プロローグ
私が深く愛している彼女が、私の目の前に座っている。
部屋は一人暮らしにしては少し広い。
ワンルームであるが三十畳ほどの広さがある。
オフホワイトを基調とした部屋に、家具類はコンポーネントのスピーカーに至るまでが、薄い茶色の木柄に統一されている。彼女の性格を現すかのように、実に整然と部屋全体のコーディネイトがなされている。
一番のお気に入りは、今、彼女が座っているオフホワイトの三人掛けのソファーだった。
何でも、ノルウェーの有名な家具店のオリジナルソファーで日本ではあまり流通していないものらしい。私もそのソファーがとても気に入っていた。最近では、私の前であまり自己主張をしなくなった彼女が唯一、可愛げにそして少し自慢げにいつも話をしていたから……。
今も、そのソファーの窓寄りの左端に彼女は座っている。
私が気に入っている彼女がここにいて、私が気に入った部屋に彼女はいる。
まるで私の一つのセンスのように。
彼女の姿は、時間が止まってはいるが楽しげでもあり、このお気に入りの空間に満足しているかのように思える。
表情は読み取れないが、彼女の雰囲気がそうだと教えてくれている。
どこを見つめているのだろうか。
その視線の先もわからない。
何故なら、いつもと全く変わらない雰囲気で座っている彼女には今『顔』がない。
今にも何か語りだしそうではあるが、口がない。
今にもいつものようにこちらを向いて、やさしく見つめてくれそうではあるが、彼女には瞳がない。
振り向くと一番最初に見える綺麗に通った鼻筋も、左のほほにある二つの淡いほくろも、そこにはない。
華奢で長い手や足、細めのウエストや、少し小さめの胸、そして綺麗な淡い茶色に染められた手入れの行き届いた背中まで伸びる髪までもがいつもの通りあるのに『顔』だけがない。
まるで、そこから削ぎ落とされたように。
そんな、彼女の右足に触れながら毛足の長い絨毯に腰を下ろし、彼女との最後の時間をゆっくりと過ごした。
どれくらいの時間が経過したのだろうか。部屋に入ったときには、まだ高かった陽が傾き、既に部屋の奥には光が届いていなかった。
私は徐に立ちあがり、窓に近づいた。耳を澄ませば、雲ひとつない綺麗な朱色の景色から少しだけ波音が聞こえる。多分、眼下に広がる東京湾の波は、今の私の心のように穏やかなのだろう。
オフホワイトのカーテンを閉め、彼女にそっと近づいた。
首に手を回し、顎の下にかかった、ビニールをそっと解く。
彼女が着ている、オフホワイトのバスローブが、赤く染まらないように、最後に私が気を回した。
もう彼女の顔から、そのバスローブを汚すものが出ないことを確認して、ビニールすべてを取り除いた。
今になって彼女との別れがとても名残惜しい。
私は、今でも変わらぬ愛情を今後も彼女に抱き続けるであろう。
最後の気持ちを伝えるために、いや、再確認するために、彼女の頭にキスをした。
離れるのが少しつらかったが、私にはまだ彼女にするべきことがある。
彼女のバスローブの胸元を両手で少しだけ開く。綺麗に何度も洗った、ステンレスの包丁を右手に持ち、左手で喉元から胸元までを優しくなで下ろす。
喉から少し下に下がった、骨があるであろう少し硬い部分にそのステンレスの包丁をたて、彼女への最後のメッセージを切り刻んだ。バスローブが汚れないことを確認して。