プロローグ【裏】「〈原罪(ジ・オリジナルシン)〉」
咆哮が木々を揺らし、小鳥たちが慌てて飛び立ち空へ退避していく。
大木がなぎ倒されて棲家としていた小動物たちが逃走する。
穏やかな森は戦地へと変わり、人と魔を帯びた獣が対峙していた。
大地を踏み砕き、大木を折る逞しい四本脚には無数の刃が生えている。
背にも幾万もの棘があり鈍い輝きを宿していた。体に比べて小さな頭には紅の瞳が縦に二つずつ、左右に並んで四つの敵意を視線に乗せて送ってくる。
〝これ〟が何を願って変化したモノなのか分からない。
元の姿を知らない人類は身体的特徴から便宜的に剣竜と呼称している。
今まで出会って倒してきた全ての魔獣もそうだ。
彼らが元々何だったのか。
何を考えているのか。
何をしたがっているのか。
すべて知る必要はなかった。
ただ、人に仇なす害獣……それだけだったから。
剣竜が尾を振って棘針を飛ばす。飛来する凶器が皮膚を裂き、貫通していくのをわずかな痛みで感じながらも無視して突き進む。
浅く裂かれて血を流す体は数秒後には負傷の痕なく綺麗な肌を見せていた。
針が貫通した腕も普通に動く。
四人に願われ形をなした不死の〈聖誓印〉は否が応でも損傷を癒し、持ちうる力の全てを吐き出させる。
まるで動じないことに業を煮やしたのか、剣竜は巨体を揺らして大地を蹴る。
「勇者さまっ!」
「やっぱり一人でなんて危険すぎるっ」
「皆、勇者様の援護につけ!」
声援が飛び交う。身を案ずる声が降りかかってくる。
魔獣から咆哮と共に放たれる無数の凶器や、肉体を引き裂く爪、噛み千切ろうとする牙よりもなお深く背後で守るものの応援が癒えない傷を抉り広げていた。
「近付かないでください。皆、離れてっ!」
叫び、守りに入ろうとする衛兵を遠ざける。
彼らの援護など要らない。
むしろ、不要な傷を負わせてしまうかもしれない。
迫る剣竜の前で剣を構える。
確かにこの巨大生物は一般人から見れば脅威だろう。
無数の棘針を持つ体表は生半可な刃を通さず、砲撃すら防ぎ切る。前脚が薙ぎ払えば常人は肉を引き裂かれ内臓をぶちまけるしかないだろう。
突進してくる剣竜はちっぽけな人間を轢き殺すことしか考えていない。
だが、鋭い一角を持つ角竜と違って頭部を守るものはない。
それでも人間が立ち向かう前に蹂躙できる。そう、ただの人間ならば。
剣を構えたまま剣竜が来るのを待つ。
視線の先に歪が見えていた。
勇者と剣竜が正面から激突する、寸前で剣竜の頭部に幾本もの矢が突き刺さった。小さな爆発が起こって苦鳴が体を打ち震わす。
躊躇することなく両手持ちで剣を上から下へ振り切った。
重々しい音が響き渡り、地鳴りに人々の体が揺らぐ。
「……眠れ、人に仇なす魔獣よ」
剣を振り、血を払って鞘へと戻す。
頭から両断された、左右の剣竜の遺体が血を噴き出して大地を赤く染め上げていく。一瞥して踵を返し、倒したモノへ背を向けた。
見守っていた人々から歓声があがる。
「流石勇者さま!」「うわー……真っ二つ」「こら、見ちゃいけません」
「子供たちを下がらせて!」「このっ、このトカゲめ!」
「やめなよ、そんな死体に鞭打つなんて」
「なんでだよ。こいつのせいで何人も殺されて――」
勇者の勝利を喜ぶ声が遠い。歩みを進めると、一人の女が立っていた。
「……イールシュ。家で大人しくしておけと言っただろう」
「なんてツラで言ってんだよ、馬鹿」
「何か、おかしいか」
「あたしの顔見てもっかい言ってみろよ」
促されるままイールシュの顔を見る。悲痛な面持ちで答えを待っていた。
悲しみと苦しみを抱えに抱えて、今にも爆発しそうな危うさがある。
剣竜の返り血を服の裾で拭って右手を伸ばす。
華奢な首筋に触れようとして、やめた。
肩を軽く叩く。
安心しろ、と動きで伝えるもイールシュの不安さは消えない。
「安心しろ、ってか? 何度目だよ。なぁラニ、お前本当に大丈夫なのか」
「何がだ? イールシュ、万が一怪我でもしたらと思うとだな」
「どんだけ心配性なんだよ!
言われた通り、直接戦闘には出てないだろうが。
お前があたしたちの分まで西に東に走り回っているお蔭で、な」
「それが勇者たる俺の役目であり、人々の願いだ」
俺はこの手で魔王ラナクを縊り殺した。
〈聖誓印〉で超強化された筋力を惜しまず注ぎ込み、締め上げた。
骨が砕け、命が散る音を間近で聞いていた。
頭目を失った魔獣は散り散りとなり、世界に平和が訪れたかのように見えた。
が、一時的なもので一か月も経たないうちに各地で魔獣が暴れ始めた。
魔王を討った顛末を誰にも伝えず、駆り立てられるように俺は戦地を転々とした。
イールシュが鬱陶しそうに俺の手を払う。瞳には怒気が宿る。
「だとしても働きすぎなんだよ。あたしにも前で戦わせてくれりゃ済むのにさ」
「……交代制で後方支援につく。それで手打ちにしただろ」
「何でもかんでも安請け合いしやがって、ちっとは断れってんだよ。
さっきだってな、たまたま剣竜の弱いとこ突いたのと〈聖誓印〉の力が
なけりゃ勇者の挽肉いっちょあがりだよ。あたしを未亡人にする気か!」
「まだ式挙げてないだろ。誰が正妻かー、って言い出してさ」
小さく笑う。途端にイールシュが顔全体を真っ赤に染めた。
本当に表情が右から左へ上から下へ様々に移り変わって飽きない。
特に笑顔を泣き顔に変え、欲望のままに蹂躙した瞬間は最高だった。
思い出すだけでいきり立つ。下半身の変化がイールシュにも見えたらしい。
股を蹴り上げられそうになるのを後退して回避。
イールシュを紅潮させた羞恥に憤怒がブレンドされていく。
「てんめぇ、こんなとこで何おっぱじめようとしてんだっ!」
「いや、ただの条件反射だよ。
大切な、愛しい人が傍にいるんだから仕方ない」
「ばっ……おまっ、愛しい、とか何だってんだ!
こっぱずかしいことほざいてんじゃねぇってのっ!」
「なぁイールシュ、何回も言うがその言葉遣いは何とかならないか?」
向き合って子供の罵り合いのように言葉で殴り合い、唾を飛ばす。
剣竜との戦いを見守っていた者たちも野次馬と化して外野から好き勝手に叫ぶ。
「まーた痴話喧嘩っすか。やめてくださいよぉ、勇者さまー」
「勇者さまでも喧嘩するんだね」
「男と女はいつだって変わらないものなんだよ」
「どういう意味なのー?」
「はいはい、おうちに帰ったら話してあげますからね」
「このトカゲどうする?」
「腹肉がうまいらしい。盛大に食っちまおうぜ」
硬直する。
脳裏に浮かぶのは自身を守って死んだ魔獣を喰らうラナクの姿。
有り得ない。ラナクがその好奇心から魔獣を生み出したという事実も、獣たちが自らの意志で人間を守ろうとしていたことも理解できない。
違う。理解したくないのだ。疑いたくないだけなのだ。
たまたまだ。偶然に偶然が重なることもある。奇跡があるのだから、そんな偶然の連続があっていいはずだ。冗談みたいな神の悪戯的な作用があっただけだ。
「ラニ……本当に、大丈夫か?」
服の裾を掴み、問うイールシュの目には純粋な心配しかなかった。
真実を話すべきか、隠し通すべきか。
何度も迷って決めたはずの心が揺らぐ。
俺はゆっくりと首を振った。
「大丈夫だ。帰ろう」
「……本当、なんだな」
「ああ。ちゃんと帰ってきただろう?」
「あったりまえだろ! 帰って来なかったらぶっ殺してたとこだっ」
「魔王をか?」
微笑む。真実を隠した仮面の微笑を浮かべる。
それでいいのだ。倒し殺すものの意志なんか知ったことではない。
ラナクは狂っていたのだ。魔剣ワーズワースとやらも出鱈目だ。
野次馬共を伴って帰路に着く。
剣竜の死骸を連れ帰る者たちは宴の手配で盛り上がっていた。
一時の休息をとり、これからも戦い続けることになるだろう。
恐らくは魔獣という存在が滅ぶまで続くのだ。
さらに半年が経過した。
魔獣の進撃は留まることなく、むしろラナクを倒す前よりも苛烈さを増していた。
勇者の子孫を宿した仲間たちは子と母体の安全のため、完全休養に入り俺だけが休むことなく要請に応じて各地で魔獣の軍勢と戦い続けた。
北の山岳地帯で氷鬼を破砕し、南の魚人を狩り尽くして干物へと変え、西の人狼を掃き溜めで燻る住人ごと滅し、東の魔植物を焼き払った。
戦って、闘って、殺して血を浴びて怨嗟を受けて咆哮に揺さぶられて疲労の海に沈む。〈聖誓印〉が肉体を活性化させ、自然治癒力を高めて戦場へ復帰させる。
休むことなく眠ることなく人々のため、平和のため剣を振り続ける。
そんな日々を愉しんでいる自分がいるのにも気付いていた。
宿屋の一室で設えられた特別製の寝床に体を投げ出す。
木製の天井から下がる魔力光が柔らかく室内を照らす。
体を傾け、視線を動かす。
机には武具が乱雑に散らばっている。
椅子にはすり切れた長外套がかけられていた。
部屋の隅にある棚には魔法投写真が並ぶ。
イールシュにヴェルヴェット、エフィスやメイリアが笑顔で映っていた。
戦い続けていれば忘れることができる。
ラナクの語ったことも、首をへし折った時の表情も遺された言葉も全て。
予兆はあった。かつては胸の内に滾る破壊衝動を抑えられず、所構わず爆発し要注意人物として監視されていた時期もあったくらいだ。
その〝破壊力〟に目をつけられ、自ら〈聖誓印〉で封じて内側に溜め込んだ。
『ラニ=ギロスが己に願う。破壊衝動を誰かのためだけに振るうと誓え』
内なる衝動を破壊に転化し当たり散らすことは悪逆だと理解していた。
理解していたからこそ、他者を蹂躙して満たされる愉悦を封じ込めていた。
自身の狂気を認め、誰にも明かさず秘め続けることで〝勇者〟という器を作り上げた。
一度欺けば真実を告げることなど許されない。
今、勇者として魔獣と立ち向かうことを辞めたら誰が代わりを務めるのだろう。
「……ラナクも、そうだったのか」
知りたいという欲望に突き動かされ、気付けば魔獣の盟主となっていた女を思い出す。果てを見たくて、感化され新たなステージへ進んだ魔獣が人の世にどう影響するかを知りたくて、突き進んだ結果……後戻りすることができなくなっていた。
魔剣とは何なのか。誰かに与えられたのもなのか。
偶発的に生まれた特異な力なのか。
一度捨てて埋めた事柄が次々と脳裏に蘇ってくる。
寝転がって天井を見つめた。階下の喧騒が遠くなっていく。
幸福が遠い。風景が霞む。自意識が揺らぐ。
自己と他者の境界線が歪む。
「何者だっ」
物音に反応して跳ね起きる。はらりと長外套が落ちて床に広がった。
かけていた椅子に髭面の男が座り、足を組んでこちらを見ている。
どこから侵入してきたのか。何者なのか。他にも問うべきことがあるはずなのに、最初に目についたのは男の風貌よりも手にある剣だった。
「ラニ=ギロス。唯一にして至高の勇者。そして、堕ち逝く魂を持つ者」
問いに答えずに男はよく通る低音で告げた。
俺の目は剣から離れない。金に宝飾品を散りばめた豪華絢爛なものとは程遠く、柄の造りも鞘も何の変哲もない安刀にしか見えない。
何故、こうまで惹かれるのか。
顔をあげ、正面から男の顔を見る。
王に献上するように剣を持った男は燃えるような紅の髪に鳶色の瞳を持ち、立派な口髭に顎鬚を蓄えている。
髭はもみあげまで繋がり、どこまで髭でどこから髪か判別できない。
圧倒的存在を示す偉丈夫を、俺はどこかで見たことがある。
「名乗りが遅れた。イラ=スラーという。わずかな時だが、よろしく頼む」
「……ラニ=ギロスだ。
いや、名前は知っているのだったな。どこかで会ったか?」
「うん? そうか。あの刹那でも我の姿を刻んでいたのか」
「……何を言っている」
「あ、いや。知らぬならよい。魔王城にいたのを目撃したかと思ったが」
じくり、と痛みが走る。魔王城でのやり取りを思い返す。
魔剣ワーズワースを砕き、散った欠片が裂いた頬が熱を持っている。
イラが鞘に収まった剣を差し出す。
どうしてか、迷うことなく俺の手は剣を受け取っていた。
武骨な男の手が俺の頬に触れる。
「破片が入り込んでいる。よくも、ここまで耐えたものだ」
「さっきから、訳が分からない。この剣はなんだ」
「問わずとも、手に取った貴公自身が理解しているはずだが?」
「いや、それは……」
やけに暖かい男の手を払うことができなかった。
イラの手が離れていく。
俺の視線は受け取った剣に釘付けになっていた。
無銘の剣から底知れぬものを感じている。
イラが再び口を開く。
「届けた剣に銘はまだない。で、あるが貴公は既に知っているはずだ」
「……イラ、お前は何一つ答えていない。目的はなんだ。俺に何をさせたい?」
「我は干渉できない。ただ見届けるだけだ。
ラナクという女が魔王に祭り上げられたように、な」
「馬鹿な。あれは妄言だろう。現実に起きているはずが――」
「ふむ。貴公は己が縊り殺した事実すら葬るというのか」
言葉が深々と精神の奥底へと突き刺さる。
そう。俺はこの手でラナクを絞殺し、その存在を奪った。
魔王を討った後、各地を渡り歩いて魔獣を数えきれないほど屠ってきた。
何のために?
問うまでもない。人類を守るためだ。
ラナクを殺害した瞬間から決まっていた道だ。
一度敵対した以上、手を取り合うことなどできるはずがない。
どれほど過酷だろうと戦いから逃げるわけにはいかない。
「解放せよ、ラニ=ギロス。そして選べ。
この世界、貴公が守るだけの価値があるかどうかな」
「どういう、意味だ」
「繰り返させるな。問わずとも、答えは世界に散らばっている」
静寂。世界が透き通っている。
〈聖誓印〉による強化は身体能力だけに留まらない。
感覚器官も常人より秀でる。
より遠くの物音を聞き分け、息遣いを知り敵の動きを探る。
研ぎ澄まされた聴覚が階下での喧騒から音を拾っていく。
『いや、しかし勇者様々ですなぁ』
『本当に。魔獣は人類の敵。滅ぼすべき害悪ですからなぁ』
『魔王ラナクでしたっけ? あれを倒す前後から人語を解するものがいましてな』
『ほうほう。初耳ですな。よもや、最近羽振りがいいのもそのせいですかな』
『やや、内密にお願いしますよ。
緩衝区を設けて棲み分けたいと言ってきたのですよ』
『なんと! 取引に応じたわけではあるまいな……』
『向こうから停戦協定を持ちかけたようなもんです。
有力者で線引きをしましたが、ね』
『……北方の氷鬼が押し寄せたのは採掘者からの報告、でしたな』
『ええ。ええ。所詮はケモノとの取り決めです。人間が守る必要はない』
『まさか、緩衝区に侵入したのではっ』
『静かにっ! もし勇者様に知られでもしたら……』
『ご安心めされよ。戦いに次ぐ戦いでぐっすりお休みでしょうよ』
『〝あれ〟も化け物でしょう。
〈聖誓印〉だか知りませんが、どれだけ戦っても疲れず
負傷してもすぐに完治。とても同じ人間とは思えませんなぁ』
『ですから有効活用してやるのですよ』
『立派な兵器ですからなぁ。せいぜい壊れるまで働いてもらいましょう』
『壊れたら子を利用すればよいのです。
なぁに、人々の危機と見れば……ね』
ぎちり、と奥歯を噛む。
知らず噛み破った下唇から血が出て顎を伝い落ちた。
赤い雫が受け取った剣の鞘を濡らす。瞬間〝声〟が聞こえてきた。
――その憤怒を解き放て。欲望のまま荒れ狂い、滅ぼすべき真敵を駆逐せよ。
鞘を握る手に力がこもる。
無銘の刀剣は血に濡れたにも関わらず、漆黒の輝きを宿していた。
自然な動きで手が鞘から刀身を抜き放つ。
晒された中身もまた闇に染まっていた。
イラが大きく首を縦に振る。
全てを最初から知っているような素振りだった。
「実にいい色だ。さて、ラニ=ギロスよ。勇者たる貴公はこれより何を為す」
「…………俺は、もう勇者ではない」
「では、何なのだ。勇者を辞めて何に成るというのだ」
魔剣ワーズワースの破片がつけた傷が疼く。
内なる欲望が滾る。
何のために今まで耐えてきたのだろう。
誰のために戦ってきたのだろう。
ただ平和を願い、そのための〝勇者〟であろうとした。
だが人々は違っていた。
平気で、他者を貪り喰らうようなものに道具とされていた。
「ああ、そうだ。もう我慢しなくてもいいんだな」
俺の言葉にイラは答えず、重々しく頷くだけだった。
現在にまで伝わる文献にはこう記されている。
魔王ラナクを討った勇者ラニ=ギロスは未知の病に侵され狂ってしまった。
不死に近い肉体を持つ新たな魔王ラニは、暗黒の時代を築いた。
敵対していたはずの、数多の魔獣を率いて各地の有力者を殺して回ると、かつての仲間たちと子の前で自死した。
今もなお各地に散在する〈剣戯〉の祖。
魔剣ジ・オリジナルシンを遺して世界から遠く去って逝った。