1-10 Judgement
空を去りゆくウェインの後姿は、かつて南方で人々を恐怖の深淵へ叩き込んだ暗黒竜ヴァスデルタだった。
ウェインは自らの目的を達成するためには手段を選ばない。彼にとって人類の脅威たる魔獣も単なる障害でしかなく、救済も副産物に過ぎない。
それでもヴァスデルタの恐怖支配から人々が救われたのは事実。
だからこそウェインは殺害し、破壊したものの貌を持つ〝多相〟勇者と呼ばれる。討ち取った者たちへの鎮魂と敬意を払うべく、気高き意志と風貌を得て世界を疾走る。
サフィラが俺の姿を見て表情を曇らせる。俺は服を脱ぐような、何気ない仕草で手枷を引き千切った。続いて屈んで足枷も破壊する。鉄屑になった手枷と足枷をまとめて、草の陰へ投げ込んだ。小さな悲鳴が響く。
俺はサフィラへ弁当箱を渡し、背中で隠すようにして立つ。
草陰から気配が一つ、二つ、三つと増えていく。
「アーレインさん……」
「サフィラは、いいんだ。もう力を使わなくていい。ヒトでありたいなら、ね」
「へへへ、いつから気付いてやがった?」
下卑た声と共に姿を現したのはバルサミと、その取り巻きたちだった。
全員が鉄の棒と丸盾という原始的な装備で固めている。
バルサミが気勢をあげると、全員が邪気を解き放った。
呼応するように胸筋が盛り上がり、上着を破り裂く。
大腿筋も隆起して衣服を破り、野生的な風貌になった。
俺は拳を握って迎撃態勢を取る。
「村を出てからずっとだ。バルサミ、お前の薄汚い魔力がずっと漂ってたんだよ」
「道理で驚かないわけだ。だったら、言いたいことは分かるよなぁ?」
「お前らが野城をねぐらにしている鬼の一派だろ。
物資の供給を絶ち、いい思いをしてるのも鉱山のルートを
奪ってるのもお前らだ。好き勝手にやりすぎだろうが、クズ共」
「クズ? 好き放題やってんのはクソ勇者も一緒だろうが」
「そうだそうだ! 俺たちは狩られないよう懸命に頭使ってんだよっ」
「クズ同士持ちつ持たれつ、ってやつだ。
勇者が魔獣に与する道理はないんだろ?
なら俺様が人狼少女を見世物として扱おうが
魔獣同士の問題。人間様には関係ないってこった」
「馬鹿かお前ら」
吐き捨てる。
好き勝手に主張する大鬼に豚鬼、牙鬼どもが嘲笑っている。
湧き上がる衝動とは対照的に精神は恐ろしく冷え切っていた。
感情をそのまま爆発させ、無闇に暴れても意味はない。
ウェインはバルサミたちの気配を察知しながらも、後を任せると言って去った。
俺もその意志を汲んで別れた。人狼はおろか竜にすら変異するウェインがいたままではバルサミたちは姿を現すことはなかっただろう。
後顧の憂いは今ここで俺が断っておかねばならない。
「やりたいようにやるのは信念があってこそだ。
お前らがやってるのはただの略奪に暴行、脅迫に誘拐。
同胞であるはずの魔獣に対する卑劣な仕打ち。てめぇの欲望だけだろうが」
「だからよぉ、人間は人間同士でやってるだろうが。奴隷とかそうだろ?」
「クズが説教垂れてんじゃねぇよ! 武器もなけりゃ吹き飛ばす剣もないしなぁ」
「バルサミさん、さっさと畳んで連れ去っちまいましょうよ!」
バルサミたちが俺とサフィラを包囲する。
その気になればサフィラも人狼の力を使って切り抜けることはできるだろう。
だが、俺は彼女に力を使わせたくない。
人狼でありながら、ヒトに成ることを望みひっそりと生活してきた。
バルサミは私欲のために踏み込み、ささやかな生活を破壊した。
俺もまたサフィラを殺させないために、ウェインに協力させ村を脱出する道を選んだ。箱が落ちるけたたましい音が響いた。
服越しに温もりが伝わる。
〈聖誓印〉が痛みを発する。
「アーレインさん。いいんです、もう」
「よくはない。サフィラはヒトになりたいなら、力を使うべきじゃないんだ」
「それでも、私は人狼なんです。彼らの言う通り、魔獣側なんです」
「違うね。ウェインの言葉を思い出せ。
大事なのは、人か魔獣かじゃない。どうありたいか、だ」
「……さぁて、そろそろいいか?
クソ勇者ボロ雑巾にして人狼少女攫って売り飛ばして大もうけだぁ!」
バルサミの一声で鬼たちが動く。豚鬼が鉄の棒を上段から振り下ろす。
回避すればサフィラに被害が及ぶ。腕に力を込めて鉄の棒を受け止める。牙鬼が放った横薙ぎも空いた左腕で受け止めた。バルサミが続くと思いきや、鉄の棒が俺へ振るわれることはなく両腕を人狼化させたサフィラと対峙していた。
「おいおい、何のつもりだよ。サフィラちゃんよぉ」
「……私は、魔獣です。だからこそ、貴方たちを許せません」
「何度も言わせるんじゃねぇよ。
人間も散々同族同士で殺し合ってんだ。
好き放題やるのが正しいあり方なんだよ。
魔獣の癖にいい子ぶるな。ヒトに化けたいなら大人しく捕まれやっ!」
「貴方さえ、来なければ私は……っ!」
「ずっと騙し続けたってのか?
店主も客もまとめて喰う機会を伺ってたんだろうがよ!」
バルサミが振り下ろした鉄の棒に剛力を乗せていく。
サフィラが両腕で押し返し、距離を取る。追うバルサミが鉄の棒を振り回すも、俊敏な動きで回避していき、手首を払って棒を手放させた。
俺は両腕に力を込めて豚鬼と牙鬼を吹き飛ばす。
バルサミの落とした鉄の棒を拾い、追ってきた豚鬼と牙鬼と対峙する。
猿叫をあげながら上段の構えで突っ込んでくる豚鬼。
雷速の鉄槌に横薙ぎを合わせる。まるで剣で切り裂いたように豚鬼の得物を砕きつつ、深い斬撃の痕を刻んで昏倒させた。
破片と共に豚鬼が倒れていく。
牙鬼が力任せに鉄の棒を振り回すも、俺は距離をとって回避。
下からの切り上げを放つ。牙鬼が防御に構えた鉄の棒を破砕し、顎を打ち上げて昏倒させた。
素手でサフィラを組み伏せようとしていたバルサミが叫ぶ。
「クソ勇者ぁ! てめぇ、なんで鉄の棒で鉄の棒が砕けるんだよっ!」
「……てめぇに教えてやる理由がねぇよ」
「クソッタレがあああぁぁぁっ」
バルサミがサフィラの背後に回って羽交い絞めにする。
人質のつもりなのだろう。鬼の顔でバルサミが笑う。
「へっ……へへへ。心優しい勇者様だ。これで手出しできねぇだろ」
「てめぇは、最低最悪のクズだな。
同族を売り、質にとってどこに逃げるつもりなんだよ」
「黙れ黙れ黙れぇっ!
まだまだ俺様は贅を味わってねぇ!
こんなとこでやられるわけには――」
サフィラが肉体を変異させてバルサミの拘束から逃れた。
瞬間、渾身の力を込めて鉄の棒で払い上げる。
顎を打ち上げられた鬼の巨体が宙に浮く。重力に引かれて自然落下する前に俺は跳躍し、両手持ちで上段から無慈悲の鉄槌を振り下ろした。
頭部が弾け飛び、血と脳漿が地面へぶちまけられる。
思考器官を染みに変えられたバルサミが言葉を発することは二度となかった。
鉄の棒を捨てる。
負荷に耐え切れず、鉄の棒は砂のように散って消えていった。
サフィラが肩で息をしている。両腕が再び人狼の鋭い爪を宿していた。
金色の瞳が揺らいで琥珀色に変わりかけている。
内側から噴出した感情が行き場を失っていた。
俺は無手でサフィラの前に立つ。
腹に重い衝撃。
こみ上げるものを唇から漏らさぬよう、必死に耐えた。
体の中の異物が抜けていく。
サフィラの人狼化した右腕が鮮血に濡れていた。
「あっ……ああ……わた、わたし、はっ……私はぁっ!」
「サフィラは、悪くない。俺もお前の日常を終わらせた一人だから、な」
「こんなつもり、では……これでは、私も」
「罪だと思うなら、君は背負って歩いていくべきだ。
ヒトの世に生きたいならなおさら、な」
緩くサフィラの体を抱き、背を叩く。触れた肌が痛み痺れる。
魔獣は全て害ある存在として処理されなければならないのだろうか。
かつて魔獣を率いて人間に敵対した魔王ラニの子孫は全て邪悪なのだろうか。
俺がサフィラを救ったのも、自らの罪を罪だと認めたくないだけなのだろう。
吐き出した言葉は自分へと跳ね返り、胸へと突き刺さっていく。
サフィラが俺を抱き返す。体に痛みが走る。
「アーレインさんは……どうして、生きていけるんですか」
「多分、サフィラと同じだと思う。刷り込まれた価値観に抗うためさ」
「可愛い女の子なら、誰でもよかったんじゃないですか」
「……そこ、突かれると困るんだけどな」
苦笑する。
俺の体へかかる力が弱まった。
俺もサフィラから離れる。
人狼特有の、俺と同じ琥珀色へ変わりつつあった瞳は元の金の輝きを宿していた。人間の手へと戻った右腕の、血痕が変異能力で覆い隠されていく。
「私は、こうやって真実を隠すことしかできないんです。あなたとは、違う」
「隠しても、いいんじゃないか。それがサフィラの選んだ生き方だろう」
「そう。私が、選んだ。
ヒトになりたくて、でも成れなくて隠れて生きるしかなかった」
「選んで生きるなら、探し続けるしかないんだよ。
魔王の子も人狼も、世界に抗いながらも、
認められる居場所を見つけるまで流れ続けるしかないんだ」
歩く。サフィラが落とした弁当箱を拾う。包みを解いて中身を確認する。
三段重ねになっており、底には仕切りで三つに分けられていた。
二段目は九つの仕切りに揚げ物や焼き物が詰められている。
一番上の段には串焼きが並んでいた。
手渡されてからそれなりに時間が経っているはずが、出来立てを提供されているかのように湯気を立たせ、肉汁を滴らせている。
保温魔法でもかけられていたのだろうか。
一本を手にとって口にする。鶏肉と野菜を交互に刺した串焼きは素材の味を生かしつつ、香辛料によるアクセントが光る一品だった。
草むらを背にし、包みを台にして弁当を広げる。備え付けの食器を手にする。
中身を入れ替えれば三人分の食事として分けられるよう、箱の蓋が余分に二枚あった。どうやら酒場の店主は顛末を見抜いた上で持参させてくれたらしい。
どこに隠れた逸材がいるのか分からないものだと思う。
黙々と俺は使っていない箸でご飯とおかずを分けていく。
二人分の弁当を作ってそれぞれに蓋をした。
両手のひらを合わせて食事への感謝を示す。
「……少なくとも、サフィラを雇っていた店主は
人間として扱ってくれたんじゃないのかな」
サフィラが無言で近付いてきた。
傍に腰を下ろしたサフィラに俺も黙ったまま弁当を差し出す。
華奢な手が分けられた弁当と受け取る。
蓋を開けて箸を手にとり、食事を始める。
唐揚げを口にし、大事そうに咀嚼していく。
揚げ物の味と香りが残るうちにご飯を追加して口の中で共演させる。
おかずとご飯を交互に口にし、食事を続ける。
いつしか金色の瞳から涙がこぼれていた。
俺は小さく咳払いをする。
自らの手を見つめ、五指を開いては閉じる動作を繰り返す。
「俺も、サフィラは〝人間〟だと思う。だからこそ、助けた。
魔王ラニの子は悪、魔獣は害悪だと決め付ける連中を否定し、
俺自身の〈聖誓印〉に抗って信念を貫き通す」
「……生きていなければ、意味も探せません、よね。
死ねば、そこで終わりですから」
「死にたくないなら生きる方策を探すしかない。
少なくとも、俺は押し付けられた呪いに縛られたまま死ぬのは御免だね。
君の手を取ることにすら痛みを伴うようじゃあなぁ……」
「アーレインさんは、剣を破壊し続けるんですか」
「何だか破壊魔みたいに思われてるけど、
俺が刀剣を使うとぶっ壊れるのは副次的な効果なんだよ。
あらゆるものを剣のごとく扱える代わりに、
過負荷を与えすぎて壊れてしまってるだけだ。
もっとも、そうして世に蔓延る剣戯を
破壊し尽くすよう仕向けられてるのかもしれないけどな」
「けれど、そんな押し付けられた人生は御免だ……ですよね?」
サフィラが涙を散らしながらも笑顔を作る。
俺も笑ってやる。
人狼少女の未来を隠す暗雲を吹き飛ばすくらいの輝きを宿して。
「当たり前だ。だから、俺は勇者なんかじゃない。
ただ自分のために生きるだけだ。俺は俺のために駆ける」
「……いえ、勇者です。少なくとも、私にとって
アーレインさんは救世の勇者さまですよ」
「そう、か。そうなって……しまうのか?」
「ええ。ですから、責任を取ってください」
「…………は?」
心からの疑問を声に出す。サフィラの笑みに悪戯成分が混じる。
俺の〈聖誓印〉は力をもたらすと同時に破壊を呼ぶ。
不要な被害を撒き散らさぬよう、さっさと〝彼女〟を見つけ出したい。
色々な意味で振り返らないための一人旅であったが……。
サフィラがてきぱきと弁当箱を片付ける。男装のまま、荷物をまとめて立ち上がった姿は主人に付き従う執事のようだった。俺は苦笑する。
「まさか、とは思うんだがついてくるつもりなのか?」
「アーレインさんは、こんな危ない場所にか弱い少女を一人見捨てるんですか」
「サフィラ。本当にか弱い子は自分でそんなこと言わないんだよ」
「だって、心配なんです。擬似不死能力を利用して無茶しそうですし」
「いやいや、それは俺の体だから――」
「それに、私は何もお返しできてないです。
ですから、お役に立つまで離れませんよ!」
従者宣言をしたサフィラの金色の目が期待と羨望で爛々と輝いていた。
俺は小さく溜息を吐く。
こういう目の人間には何を言っても無駄だと、知っている。
いや、人間ではなく魔獣なんだが。どちらでもいいか。
踵を返して歩き出す。当然のように、後からサフィラがついてくる。
「……君が進む道は、それでいいんだな?」
「ええ。私、もっと色んな世界を見てみたいです。
いつか、いい場所に巡り合えるように」
「一理あるな。じゃあ、そこまでの護衛をしてやろうか」
「これ以上私から何をとるって言うんですか?」
「いや、いやいやいや。別段変な意味じゃなくてだな……」
適当な会話を交えつつ、俺とサフィラは歩いていく。
凝り固まった概念が支配する世界で人間と魔獣が共に進む。
世界に一太刀浴びせるには丁度いいだろう。
そんな風に思って、小さく笑った俺は遠くに見える鬼の野城を見た。