裏切りと背信の銃口
橋爪高志と近藤義人は病室に入った。
病室のベッドの上には近藤唯の姿があった。パジャマ姿で、ベッドの上に上半身を起こしている。
「パパ待ってたよ。橋爪さんもいらっしゃい」
唯はにこやかな笑顔を向けてきた。
「唯ちゃん久しぶりだね。また大きくなったかな」
「前に会ったときは二年くらい前だもん。あれからまた唯は成長したんだよ」
唯は胸を張りながら答えた。
「そうか、あれから二年か。早いもんだな」
「橋爪さん、全然会いに来てくれないんだもん。パパもね」
唯は近藤を軽く睨みながら呟く。
「ごめんな。なかなか仕事から抜け出せなくてな」
「わかってる。刑事さんってとっても忙しい仕事だもんね」
唯は笑顔でいった。
しかし橋爪には、その笑顔がどこなく無理して作っているように見えた。
唯ちゃんはまだ十歳の女の子だ。母親は早くに亡くなり、唯一の肉親は近藤だけ。その近藤もたまにしか会いに来ることができない。
寂しくないわけがないだろう。
それでもわがまま一ついわない唯の姿を見て、強い子だなと橋爪は思った。
しばし談笑をしていた三人だったが、近藤は腕時計を見て唯に向き直った。
「唯ごめんな。パパそろそろ行かないといけないんだ」
「うん、お仕事がんばってね。橋爪さんもまた来てくださいね」
「ああ、また必ず来るよ」
橋爪は唯に笑顔でこたえた。
二人は病室を出ると、病院の玄関口に向かって廊下を歩きだす。
「実際、唯ちゃんの病状はどうなんだ?」橋爪は近藤に訊いた。
「元気そうに振る舞ってはいるが、病状は進行している。医者がいうには、移植をしないかぎり回復の見込みはないそうだ」
「そうなのか……」
近藤からは唯の病状は心臓疾患だと聞いていた。生まれつき心臓が弱く、ずっと入退院を繰り返しているらしい。学校にもほとんど登校したことはなく、普段の生活は病院の中が圧倒的に多いとも聞いていた。
あの年頃の子であれば、学校に通って友達と思いっきり遊びたいだろうに、不憫でならなかった。
「移植の目途はたっているのか」
「いや、今のところはまだだ。それにそのためにはそれ相応の金が必要になる」
詳しくは聞いていないが、移植のためにはかなりの金が必要なりそうだと近藤は漏らしていた。
近藤は暗い表情で廊下を歩きつづけた。橋爪はかける言葉が見つからず、その背中を見つめながら歩いた。
近藤は夜の住宅街を歩いていた。勤務が終わり、自宅に向かって足を運んでいる。
先ほどから後をつけてきている気配に、近藤は気づいていた。
つかずはなれず近藤の後をついてきている。
刑事の後をつけるとはいい度胸をしている。
どんな奴か顔を拝んでやるか――。
近藤は角を曲がると、近場に身を潜めた。
尾行者は近藤の姿が消えたことに戸惑ったらしく、当たりをきょろきょろと見回している。チンピラ風の男だ。歳は二十歳前後といったところか。
近藤は男の背後に素早く回り込み、羽交い締めにすると壁に押し付けた。
「俺に何か用か」近藤は尾行者の男を押さえつけながら訊いた。
「痛てえ、離してくれ」
「質問に答えろ。どうして俺をつけていた」
「あんた、近藤刑事だろ」
「そうだが、なぜ俺のことを知っている」
近藤は男の顔を見ながら思考を巡らせたが、男の顔に見覚えはなかった。
「うちのボスが、あんたに用があるのさ」
「お前のボスとは誰だ」
「戸田栄治だ」
「なんだとっ」
近藤は驚きの表情を浮かべた。戸田栄治といえば、今内偵を進めている武器密売組織を取り仕切っている男の名前だ。
「戸田栄治が俺に何の用があるんだ」
「それは来ればわかるさ」男は薄く笑いながらいった。
「俺が大人しく行くと思うのか」
「あんたは来るさ。なにせ可愛い娘の命がかかってるんだからな」
「それはどういうことだっ」
男はその問には答えず、ただ不気味な笑みを浮かべ続けた。
繁華街の一角にそのビルはあった。まわりにも似たような雑居ビルが並んでいる。男はビルに入っていく。その後を近藤はついていった。
一室に入ると、豪華そうなソファに座っている男の姿が目に入った。
間違いない。戸田栄治だ――。
近藤は目の前にいる男の写真を脳に焼き付けるほど見ていた。
戸田の後ろには屈強そうな体つきの男たちが並んでいる。
「ようこそおいでくださいました、近藤刑事」
「俺に何の用だ」
「まあ、そう急かさないでください。まずはおかけください」戸田は向かい側のソファを指しながらいった。
近藤は一瞬迷ったが、ソファに腰掛けた。
「お仲間には知らせてないでしょうね」
「ああ、お前の手下がしっかり見張ってたからな」
実際何度か署に連絡を入れようかとも思ったが、娘のことを持ち出されている以上、下手な動きはしないほうが得策だと近藤は思っていた。
「では単刀直入にいいましょう。捜査情報を我々に提供していただきたい」
近藤は大きく目を見開いた。
「俺に仲間を売れっていうか」
「まあ、そういうことになりますね」
「冗談じゃない。そんなことできるわけがないだろう。馬鹿馬鹿しい」
近藤は立ち上がった。
「娘さん、難病を患っているらしいじゃないですか。何でも手術のためには結構な額のお金が必要だとか」
近藤は驚きの表情を浮かべる。
「なぜ娘のことを……」
「まあ、おかけください」
近藤は戸田の顔を睨めつけながら、再びソファに腰掛けた。
「もし捜査情報を提供していただけるのでしたら、娘さんの手術費用を私から提供させていただきますよ」
「なんだとっ」
近藤は、この戸田の言葉に激しく動揺した。唯を助けるためには確かにかなりの額の金が必要だ。とてもじゃないが自分だけの力で用意できる額ではない。半ばそのことで途方に暮れてもいた。
その金を、戸田は工面するというのだ。しかしこれは自分を陥れるための罠とも十分考えられた。
「もし、俺が断ったら?」
戸田は意味ありげな表情で、薄く笑った。
「最近は医療事故も多いようですね。よくニュースで見かけます」
「何の話だ?」近藤は訝しげな表情で戸田を見つめる。
「娘さんの病院は大丈夫ですかね。もしかしたら、娘さんが入院している病院でもそんな事故が起こることがあるかもしれない」
「貴様、まさかっ」
この男は唯を医療事故に見せかけて殺すこともできるといっているのだ。
唯を人質にしているといっているのだ。断れば唯の命はないと。
もちろん、今の取引の話のことも署の仲間に伝えた場合でもこいつは唯を殺すつもりなのだろう。
「まあ、今すぐに結論を出していただかなくても結構です。よく考えてみてください」戸田は若い男に視線を向ける。「近藤刑事のお帰りだ。お送りしろ」
若い男は、はいっとこたえると、扉を開き、近藤が立ち上がるのを待った。
近藤は戸田を睨み付けながら、勢いよく立ち上がった。
翌日、近藤は唯が入院している病院に足を運んだ。昨日のことがあり、無性に唯の顔が見たくなったのだ。仕事は忙しかったが何とか時間を作りだして病院へと向かっていた。
唯の病室に入ると、近藤は大きく目を見開いた。
そこに戸田栄治がいた。
戸田は笑顔で唯と話をしている。
「あれ、パパどうしたの? こんな時間に来るなんて珍しいね」近藤の姿を見つけた唯が嬉しそうにいった。
「貴様、なぜここにいる」近藤は戸田を激しく睨み付けた。
「なに近くまで来たものですから、お見舞いに伺っただけですよ」
戸田は近藤に意味ありげな笑みを向ける。
「パパ、戸田さん一杯お土産持ってきてくれたんだよ」
唯は傍らにある果物の籠を指さした。そこには豪華な果物が乗せられている。
「パパどうしたの? さっきからずっと怖い顔しているけど……」
近藤は、はっとした表情になり、唯に笑顔を向けた。
「なんでもないんだ。ごめんな唯。パパこのおじさんと大切なお話があるから、ちょっと外に出ているよ。すぐに戻ってくるから」
「うん、わかった。待ってるね」
近藤は戸田に視線を向けると外に出るように即した。
病院の屋上に出ると、戸田は柵に寄りかかった。その姿を近藤は睨み付ける。
「一体どういうつもりだ」
「なあに、娘さんに一目会って話をしてみたいと思いましてね。ただそれだけですよ」戸田は近藤に視線を向ける。
「娘さん、生まれてからずっと心臓が弱いせいで学校にもほとんど行ってないそうですね。学校に行って友達ともっと遊びたいと悲しそうに話してましたよ。可哀想に」
近藤は視線を戸田から逸らし、柵に寄りかかった。
「あなたは、病院でずっと過ごしている娘さんを不憫だと思わないのですか」
「思うさっ」近藤は叫んだ。「俺だって、唯に普通に学校に行ってほしい。友達と元気に遊んでいる姿を見たいさ」
「しかし、そのためには手術をするしかない。でもそのためのお金がない」
近藤は項垂れた。その通りだった。今までも何とか金を作ろうとした。しかし駄目だった。まとまった金を用意することができなかった。金さえあれば、唯を病院という檻から出してやることが出来るのに。
近藤は自分をあまりに無力だと思った。娘に何もしてやることができない。
「だったら、何も迷うことはないじゃないですか。私だったら、お金を用意することが出来る。娘さんを元気にすることが出来るのですよ。あなたが夢にまで見た元気な姿の娘さんを見ることができるのです」
近藤は戸田の顔を見つめた。戸田は薄く笑っている。
「さあ、私と手を組みましょう」
戸田は近藤に手を差し出した。
近藤は、しばらく迷ったが、気がついたときにはその手を握っていた。
橋爪は戸惑いを隠せなかった。
警視庁の小会議室には、橋爪をはじめ、近藤義人、山木敏郎、米山信行の面々が集まっている。現在捜査中の武器密売組織の内偵を進めているメンバーだ。
刑事課長からの突然の呼び出しで集められたわけだが、一体何があったのだろうか。
会議室の扉が開き刑事課長が入ってきた。
「今日集まってもらったのは他でもない。君たちが捜査を進めてもらっている武器密売組織の摘発に乗り出してもらうためだ」
「決行はいつですか」山木が訊いた。
「明日だ」
四人はどよめいた。明日とはかなり急な話だ。
「明日とは、またかなり急ですね。」
「なんだ橋爪、急な話だと都合が悪いのか」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
刑事課長は疑惑の目で橋爪を見つめている。
橋爪はその視線を受けて、何かいい難い嫌なものを感じた。
刑事課長は何かを疑っているのだろうか。その疑いが、この急な決定を下したのか。
「それでは各々準備にとりかかってくれ。以上だ」
それだけいい残すと、刑事課長はさっさと会議室から出ていった。
橋爪は山木に視線を向けた。山木はこのメンバーの中でもベテランの刑事でいくつもの情報網を持っていた。今回の件についても何か知っているかもしれない。
「山さん、今回の急な決行の件、何か知ってたりしますか」
近藤と米山も山木に注目している。
「これはあくまでも噂なんだが、どうやら内通者がいるらしい」
「なんですって」橋爪は目を見開いた。
「俺たちの仲間に裏切り者がいるっていうんですか。そんな馬鹿な」
「あくまで噂だといってるだろ。はっきりとした証拠はないんだ」
「俺には信じられませんよ」
「今回のこととは関係がないかもしれん。内通者のことは忘れろ」
山木は会議室を出ていった。米山もその後に続く。
橋爪も会議室を出ていこうとしたとき、近藤の様子がおかしいがことに気づいた。近藤は呆然とした表情で立ち尽くしている。
「どうしたんだ、近藤。顔色が悪いみたいだが」
「いや、何でもない。急な話だったんでちょっと動揺しているだけだ。それよりも早く準備しなくちゃな」
近藤は足早に会議室を出ていった。その様子を訝しな眼差しで、橋爪は見つめていた。
そこは港近くの静かな場所だった。
明かりは殆どなく、夜の闇に溶け込むようにその廃工場はひっそりとたたずんでいた。
橋爪たち四人の刑事は、その廃工場のすぐそばに控えていた。
この廃工場が戸田栄治率いる武器密売組織のアジトであることは判明していた。
橋爪と山木、近藤と米山がペアを組み、一斉に廃工場に向かって突入した。
橋爪達が表側から突入し、近藤たちが裏手から回り込む手はずになっていた。
橋爪と山木は拳銃を握りしめ、突入の機会をうかがっている。
橋爪はインカムに話かける。近藤達との連絡はこのインカムを通して行う取り決めになっていた。
「こちらは準備環境。いつでも行けるぞ。そっちはどうだ?」
『こちらも配置についた。いつでも行ける』
インカムから近藤の声が聞こえた。
橋爪は、山木に視線を向ける。山木は静かに頷いた。
「よし、突入するっ」
インカムにそう叫ぶと、橋爪と山木は廃工場の中に入った。
拳銃を構え、辺りを素早く見回す。
しかし廃工場の中は薄暗く、しんっと静まり返っていた。
橋爪と山木は拳銃を構えたまま、ゆっくりと中へと歩を進めていく。
突然、銃声が響き渡った。
橋爪は素早く身を隠し様子を探る。山木もすぐそばで様子を見ている。
今の銃声は廃工場の裏手から響いてきたものだ。近藤達が撃ったのだろうか。
橋爪はインカムに口を寄せた。
「近藤、今の銃声はなんだ。何があった?」
インカムから反応はない。
「おい近藤、返事をしろ」
『しくじった……』
インカムから近藤のかすれた声が聞こえた。
『米山がやられた。奴ら待ち伏せてやがった』
「なんだと」
橋爪は山木と視線を交わした。
再び銃声が響き渡った。同時に、インカムから悲痛な叫びが聞こえた。
「おい、近藤どうした」橋爪はインカムに再び叫びかける。
しかしインカムから応答は返ってこなかった。
「山さん、近藤たちが……」
「早まるな。まだそうと決まったわけじゃない」
そのとき銃声が轟き、橋爪のすぐそばで火花が散った。
橋爪と山木はすぐに拳銃を構えた。後方に銃を持った男たちの姿が見えた。
橋爪は男たちに向かって引き金を引いた。
暗い廃工場の中に火花が散っていく。
橋爪と山木は必死に走り、その場から離れていった。
銃声が止むことなく続く。橋爪は後方で山木のうめき声を聞いた。
振り向くと、山木が倒れていた。
「山さんっ」
橋爪は必死に叫んだ。
「俺はもう駄目だ。お前だけでも逃げろ」
「しかし、山さんをおいては……」
「いいから行けっ」
橋爪の足元で火花が散った。
橋爪は、ちくしょうっと叫びながら走りだした。
廃工場の中を、橋爪は必死に走り続けた。
いつの間にか銃声は聞こえなくなっていた。
やがて目の前に、大きな扉が見えた。
橋爪はよろよろとした足取りでその扉に近づくと、扉を開け放った。
扉の中には、橋爪に銃口を向けている屈強な男たちの姿があった。
そしてその中心に、戸田栄治がいた。
「ようこそ」
戸田は両手を広げ、笑顔を浮かべた。
「お前が戸田栄治だな」
「はい。そうです」
「警察だ。武器密売容疑でお前を逮捕する」
戸田は低く笑った。
「逮捕する? この私を? この状況であなたにそれができますか」
橋爪は改めて銃口を戸田に向ける。
そのとき銃声が響き、橋爪の手から鮮血が舞った。
橋爪は呻き声を上げ、拳銃を落とした。右手から血が流れ出ている。
銃声が聞こえた方向に橋爪は顔を向け、そして大きく目を見開いた。
そこには拳銃を構えた近藤の姿があった。
「近藤、なのか……」
橋爪は信じられないものを見た、という表情になっていた。
「今撃ったのは、お前なのか」
「ああ、そうだ」
「どうして」
そう呟いたとき、橋爪は、はっとした表情になった。
「まさか、お前が内通者なのか」
近藤は静かに橋爪に近づくと、銃口をその額に向けた。
「なぜだっ。なぜ俺たちを裏切った」
「金のためだ」
「金だと。そんなことのためにお前は……」
そこまでいって、橋爪は目を見開いた。
「唯ちゃんのためか。唯ちゃんの手術のためにお前は」
銃声が響いた。
橋爪の額から鮮血がほとばしり、その身体は床に倒れ伏した。