不適任コンビ 1
短いうめき声とともに、ホッパーは目を覚ました。
いや、実際は眠っていたわけではない。
悪魔は睡眠をとる必要がなかったし――もちろん、この悪魔は眠るのも好きだが――なにより悩みの種がふつふつと成長を続けているというのに、眠っている場合ではなかった。
ホッパーはただベッドに横になって、目を閉じていただけだ。
そして、あらゆるものを失い、あらゆる種の苦痛を味わうという、想像の淵から我に返った。
紺青に沈んだ部屋の中でため息をつきながら、ホッパーは両手で顔を擦った。
いっそ、なにもかも忘れて眠ればよかった。
起こりもしないことを考えて不安を増幅させるなんて、一体どこの悪魔の仕業だ?
しかし、考えずにはいられない。
恐怖と焦燥にすっかり絡め取られて、目を背けようがなかった。
一刻も早く魂を取り戻さないと、まずいことになるというのに。
そう、こんなところで――もとい、こんなに素敵な部屋で、横になっている場合ではないのだ。
ここは、ホッパーの自慢のすみかである。
オールドヨークの都心近くに建つ二十三階建てビルの、十三階だった。
もっと高いビルは他にもあるが、ホッパーはそれほど天国に近づきたくはなかったし、かといって悪魔らしく地下に住まおうなどとは微塵も考えなかった。
十三というのは、なんとも居心地の良い高さだ。
ちなみに、多くの人間が承知のとおり、十三というのは忌み数である。
十三番目は堕天使の数字で、最後の晩餐では裏切り者ユダの席であり、十三日の金曜日はジェイソン・ボーヒーズがチェーンソーを引きずって――いや違った、彼はチェーンソーを使わない。
とにかく、13はいつの時代も、人間にささやかな胸騒ぎを起こさせる。
それはオールドヨークでも例外ではなく、この街のビルのほとんどは、縁起が悪いとされる数字を避けて十二の次を十四としている。
ホッパーは、地上界に派遣されてすぐに、そこに目をつけた。
彼は新築されたマンションの十三階部分が十四階と名づけられる前に、フロア一帯を自分のテリトリーに収めると、ない魔力を振り絞って、そのフロアが存在しないと人間たちに思い込ませたのである。
なので、この高級マンションには事実上十三階は存在するが、誰も気付くことはない。
たまに、フードデリバリーのドライバーがミック・ホッパー氏宛ての注文を運んでくることがあるが、そこが十三階であるという事実も、ホッパーという人物にも、取り立てて興味をそそられることはなかった。
ただし、ずいぶんとチップを弾んでくれたという事実を除いて。
それ以来しばらく、彼はいかなるチップをも、ケチ臭いと感じるようになる。
こうして見事居住空間を手に入れたホッパーは、フロアにある二世帯分をぶち抜き、自分好みのすみかをこしらえた。
十三階でエレベーターを降りれば、そこが玄関だ。
まっすぐに延びる廊下は乳白色と黒いマーブル模様のアラベスカート大理石でできていて、各部屋に続く黒い扉が並ぶ。
そのドアの一つが寝室につながっている。
明かりのない天井に窓から差し込む夜の光が映り、その中で静かに回るシーリングファンが影を伸ばしていた。
この部屋のカーテンは分厚く、夜だけ開かれる。
都心において十三階は決して高い物件ではないが、ワイドビューからの眺めは悪くなかった。
ガラスの向こうに閉じ込めた街は、人間たちの手によって、チラチラと幻想的に瞬いている。
すぐ脇にはこのビルよりもっと高い建物がそびえているし、窓を開けば街からの騒音も響いてくるけれども、ホッパーはそれすらも気に入っていた。
一応悪魔というだけあって、ホッパーが見下ろしていたいのは光り輝く街ではなく、人間たちの営みだったからだ。
それと、車と。
もっとも、これも仕事の内とこじ付けられるのはその点くらいで、室内は趣味以外のなにものでもなかった。
消臭効果のあるオフホワイトの壁紙は、病院よりも清潔だ。
部屋の隅には空気清浄機兼加湿器がグリーンのランプを点し、毛足の長いじゅうたんには、塵ひとつダニ一匹許されない。
お気に入りの寝室の中で、ホッパーはもう一度浅いため息をついた。
そして仰向けに横たわったまま、広い部屋の真ん中に据えられたキングサイズのウォーターベッドの上で、しばらく絶望にふけっていた。
二世帯分の居住空間をぶち抜いた、自分だけの住処。
所有物に囲まれて暮らす日々。
これらを手放す日が、いつかやってくるのは知っていた。
地獄には永遠があっても、地上にはない。
しかし、こんなにも早くに訪れるとは思ってもみなかった。
まだ三年なのに?
「なにを企んでいるの?」
静寂の中に、低い囁きがぽつりと生まれた。
ウォーターベッドがたわみ、ホッパーの隣で、裸のアンジェラが身じろぎをする。
悪魔は無意識に息を潜めるので、あたかも突然現れたかのように感じられたが、アンジェラはずっとそこにいる。
何度かは、ホッパーの上だか下にもいた。
人間の恋人同士としてありがちな行為を、ひとしきり済ませた後というわけだ。
「企んでなんかいない」
ホッパーが天井を見つめたまま答えると、彼女の程よく冷えた腕がするすると伸びてきて、みずみずしい葦のように彼の胸元に絡んだ。
「嘘よ、何か考えてる。ずっとだわ」
「考えちゃいるが、企んでるわけじゃないんだ」
勤めて深刻にならないように、ほのかに笑いながら、ホッパーは首を傾けてアンジェラの髪に唇を埋めた。
失うものの中に、彼女がいる。
ソファーやベッド、車と同じように、持ち主が去ったところで悲しみを抱くことのない所有物――だと、ホッパーは思っている。
「行方不明の悪魔のこと?」
いや違う、そのことじゃないとホッパーは思った。
どうして彼女は、そのことに拘るのだろう。
アンジェラがにわかに顔を上げ、目を合わせた。
夜の光に輝く瞳の中で、瞳孔がブラックホールのように丸く開いている。
まともに見つめると吸い込まれそうで、ホッパーは目を伏せた。
彼女の整った眉を鼻先でなぞり、まぶたにキスをする。
「そんなに心配なのか、その悪魔のことが」
「違うわ。私が心配なのはあなた」
アンジェラは首を伸ばしてホッパーの唇に吸い付くと、そのまま彼の上にのし上がった。
青い光に、褐色の肌が銀色に輝く。
「あなたを失いたくないの。ずっと私のあなたでいてほしいのよ」
彼女の長い髪がホッパーの顔の周りに垂れ、くるりとカールした毛先が頬をくすぐった。
尖った指が、唇から顎、喉、鎖骨を辿る。
ホッパーは静かに息を飲んだ。
彼女といると、自分の肉体が最高に美しいことを自覚できる。
そして、彼女も最高に美しい。
「俺は……」
ずっと、お前の――
そのとき、ホッパーは彼女の瞳の中に熱い焔を見た。
所有物を見つめるときの瞳――この肉体も、この部屋も、車も、彼女のために存在しているのだ、と思い込みそうになるような、熱いまなざしだ。
ホッパーは咄嗟に彼女の肩を掴むと、彼女を引き倒してその上にまたがった。
アンジェラは驚いたような声をあげ、そして楽しそうに笑った。
ベッドが揺らぐ。
ホッパーはじゃれあうように笑いながら、内心冷や汗をかいていた。
危ない――もう少しで彼女の魔力に惑わされるところだった。
もし見つめられたのが人間だったら、この女に所有されることほど名誉なことはないとばかりに、彼女の下僕に成り下がっていたことだろう。
だが、低級悪魔同士では、そんな安い魔術は効かない――効かないったら効かない。
「俺だって失いたくない」
お前は俺の所有物なんだ。
強くそう念じて、アンジェラの顔を両手で挟む。
額どうしをくっつけて鼻を寄せ合うと、彼女は笑うのをやめ、待つように視線を下げた。
にわかに開かれた、暗闇でも艶々と光る唇――触れそうで触れないのは、お互いに焦らしているからだ。
ホッパーは彼女を見つめたまま、ゆっくりと手を滑らせた。
首、肩をなぞって、乳房まで降りる。
一人では手に入れることの出来ない、もう一つの完璧な肉体だ。
掌の中で、硬くなった乳房の突起を感じる。
アンジェラが熱い吐息を漏らし、顎を上げた。
もう少しで、唇が触れ合う――というときに。
不安を掻き立てる断続的なモーター音が、静かな部屋にうるさく響きだした。
素晴らしくタイミングの良い電話だ。
アンジェラは不満そうに喉を鳴らして、眩しい携帯電話を睨んだ。
二人の瞳孔がスッと細くなる。
液晶に、低級悪魔たちにとってはおなじみの、恐ろしくも厄介な上司の名前が明滅している。
「デリカシーがないわね。私、あいつ嫌い」
「しっ、聞こえるぜ。あいつ地獄耳だからな」
やむなく小鳥がついばむようなキスをして、ホッパーは彼女から離れ、携帯を手にしてベッドから足を下ろした。
携帯を掴んだ掌に、柔らかくて張りのあるアンジェラの温もりが残っている。
「ごきげんよう、ホッパー」
ミスター・グランド・ブラックは上機嫌だ。
明るい液晶の光のせいで、夜の闇が濃くなったように感じる。
ホッパーの中で、眠っていたはずの鬱々とした感情が鎌首をもたげた。
「こんばんは、どうも。珍しく楽しそうですね」
皮肉たっぷりに言うと、上司は静かに笑い、「楽しくて仕方がない。ロスで働いている間抜けな悪魔が一人、脱落してね。今、私の百メートルほど下で泣き喚いている。どんな音楽にも勝るよ。それよりホッパー、例の魂はどうなった?」と、皮肉たっぷりに返してきた。
くそっ、やっぱりこいつ、俺が魂を失うのを事前に知ってやがったんじゃないのか。
そもそも昨日の電話――今から魂を手に入れるというときに、出し抜けにかけてきたあの説教電話は、“せいぜい奇跡が起こらぬことを祈るがいい”という、捨て台詞のためだけにかけてきたようなものだった。
そして魂を得られなかった今も、白々しく状況報告を迫っている。
グランド・ブラックは知っていたのだ――あるいは、彼が仕組んだことなのかもしれない。
背後で、ベッドの上のアンジェラ、絨毯、壁紙、テレビ、バスルーム――すべてが闇に沈んでいくような気がした。
俺は所詮、上級悪魔の憂さ晴らしのタネに過ぎないのか。
危機というものは、実際に突きつけられるまでは実感のわかないものだ。
数分前までの根拠の無い余裕も、今は霧となって闇に散った。
「ええ、まあその……」
上手い言い訳を考えておくべきだったと後悔した。
やっぱり寝てる場合じゃなかった――それも、わかり切っていたことなのだが。
上司は黙って待っている。
失態を自らの口で告白させるつもりなのだろう。
「病院へは行きました。その、なんというか」
意味のない言葉を並べて時間を稼ぐ。
絶対にうまくいきます――あれだけ豪語しておいて、なんと言えばいい?
魂は奪われました、今は自宅待機中です、か?
オフィスチェアーの肘掛に腕を立てかけ、頬杖をつくグランド・ブラックの様が、ありありと浮かんだ。
ニヤニヤと笑いながら、組んだ足のつま先で、地の底から響いてくる哀れな低級悪魔の歌声にリズムを刻んでいることだろう。
ホッパーは唇をかんだ。
おそらく、あらゆる言い訳は無効だ。
「結論だけ申し上げますと、」苦々しい思いをぼそぼそと吐き出す。「魂は、手に入りませんでした。とりあえず、今日のところは」
「ほう」上司の面白がるような合いの手が入った。「今日のところは? 貴様のくだらん物語は、次回へ続くのか?」
「ああ、ちくしょう……」
食いしばった歯の隙間から、小さく呻く。
「なんだ? 聞こえないぞ」
ミスター・グランド・ブラックは、鼻であざ笑うように言った。
シナリオが決まっていたというのなら、もはや結末は変わらないのだ――次回へは続かない。
もはや最後に彼が出来ることといえば、呪いの言葉を呟くことくらいだった。
シット・タード・ファック・アスホール・クラップ・ドーク……ジーザズ・クライスト!
この三年間で習得した、人間オリジナルの呪いの言葉だ。
「どうせ、もうおわかりでしょう?」
ホッパーは喧嘩腰に喚いた。
「すべてあなたの思いどおりですよ、まったく。俺の魂は天――っ」
そのとき、いきなり後ろからアンジェラの腕が伸びてきて指先で横腹をくすぐったので、発作的に息を飲んでいた。
背中に乳房が押し当てられる。
ホッパーは慌てて携帯を顔から離すと、声を押し殺し怒鳴った。
「電話中だ!」
しかし、彼女は彼の肩越しに悪戯な笑みを浮かべるばかりだ。
「なんだ?」
少しイラついた声がして、ホッパーは電話に戻った。
「いえ、こっちのことです。なんでもなっ――」脇腹に爪を滑らせるアンジェラの手を捕まえて言う。「なんでもないですよ」
たった今、自分がやけを起こしかけていたことをすっかり忘れて、その場を取り繕っている。
これは職業病だろうか。
「なんでもない?」
グランド・ブラックがじれったそうに言う。
「ええ、なんでも。よせよ、こらっ――とにかく、大丈夫です。魂は必ず取り戻しますから」
アンジェラの悪ふざけを止めさせたいあまり、特に考えもなくそう言っていた。
「取り戻す? ずいぶんな自信だな」
電話の向こうから、面白くなさそうな声がする。
どうやら上司は、泣き叫んで許しを乞われるのが願望だったようだ。
サディストめ。
ホッパーはアンジェラを睨んだまま「ええ、取り戻しますよ。見当もついてる」と電話に言い、「いい加減にしろ、アンジェラ。今の俺の状況がわかってるんだろう?」と、目の前の女を叱りつけた。
「言ったはずよ」アンジェラは聞き分けのない子供のように微笑んでいる。「私に命令はできない」
アンジェラには、ホッパーのどこが弱いのかが手に取るようにわかっているのだ。
それはもちろん、肉体的にではなく――精神的に。
「!」
ホッパーはぎょっとして自分の脇腹を押え、その手を見つめた。
うっすらと血がにじんでいる。
彼の前で、艶めく唇が弧を描き、その端に牙をのぞかせる。
アンジェラが手を横なぎに払う。
鋭く光る赤い爪が、間一髪身を引いたホッパーの頬を掠めた。
猫じゃらしにどうしようもなく反応してしまう猫のような、攻撃的だが殺傷目的ではない一撃だった。
「冗談はよせ、今はそれどころじゃない!」
彼女がクスクスと楽しげに笑う様子は、かまって欲しい子供が大人をからかって遊んでいるかのようだ。
まったく、こっちの気も知らないで!
ホッパーは苛々しつつ――しかし、どこか楽しくなりながら――彼女の攻撃に応戦した。
「私も結論を言おう」
かろうじてホッパーの耳元に保たれている携帯電話から、グランド・ブラックが真面目な話をするときの低い声色で言う。
それを聞きながら、ホッパーは首元を狙ってきた鋭い突きをいなし、無防備になった彼女の脇を狙う――アンジェラはくねるようにベッドに伏せ、それをかわした。
「貴様は魂を取り逃がした。手に入れば地上に残ることが許されたであろう、最後の望みをだ」
裁判官が槌を重々しく叩き鳴らしたような衝撃を伴う、明確で的確な結論だった――が、ホッパーは伏せたアンジェラを取り押さえるために両手を使ったので、耳から離れた電話からの声はよく聞こえなかった。
「ほら、捕まえたぞ」
アンジェラはひとしきりクスクス笑うと、不意に大人しくなって、じっとホッパーを見つめた。
尋ねるような眼差しは、従順で、かつ貪欲な人間の女を演じる瞳だ。
押さえ込んだ細い指が、その手を握り返す。
興奮が、別のものに変わろうとしていた。
「マイケル・ホッパー、貴様は地獄へ送還される」
ホッパーの左手に掴まれている携帯電話は、ベッドに押し付けられていた。
ミスター・グランド・ブラックの得意げな声はベッドマットに吸収され、くぐもって何を言ってるのかわからない。
アンジェラのもう片方の手が彼の肩甲骨を這い登り、ねだるようにゆっくりとなでる。
もうさっさと電話なんか切ってしまおう、とホッパーは思った。
結論は変わらないのだ。
「それで?」
携帯を耳にもっていき、アンジェラを見つめたまま、ため息の混じった声で言った。
少し震えたのは、彼女が背中で指を下へ滑らせたからだ。
その震えを恐怖ととったのか、グランド・ブラックはにわかに機嫌を直したようだった。
「知っているはずだ。面倒見のいい上級悪魔たちが、哀れな貴様のために時間を割いて集まってくる。ありがたい話だろう?」
極上の愉しみを見つけたとでも言うように、グランド・ブラックは言った。
そのとき、出し抜けにアンジェラが身を寄せてきて、吸血鬼のような獰猛さで首筋に食らいついたので、ホッパーは思わず熱い息を漏らした。
「ああ……。ええ、とても」
ほとんど上の空で答える。
「聞いているのか?」今聞こえたのは甘美のため息ではないだろうかと疑うように、電話が声色を強めた。「まさか、貴様とてそこまで馬鹿ではないと思うが……、本当にありがたいなどと思っているわけではないだろうな? わかっているだろう、地獄に連れ戻された低級悪魔に何が起こるのか。あの惨劇を一度たりとも見なかったわけではあるまい」
まるでジョークの説明をさせられたコメディアンのように、決まりの悪そうな声だった。
しかし、そのとき二人は濃厚なキスをしていたので、グランド・ブラックの言葉を聞き逃した。
「……ぞくぞくするな」
溶け合うようなキスの合間に、どうにか囁く。
もはや電話のことなどどうでもよくなっていた。
再び唇を重ね、今度はさっきよりも深く、激しく、貪欲に舌を絡ませた。
熱い乳房を通り越し、ホッパーの指はまっすぐ、彼女の下腹部を滑り降りた。
「恐怖の戦慄だ。貴様はいま、絶望の谷へ片足を突き出し、踏み込もうとしているのだぞ」
ホッパーの手に掴まれたままの携帯電話が、不安げにしゃべっている。
しかし、それもやはりどうでもよかった。
彼が踏み込もうとしている谷は、深くて狭く、とろりと熱い。
「――ああ」
「……」
グランド・ブラックは、途切れ途切れの喘ぎ声を聞きながら、電話の向こうで思った。
もしやこの悪魔には、あらゆるサディスティックな仕打ちが無効なのでは――つまり、コイツは極度のマゾヒストなのではないか。
そうかあるいは、完全に壊れたかのどちらかだ。
いずれにせよ確かなのは、ちっとも楽しくないということである。
せっかく怖がらせてやろうと思ったのに、とんだ肩透かしだ。
「まあいい」グランド・ブラックは途端につまらなくなり、吐き捨てるように言った。「よく聞けマイケル・ホッパー」
返事はない。
聞いているのかどうか怪しいが、とりあえず声を大きくして続けた。
「貴様には、まだ働いてもらわなければならない。いいか、なんとしても、奪われた魂を見つけ出すんだ」
大きな波が押し寄せようとしていた。
潮が引き、苦しくなり、そして、巨大な波になって――
「えっ、はいっ? なんですって?」
最後の瞬間を目前に、ホッパーはぴたりと身体を止めた。
彼の下で、アンジェラが不満そうに唸る。
「一刻も早く魂を見つけ出せと言っているんだ! まったく、今度私に二度も言わせるような真似をしたら、耳を火掻き棒でほじくってやるからな!」
電話が怒鳴った。
あまりに信じがたい言葉だったので、ホッパーは危うくもう一度尋ねそうになった。
耳は、わざわざほじくってもらわなくても十分清潔だ。
自分の解釈が間違っていなければ、どうやら猶予が与えられたらしいのだが、にわかには信じられない。
「ええ、気をつけます。でも、」
なぜだ――と疑わずにはいられなかった。
さっきは、地獄へ送還されると言ったくせに。
焦れたアンジェラが、ホッパーの下で腰を動かす。
誘うように太ももで彼の胴を締めたが、ホッパーはすっかりそんな気分ではなくなり、彼女から離れてベッドを降りた。
「ミックったら!」
「しーっ」
上質の羽毛が詰まった白い殺意が飛んできて、彼の後頭部を柔らかく打った。
しかし、今はそれどころではない。
「厄介なことが起こっている」
「厄介なこと?」
「オウム返しにするな、黙って聞け、ばか者。いいか、これは――」
グランド・ブラックは一瞬言葉につまった。
そして沈黙の末に、ホッパーが喜びそうな言葉を見つけたらしかった。
「これは極秘任務だ」
極秘任務――その響きは、一瞬にして彼を虜にした。
なんて良い響きだ!
ホッパーはとっさにベッドを見た。
アンジェラがシーツを跳ねのけ、バスローブを引っ掛けて、憤慨した様子で寝室を出て行くところだった。
「誰にも漏らすんじゃない。最高機密だ、わかったな?」
「もちろんです」
上ずった声で答える。
まさか、これも何かの陰謀か?
ホッパーは悪い可能性を挙げて、努めて冷静さを欠くまいとした。
しかし、彼の表情はどうしようもなく綻んで、嬉しさと高揚を抑えることができない。
なにしろ、任務を与えられるということは、すなわち地上へ残留が認められたということなのだ。
そんなホッパーの興奮ぶりは、電話越しでも十分伝わったことだろう。
グランド・ブラックは咳払いをすると、声を殺すようにして厳かに話し始めた。
「地上界で不可解な現象が起こっている。人間の魂が不正に狩られているのだ。その魂は地獄に堕ちて来ず、天国にも昇っていない。地上界のどこかで何者かが集めているようなのだが、行方が掴めない」
ホッパーは口を開いたが、オウム返しにするなと言われているのを思い出して、発言を控えた。
「貴様の狙っていた魂もだ。たしか、オーガスト・スミスだったか。天国に昇ったという情報は入っていない。ということは、まだ地上のどこかにあるはずだ」
何者かが、地上界で魂を集めている。
病院ですれ違った天使のことを話すべきか――と思ったが、いまいち確信に踏み込めずに思いとどまった。
代わりに、気づいたことをふと口にする。
「幽霊になって地上を彷徨ってる可能性は?」
人間の魂は、死んでもしばらく肉体にとどまり、天使あるいは悪魔の迎えを待つ。
しかし稀に、彼らの目をかいくぐったり、フライングで肉体を離れてしまう魂がいて、たちの悪い霊となる者もいる。
そうなると、その魂はお尋ね者だ。
「人の話をよく聞け、そして頭を使え、ウスノロめ」ミスター・グランド・ブラックは惜しみなく罵倒の言葉を添える。「たとえ幽霊になったって、魂は地獄から逃れることはできんのだ。もちろん、天国からもな」
どんなに地上で働く悪魔が出来損ないでも、と、彼は付け加えた。
ホッパーは少しばかり恐縮し、口をつぐんだ。
やっぱり、黙って聞いていたほうが賢明だ。
「とにかく貴様がすべきことは、それらの魂を一刻も早く見つけ出すことだ」グランド・ブラックは声を張って言った。「同時に、魂を集めるその食わせ者を捕らえろ」
ホッパーは「わかりました」と答えようとして――後に続いて聞こえてきた言葉に目を丸くした。
「えっ、捕らえる?」
地上界で魂を隠し通せるような、絶対に自分より魔力のありそうな相手を、捕らえる? ――俺が?
「あのう、」
「わかったな?」
「ええ。ですが、その、俺はあまり魔力には自信がないし……」
捕らえろという言葉によって、ホッパーは極秘任務への魅力を一瞬にして失った。
だいたい、不正を働く輩を捕らえるという行為は、悪魔向けではない気がする。
そういうのは天使がやるべきであり、波風立てず平穏に暮らしたいと願う低級悪魔には、あまりにもリスクが高い。
八つ当たりですら恐ろしいのに、逆恨みを買えばどういうことになるのかは、おのずと見えてくる。
ミッション・インポッシブル――俺は愛国心溢れるスパイじゃない。
「ふん」グランド・ブラックは、いささか嬉しそうに鼻を鳴らした。「断れると思っているのか?」
「……」
断れるわけが無い。
永遠の苦痛か、地上居住権かといわれれば、それはもはや選択の余地すらないのだから。
「まさか、断るだなんて。007になった気分ですよ」
わざと明るく言う。
「なんだ?」
グランド・ブラックは、どうやらイギリス一有名なスパイを知らないらしい。
いいえ何でも、と小さく言って、ホッパーはうなだれた。
なんとも、荷の重い任務だ。
「安心しろ、貴様がそこまで出来るわけがないということも十分見越して、有能な協力者を用意してある」
「協力者……?」
確かに、スパイ作戦には相棒が必要だ。
だが、残念ながら心は躍るどころか、嫌な予感に曇る一方だった。
こき使われた上に八つ当たりの専属サンドバッグにされるような相手とは組みたくないし、かといって自分より使えない相手なんて――いたら驚きだが――不要だ。
「誰ですか? 俺の相棒は」
「おそらく、向こうからコンタクトを取ってくるだろう。足を引っ張るんじゃないぞ。とにかくこの件については、早急にな」
会話口から、電話を切りたがっている様子が伝わってきた。
「ええと、ミスター・グランド・ブラック、」
電話を切られるのが、妙に不安だった。
「魂を取り戻して、犯人も捕まえたら、俺は――」
「ふふふふふ……」
闇が震えたような笑い声に、思わず息を呑む。
不意に背後に現れた何者かが、ホッパーの耳にぴったりと口をつけて囁いた――ような、感覚にとらわれる。
「貴様が、地獄へ送還されることはなくなるだろう」
静かに笑う声が首筋をくすぐり、ゾクリと鳥肌が立つようだ。
ホッパーは、からからになった喉を潤そうと、ごくりとつばを飲み込んでから、どうにか「わかりました」と答えた。
途端に、眠りから覚めたような気がして、ホッパーは辺りを見回した。
電話は切れている。
部屋には、自分独りしかいない。
もしかして、今のはすべて自分の妄想が生み出した夢なのではないか、という気がした。
ありえなくはないだろう。
地獄に連れ戻される絶望から逃れたい一身で、夢を見ていたという可能性もある。
いや、むしろ夢だったほうがいいのかもしれない。
そうだこれは夢――「メールが届きました」
突然、携帯電話が紳士的な声で言った。
画面に視線を落として、ホッパーは力なく瞬きをした。
『ボサッとしてる暇があったら、さっさと行動しろ、グズめ』
あの人、メールも使えるようになったのか。
ホッパーは少しだけ関心した。