバターから疲れが滲み出ていくような感じがする。
つっかれたぁ~~~……。
「なんかおじさんみたいだねー。そんな桜ちゃん初めて見たかも」
ちゃぷりと隣に入ってきたのは、私のクラスメイトであり先輩の実妹でもあるレナさんだ。
私は突っ伏したままそちらに顔を向け、
「失礼な……私だって気を抜くことくらいあるし……」
「だっよねー。最初、びっくりしたもん。ゲームの中でお兄ちゃんと一緒にいるときの桜ちゃん見て」
「……え?」
「学校とは全っ然違う顔しててさ。パッと見で『あ、この子、桜ちゃんだ』って思ったんだけど、しばらく見てたらやっぱり違うような気がしてきたくらい」
「そうかな……」
学校とMAOとで態度を使い分けている自覚はあるけれど、そんなに違って見えるものだろうか。
「全然違うよー」
レナさんはによによ笑い、
「お兄ちゃんとゲームしてるときのほうがね、10倍くらい可愛い」
「うにゃっ……!」
足がずるりと滑って、どぷんとお湯の中に沈んだ。
ゆっくりと目と鼻だけ湯面から出すと、レナさんはけらけら笑っていた。
「こうやってからかったときは50倍くらいかなー!」
「うう……おもちゃにして……」
こうなるからレナさんにだけはバレたくなかったのに!
お湯をぶくぶくさせながらジトッと睨みつける。
レナさんはますます嬉しそうに笑った。
「でもねー。……今日、お兄ちゃんに助けてもらったときの桜ちゃんは、さらに100倍くらい可愛かったよ?」
ぶくぶくぶく!!
「へっへー。たまたまあの瞬間を映してる配信があったんだよねー。あんな乱戦だったのに、根性据わってるよねー。ああいうのを戦場カメラマンって言うのかな?」
「なっ……にゃっ……」
「桜ちゃんってば、そりゃあもう乙女な顔でさー。お兄ちゃんのほうも、まさか女の子のためにあそこまで怒るなんてね。いっやあ、ほんっとに好きなんだなあ、桜ちゃんのこと」
私は口までお湯につけたまま、両の膝を抱え込んだ。
私だって、先輩があんなに怒るのはそうそう見ない。
基本的に温和というか、ゲームのこと以外何にも考えてない人だし、PKやPKKだって、道理に外れすぎていない限りはプレイスタイルの一つとして認めている。
その先輩があそこまで怒るのは……決まって、自分の大切なものが傷付けられたり、貶められたり、奪われようとしたときだ。
今回の私は、別に傷付けられたわけじゃなかった。
結果としてHPは1ポイントも削られなかったし、攫われたところで現実の私には何も影響がない。
貶められたわけでも、もちろんなかった――むしろ《呪王》は、一貫して私を評価する態度を取っていた。
ただひとつ。……私は、奪われかけたのだ。
攫われ、監禁され、一時的にせよMAOにログインできなくなることで――
――先輩と一緒に、今この瞬間のMAOを遊ぶことを。
それはつまり、それだけ先輩が、私と遊ぶ時間を大切に思っているということで……。
「ぶくぶくぶく……」
「そろそろのぼせるよ、桜ちゃん」
「……誰のせいだと思ってるの……」
「いや~、だって、ほら」
「?」
「勇者に助けられたお姫様は、帰りの宿でアレされちゃうのがお約束でしょ? 背中押してあげよっかな~って」
「アレって?」
「え」
レナさんは驚いた顔をして私を見た。
え? なに?
「……桜ちゃん、知らないんだ。こんなゲームやってるのに」
「へ?」
レナさんはブラウザを出して何か検索すると、「ほい」と私のほうにウインドウを滑らせる。
何かのネット辞典のページだ。私はそれを読む。
「ゆうべは……? ……え? えっ?」
「ジャパニーズRPGの元祖から続く由緒正しいイベントだからね。無視しちゃダメだよ~? にっひっひ!」
「い、いやっ……むりっ! むりむりむりっ! っていうか私お姫様とかじゃないし!」
「ざんね~ん。外堀はもう埋まっているのだ! 例の台詞を言いたいがために、わたくしどものほうで二人の部屋をご用意しました! 元の部屋に行っても中に入れてもらえないので悪しからず!」
わたくしどもって……え? 組織的犯行!?
ば、バカしかいないの……?
「お疲れの総司令官への心ばかりの親切だよ、桜ちゃん。今日は本当に、桜ちゃんがいないとにっちもさっちもいかなかったんでしょ?」
「……ありがた迷惑って言葉知ってる?」
「ホントに迷惑なのかなあ~?」
「……………………」
「わあ、睨まれた。……まあまあ、深く考えないでよ。リフレッシュの意味も込めて、いったん攻略のことは忘れてさ。久しぶりにお兄ちゃんと二人っきりでゆっくりすればいいじゃん。もう深夜だけど」
「…………リフレッシュ…………」
確かに、昨日から根を詰めっ放しかもしれない。
先輩と二人っきりっていうのも、思えば結構久しぶりな気が……。
「………………変なことは、しないからね」
「わかってるわかってる」
あははー、と笑うクラスメイトの顔は、まったくわかってる風ではなかった。
◆◆◆―――――――◆◆◆―――――――◆◆◆
「それじゃあごゆっくりー♪」
レナさんに案内された部屋に、意を決して入室する。
他の客室と変わらない、畳敷きの和室。
すでに二人分の布団が、ぴったりとくっつけて敷かれていた。
うう……レナさん……。
あれ、位置が固定されてて動かせないんだからね……。
「……お」
広縁――窓際に向かい合わせで置かれた椅子のひとつに、浴衣姿の先輩が座っていた。
先輩は目を落としていたウインドウから顔を上げると、挙動不審に目を泳がせる。
「……よう」
「……お邪魔、します」
先輩も先輩で、何かしら吹き込まれたらしい。
お互いに、さっぱり目が合わない。
……同じ部屋に泊まるのなんて、別に今日が初めてってわけでもないのに。
というか、MAOの中でできることなんてたかが知れてるのに!
とりあえず布団の上にでも座ろうと思ったけれど、寸前で思い留まった。
いや、別に、考えすぎだっていうのはわかってるんだけど……み、自ら布団の上にっていうのは、なんだか誘っているような感じがするようなようなようなななななな……。
落ち着け。
私がこんな心境でいることを、決して悟られてはならない。
なぜなら悔しいから!
消去法で、先輩の向かい側の椅子に座った。
相変わらず顔は見づらくて、窓の外に視線をやる。
夜の山に、温泉街の提灯の光がずうーっと、蛇のようにのたくりながら伸びていた。
さらに遠くに目をやれば、空の中にぽつっと、光の灯った場所がある。
前線基地と化している天空都市だ。
見えるのは光だけ。その輪郭さえ、雲に霞んで見て取れない。
この旅館から始まって……いくつものボスを倒し、いくつものダンジョンを越え……いつの間にか、あんなところにまで辿り着いていたのだ。
「気が遠くなるよなあ」
前を見ると、先輩が私のように、窓から天空都市の光を見やっていた。
「この旅館から、あそこまで2ヶ月。……まあ途中でバレンタインイベントなんかも挟んでたとはいえ、なかなかの時間がかかったもんだ。だってのに、あそこをクリアしてもまだ全体の半分くらいなんだぜ」
「……それを言ったら、バージョン3の開始からここまでどれだけかかったかっていう話ですよ。もしかして、もう1年くらい経ってません?」
「え、マジで? ……そういやバージョン3始まったの、去年の今頃だったような気がする」
「まさかこんな大ボリュームだとは思いませんでしたねえ」
「ほんとそれな」
くく、と先輩が笑い、くすくす、と私も喉を鳴らした。
……あれ。いつの間にか普通に話せてる。
「ダ・アルマゲドンが片付いたら、山脈の向こう側にフロンティア・シティを移さないとですね」
「今は実質、この温泉街がフロンティア・シティとして機能してるような感じだしな。まあ北側がどうなってるのかわかんねえけど……」
「次はどんな家にしようかなー」
「また建てるのかよ……」
「ダメですか? ……あ。それとも、今の家に愛着とかあります? 結構長い間住んでましたもんねー」
「あるっつーの。お前に虐げられながら建てた、俺の血と涙の結晶だからな」
「そこは私との思い出が詰まってるって言ってくださいよ」
「どんな思い出だよ」
「あるじゃないですか。ほら、えーと……ソファーでぐだぐだしたりとか……」
「ずいぶん大切な思い出が詰まってるんだなあ」
「あっ! 出た京都人の嫌味!」
「お前も京都人だぞ」
わざとらしく頬を膨らませてみせると、先輩はへんと鼻を鳴らす。
……そりゃあ確かに、大したイベントはなかったかもしれない。
だけどあの家は、あえて取り立てることもない、何でもない時間を先輩と過ごす場所だった。
いつかは引っ越してしまうけれど、それでも……。
「……愛着あるのはお前のほうじゃん」
先輩がぶっきらぼうなトーンで言う。
「だったら最初から言うなよな。新しい家を建てようとか」
頬杖を突いて、呆れた風を装う先輩を、私はじっと見つめる。
今のトーンは照れているときのそれだって、私はちゃんと知っているのだ。
先輩はだんだんとばつの悪そうな顔になって、やがて、観念したようにもごもごと口を開いた。
「…………まあ、俺も、もうしばらくはあの家でもいいけど」
小さな声をきっちり聞き取って、私はにんまりと笑う。
勝った。今のは私の勝ち。
私の無音の勝ち鬨が聞こえたのか、先輩は苦々しく唇を歪めた。
私はますます機嫌を良くして手を伸ばす。
指先でつんと鼻の頭をつついた。
「……何」
「べつに?」
「やめろって」
そう言われるとますますやりたくなるのが人の性。
さらにぶにぶにと先輩の鼻を押し潰していると、
「あー、もう」
苛立たしいというよりは仕方ないなって感じで、先輩が私の手首を捕まえた。
「かまってちゃんかよ。小学生か」
「嬉しいくせに~」
「…………誰が」
拗ねたようにぷいっと顔を逸らす先輩。
あーあー、可愛いなあ。そういう態度をされるとますます構いたくなる。
今度は頬でもつつこうか、ともう片方の手を伸ばしかけたとき、掴まれた手首をぐいっと強く引かれた。
「ひあっ!?」
先輩の顔がぐっと近付く。
息が唇に触れたと思ったそのとき、私の肩を先輩が掴んだ。
間近にある先輩の目が笑っている。
「ビビった?」
「……どの顔で人のことを小学生扱いしたんですか」
「目には目を。歯には歯を」
鼻をつついた代償がこれじゃあ、全然釣り合ってない。
乱れた動悸を悟られないようにしながら、掛け襟から覗く先輩の胸元を見る。
どうやったら驚くかな。
鎖骨でもなぞってみようか。
それとも……。
ちらりと先輩の唇を見た、そのとき――
「(……うわーっ! チューする! チューするってこれ!)」
「(くらげさん、しーっ! お兄ちゃんたちにバレちゃうよ!)」
「(ちょっと!? 今どうなってるの!? よく見えない……!)」
どこからともなく囁き声が聞こえてきて、私と先輩はそのまま停止した。
……そういえば、この部屋用意したの、レナさんたちだっけ……?
「(……今の、どの方向から聞こえたかわかるか)」
「(……たぶん、向かって右の押し入れの中です)」
私たちは至近距離で見つめ合った姿勢から動かないまま、こしょこしょと相談する。
「(なら、3、2、1で動くぞ)」
「(はい。絶対に逃がしません)」
「(3)」
「(2)」
「(1!)」
私たちはバッと弾かれたように動き出す。
布団などが収納されている押し入れに駆け寄り、襖を一気に開け放った。
「うわっ!?」
「うぎゃあっ!?」
「きゃああっ!?」
どばーっと三人の人間が絡み合うようにして溢れ出す。
一人は言わずもがなレナさん。
一人はツインテールの双剣くらげさん。
そしてもう一人は、狐の耳と六本の尻尾を持つ旅館女将、六衣さんだった。
「……言い訳を聞きましょうか?」
私が冷たい声で言うと、レナさんが「あははー」と誤魔化し笑いをする。
「ゆうべはお楽しみでしたね?」
「お楽しみだったのはあなたたちでしょ!」
「いやあ……六衣さんに穴が空いて隣と通じちゃった部屋があるって聞いてー……やるしかない! と思って!」
「だっよねー! やるしかないっ!」
「やるしかない!」
イエー!! とハイタッチするレナさんとくらげさん。
反省の色がなさすぎる。
この二人、出会わせてはいけなかったんじゃなかろうか。
一方、六衣さんのほうはしゅんとしている。
先輩がしゃがみ込んで、
「六衣さあ……さすがに女将が客の部屋を覗き見るのはマズいだろ」
「やめて……本気の説教やめて……わかってるの……わかってるから……!」
「どうせレナさんとくらげさんに乗せられたんでしょう? 情状酌量の余地はあります。SNSで晒して炎上させるのは様子を見ましょう、先輩」
「リアルに怖い計画やめてーっ!!」
だから様子を見るって言ってるでしょ。しばらくは。
それよりも、問題はこのデバガメ二人だ。
「相手が悪かったですね、二人とも。私と先輩に気取られずに覗き見しようなんて100年早いですよ。セローズ地方のソリディアン要塞をノーミスで攻略できるようになってから出直してください」
「えー? でも……ねえ? くらげさん?」
「だっよねー? レナちゃん」
「……なんですか」
にまにま笑ってちらちら私たちを見ながら、レナさんとくらげさんは聞こえよがしにこしょこしょ話す。
「さっき、完全にチューしようとしてたよねえ?」
「うんうん。してたしてた。あれは完全にチューの流れだった」
「ぜぇーんぜん気付かれてなかったよねー」
「二人ともお互いに夢中だったよねー」
顔に血が上ってこようとするのをかろうじて抑える。
代わりに、こしょこしょとデバガメ会議を続ける二人の頭を、がしっと手で掴んだ。
「……あれは、演技です」
「えー? うっそだー」
「え・ん・ぎ、ですっ!」
「お鼻つんつんも? 手首ぐいっも?」
「当然です! 私たちは最初からあなたたちに気付いていたんです! だから油断させる会話をしたんです! 付き合ってもないのにあんなやり取りをする人間がどこにいるんですか馬鹿ですか!?」
「わーお。あたしの友達が盛大なブーメランを投げてるよ、くらげさん」
「デカすぎてキャッチできなさそうだねえ、レナちゃん」
「とにかく! さっきのは演技なので忘れるように! 忘れろーっ!!」
頭を掴んだ手にぐぐぐーっと力を込めると、二人はうぎゃーっと悲鳴をあげて暴れ始める。
痛みはないはずだけど、圧迫感は意外と感じるものなのだ。
このまま海馬を破壊してやる!
――そんな馬鹿なことをしているうちに、日付が変わっていた。
夜更け。
現実ならしんと寝静まる頃だけれど、MAOのこの時間はむしろゴールデンタイム。
明日は休日だというのもあって、多くのプレイヤーがまだ恋狐亭に屯していた。
だから今回は、それの開始をすぐに知ることができたのだ。
「――あっ! いたいた!! ケージ君! チェリーさん!」
デバガメたちの折檻部屋と化した客室に飛び込んできたのは、血相を変えたセツナさんだった。
「すぐにロビーまで降りるんだ! ――メイアちゃんの配信が始まった!!」




