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ユグドラシル  作者: nanami
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ep.2 錆びた線路(2)

 貯蔵されていた缶詰や乾物類と、温室で育てた野菜。そんなものでよければ好きなだけ召し上がれ、とおじいさんは言った。それで、ミニトマトとハーブ、干し肉とひよこ豆の缶詰でスープを作った。

 駅舎には小さなコンロが備えられていたけれど、もちろん電気もガスもとうに絶えて久しい。駅舎の外には石と廃材を組み合わせた簡単なかまどが作ってあったが、しばらく使われていないのか、砂埃をかぶっていた。そこにヒースが火を灯し、私が食材を調理した。

 温かい食事など久しぶりだと破顔したおじいさんは、けれど、一口、二口とすすっただけで、あとはほとんど手をつけていなかった。体調が優れないのかもしれない。とても美味しいよ、と繰り返された言葉は偽りのようには決して思えず、だからこそ余計に気がかりだった。

 そのおじいさんは、奥の部屋ですでに床に就いている。私たちは、夕食をとった部屋をそのまま寝場所に借りることにした。

「驚いた。リルは料理上手なんだね」

 食事の片づけを済ませ、椅子を並べて簡易な寝床をこしらえたりといった一通りの支度を終え、小さなランプの置かれたテーブルを囲み、ほうとひと息つく。そんな折に、ヒースがぽつりと言った。

 食事を必要としない私が一通りの料理を覚えているというのは、考えてみれば意外に思われることなのかもしれない。

「私を作った人が、なんにもできない人だったから」

「手厳しいな」

 私の物言いが可笑しかったのか、ヒースはひとしきり声を立てて笑った。

 それからふと、何かを思い出したようにちらと私を見る。

「リルは、お父さんって呼んでたんだね。ルフ博士のこと」

 何気なく落とされた言葉に、どきりとした。あのとき、とっさに口をつぐんだけれど、ヒースには聞こえてしまっていたのだ。

 ひとかけらの羞恥と苦い後悔が、波紋のように広がっていく。テーブルの上でゆらゆらと揺れるランプの影をにらみながら、絞り出すように「ちがう」と呟いた。

「違うの。私が、まちがえただけだから」

「間違えた?」

「私は、博士の本当の娘じゃない。――だからあの人は、私を置いていなくなってしまったんだ」

「それは違うよ、リル。絶対に違う」

「じゃあ、どうして? どうして私は、あの時計塔にひとりぼっちで置いていかれたの? 私のことが要らなくなったのなら、壊してしまえばよかったのに」

「リル」

 聞いたこともないくらいに鋭い声に気圧され、口をつぐむ。叱られたような気持ちでおずおずとうかがえば、どうしてかヒースの方が傷ついたような眼をしていた。

「……だって」

 逃げるように、再びランプの影に視線を落とす。

「本当の子どもだったなら、本当のお父さんなら、そんなことはしないでしょう?」

 どこか言い訳めいた私の問いは、ほんの一瞬、ぽっかりと宙に浮いてしまう。

「どうかな、それは」

 ぽつり、とヒースが応えを返すまでに、幾らかの間があった。

「ヒースのお父さん、お母さんって」

 口にしてすぐに、ああ、と思った。きっと私は、開けてはいけない扉を叩いてしまった。

 おずおずと面を上げれば、ぼんやりと揺れる橙色の灯りの向こう側、ヒースは困ったような曖昧な笑みで答えた。

「生みの親を知らないんだ、俺。物心ついたときには氷樹で住めなくなった土地からの流民がたくさん流れ着く街にいて、父も母もいなかった。何か事情があって置いていかれたのかもしれないし、どこかではぐれたのかもしれない。あるいは、亡くなったのかも」

 穏やかに、淡々とヒースは語る。けれども、そのどれだとしても、とても悲しいことだと思った。

「ヒースも、お父さんやお母さんに捨てられたのかもしれないって考えた?」

「うん、幼い頃はね」

「……今、は?」

「わからない、っていうのが正しいのかな。考えたって、本当のことはわからない。一つだけ確かなことは、俺をその街まで導いてくれた人がいたっていうこと。一、二歳足らずの子どもが一人で生き延びられるはずはないからね。今は、それだけで充分だと思ってる」

「ヒースは、じゃあ、ずっと一人だったの?」

「親なしの子は、その街にはたくさんいてね。小さな家に肩を寄せ合って暮らしていた。それが、俺にとっては家族だったよ」

 そう言うヒースの微笑みは温かく、ほんの少しだけ救われる思いがした。

 けれどもこの人には確かに、ひとりぼっちで凍えそうな街角に立ちつくした日があったのだ。時間の止まったラトポリカの街で、絶えず私に付きまとっていたあの感覚がふっと蘇る。

 寂しさは、痛みだ。ぼんやりと重く、あるいは胸を刺すように鋭いあの感覚を、そんなにも幼い日に知らなくてはいけなかったというのだろうか。

「……優しい子だね、リルは」

 ふわ、とつむじの辺りに柔らかな温もりがのせられる。

 いつしか黙り込んでいた私の頭を、大きな掌が撫でていった。

「人はね、リル。生まれたときは小さな赤子で、そこから身体が大きく育っていくでしょう?」

 真っ直ぐに私を捉える晴れた空の色をした瞳に、こくりと首肯を返す。

「それは心も同じなんだよ。自分や誰かのいろんな気持ちをひとつひとつ知っていって、そうして少しずつ育っていく。リルがこんなに優しい心を持っているのは、君の心を育ててくれた人がいたってこと。それは君が出会った人であり、触れたものであり、何よりもルフ博士、君のお父さんだと思う」

 ゆっくりと落とされた言葉を、一つ一つ反芻する。

 小さな私の手を引いて、あの人はいろんな場所へ足を運んだ。ラトポリカの街の中でも、遠い土地へも。どこへ行きたいというのでもなく、どこかへ赴くことそのものが目的であるかのようなあの日々を不思議に思っていたけれど、あるいは本当にそうだったのかもしれない。

「……私のため、だったのかな」

 あの人なりに、私の心を、感情を育もうとしてくれていたのだろうか。

 ふいに、ずっと閉ざしたままで開け方を忘れてしまった扉から、ほんの少し光が漏れている、そんな感覚を覚えた。

 本当のことはわからないと、ヒースは自分の生い立ちについて語っていた。それは、無数の可能性の中の、一番悲しい答えも、一番幸せな答えも、そのすべてを受け入れるということだ。

 その強さを、私にも持てるだろうか。

 あの時計塔の頂きへ私の手を引いた人が何を考えていたのか。不安へと傾いてしまう心を塞き止めて、もう一度ただ、わからない、と思えたなら。

 ――そうしたら、ちゃんとお父さんを好きでいられるだろうか。

「お父さんっていうのはね、ルーに――博士に教えてもらったわけではないの。一緒に暮らしていて、いろんなことを教えてくれて、優しくて、そういう人のことを、隣の家の女の子がね、お父さんって呼んでいたから。だから私も真似して、おとうさんって」

 ぽつぽつと語りながら、あの日の風景を脳裏に呼び起こす。

 燃えるような夕焼け空のラトポリカの街。長く伸びた影を追いかけるように、歩きなれた家路を辿っているときだった。

『ルーは私のお父さん、なの?』

 何気ない会話の中でそう尋ねた私に、

『そうだよ、よくわかったねリル。お前は私のたった一人の娘だ』

 あの人は――お父さんは私にそう答えた。

 それは、それだけは間違えようがない、確かな記憶。

「ヒース。私は、間違ってなかったの?」

 ひとつの戦いに臨むような、あるいは祈るような、そんな思いだった。

 それが私の眼差しに表れていたのかもしれない。かち合ったヒースの青い瞳はほんの一瞬、気圧されたように見開かれたあと、ふわりと優しく細められた。

「お父さんはきっと、リルにそう呼んでもらえて嬉しかったはずだよ」

 おとうさん、と。もう一度、確かめるように小さく呟いてみる。

 背中を押すように、ヒースはそっと頷いてくれた。

「そろそろ俺たちも休もう。おじいさんを起こしてしまうといけない」

 私は頷き、一人掛けのアームチェアに大判のひざかけを抱いて身体を沈めた。

「おやすみ、リル」

 小さな囁きとともに、ランプの灯りが落とされる。

 目を閉じても暫くの間、夕暮れにも似た温かな炎の色がまぶたに焼き付いていた。



  *  *  *



 ときどき、身体は眠っているはずなのに、とりとめのない思考が頭の中を駆け巡ることがある。

 昔、それをお父さんに伝えたらひどく驚いていたのを思い出す。驚くというよりどこか嬉しそうに、リル、それは夢というんだよ、と教えてくれた。そうか、リルも夢を見るんだな、と興味深げに頷きながら。

 その晩、とても久しぶりに夢を見た。

 ラトポリカの濃灰色の石畳の道を歩いている。通りすぎていく風はしんと冷気をはらんでいたけれど、降り注ぐ日差しは穏やかだった。

 目の前には、うんと高い背中、ぱっきりとした白衣。薄赤く色の抜けた髪をうなじのところで一房に結ぶ、鮮やかな橙色のリボンがふわりと揺れていた。

 伸ばしっぱなしのぼさぼさの髪を見かねてリボンを結んだのは私だった。元はといえばそれは、かつて彼が私に買い与えてくれたものの一つであったけれど。

 ひらりと風をはらんだ白衣の裾を掴まえて、きゅっと引っ張る。振り向いたその人を、私は満面の笑みで見上げた。

『お揃いね、お父さん』

 私の髪の一房に揺れる同じ色のリボンを指差してそう言うと、お父さんは穏やかな微笑みを返してくれた。そのまま私の手を取って、同じ歩幅で歩いてくれる。

 それは、もういつだったのかも思い出せないくらい、何度となく繰り返された温かな日常。



 はたと目を覚ます。カーテンの閉まった部屋の中は薄暗く、ヒースも、隣の部屋のおじいさんも未だ起きていないようだった。

 私はそっと体を起こし、枕代わりにしていた小さなポシェットを開けた。カーテンの隙間から差し込む薄日を頼りに、無秩序に詰められた中身を探っていく。ラトポリカから私が持ってきたのは、黄ばんだ古い地図と路線図のほかは、お気に入りだった髪留めやもう動かない懐中時計など、およそ旅支度とは呼べないものばかりだ。

 その一番奥で、さらりとした質感が指先に触れた。サテン地のリボン。するすると引っ張り出し、掌の上にのせる。

 この、大人の男の人にはまるで似つかわしくない、少女ものの可愛らしいリボンを。慣れない手つきで私が彼の髪を結んだその日から、お父さんは一度だって手放したことはなかった。

 どれほどの時間が、あの時計塔で流れたのか。ここへ来るまでの道中、ヒースと交わした会話の中で、おおよそは理解していた。きっとお父さんも、あのおじいさんと同じくらいになっている、そのくらいの年月だろう。

 けれど――。

 氷樹に覆い尽くされ、朽ち果てた家の片隅で。小さな金属の箱の中にとても大切そう仕舞われたリボンを見つけたあの時から、とうにわかっていたことだった。

 お父さんはもう、この世にはいない。



「――ル……リル?」

 とん、と肩に触れられ、私ははたと顔を上げた。

「よかった。全然反応がないから、びっくりした」

 薄暗がりの向こう側に、ヒースの安堵の表情が見えた。いつの間に起きていたのだろう。その反応からして、何度か声をかけられていたようだった。

 しゃっと軽やかな音とともに、目の前が一気に光で満たされる。カーテンが開け放たれたのだ。

「……あれ? それ、どうしたの」

 眩しさに目を細めながら、ヒースは私の手の中にあるリボンと、いつもの通り髪の一房を結ぶリボンとを見比べ、不思議そうな顔をした。

「お父さんと、お揃いだった」

 ぼんやりと返した言葉はまるで説明になっていなかったけれど、ヒースには何かしら伝わったらしかった。「そっか」と穏やかに笑んで、使っていた毛布を手際よく畳み始めた。

 私も片付けをしなければと、のろのろと椅子から立ち上がる。リボンを再びポシェットにしまおうとして、どうしてか手が止まった。逡巡するうちに、ふわり、とヒースが私の手からそっとリボンを拾い上げた。

 温かな指先が髪の一房を掬い上げたと思うと、しゅるりと衣擦れの音が響く。

 指し示された窓硝子を姿見代わりに覗き込めば、左右同じ高さに二つの蝶々結びが並んでいた。新しく結ばれた方は、私がずっと髪に結んでいたものより幾分か色鮮やかなままだ。

「ヒース、上手」

 ガラスの鏡越しに淡い笑みを返しながら、ふっと、頭の奥の時計がくるくると時を遡り始める。

「お父さんは下手くそだった」

「そうなの? ラトポリカの人形師といわれた人が?」

「酷いんだよ。だって、最初は蝶々結びもできなかったの。それで……」

 続きを話そうとして、どうしてか声が詰まった。

「……それで、ね……」

 何度やっても、言葉が、声がうまく出てこない。そんなことは初めてで、怖れにも近い戸惑いを覚えた。

 どうしていいかわからず、ヒースを見上げる。縋るような私の視線を受け止め、ヒースは穏やかに微笑んだ。

「リルは今、泣いてるんだね」

 落とされた言葉はあまりに唐突で、私はきょとんとした。

「泣かないよ、私は。涙なんて流れない」

 首を横に振る私に、ヒースはそうだね、と頷く。けれど、静かな声でこう重ねた。

「だから、涙を流すことのできる人より、リルはもっと苦しいのかもしれない」

 優しく髪に触れる掌の温かさに、頭の芯がぼうっとした。この手はいつだって、押し込めたはずの感情をあっけなく溶かしてしまう。

 お父さんはもういない。かたく閉ざしていた扉を開けて、ひどく久しぶりに対峙した、むき出しのその事実。それはあまりにも重く、痛く、抱えきれなくなった思いを私の唇は「どうして」と吐き出した。

「どうして、お父さんはいなくなったの」

 どうして、どうしてと。止めどなく溢れだしてしまう行き場のない衝動を塞ぐように、そっと頭を引き寄せられる。

 ヒースの脈打つ鼓動が、触れた額越しに伝わってくる。規則的なその音に耳を澄ますうち、少しずつ、胸の詰まるような苦しさは溶けていった。



 いくらか太陽が高くなってから、私たちはおじいさんに礼を述べ、駅舎を後にした。

 別れ際、備蓄の食糧のあれやこれやを餞別だと渡された。それは昨晩見せてもらったもののほとんどといっていい量で、ヒースは慌てて首を横に振ったが、おじいさんもまた頑なだった。

「私ひとりがここでしまっていくには、あの温室で十分さ。だが、お前さんはそうじゃない。――方舟の櫂を、とったのだろう?」

 どこか詩的な言葉の意味は、私にはわからなかったけれど、ヒースははっとした表情を見せ、重く頷いていた。

 朗らかな笑みで私たちを見送ってくれたおじいさんの、光を通さないほどに曇った藍色の瞳が、その日はしばらく焼き付いて離れなかった。

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