たゆまずたわまぬ
考え終わるより早く、体は動く。
ところがするりと伸びた剣先は逸れて、見当違いの位置を薙いだ。
ぐらりとぶれる重心を感じて、桐原は木刀を持つ手を止めた。
途端に意識は通常の領域まで戻ってきて、道場に響き渡る裂帛の気合が耳を打つ。目をやれば、ひしめく門下生が一定の間隔で広がり、彼らの間では木刀が軋み、踏み込みの音が弾けている。
もう一度正眼に構えて周囲の音に耳をとざそうとしたが、ほどけた集中は繋ぎ直すことができず、桐原は溜め息をついた。すると音もなく近づいてきた師範が、構えを見ただけで目を逸らした。言葉をかける段階でさえない、と判断されたらしい。もう一度溜め息が出て、桐原はやけにならないよう己を抑えることに必死になった。
けれど動きは抑えられない。うまく手足を御していないと感じられ、暴れ回る木刀に踊らされている気がした。ちゃんばら。棒振り芸。そのような言葉が浮かんでは消える。
――そうしてひとしきり稽古を終えて、夜の九時半。道場が社会人の部として開かれる時間もここまでで、掃除を終えた桐原は道着の裾を払う。
独特の臭気が封じられた更衣室に入ると、段位において桐原より下である人々が「お疲れ様です」と声をかけてきた。かろうじておつかれさま、と返したものの、ここ最近の不調が目に見えている自分への視線は、あまりよいものではない。中には露骨に見下したような顔をしている者もある。仕方のないことだと皆に背を見せ、桐原はロッカーを向いた。着替えをそそくさと済ませると逃げるように更衣室を飛び出し、道場の中よりはよほど涼しい屋外を歩く。
「ふう」
夏の盛りで、体力が落ちているんだ。
何度か繰り返して擦りきれてきた言い訳をし、自動販売機でスポーツドリンクを買った。誘蛾灯の役目を果たす自動販売機は無言の虫に覆われ、彼らの代わりをなすように、原っぱからは姿を見せない虫が喚く。ごくりと甘い水を飲んだ桐原は、きびすを返した。
道場の近くにあるコインパーキングで料金を支払い、スカイブルーのフィットに乗り込む。蒸し暑い車内、後部座席には投げだすように置かれた竹刀袋と防具袋があり、ルームミラーを確認する際に恨めしげな角度をこちらに示していると思われた。見なかったふりをして、家路につく。アクセルを踏むと車は不機嫌そうにうめいた。質の悪い安もののオーディオからは、車のうめきを邪魔しない程度にFMのラジオが流れる。
ラジオパーソナリティの軽快で耳をすりぬける声音を感じながら、桐原は細い二車線の道を行く。四つ辻の信号にひっかかった際に確認すると、時刻は九時四十分。家につくのは、十時十分くらいだろうか。見たいテレビ番組は録画しているが、十分過ぎというのは途中からでも見てしまうかどうか迷うところだ。
桐原の自宅と職場と道場は、ちょうど二等辺三角形を描くような距離で存在していた。家から道場、あるいは職場へは車で片道三十分。職場と道場の間は四十分。地方都市らしい、幹線道路沿いしか発展のない田舎では、生活に必要な施設の他は点在を余儀なくされる。ちなみにパチンコ屋は必要な施設の区分に入る。主にすることのない中高年を、おとなしくさせておく場として。
ラジオ番組が終わって十五分ほど。
アパートに辿り着いた桐原は防具と竹刀を手に帰宅する。靴を脱いであがると廊下に散らばるゴミ袋が邪魔で、いい加減捨てなければと思うものの、その決意を思い出すのは毎度、朝に二階から出て車に乗り込んだときなのだ。このときはどうも十数メートルの距離がおっくうに感じられて、行動を明日に回してしまう。そしてその都度深く溜め息をついている。
時計に一瞥くれて、十時十五分であると確認するや否やシャワーを浴びて汗を流し、下着姿で部屋に戻ると、真っ暗な部屋に光るものを見つける。それはテーブルの上に放り出していた携帯電話で、ああ、とうめきながら機械的に文面をチェックしようとした。だが喉の渇きが耐えがたく、開きかけた画面を閉じる。
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、ひと口あおる。シャワーで火照る体が冷やされ、ぐはあと息が漏れた。
それから扇風機を動かし、桐原はテーブルに食事を並べる。昨日の作り置きである煮物と、水菜とトマトのサラダ。冷凍して置いた白米をレンジであたため、缶詰の鯖を開く。食事の準備が整うと、またビールをあおって扇風機の前に陣取った。
ようやくここで携帯電話を確認し、メールボックスを開く。迷惑メールに埋もれていた件名は、「東高校第四十二期三年四組・クラス同窓会のおしらせ 参加者確定」となっていた。
そういえば来月だったな、と思い出し、けれど桐原はメールの送信者である「阿取」という男の顔は思い出せない。
道場に通い始めたのは、中学一年のころだ。特に深い理由はなく、体育の授業で行った剣道の際に竹刀の格好よさに憧れ、特に深い考えもなく親と共に近所の道場の門を叩いた。
まあ実のところそこは剣道ではなく剣術の道場だったのだが、竹刀や木刀に触れるのならばどちらでもよかった桐原は、以降今日まで十五年にわたって剣の道へ身を置いた。就職に際して家を離れ、隣の隣の市へ移り住んだいまも同じ師範へ師事し続けている。
興味本位ではじめ、もちろん最初のうちは苦労もあった。稽古が辛く投げだそうと思ったこともあった。しかし生来の負けん気の強さがためにやめるとは言えず、がむしゃらに続けるうち面白みを覚えるようになった。三年目となった高校のころなどは週に五日、猛烈に稽古に打ち込んでいた。
……そのために部活もせず、交友も道場の中ばかりとなっていたので、桐原には高校時代の思い出というものがあまりない。
よって同窓会と言われてもあまりぴんとこなかったのだが、それでも出席に丸をつけたのはひとつ下心があったからだ。桐原は交際していた相手と別れてから二年が経っており、ひとりでいる期間が長引いている。べつにそれで困っているわけではないのだが、機会になるならそれもいいと判じた。つまらなければ帰るまで。
同窓会の前日、桐原は実家に帰って卒業アルバムを取り出し、念のためクラスメイトの顔と名前を頭の中に一致させた。ついでだからと将来の夢なる頁もめくってみたが、自分の夢は「師範に勝つ」となっていた。この先も到底、実現できそうもないことを書いている。
迎えた当日、桐原は簡素なポロシャツに色の薄いボトムスを穿いて、実家をあとにした。母親からは「たのしんでいらっしゃい」と言われたものの、果たして話題が合うのかどうか。うまくいかなければそれまでだ、と半ばあきらめたような覚悟を固めて、桐原は駅前の居酒屋へ向かう。
夜七時から、と言われてはいたものの、日は明るく差しこむ熱は強い。足取りは自然重くなる。
会場については場所の他、卒業式のときに集まった店、との情報が記載してあったが、桐原にはあまり思い当たる節がない。本当に記憶が薄いのだな、とあらためて確認した。
そわそわとしたまま、ビルの一階に入っている店舗の暖簾をくぐる。広く、座敷の席はすべて貸し切りにしているらしい。十数人が集い、なにやら談笑している。そのうちの一人、頭を坊主に丸めているいかつい男が、桐原に気づいて片手をあげた。白いワイシャツが、はちきれそうな腕だ。
「おう、桐原、だよな」
「すごいな。すぐわかるのか」
「あんま変わってないなお前。すぐわかったぞ」
低く恫喝するような声だが、背はあまり高くないので威圧感はない。男はからからと笑いながら自分を指差して、「おれだーれだ?」と問うてきた。
「佐藤」
桐原は靴を脱いで座敷へあがりつつ、あらかじめ用意しておいた回答を投げる。男はますます笑みを強めて、周りの女にアピールするように両腕を広げた。
「佐藤はちがうな。向こうのほうにいるけど」
「ちがうのか。佐藤か鈴木か高橋といえばどれかは当たると思ったけれど」
「確率高いほうから試してんじゃねえよ。え、本当にわかんないのか?」
「冗談だよ。阿取だろう」
「お、よかった。正解だ」
よかった、アルバムを見ておいて。心中で安堵して、桐原は思った。
とくに話したい人物もいなかったので阿取の隣へ腰を下ろし、あらためて見回してみると、女が少し多い。けれど大学という過渡期を経て大半の人間がいろいろと落ち着いたのか、ぱっと見て名前と顔が一致しない人間は少ない。これならまあ、なんとかなるか。そう思い、桐原はおしぼりで手を拭いた。それから外食のときの習慣で、これを折り畳んでペンギンを作った。
「なに、それ?」
対面に座っていた女が問いかけてきた。大き目の瞳が目立つ、まなじりの垂れた優しげな面立ちをしていた。貶すべき部分より好感を持てる部分が、少しだけ多い顔だ。桐原がおしぼりを持つ手元へ目を落とす際に見たところ、胸の膨らみはなかなかのものだった。
それから彼女の口元の、ちょっと突き出た八重歯を見て、思い出す。髪は高校のころより短くなり内側へ巻いた形となっているが、彼女はたしか聖。ひじり、という読みがめずらしく、すぐに覚えなおすことができた一人だ。
「これ、ペンギン」
「受けを狙って作ってるの?」
「受けたことはないけどな。小さいころ、東通りのラーメン屋のおばさんから、待ってる間暇だろって教えてもらっただけだ」
「東通りってあれかな、青海軒ってお店?」
「そうそこだ」
「わたしもよく行ってた。あ、ところで、わたしがだれかはわかってる?」
「佐藤鈴木高橋のどれかではないよな」
しばらくはそこかしこで、このように名前当てゲームが行われる。
やがて人数が揃ったところで、阿取が立ち上がる。時刻は七時十分だった。
なにやら乾杯の音頭をとるまでにいろいろと喋り、これに対して男たちが野次を飛ばし、女たちが阿取を乗せる。こんなやりとりが三分ほど続いて、やっとのことで桐原はビールに口をつけることがかなった。正面の聖も乾杯、とビールジョッキを差し出してきたので、かつんと打ちあわせておく。
すぐにめいめい席の移動をはじめて、聖も正面からいなくなった。桐原は面倒だったので動かず、来る者拒まずで話をしながら周囲を見回した。見たところ、そして周りの話を聞いたところ、既婚者は出席している二十三人中十人。うち六人が女だった。
男の既婚者というのは、あいつがそうだと示されると、たしかに結婚できそうな印象が感じられた。雰囲気や物腰、そして顔立ちに、「彼ならば結婚できるだろうな」という納得を覚えさせられた。
逆に女の既婚者に対しては納得などなかった。ただ実感だけがそこにある。周囲の、自分よりも容姿に恵まれていたはずの連中が結婚できていない事実に対して、かすかな優越感をのぞかせる口元。あるいは悪意をのぞかせる目元。ただそれを見て、直感するだけだ。
ともかくも、残り十三名の動きが重要だった。席の移動は条件と相性をたしかめるための儀式じみてきている。桐原は別段独身でいることに深く悩んだ末にここへきたわけではないが、中には焦っている人もいるようだった。これは男女問わず。
桐原の周りにも、実にいろいろな人と話が飛び交った。趣味や近況の話題に織り交ぜて、さりげなく職種や家族構成などが訊きだされてゆく。このやりとりに疲れたのか、放心状態で固まる男たちが現れる。そこへまた男が女を連れてゆく。
「トヨタで働いてるって」「でもそいつディーラーだぜ」「じゃあそっちは?」「俺は保険の営業」
このように最適化、単純化されて会話が進み、いずれ席が離散する。移動の間の無心な表情は、蟻の行列を思わせた。
「桐原くんはなにやってるんだっけ」
戻ってきた聖は、席に着くなり直接に問うてきた。彼女の顔にも、若干の疲れが見られた。
「弁当工場。社員。現在、主任」
「あ、ごめんね。疲れてるみたいだね」
ぶっきらぼうに必要事項だけを返す。おそらくはアルコールによる酩酊のせいだろう、と、自分の不器用な返しに対して思う。彼女の頬の紅潮は、アルコールのせいなのだろうか。
「べつにいい。代わりに、こっちも同じこと訊くけれど」
「わたし、は、経理かな。実家の解体工場で」
「へえ。自営業なのか」
「うん。一時期危ない時期もあったけど、いまは持ち直してるよ」
「そうか」
そうか、と無意味にもう一度繰り返して、桐原はなにを話したらいいかわからなくなった。やはり、アルコールが回っていると思った。顔の赤みがすこしひいて、聖が続けた。
「あの」
「うん」
「桐原くんは、煙草吸う?」
「いや。吸うと息が切れるし、剣が振れなくなるだろうから吸わない」
「あ、まだ剣道やってるんだ」
道じゃなく術だ、と訂正するのも面倒で、まあ、と曖昧に返事をする。そうか、と今度は聖がうつむいて黙り込み、桐原が店外の誘蛾灯にたかる虫を見つめているうち、顔をあげた。
「じゃあよかったら、連絡先交換してくれない?」
「ああいいよ」
互いに同意を求め、レベルを合わせる沈黙のあとに、二人は携帯電話を取り出した。
情報を交換し合う時間のうち、桐原は小さいころのクリスマスを思い出した。友人と集まって、期待と妥協の入り混じったプレゼント交換を行った。中身の知れているプレゼント交換。どこかこの同窓会は、それに似ている。
他にも何人かと話し、連絡先を交換したが、長く続く繋がりではなさそうだと桐原は思った。
また言い寄ってきた人間は聖のほかにいなかったため、少しばかり心情が寄せられたということもあり、聖以外には自然と連絡をとらなくなった。
そこから二週間、気が向いたらメールをやりとりする関係を続け、次の土曜日にデートをしよう、と桐原から誘いをかけた。聖は予定をあけておくと返してきたので、久方ぶりに桐原は愛車を洗った。防具や竹刀をいつも載せているのが気にかかり、シートの脱臭まで念いりに行った。
相手に会うことについて浮足立っているということはない。準備など手間暇をかける義務が生まれたことが、生活と行動にハリを与えてくれた気がしただけだ。
待ち合わせていた自然公園の駅前に、桐原はフィットを停める。
「やあ、ひさしぶり」
男の子のような話し方で現れた聖は、落ち着いた色合いのフレアスカートに透かし編みニットのカーディガンを合わせていた。予定調和のような足取りは、桐原に安心感を与えてくれた。
「家の方まで迎えに行ってもよかったけれど」
「まだそこまでは、ね」
まだ。言葉の端を拾って、桐原はふうんと伸びやかにうなずいておいた。
「じゃ、お昼食べに行こうか」
「そのあとは?」
「食べながら考える。考えてみたらこの前聖と直接話した時間は、一時間にも満たないから」
「直接話してたらどこに行きたいかわかるようになるの?」
「まあ少なくとも行きたくないところはわかると思う。顔色を見ればな」
ウインカーを出して、桐原はフィットを走らせた。
……聖。聖、か。特に考えなく口に出したものの、一時間も話したことのない相手を呼び捨てにするのは、妙な気分だった。
この前話した時間、などという区切りをしたが、実際には高校からいままでの時間を総合しても一時間満たすかどうかだろう。そのような相手を、同じクラスだったからという理由で呼び捨てにできる。つくづく高校は不思議な空間だと思った。
「仕事では車、使ってるの?」
掃除を行き届かせておいたからだろうか。聖は車内が綺麗であることへの疑問を、そのような問いに変換した。
「いや、職場への行き来くらいしか使っていない。弁当工場は車の出入りが激しいけれど」
「ああ、運搬のためにトラックとか」
「うん。そのために高速道路沿いに建っているよ。土日も基本は休みでも、新製品の開発発注があれば呼び出しがかかる」
「今日は大丈夫?」
「呼ばれたら進路変更して、お昼はうちの弁当にしようか」
お弁当はちょっとな、と苦笑いをこぼす聖を見て、桐原も笑っておいた。そうしておく流れだと思ったからだ。
車は国道に乗り込んでいく。桐原の実家周辺、この町もいま桐原が住む町と同じく、幹線道路沿いにしか発展していない。一本ずれれば田畑が広がる。そんな、見飽きた町並みをいつまでも進むというのも難があると思ったので、桐原は道を外れた。山の方にある、カフェとレストランの中間といった体の店を目指していた。
途中高速道路の下を通り、モーテルが立ち並ぶ辺りを過ぎる。意図していたわけではないので、桐原は聖の様子を横目でうかがった。けれどなんの感慨もわかない顔をしていたので、無理なことはするまいと決めておいた。
すいた道をするすると北上して、車はつづら折りの山道をのぼる。
「山ってあんまり来ないなあ」
「登山とか?」
「そうじゃなくて。ただ旅行するのでも、山のほうはあんまり来ないの」
「虫が苦手なんだな」
「それもあるけど……。でも、こうやって来てみると、案外気持ちがいいね」
窓を開けて、風に髪をなびかせた。杉の林の向こうに、桐原たちがあとにした平野部が見えていた。ぶん、と音がして、聖がひゃッと悲鳴を上げる。どこかに隠れ潜んでいたらしいカナブンが、薄い翅を広げてどこかへ飛んでいった。山でなくても、虫はいる。
数台の車とすれちがいながらのぼり行き、道なりに進んだ先で目的の店へつく。川を挟んで鉄橋をわたった向こうにある、ログハウス風の店で、赤錆びまとう看板には「ヌーン・リバー」と筆記体で彫られていた。桐原はかねてから用意しておいた言葉をつぶやく。
「朝食じゃなくて、昼食だけれど」
「一文字ちがうと大ちがいだね」
魚が跳ねるような切り返しで、聖は言った。
じわじわと身の内に広がる蝉の声から遠ざかり、からりころりとドアベルを鳴らして、二人並んで店に入る。温度をとざされた暖炉と、なめらかな木製のテーブルが目に入る。窓際の、空調が直接に当たらない席へ、桐原は進んだ。もちろん先に聖へ椅子をすすめる。
やってきた、にこやかな笑みをたたえた初老の男からメニューを受け取る。ランチは二種類あったので、それぞれちがう種類を注文した。男は店の奥へ戻っていき、キッチンと思しき場所へ入っていく。今日は何人で店を回しているのかな、と桐原は考えた。考えながら、またおしぼりをひねり、今度はあひるを作った。作り方は、ペンギンとさして変わらない。
「また、それ」
「あひるだ」
「いろいろ作れるんだね」
「ほかには作れるものがない」
口の端を釣り上げて、桐原は言った。聖は笑っていた。
「わたしはお菓子とか作れるよ」
「おしぼりで」
「まさか。仕事で時間あくと、ぱぱっと作るの。ケーキとか。会社の人にも好評」
「いかにも女性らしく見えるよう、こしらえた趣味に聞こえるけれど」
「よく言われる。でもネットにレシピをあげたりとか、だれかにあげたりとか。そういうので人の反応見るのは楽しいと思わない?」
「おしぼりであひるとペンギンを作った、なんて言っても食いつく人はいない」
「わたし」
「ああ、そうだった。いるところにはいるもんだな」
おひやを一口飲んで、桐原はうなずく。聖は身を乗り出していて、机の上に置かれた桐原の手を見ていた。
「指が長いし大きいね。素振りしてるとこうなるんだ?」
「いや、これは元から。素振りで変わったのは、こっちだ」
手を裏向けて、掌をさらす。まめが並び、掌紋が擦り切れた掌だ。薬指と小指の付け根が一番硬く大きく膨らんだまめを見せており、黄色く変色している。へえ、とささやいて、聖は遠慮もなく掌に触れた。彼女の指先はなめらかだが、爪にも血色が無い。百日紅の枝先のようだった。
「すごい」
「十五年続けているからな」
「人生の半分くらいじゃない」
「でもここ最近はサボりがちだよ。体の動かし方が、わからなくなってきた」
「楽しくないんだ?」
特に意図なく問うたのだろうが、聖の言葉に桐原は内心で首をかしげる。楽しくない、楽しい、などと考えて剣を振っていたことが、いままであっただろうか。最初はどうだったのか知らないけれど。
答えに窮して、まあ、と濁った声を出す。聖はそれで納得したようで、運ばれてきた前菜に目と手を移した。桐原も男の手から受け取り、彼の、黒くずんぐりとした指先を注視する。彼はこの運ぶ作業に楽しみを見出しているのだろうか、と。
小皿に載ったサーモンのカルパッチョは、オレンジソースの酸味を舌に広げてつるりと喉に滑り込んだ。うんおいしい、と聖は言い、それはよかったと桐原が返す。
「あ、さっきの話だけど」
「どのさっき?」
「こしらえた趣味、ってところ。さっきははぐらかしたんだけど、あれは実のところお見合いのためにつくった趣味なんだよね」
「お見合い」
「まあそういうのもしてたよ、してるよ、ってこと。話しておかないと、やっぱりフェアじゃないかなと思ったから」
フォークを持った手をくるくる回しながら、聖はこともなげに言った。フェアとは、なにに対してだろうと思ったものの、言葉はそのままにして中身を探ることなく飲み下す。
「別に、気にはしないけれど」
「そう?」
その後運ばれてきたシュリンプサラダを、もくもくと食べていた。桐原は水をあおった。それから尋ねる。
「じゃあ本当の趣味はなんだい?」
「映画観るの。ホラーばっかりだけど」
「邦画?」
「ううん、洋画ばっかり。こわいの苦手だから」
「なにを言ってるやらわからない」
「日本のホラーって、陰湿な感じじゃない。恨みはらさでおくべきかー、なんて。ひるがえって、外国のホラーはこう、なんていうの。ごはん食べてるときにあれだけど」
「だいたい予想はつくから、どうぞ」
水を一口ついばむように飲んで、聖はナプキンで口元をぬぐった。
「ありがと。で、外国のは、血と肉があふれるスプラッターとか、びっくりさせるような演出とかで、なんだか一種滑稽じゃない。そういうところを逐一、『こんなのヘン』ってひとりで指摘するのが楽しいの」
「わからなくもない」
「感情が突発的にあふれると、どんな感情でも全部、笑いにつながっちゃうところがあるのかもね。笑いも一瞬で、発作的に起こるものじゃない? だから怖くて驚いたときでも、思わず笑いがこみあげてきちゃうんじゃないかな。日本のホラーはその点、だめだね」
「だめなのか」
「ひたひた近づいてくる感じ、じわじわ押し寄せてくる感じ、積み上げて塗りこめられてく感じ。だから感情も突発的にあふれなくて、ただただ怖いって実感させられる」
「怖いの苦手なんだな」
「お化け屋敷は大丈夫だけど。今度いく?」
「怖いのは苦手だ」
断って、桐原は海老を口にするべくフォークを取った。
聖と食事をし、ドライブを楽しんだ翌週の土曜日、桐原はひさしぶりに道場を訪れた。自分の気持ちがどうなのかを、確かめようという思いがあった。
礼をして入った道場の中、皆の視線は冷たかったものの、桐原は気にせず素振りを行う。正眼に構え、素早く振り上げ、想像上の相手の左小手を狙う。しばらく同じ動作を繰り返し、やがて切っ先を天へ向け、正眼から八相に構えを変える。ゆるゆると、握りは軽く留めた。右手はほとんど力を抜いて、人差し指など柄に触れてさえいない。
背筋を伸ばし、頭頂部から股下を抜けて地面まで、まっすぐな棒が通っているように立つ。引いた左足と、前に出る右足。どちらも等しく体重をかけ、膝は軽く曲げておく。
ここから右足を半歩進めるべく、中空へ浮かせる。途端に重心は斜め前方へ落ちていく。右足が着地するや否やというところで両腕が動きだし、刀身を引く左手に沿うように右手が押し込む。着地と剣筋がほとんどひとつの拍子の中に完結し、木刀が打ち下ろされた瞬間には、両手の指先までをしかと締める。
相手がいたのなら、袈裟がけに腰まで斬り下ろすつもりの一撃だ。けれど風切る音が、手に残る感触が、理想にほど遠い一太刀であったことを物語っていた。
無駄な力みを抜かなくてはならない。腕の力を抜き、体重が移動する勢いに載せて振るうのだ。そう頭では理解していても、どうにも体は動いてくれない。
十五分ほど続けたところで、師範がやってきた。
「桐原」
七十に近い齢の師範は、桐原よりだいぶ低い位置に目線がある。くぼんで皺の中に埋まっている瞳が桐原の手と顔を素早く眺めまわし、最後に胸へ視線を向けると、いたわるような声音で言った。
「今日はもう、帰りなさい」
「え、いや……、まだ来たばかりでして」
悪戦苦闘をはじめたばかりだ。だが師範の目は厳しく、これ以上の口応えを許さなかった。
「帰りなさい」
ここ一カ月ほど、道場通いを怠けていたことについて怒られているのだろうか。そのように考えて、心の内に「月謝は払っているのに」という反感が巻き起こった。だが次に師範に告げられた言葉で、反感もなにもすべての気持ちがしぼんだ。
「いいから、帰りなさい。お前が集中できないのなら周りが危ない。木刀も刀です。それが理解できていないのだからここにいてはいけません」
きっぱりと断言し、師範は背を向けて去っていった。水を打ったように静まり返っていた道場に、また踏み込みと風切る音が響き始める。
集中できていないのだろうか。自分では懸命に考え、集中しているつもりだったのだが。
とはいえ師範に言われた以上はもうここにはいられない。木刀を片手に提げ、闇雲に礼だけして、道場から出ていった。だれもいない更衣室の中、ロッカーをあけると、中に貼り付けてある鏡を通じて自分と目が合った。
着替えを終えて出てくると、橘の木に大きな蜘蛛の巣が張っているのを見つけた。女郎蜘蛛は破れた巣を修繕しており、わたわたとせわしなく動いている。竹刀の先でつついてやりたい、そんな子供じみた暴力の考えが浮かんだが、当然実行はせずに桐原はフィットを停めているパーキングへ向かった。
夜路の中で、ふっと思い出したように携帯電話を取り出す。新着のメールは一件。聖からだろうか、と期待を込めて開くと、差し出し人は阿取となっていた。いまからちょっと飲まないか、という、軽い誘いの文面だった。メールが届いたのは二十分前。桐原はちょっと足を止めて、もう目の前にあるフィットを眺めた。それからパーキングの料金表を見て、深夜の間停めていてもさほど料金に差はないと知る。
後部座席のドアを開けて、防具袋と竹刀袋を叩きこむと、実家のほうへ行く道を歩き出した。
広い道に出ると、うろうろと所在なさげに走っていた個人タクシーをつかまえる。十五分ほど先にある実家近くの駅を伝えて、桐原は阿取にメールを送ると、一度目を閉じた。これで寝入ってしまったのか、次に目を開けたときにはちょうど、駅についたところだった。
夜闇にまぎれる高架下の、呑み屋の並びの中に、阿取がいるという店の名があった。安楽苑、と草書体で記されている。
引き戸を開けて入ると、割烹着を着た女性がカウンターの中で動きまわっていた。テーブル席が三つに、カウンター席が四つ。狭い店内、一番奥のカウンター席に阿取は座っていた。
「よお」
「ああ」
「来るとは思ってなかったぜ」
「自分でもそう思う。ただ、今日はちょうど時間があいていたから」
まあ座れよ、と席をすすめられ、阿取の隣に腰かけた。後ろのテーブル席では、前歯が一本足りない老人が渋面をつくり、店の隅にあるカラオケの機械をにらんでいる。桐原は店を切り盛りしているらしい女性から冷たいおしぼりを受け取り、手だけでなく顔までぬぐった。それから尋ねる。
「阿取お前、今日は一人なのか」
「騒がしいのはこの前やっただろ」
「でも、数人単位で集まっていると思ってた」
「そうなってたかもしれねえな。本当のこと言うと、だれかれ構わず連絡したんだよ。その中でひっかかったのが、たまたまお前だけだったんだ」
すでにビールをあおっているのか、阿取の前にはジョッキが置かれている。お通しと思しき小鉢も空になっており、灰皿には吸いがらが四本ささっていた。阿取はげっぷをひとつして、失礼と言いながら口元を押さえた。桐原は、阿取の横顔を見ながら尋ねる。
「だれでもよかった、とは言うけれど、あまりお前と話したことないぞ。それでもいいのか」
「ああ。なんとなくだけど、おれはお前と一度話してみたかったんだよ。さて、なにを飲む」
「おすすめは」
「さあな。おれもここへ来るのははじめてなんだ……、日本酒は飲めるか?」
「よほど安ものでなければな」
「じゃあきまりだ。あとは……肴に、なにか頼もう。ほっけに刺身、筑前煮なんかでいいか」
「いいな」
それぞれに、酒を頼む。店の女性は枡にグラスを置いて、こぼれんばかりに注いでくれた。二人してグラスをとり、音を立てない程度に縁をぶつける。ぐいと一口含み、甘く香る酒に喉を潤した。
すぐさま、習慣なのか阿取の左手がライターへ伸びる。だが寸前で桐原に気づいたのか、手を停めた。同窓会の席で嫌煙であると聖に語ったのを、聞いていたらしい。灰皿を遠ざけて、ライターをポケットにしまった。
「でもお前、来るのはやかったな。実家離れて暮らしてるんじゃなかったか?」
「今日は道場に来ていたからな。道場は実家近くだから、二週に一度は実家で夕飯をとることもあるんだ」
「ほお道場。まだ剣道やってんだな」
「剣術だけれど。続いてはいるよ」
「はん。仕事もなにも順風満帆か」
「とりあえず仕事は、いまのところ主任だ。班長はまだ遠い」
「班長?」
「うちの職場では、係長待遇のことを班長と呼ぶんだ」
「あんまり偉そうに聞こえねえな、良くも悪くも」
阿取はつぶやき、枡を傾ける。桐原は黙ってそれを見ていた。そこへ運ばれてきた刺身を前に、阿取は割りばしでシソの葉をつまんだ。醤油皿にひたしてこれをむさぼり、飲み下すと桐原を向く。
「おれはまだ新米だからよ。これからどうしたもんだか」
「新米、ああそうだったな」
「この前話したっけな」
すわった目をして阿取は言う。彼は高校卒業後にフリーター生活を三年送り、それから大学に入って卒業、就職とやってきたのだと、先日の同窓会で聞いていた。つまるところ、まだ正社員として働いてからは、三年しか経っていない。
「マフラーを売っているんだったか」
「バイクのな。バイクいいぞ、お前は乗らないのか?」
「車一台で十分な気がしてる」
「乗ってみろ。感覚変わるぞ。マニュアル車と同じだ、自分で操ってる感覚が強くていい。オートマなんて、機械に動かされてる気がしてだめだぜ」
笑いながら、赤貝の刺身をつまむ。桐原も自分の前にやってきた筑前煮へ箸を伸ばし、もくもくと一口かじった。
「バイクは大学入ってから趣味で乗り回すようになってよ。改造とかも繰り返してたから、自分に合ってると思ったんだ。でも三年経っても、やることなすこと覚えることが多すぎる。趣味は趣味だけのままにしときゃよかったかもな。お前は趣味なんかどうだ?」
「趣味か」
「剣術、趣味じゃねえのか。おれとちがって、仕事にしたわけじゃないだろ」
「でも趣味かと言われると」
「だったら惰性で続けてんのか」
いやにからむような話ぶりだった。そう桐原が考えていると、店の女性が後ろを通りすぎざまに「この人、だいぶ飲んでますよ」と耳打ちしてくれた。残されたジョッキは一杯だけだったが、それ以前にいくらか酒が入っていたらしい。へんな気を起こしたせいで面倒なところに来てしまった、とため息が出た。
「なあお前、同窓会、またやりたいか?」
なんの脈絡もなく、唐突に話を振られる。下手な返しをしても無駄だと思い、まあ、と曖昧な返事をしておく。阿取はそれでなにを理解したのか、そうかとささやいて腕を組む。
「おれさ、ここんとこずっと、同窓会が趣味だったんだ」
「旧友に会いたかったということか?」
「いや、企画してるのが楽しかったってことだよ。みんなわりと楽しそうだったしな。やった甲斐があった」
「そうだな」
聖のことを考えて、桐原はうなずきを返した。
横で背を丸める阿取は聞こえているのかいないのか、うつむいたまま刺身の皿を眺めている。
「みんな、変わってたよなぁ」
「そうか?」
「変わってたさ。十年も経ってるんだぜ」
当然といえば当然に過ぎる話だった。当たり前だろうと桐原は返しそうになったが、その前に阿取が言葉を継いだ。
「おれは周りが変わってねえって言い聞かせなきゃ、耐えられないくらいだ。お前と同窓会で会った時にあまり変わってない、と言ったのも、自分に言い聞かせてただけさ。お前も、ずいぶん昔と変わったもんなぁ」
桐原は高校のころの記憶が薄いため、昔と今を比べられるほどに阿取が自分と話していた事実に驚く。当時の記憶を手繰り寄せようとしても、道場の記憶ばかりがよぎって、集中できない。
阿取は背筋を伸ばし、正面の厨房を見ながら枡を傾けた。
「みんな変わってんだなあ。おれだけ、なにも変わってない気がする」
「そうか。そんなに、変わった気がしないけれど」
自分にでも、阿取に対してでもないような、どこか他人ごとじみた遠さで言葉を投げる。ほかにやりようもなかった。だが阿取はすでに酔っ払いに特有の、あの周囲に耳を塞いだ様子を見せていて、かぶりを振ってうわごとのようにうめいた。
「十年だぜ。この十年で、おれはなにしてたんだろう。みんなと会って、その変化を見てたら、おれは自分がなにしてたか、よくわからなくなってきたよ」
「気のせいじゃないか」
「気のせいなんかじゃねえよ。最近なにかを成し得た実感ってのが、わかないんだ。そして成し得る前に、意味を求めだす。それじゃだめなんだろうと、もちろん頭ではわかってんだよ」
わかってるんだよ、と繰り返して、阿取は急にこちらを向いた。
「お前は十年、なにをしてたんだ?」
「唐突だな」
「ずっとだれかに訊きたかったんだ。そしてお前が、たまたま一番近くにいた。運が悪かったと思ってくれ」
答えを得るまで退かない態度で、阿取は桐原へにじり寄った。とはいえぱっと回答が浮かぶような問いかけでもなく、桐原はしばし酒を口にし、考えをめぐらす。十年。
だがそもそも阿取の言う十年の起点となる高校のころの記憶が、桐原にとってはひどく薄いものなのだ。返答に窮した桐原は、目を逸らしながらこうつぶやく他ない。
「たぶんお前とは、ちがうものを見ていた」
「なんだよ、ちがうものって」
「目指すものがちがったんじゃないか、ということだ」
「だからなにを目指したんだよ」
矢継ぎ早の質問に対しもったいつけるように、桐原はまた酒へ擦り寄った。その実、頭の中にはなにも思いつかない。仕方なく、いい加減な言葉をでっちあげる。
「剣術や、それを通しての交流を見ていた」
「やっぱり、剣術なのか」
口早に、唾を飛ばして阿取は確信を得ようとする。なにをそんなに急いているのか、と桐原がよく見ると、阿取の口元に、見覚えのある形を見た。
それは同窓会で何人かの女に見られた、酷薄な笑みだった。
剣術が役に立ちはしないことなど自分でもよくわかっている。だが他人にそれを指摘され、積み上げたものを否定されることは、いたく心に響いた。
「趣味でもなく、楽しくもないんだろ?」
じゃあやる意味もない、と言って、阿取はせせら笑った。桐原は黙り込んで、彼が遠まわしに差しこんでくる悪意ある言葉に抗した。頭の中には、師範の言葉が渦巻く。
桐原の師事する流派においては、鞘内の勝、すなわち抜かず制する理合をこそ至上のものとする。斬ること斬られることを深く知り、その上で抜かぬ。常に己の腕に問いかけ、剣で以て剣を切り棄てる。
「でも勝ちにはこだわるんだろ?」
価値、と頭の中で変換して悩み、勝ちだと気づいてまた悩む。阿取は的確に、桐原を揺さぶる言葉を選んでいた。もはやなにを言うこともできなくなり、そこからはしばし、亀のように首をすくめて阿取の言葉を受け流す。
しばらくして話は終わると、阿取は「おれが持つよ」と伝票を手に取った。桐原は無言でこれを見つめ、奪い取ろうかと悩んだが、結局手は伸びなかった。
こうして解放されて帰路についた桐原は、実家に逃れた。急な来訪に父母はどうしたのかと尋ねてきたが、酒を飲んだので車で帰れないだけだと告げてかつての己の部屋に向かう。布団はなかったが、ほこりっぽい座布団があったので、これを畳んで枕に代える。久々に訪れる自分の部屋は、なにか抹香のようなにおいが感じられた。
暗い部屋の中で桐原は携帯電話を取り出し、阿取の連絡先を削除しようかと考えた。だが消したところでどうなるわけでもない。うだうだと悩み続け、こんなことにさえ悩みを覚えさせる彼に対して怒りが湧いてきた。遅まきながら、桐原は自分が怒っていることに気づいた。
以前はこんなときこそ、素振りをして気持ちをまぎらわせていた。怒りのままに剣を振るい、次第に集中し、体の動きに耳をすませる。剣に精神修養などという目的を感じたことは一度もないが、こうして気を落ちつけられるものがあることは、悪くないと思っていた。
だがいまはその剣こそが原因なのだ。楽しさもなく、やたらと強さを求める時期も過ぎた。底が見え、いまはあきらめを肌で感じたくないだけ。
桐原はじっと身を丸めて時間が過ぎるのを待った。眠ろうともしなかった。夢を見ればなにかいやなものが見える気がしたのだ。だから努めて、なにも考えないようにして、朝を待った。何時だかわからない夜中、携帯電話が光り聖からのメール着信を報せていたが、桐原は光が消えるまでじっと見つめるだけだった。
素振りをやめて、道場通いもやめて、あっという間に一カ月が過ぎていった。腕は衰え、体は強張っていた。職場でライン作業の人々と働いている最中、体の伸びが悪くなっていることに驚いた。
「三十過ぎると急に体衰えてくるぞ」
と、含蓄のある言葉を肩越しにかけてきたのは、三十半ばの班長だった。桐原の現状を察したわけではなく、あくまでも三十路まで二年を切っている後輩に対してのただの勧告だったのだろうが。実際に己で衰えを自覚すると、近い将来の現実として認識された。
自由な時間が増えても大したことはしていない。そもそも、素振りをしていること自体が自由だったのだから当たり前だ。
一日に一時間半をかぞえていた素振りの時間の半分は、ぼうっと酒をすすり、ニュースを見る時間になった。そしてもう半分は、職場における昇格試験の勉強に費やされた。とはいえどちらの行動も元から日課に組み込まれていたもので、比率として増えただけに過ぎない。
大きくはなにも変化のないまま、桐原は日々を消化するだけに生きた。これらの行動の合間に、新聞のスクラップでもつくるように、聖とのメールのやりとりが挟みこまれた。彼女は明るく、話題が豊富で話していて飽きなかった。小気味よく刻まれる会話は、音楽のように流れる。
だが彼女は桐原に対して、どこか倦んだ様子を見せていた。対面する際に表情へ現れるわけでも、会話の間に出るわけでもなかったが、静かに幕が降り続けているような感覚を常に味わっていた。
ほどなくして桐原は、彼女自身から「わたし、阿取くんとか高藤くんとも連絡とってるの」と告げられた。彼女を最寄りの駅前まで送り届け、車から降りる直前のことだった。なんとなく勘付いていたことではあったが、当人の口から告げられることには、苦い思いがあった。
なぜ教えてくれたのか問うと、フェアじゃないから、と。彼女は二度目となるその言葉を、まるで信条であるかのように言う。
「そうか」
かろうじてそれだけ返して、桐原は助手席シートの背にかけていた左手を、ゆるゆるとサイドブレーキの位置にまで落とした。聖は謝る素振りもなく、じゃあね、とつぶやいてドアを開けた。
翌日からも、聖とは変わらずメールのやりとりが行われた。週末になって、他の男に会わない日は、彼女は桐原との時間をとってくれた。
ある金曜の夜、阿取や高藤もこのことを知っているのか、と桐原は食事中に尋ねた。間接照明の照らす店内、目元を陰に隠した聖は、ワイングラスを傾けながら首をかしげた。
「知らないよ。あの二人は、知ったら怒りそうだもの」
「知られる可能性はあるだろう。二人とも地元に住んでいる」
「でも、桐原くんともそうだけど、決定的なことはなにもしてないからねぇ」
とぼけたふりではなく、真の気持ちから言っているのだろう語調は、伸びやかに飛んで桐原の内に沈んだ。
また彼女を送り届けて、離れて、悩んだ末に桐原は聖と連絡を断つことに決めた。言葉にして伝えることははばかられて、ただ連絡を無視する日々が続いた。日にメールが四件、電話が一件入っていたが、八日目にして連絡はふつりと途絶え、それっきり桐原の携帯電話が鳴ることはなかった。
時間はますます、勉強などに費やされた。そのぶんだけ交遊が減り、お金が浮いた。月末になって、普段よりずいぶん多く残っていたお金に気づくと、桐原は箪笥の底にしまいこんでそっと引き出しを閉じた。部屋の隅では、防具袋と竹刀袋が薄くほこりをかぶっている。
桐原は掌を見て、まめが薄くなっていることを感じた。こんもりと盛り上がっていた皮膚はなだらかに抑えられ、柔らかさを取り戻しつつあった。
不思議となんの感慨もわかなかった。いつか、普通の人と同じ手に戻るのだろうと思い、けれどなにも感じなかった。
積み上げるものが変わっただけだと、そう理解していた。
指先が痛んで、腱鞘炎かな、と少し体を気遣った。