プロローグ【表】「始まりの勇者」
石壁に掲げられた燭台に灯る炎が揺れ踊る。炎だけでなく、剣の黒い柄を握る俺の肌も泡立つ。咆哮する巨躯が持つ五つの首のうち、一番左に位置する白い毛並の犬頭が紫色へと変わっていき痙攣する。
紫色の浸食が胴体に達する前に、死に瀕する首の隣に並ぶ赤毛の犬が頭を振った。白毛だった犬の頭が体から切り離される。食い千切られた首が石畳に転がっていく。巨木のような前脚が転がる首を踏み砕き、割れ砕けた石片と共に血肉や骨が散弾のように飛び散っていく。
「チッ、獣の癖に随分と味な真似をするじゃあないのさっ」
「逆手に取られてどーするのよ、イールシュの馬鹿!」
「あらあら、喧嘩してる場合じゃないと思うけれど」
「全員、後ろへ跳べっ!」
俺の怒号に従って、仲間たちが四つ首となった魔獣と距離を取るべく後方へ跳躍。寸前までイールシュと呼ばれた女のいた場所へ炎の奔流が雪崩れ込み、石畳を飴のように溶かした。留まらず、押し寄せる赤の波を青色の結界壁が受け止める。
「エフィス姉、ごめんっ」
「いいからいいから、早く逃げて逃げて」
「ぼさっとしてないで、さっさとこっち下がる! 射線に入らないでよっ」
「うっさいな! 愚痴垂れる前にとっととブチ込めよ色ボケ女がっ!」
「相変わらず口が悪い……まとめて葬って、やろうかしら、ねっ!」
言い合いながら女二人が結界壁を展開する女の背後まで後退し、イールシュがさらに右方へと跳ぶ。その隣に俺も並んだ。
「大地に恵みを生む祈りの蒼よ、敵対する魔を討つ永劫凍結の竜となれっ!」
ようやく空いた射線へ青の奔流が走り抜けていく。
堰き止められていた炎の波にぶつかり大爆発を引き起こす。
結界壁で軽減されるも突き抜けた衝撃波に襲われる。濛々(もうもう)と煙る白の空間に向かって大剣のような武具を構えた女が向かっていく。
「エフィス、下がれっ!
ヴェルヴェットは続唱術式を用意、イールシュは射撃準備っ!」
指示を飛ばしつつ俺も後を追って剣を握り直し、白刃を前方へ構えて突進する。
衝撃を受け流す結界壁の維持に精一杯だったエフィスの眼前に迫る黒毛の犬の顎を、先に疾駆していった女の掲げた刃が受け止めた。
犬の喉奥に魔力光が灯る。
「させないよおっ!」
明るい声と共に女が右腕だけで噛みついてきた黒犬の剛力と拮抗しつつ、空いた左手で普通の刀剣には付属しないであろう鎖を引っ張る。轟音が響くと刃が回転し始め、黒犬の頭が自重と勢いに乗って等分に両断されていく。
血飛沫を撒き散らしながら割り裂かれた首が、行き場を失った光源を抱えて爆発。再度展開されたエフィスの結界壁が鮮血に染まった。
さらに減らされ、三つ首になった魔獣が激痛を訴えるように咆哮する。
痛みに仰け反った巨体に向かって閃光が空を駆け抜けていく。喉を晒した赤犬の首に鉄矢が突き立つ。赤毛の首が苦鳴を叫び、首を振るも矢は抜けず少しずつ動きが鈍り始めた。何事かと見開かれた瞳が、開かれたままで硬直する。動きを止めた首へと容赦なく矢が幾本も突き刺さっていく。
さらに軌跡を追うように輝く弾丸が飛翔していき、青毛の犬の頭に命中。吐き出そうとしていた氷の吐息を喉奥で詰まらせ、小刻みに震えると赤犬と同じく動きを止めた。
「ほいさっ、よっこらさっと」
爆音と轟かせ、回転する刃が硬直した犬たちを石畳に転がる生首へと変えた。
転がった赤犬と青犬の首が思い出したように断面から鮮血を噴き出す。
最後に残った黒犬が口から無数の棘を放つも、高速で回転する刃に全て弾かれ女に届くことはなかった。女が踊るように武具を左方に投げ捨て、右へと跳ぶ。
「後は任せたよ、ラニっ!」
「おおおおおぉぉぉぉぉっ!」
咆哮と共に刃を握り込み突貫する。死力を振り絞って黒犬が棘の弾丸を放つ。
俺の頬を裂き耳たぶを貫通し、肩に突き刺さるも無視して大口を開けた最後の頭部へ白刃を叩き込んだ。
黒犬の頭が全身を打ち震わす断末魔をあげる。
終世の咆哮を叫ぶ頭部の天辺から顎まで銀閃が走っていく。
切断面から勢いよく鮮血が噴出し、俺の顔や体を朱色に染めた。
巨体が揺らぐ。
司令塔たる全ての頭を失い、意志なき肉塊となって地に沈んだ。
短く荒く呼吸を繰り返す。
魔獣に止めを刺した剣を杖代わりに床へ突き立てた。
回廊に疲労の呼吸が鳴り渡り、重なっていく。
言葉を交わさずとも、恐らく全員が感じている。
ここまで一人も欠くことなく戦って来られたが、限界が近い。
重い音。
突き立てた剣から手を離し、振り返るとヴェルヴェットが石畳の上に座り込み、壁に背を預けている。結界壁を展開し続けていたエフィスが治癒の術式を行使しようとするも、生み出された青白い癒しの球はヴェルヴェットに辿り着く前に空中で霧散してしまった。
矢筒を背負い、弓を手にしたイールシュが薄く笑う。
「はっ、だっせー……まだ寝っ転がるには早いぜ色欲魔さんよ」
「ふん、脳味噌まで筋肉でできてる馬鹿は元気が有り余って羨ましい限りね。ちょっとは頭使って私に元気を分けなさいよ」
「馬鹿はどっちだよ。魔法使えないから万猟士やってんだよ馬鹿」
「はぁ? 馬鹿って言った方が馬鹿なんですぅぅぅっ」
「最初に言ったのはおめーだろぉがよっ!」
「あらあら、二人とも治癒要らないくらい元気ねぇ」
またもや口論し始めるイールシュとヴェルヴェットをエフィスが慈母の笑顔で見守る。異形の回転刃を振り回していた女、メイリアは不干渉を決め込んで放り投げた自身の武具を手入れしていた。
敵地の真っただ中にも関わらず、穏やかで柔らかい時間が流れている。
できることなら、ずっとこのまま同じ時を過ごしていたかった。
未練を振り切るよう、小さく首を振る。ここまでなのだろう。
「……本当に。皆、よくここまでついてきてくれた」
「今更何言ってんの。ラニと一緒だからここまで来たんだっての」
「脳筋ゴリラに先取りされたのが癪だけど、右に同じよ」
「私もラニ様と共に戦って来れたことを光栄に思います」
「なになに? なんだかただならぬ空気を感じるんだけどー」
イールシュ、ヴェルヴェット、エフィス、メイリアがそれぞれ答えてくれた。
疲労はあっても笑顔は絶やさない。
ここまできたのだから最後まで、と意気込んでいるのがよくわかる。
わかるからこそ、共に連れていくことはできなかった。
微笑みを返し、気持ちを切り替える。
変化した俺の表情を見て、女たちの顔に緊張が浮かぶ。
「この先は俺一人で行く。皆は街へ戻ってくれ」
「何を言いだすかと思えば」「水臭いにも程があるよ!」
「最終決戦を目前に退け、なんて」
「はい、そうですか。分かりましたーなんて私たちが
言うわけないでしょー。置いてけぼりとかヤだよっ!!」
輪唱するように揃って拒否を示す。
彼女たちの気持ちは嬉しいし俺自身もできることなら最後まで共に戦いたかった。
たとえ、この先に死が待ち受けていようとも。
「人狼に豚鬼、火竜や鎧竜、それに五つ首の魔犬との戦いで皆が消耗しすぎている。イールシュ、残弾はどれくらいある? 罠も含めてだ」
「……あんまり、ないけどいざとなったら接近戦もやってやるさ!」
「ダメだ。近接用の武器もないだろう?
ほとんど特攻と同じだ。ヴェルヴェットも魔力が枯渇しているだろう。
エフィスも平気そうにしてるが治癒光すら使えないほど疲労している」
イールシュが食い下がろうと前に出るも、メイリアに制された。
ヴェルヴェットやエフィスに至っては反論することもできず、俯いている。
メイリアが回転刃を持ち上げる。まだまだいける、というアピールなのだろうが担ぎ上げた際わずかに目元と唇に苦渋と苦鳴が漏れたのを見逃さない。
「メイリア、さっきの戦闘で腕を痛めたな」
「ううん。大丈夫、だいじょーぶっ! 全然平気だって、ホント」
「今までは生き残って来れた。だけど、この先も生きて帰れる保証はない」
「それは、ラニだって同じでしょ? 私たちを置いて一人で行くなんて……」
悲しみに沈んだ声を漏らすメイリアを前に俺は首を振る。
「もし、俺が死んでも皆の中に次代の刃が宿っている。
ここで全滅するよりも、俺が魔王を封じて子供たちが
強く育ってくれた頃に討ち滅ぼした方がより確実だよ」
女たちの中には新しい命が宿っているはずだ。
全員で取決め、ヴェルヴェットの秘薬で周期を合わせた。
イールシュが弓を落として座り込む。
茹であがったように頬を紅潮させていた。
「ば、馬鹿。なんで今このタイミングでそんなこと、言うんだよ」
「あらあら、昨晩のイーちゃんはとっても可愛かったのにねぇ」
「まさか、あんな顔とかそんな声とか聴けちゃうとは思ってもみなかったね」
「そういうヴェルヴェットさんも相当激しい喘ぎ声だったよー」
「おい空気読めよメイリア! 女が〝喘ぎ声〟とか言っちゃ駄目だろうがよぉっ」
「イーちゃんが一番〝らしく〟なかったものねぇ。
あんなにもみっともなく泣き叫んじゃうなんて……」
「だ、だってよ……その、処女だったんだから仕方ないだろ!」
「おや、もしかして思い出しちゃってる?」
座り込んだイールシュの手が下腹部へ向かい、太ももの付け根に向かう。
服の上から女性器を撫でる顔には恍惚さが浮かぶ。
本当に破瓜の瞬間を思い返しているのかもしれない。
全員の視線が集まっているのに気付き、イールシュがさらに紅潮していく。
「な、なんだよ! 皆が獣みたいに叫んでたことも暴露してやるぞっ」
「今更よね。恥ずかしがるような仲でもないでしょう?」
「そうそう。最初は魔獣と立ち向かうために集まった
五人だけど、今じゃ何よりもかけがえのない存在だから、ね」
「そーだよ! ラニ、皆で戦って……皆で勝って幸せな家庭作ろ?」
「皆…………」
ずくり、と内側が疼く。
この場に最も相応しくない感情が鎌首をもたげる。
切り伏せて、叩きつけて黙らせた。
それは、もう成し得たことで今度は一切表に出さないものだ。
本来ならば墓場まで持っていくべきものだった。
夜の野獣を見せた後でも彼女たちの俺に対する気持ちと眼差しは変わらない。
だからこそ、彼女たちは生きるべきで俺は魔王と共に眠るべきなのだろう。
手のひらを上へ向けて前に出す。施しを与える救世主ではなく、許しを乞う咎人でもなく一人の人間として求め、欲する。
「ならば〝祈って〟くれ。俺が無事に生還できるように、皆の願いをくれ」
世界にこの身を晒す。
最奥の底、棺に秘めたるものだけは露わにせず。
ヴェルヴェットがふらつきながらも立ち上がる。
イールシュ、エフィス、メイリアと視線を交わして頷く。
限界を超えて生み出す奇跡はここにはない。
だが、代わりに誰かに託すことはできる。
ラニに付き従う誰もが理解していて、分かっているからこそ共に往けぬことを悔やんだ。
エフィスが立ち上がり、手で衣服の埃を払う。
メイリアも武器を置いて立つ。イールシュは弓を石畳に置いたまま立って、おぼつかない足取りで歩く。
四人の女たちが俺の前で一列に並び、ヴェルヴェットが一歩前に出た。
「ヴェルヴェットが誓約を求める。ラニ、絶対に生きて帰って来なさい」
「ラニ=ギロスが応える。必ず皆の下へ帰る。その誓約を魂に刻む」
「…………絶対だからね」
手を掲げたまま答えた俺の手に文字が刻まれていく。
第一の誓約が成り、俺の体が熱くなり始める。
奇妙な高揚感と共に血脈が力を取り戻していく。
恥ずかしげに瞼を伏せ、ヴェルヴェットが一歩下がり膝をついた。
続いてイールシュが前へ出る。
俺が掲げた手に触れるか触れないかの位置に手を伸ばす。
「イールシュが誓約を求める。ラニ、絶対死ぬんじゃないぞ。必ず勝て」
「ラニ=ギロスが応える。絶対に勝つ。魔王を討ち滅ぼす」
「ん。それでこそ、あたしが認めた男だよっ」
一瞬だけ手のひらに女の熱が感じられ、すぐに離れていった。
体を巡る熱はさらに温度をあげていく。
イールシュを抱いていた時よりも、なお熱く黒いモノが沸き立つ。
また手のひらに文字が刻まれた。
熱病にうなされるように意識が遠のきかける。
第二の誓約が成されたのを確認して、気丈に直立姿勢を保つイールシュに代わってエフィスが一歩前に出た。手を触れることなく、両手は布地を押し上げる豊満な胸の前で組まれている。神に捧げる祈りの形だった。
「エフィス=エファティカが誓約を求める。ラニ様、必ず世界を救ってください」
「ラニ=ギロスが応える。魔王を倒し、世界を救って皆の下へ帰る」
「ええ。神も仰ってます。私たちは必ず勝てる、と。ラニ様に全てを託します」
最後まで微笑んでエフィスは列に戻って膝をついた。
疲労から来るものではなく、組んだ手は祈りの形のまま。
信奉する神へ捧げ続けているのだろう。
手のひらに文字が浮かび、皮膚に沈む。裂傷や火傷などこれまで負ってきたダメージが最初からなかったかのように治癒されていく。
第三の誓約が完了した。
「うーん、私はこーいうの苦手なんだけどなぁ……」
面倒そうにメイリアが儀礼作法を簡略化して胸の前で十字を切る。
左手を腰に当て、右手で拳を作り胸の前に掲げる。
剣を持てば騎士が主に捧げる礼だ。
「メイリアが誓約を求める。ラニ、勝って戻ってまた私の剣を使ってね」
「ラニ=ギロスが応える。異形の刀匠メイリアが怪作で数多の魔を屠る」
「怪作とか異形とか、好き勝手に酷いよー」
子供のように頬を膨らませて怒りを示すメイリアの前で、俺は文字を刻み込んだ手で剣を抜き放ち剣礼で返す。何も持たないままのメイリアの拳が主従の契りではなく、同格たる仲間内で交わす気合の一発だった。
第四の誓約が完遂し、俺の体に四つの〈聖誓印〉が刻まれた。
剣を鞘に戻し、〈聖誓印〉が刻まれた拳を握り込む。
全身に力が漲る。想いの力と内なる衝動が混ざり合って一つになった。
メイリアが回転刃を手に三人の下へ戻る。
四人の表情にはそれぞれの不安と名残惜しさが見て取れる。
理解していても、俺は一人で往く。
「皆の〈聖誓印〉は受け取った。エフィス、後は頼む」
「……帰還をお待ちしております。勇者様」
「絶対、必ず、何がなんでも帰って来なさいよね」
「腹立つけど色ボケ女に同じ。死ぬなよ!」
「もう、皆は心配性だよねー。印刻んだから大丈夫だよ。ねっ!」
エフィスが聖母の加護を受けた癒命士らしく、静かに頷いた。
ヴェルヴェットは腕を組んで憤慨しつつも無事を願った。
長らく犬猿の仲だった戦友かつ恋敵に悪態をつきつつもイールシュが激励した。
メイリアは心配する必要はない、とまた自らの武具の手入れに専念していた。
俺は重々しく頷いて応える。
エフィスが詠唱し、石畳に街の外壁の一角へと繋がる転送印を刻んだ。
淡い光が円状に広がっていき、四人の従者たちを包み込んでいく。
円が小さくなっていき、最後に爆ぜて消えていった。
魔犬の死骸が転がる魔王城には俺だけしかいない。
「……さあ、魔王を倒しにいこう」
自らを鼓舞し、歩き出す。
向かう先には毒々しい紫色の大門が見えていた。