第10話 巨乳じゃなくても見たかった
足音を追いかけていくと、脱衣所にたどり着いた。
籠が入れられた棚が整然と並んでいる。
その奥に擦りガラスの引き戸があった。
露天風呂なのか、夕日の赤い輝きがそこから射し込んでいる。
「外……ってことは」
「ホラーイベントじゃなさそう?」
夕方とはいえ、ああも明るい場所じゃあ、さすがに何が出てきても怖くないと思う。
俺は安堵した。
……が……。
「おい、ここ安地だぞ」
「ほんとですか?」
ウインドウを開くと、『一時退席』の表示が安全を示すグリーンになっていた。
一時退席を使うと、帰還したときにセーブポイントまで戻されなくても済むが、アバターはサスペンドモードになってその場に残ってしまう。
サスペンドモードのアバターはプレイヤーには触れることもできなければ見ることもできない。
透明な障壁で守られ、姿はシルエットになるのだ。
しかし、その状態でもモンスターの攻撃だけは受けてしまう。
モンスターの出る危険地帯で一時退席すると、知らないうちに死んでしまったりするのである。
だから、そういう場所では一時退席の表示が赤くなるのだ。
つまり、一時退席の表示が緑になっているここは、モンスターの出ない安地――安全地帯である。
……まあ、安全地帯とは言っても、場所によっては、他プレイヤーが《建築》スキルを使って生き埋めにしてきたりはするんだが……。
とにかく、この脱衣所は安地扱いされている。
ダンジョンなどで安地にたどり着いたときは、大抵の場合、ボス部屋が近い合図だ。
「さっきまでは赤でしたよね? モンスターは出ませんでしたけど」
「サスペンドにしたらどうなってたんだろうな……」
「戻ってきた瞬間、幽霊とお見合いになっていきなり殺されるとか?」
「……ありうる」
たまーにそういうメタ一歩手前のネタ突っ込んでくるんだよな、このゲーム。
「わざわざ安地を設置してるってことは、ここに来て戦闘になるんですかね」
「ああ……銭湯だけに」
「温泉ですよ」
「マジレスはやめろ!」
とにかくだ。
準備をしておくに越したことはない。
「一応バフ頼む」
「わかりました。《オープン・ブック》!」
チェリーがそう唱えると、大きな本が現れた。
革張りの、重厚そうな装丁の本だ。
チェリーの胸の前でふわふわと浮かんでいる。
《スペルブック》である。
持ち主が使用可能な魔法がすべて記されている本で、ショートカットに設定していない魔法は、この本の該当ページを開かなければ使えない。
チェリーみたいな完全な魔法職は5枠しかないショートカットには到底収まりきらない数の魔法を使い分けるので、戦闘中はほとんど常にスペルブックのページを繰り続けなければならない。
だから接近戦はほとんどできないし、必然的に回避能力も劣ってしまう。
MAOではそういう感じで、戦士職と魔法職のバランスが取られていた。
「《キャスト・オール》!」
チェリーが唱えると同時、俺たちの身体を光が包む。
俺は目を閉じた。
瞼の裏にパーティのHP及びMPバーが簡易表示される。
俺とチェリーのそれの下に、3種類のアイコンが現れていた。
攻撃UP、防御UP、敏捷UPの3つだ。
「とりあえずこれだけで。《ハイ・グロシオン》のページコストがまだ下がらないんですよね」
「前にお前が攻撃バフの暴力でボス瞬殺したせいで絞られてんじゃねえの。実際あのあと全体的に弱体化されたし」
「……やっぱりそう思います?」
各魔法にはページコストってのがあって、それに応じてスペルブックのページに占める割合が決まる。
半ページ、1ページ、見開きの3種類だ。
弱い魔法であれば半ページしか使わなくて済んで、見開き2ページに4種類も記述できる。
開いているページに記述された魔法は、今みたいに《キャスト・オール》と詠唱するだけですべて同時に使えるから、当然、ページコストが低いほうがお得ってわけだ。
逆に、見開きいっぱいに記さなければならない魔法は、威力が高い代わりに他の魔法と一緒には使えない。
ページコストは熟練度に応じて下がったりするのだが、高位の範囲型攻撃強化魔法である《ハイ・グロシオン》は、1ページから半ページにはならないみたいだ。
「……んじゃ、行くか」
「はい」
戦闘だと思えば、特に怯えることはない。
俺はカンテラをストレージに放り込むと、背中の鞘から相棒たる《魔剣フレードリク+8》を抜剣した。
そして、空いた左手で、浴場へ続く引き戸を開けた。
湯気が溢れ出てくる。
白い闇、というほどではなかったが、奥にあるはずの温泉はまだ見えなかった。
濃い湿気に包まれながら、濡れた岩場を進む。
すると、湯気の向こうに、白く濁った温泉が見えてきた。
俺は左腕を挙げてチェリーを制する。
……目を凝らすと、湯気に人影が映っていた。
温泉に、誰かが入っている……。
「――ウキャッ!」
と。
唐突に。
温泉の手前に、子ザルが現れた。
あれは……。
この旅館に俺たちを導いた……。
「ウキャッ、ウキャッ!」
俺たちを見て、子ザルは喜ぶように飛び跳ねた。
こいつは結局、何がしたかったんだろう?
俺たちをここに導いて、何をさせたかったんだ?
そんな疑問を抱いた瞬間、
「あっ」
「あっ」
落ちた。
ぽちゃん、と、すぐ後ろの温泉に。
ただでさえ濡れて滑りやすい場所なのに、飛び跳ねたりするから……。
「―――いけない子」
直後、声が聞こえた。
湯気の向こうから、場所に似合わず冷淡な、女の声が。
「せっかく、わたしだけのものになったのに。性懲りもなくニンゲンを連れてくるなんて。……あの野卑な男どもが、そんなに大事なの、お猿さん?」
湯気に映った人影が、立ち上がる。
メリハリのあるシルエットが露わになる一方で――
その手が、子ザルの首を掴み上げていた。
「キャッ……ウキ……ア……」
「見逃してあげた恩も忘れて……そんなにわたしの迷い家に泊まりたい?
……構わないわ。部屋ならまだ空いているもの。極上の地獄が見たいなら、何泊でもさせてあげる」
迷い家?
まさか……この旅館は……。
俺が真相に思い当たったそのとき。
「《グランバニッシュ》!!」
大きな光の球が、背後から女の人影に飛んでいった。
うおおい!
イベント中に攻撃!?
当然ながら、バチンッ! と弾かれた音がしただけで、人影は微動だにしなかった。
俺は振り向いて叫ぶ。
「何してんのお前!?」
「お猿さんが可哀想だったのでつい……」
「『つい』の割には殺意全開だったなオイ!」
《グランバニッシュ》は現在判明している中でも最高クラスの光属性攻撃魔法である。
消費MPもかなり多い。
無駄撃ちの極みだ。
「……礼儀のなっていないお客様ね」
意外にも人影から反応があった。
「ウキャッ」という鳴き声と共に子ザルが放り捨てられ、曲線的なシルエットがこちらに向く。
「大人しく部屋にいれば安らかでいられたのに。逃げ出したりするから余計に苦しむことになる」
シルエットが変容した。
背中から大きな……狐の尻尾のような影が現れる。
同時に、頭の上に三角の耳が二つ伸びた。
……むむっ!
狐っ娘とな?
「ああ。湯を汚したくないのに。逃げたりなんかするから、わたし……」
悲しさと怒りが相半ばしたシリアスな声が響いてくるが、俺はもう違うことで頭がいっぱいだった。
湯気で見えないけど、今、裸なんだよな?
大丈夫なのかな?
このゲーム全年齢向けなんだけど。
怒られない?
いや、あとで怒られるのだとしても……!
と思ったところで。
シルエットがさらに変容した。
むくむくと巨大化しながら、四足歩行へ。
流麗だったボディラインは、ごわごわとした毛に包まれていく。
「ああ……」
「……なに残念そうな声出してるんですか」
「いだっ! 後頭部を杖でつつくな!」
「ふんっ。巨乳マニア」
「謂われなき中傷……!」
巨乳だから見たかったわけじゃありません!
なんて緊張感のないやり取りをしているうちに、湯気に映るシルエットは完全に変貌を遂げた。
それは予想通り、大きな狐の姿。
紡錘形の尻尾が、1、2、3……6本もある。
……9本じゃねえの?
九尾の狐よりは格が落ちるってことだろうか。
などと思っていたそのとき。
ゴウオッ!!
と突風が吹いて、湯気が吹き散らされた。
湯気のヴェールを脱いで現れたのは、巨大な金色の狐。
高貴さすら感じる真っ赤な双眸が、高圧的に俺たち二人を見下ろす。
そして、その向こう側。
遙か彼方に横たわった地平線に、赤い夕日が沈もうとしていた。
「妾の湯は妾だけのもの。誰にも渡したりはせぬ」
声にエコーがかかって、口調すら変わっていた。
チェリーがさっと退がって距離を取り、聖杖エンマを構える。
「愚かで野卑なニンゲンども。我が迷い家にて骸を晒すがいい―――!!」
六尾の狐が獣らしい咆哮を放ち。
それが、開戦の合図になった。
次の更新は明日18時です。