よかった
布施さんはボク達二人の顔を見ると、さらにほほを膨らませた。
そしてボク達に背を向けると、キッチンを出ていこうとする。
ひょっとして、本気で怒らせてしまった?だとしたら謝らないと。
「あのっ、布施さん!!」
「……別に怒ったわけじゃない。トイレだよ。あたしがいない間もちゃんと作業するんだよ」
「……ああ、うん。わかった」
ボクはそう言ってうなずきながら、内心すごく安心していた。
ボクが何かを言う前に、布施さんはボクの心配を打ち消した。こういうことがあるたび、布施さんは周りが見えていて頭が良くて優しい人なんだとわかる。
「まったく、一言多いですよ清水さん」
「そういう石田君も笑いそうになってたじゃない」
そう返すと、石田君は困ったように笑った。
布施さんの言いつけどおりに、型にバターを塗る作業は続いていく。
「ちょっといいかな?」
そして布施さんがいないのを見計らったように、キッチンの中にある人物が入ってきた。
その人物は、眼鏡のよく似合う20代くらいの男性で執事服を着ており、平たく言えば布施さんのお兄さんだった。
「あ、布施さん……じゃない、うららさんのお兄さん?」
ボクが疑問形で返すと、
「ああ、うららの兄の布施信明だ。先ほどはろくに挨拶もできなくて申し訳ない」
「いえ、こちらこそ突然おじゃましてしまいまして申し訳ございません。わたくしは石田と申します」
「ボクは清水と言います」
布施さんのお兄さんのあいさつに、石田君が素早く整ったお辞儀で返し、ボクも会釈。
「君たち、うららの友達かい?」
お兄さんの質問に、ボク達はうなずいて返す。
「ええ、ボク達はうららさんと同じ部活に入ってる仲間なんです。今日もその活動の一環で、お家に招待してもらいました」
「部活!? うららが……そうか。驚いたなあ」
「驚いた?」
ボクが疑問形で返すと布施さんのお兄さんはうなずいた。
「うららは中学のころから部活どころか友達の一人もうちに連れてきたことがないから、心配していたんだ。実は」
お兄さんは苦笑する。
「小学生のころはうららも友達をよく家に連れてきたんだが、最近はめっきりだった。それもこれも俺がバカでアイツが頭がよかったせいなんだが」
「……と言うと?」
込み入った話のような気もしたが、ここまで聞いて聞かないのもおかしい気がした。
「君たち、アイツが『勉強大好き』なんて高校生にありえないようなことを言ってのけちゃうやつだのは知っているかい?」
ボク達はうなずいて返す。
「昔はアイツも勉強の虫なんかじゃなかったんだ。普通に普通の小学生だった。だけど、俺が頭が悪くて高校受験に失敗したせいで、アイツは変わっちまった。……いや変えられちまった」
……変えられた?
「うち親父が教育熱心で、俺もいろいろ期待されてたんだけど、結局頭悪くて高校も大学も三流路線で……。でもアイツは俺と違って優秀だったから、今度は親父がうららにやたらと期待し始めた。アイツ、『勉強好きだよ』とか言って、親父の期待にこたえてやたらと勉強ばっかりして、気がついたら友達連れてくることも、外に出かけることもあんまりなくなって……。だから、いつも心配してた。俺のせいで友達いなくなっちゃったんじゃないかって」
苦笑でかくしているが、その下にはつらそうな感情が隠されている。
「最近じゃ親父まで『うららは部活にも入らないし、友達も作らないのか』なんて言いだして。勉強しろしろ言っておいて、そのせいでうららが出かけなくなったらそのことをとやかく言いだして……。無責任だよな。まったく。……まあ俺も、人のこと言えないんだけど」
お兄さんの言葉を受けて、ボクは考えていた。
お兄さんの気持ちも少しわかる。ボクの両親も裁縫ばかりしているボクの心配をするから。
でも、ボクはそれ以上に布施さんの気持ちがわかるつもりだ。だからこれだけは言わなきゃならない。
「お兄さん、一つ勘違いしてます」
「……え?」
ボクの言葉にお兄さんは驚いた顔をする。
「お兄さんは布施さんが無理をして勉強してるって思ってるかもしれません。でも違います。布施さんは本当に勉強することが好きで勉強しているんです。実は今日だって、ボク達は布施さんの勉強のお手伝いをしているんですよ」
「勉強のお手伝いって……どう見てもただのお菓子作りじゃないか」
布施さんのお兄さんは困惑したように言う。
「そうです。今回のうららさんの研究のテーマは『究極のプリンを作ること』なんですよ。彼女はそれれを全身全霊、楽しんでやってます」
ボクは確信を持って言う。あんなに楽しげ今回のプリン作りについて語っていた人が、嫌々勉強しているなんてありえない。
「きっかけは確かにお兄さんのせいもあったかもしれないですけど、でもそのおかげでうららさんは今いろんな勉強を楽しんでますよ?だから、心配しなくても大丈夫です。むしろ応援してあげてください」
ボクはそこで一旦区切ってお兄さんの顔を見上げる。驚いているような、喜んでいるような、ほっとしたような、いろんな感情の混ざった顔をしていた。
「それに何より……」
ちらりと石田君の方を向く。石田君は微笑みながらうなずきボクの言葉を引き継いだ。
「……何よりわたくしたちは、うららさんの仲間でお友達ですから、その心配は不要ですよ」
小首をかしげて微笑む石田君。
しばらくの間キッチンには静寂が流れた。
「よかった」
ポツンと響いた言葉。
「君たちみたいな友達がいてくれて、よかった」
お兄さんは微笑みながら、ゆっくりとつぶやいた。