ep.1 知の都 (1)
“その日”から、どれほどの時間が流れたのか。
今日もまた、空に浮かぶあの世界樹を見上げて、ひとり問いかけてみるけれど、答えの返るはずがないことを、私はとうに理解していた。
かつて知の都と呼び称されたこのラトポリカの街は、青く透き通った氷の木々に閉ざされ、しんと静まり返ったまま。
今は誰ひとりとして、そこに住む者はいない。
* * *
氷樹現象。その始まりは、異様に長く深い冬だったと、かつてこの街にいた人々は語った。
漸く雪解けを迎え、街を訪れた旅人が血相を変えて持ち込んだのは、海が凍りついたという信じがたい報せ。
けれどもその時には、異変の足音はこの街にも聞こえつつあったのだという。
ひとつ、またひとつ。石畳とレンガ造りの街並みに紛れ込むようになった、青く透き通る木々。
人々はそれを氷樹と呼んだ。
氷のように冷たく硬い枝葉が、蔦の蔓延るように、街中の壁という壁を、道という道をゆっくりと覆っていく。
やがて、春を迎えたはずの街は再び身を刺すような寒さに襲われ、芽吹いたはずの若葉が枯れ、花は萎れた。
風邪をこじらせた老人や幼子が、凍えるような夜を越えられず逝くこともあった。あるいは、氷樹から逃れるように街を去っていく者も増えた。少しずつ、けれども確実に、ラトポリカの街に影が差していった。
街のそこここに蔓延る薄青く透き通った木々だけが、陽光にきらきらと輝く中で、いつしか、誰もが口にするようになった。
いずれこの街は、あるいは世界は滅びていくのだろう、と。
そんな凍て始めた街の片隅で、私は生み出された。
ルフ博士――かつて父と呼んだ一人の科学者の手によって。
人呼んで、ラトポリカの人形師。科学者でありながら人形師という芸術家めいた異名は、それこそ彼の人並み外れた作品への敬意の表れであったという。
『おまえは特別なんだよ、リル。世界にたったひとりの私の子』
RiL‐23、通称リル。およそ十二歳前後の少女のような小柄な身体は、遠目には作りものとわからないほど滑らかに動き、細部まで精緻に作り込まれた顔には複雑な表情が表れる。
何より、世に数多ある人形と大きく異なるのは、私が人に限りなく近い感情メカニズムを――いわば“心”を埋め込まれたものだということだ。
感情の営みが始まったそのときから、博士は小さな私の手を引いて、あちこちへ赴いた。ラトポリカの街の中はもちろん、街の外へも幾度となく旅をした。
行き先は彼が決めていたけれど、それは確固たる意思に基づくものでも、あるいは完全な気まぐれというのでもなかった。それこそ、あちこちへ足を運ぶことそのものが、定められたきまりであるかのような振る舞いだったと思う。
道すがら、彼が訥々と語る昔話に耳を傾けるのが常だった。氷樹の浸食から今までのこと。私が作りだされる前の物語。
氷樹に覆われ始めた世界はただ寒く、大きな手の温もりには心地よい安心感があった。
『あの時計塔の中を見せてあげようか』
それは、空が澄み渡り、世界樹がはっきりと見える日だった。
その日、博士は私の手を引いて、街の中心にそびえ立つ時計塔へと上った。知の都ラトポリカの象徴である、複雑な機械仕掛けの大時計。それもまた、彼が描いた図面をもとに造られたという。
ぐるりと続く螺旋階段を上っていくたびに、大時計の脈動が、歯車の音が少しずつ大きくなっていったのを覚えている。
二人分のちぐはぐな足音と、がらがらと歯車の回る音。それらが耳につくほどに、あの日の博士はいつになく口数が少なかった。
そうして辿りついた、巨大な鐘の据え付けられた塔の頂きから、うっすらと氷の枝葉の蔓延るラトポリカの街並み見下ろした。
『リル、街はどんな色をしてる?』
『青いよ。だって、氷樹があちこちに生えてる。それに、今日の空もすごく青いの』
『そうか』
どこか遠くの話を聞くような相槌に、ふっと違和感が滑り込んだ。肩を並べたその人もまた、私と同じ風景を眺めているに違いないはずなのに。
『おとうさん?』
心細げに呼びかけた声は、その瞬間、重厚な鐘の音にかき消された。
広いラトポリカの街の、どこへいたって耳に届く時告げの音は、間近で聞けば、身体の芯を震わすほどに重い。
耳の奥に色濃く残る低い残響をじっとやり過ごして、もう一度「おとうさん」と口にした、その瞬間。
ふっと、視界が闇に閉ざされた。
閉じた瞼をゆっくりと持ち上げると、頭の奥が妙に重たかった。
身体を起こすと、そこはひどく埃っぽい寝台の上。
思考がまるで追いつかない。確かに私は、今の今まで、街を望む塔の頂きに立っていたはずなのに。
寝台を降りて、目についた見慣れない扉を開けてみると、あの螺旋階段へと続いていた。
やはりここは時計塔の中だ。けれど、強烈な違和感が付きまとう。
『おとうさん』
応えるものはなく、ただ反響だけが返ってくる。あまりにも静かだ。絶えず聞こえていたはずの、大時計を動かす歯車の音がしない。
階段を少し上がると、頂きへと続く扉へ至った。硬い扉を押し開け外に出て、絶句する。
見知った街並みは、青く、どこまでも青く、氷の枝葉にびっしりと埋め尽くされていた。
それは、まるで時間の止まったような光景だった。そして、吹き抜ける風は恐ろしく冷たい。
長い螺旋階段を駆け下りてみれば、入口の扉はかたく閉ざされていた。塔の頂きから見た光景を思い出す。おそらくは、扉の外側が氷樹に覆い尽くされているのだろう。
階段を引き返していくと、どうにか開けられそうな窓が一つだけ見つかった。私の身体の大きさであれば、ここからでも外に出られるだろう。
ガラス窓を開け放ち、朽ちかけた雨戸を力いっぱい押し開ける。手近な氷樹の枝を慎重に伝いながら、なんとか地面に降り立つことができた。
街はどこまでも青く、冷たく、そしてしんと静まり返っていた。
凍りつき、あちこちが崩れ落ちた石畳の道をたどって、私はまず、かつて博士と暮らしていた家を目指した。
複雑に絡み合った氷の枝に幾度となく足をとられそうになりながら、ようやくたどり着いた家もまた、壁中が氷樹に覆われていた。
青く透き通る木々は硝子の割れた窓から家の中にも入り込み、床や壁、朽ちたテーブルの脚や天井の錆び付いた室内灯まで、びっしりと絡み付いていた。
何が起きているのか。変わり果てた部屋の中で、私は少しずつ理解し始めていた。
時が流れたのだ。それも、うんと膨大な。あの時計塔でひとつ目を閉じ、再び開くまでの間、私の時間だけがずっと止まっていたのだろう。
何もかもが変わってしまった。変わらないのは私自身と、空の果てに浮かぶ世界樹だけだ。
蒼碧の枝葉が陽光にきらめくさまは、街の生きていた頃と何一つ違わず美しかった。
小さな身体で、氷樹に覆い尽くされた街をあてもなく歩き回っては、日の落ちた夜は時計塔で眠る、そんな一日を数え切れないくらい過ごした。
あるいは、日が昇って落ちるまで時計塔の中で過ごす日もあれば、遠い空に浮かぶ世界樹を見上げたまま一日が過ぎることもあった。
しんと静まり返った冷たい街の中で、ひどく緩慢に時は流れた。
街には誰も、何も、本当になんの営みも存在していないのだと理解するのに、十分すぎるほどの時間だった。
そうして、いつからだろう。
得体の知れない、霞みがかった鈍痛にも似た感覚が、私の身体を支配するようになっていた。
その日から、どれほどの時間が流れたのか。
手を引かれてあの時計塔をへ上った日から。
あるいは、たった一人で目覚めた日から。
このぼんやりとした痛みがたえず付きまとうようになった日から。
その答えを与えてくれる者など、この無人の街に在るはずもなかった。