ついてない悪魔 1
一週間降り続いた雨が、ようやく上がった。
分厚い雲を割って西日がヴェールのように差し込み、街中をゆったりと流れる川の水面を金色に輝かせている。
今にも天使が降りてきそうな情景――だが、この非情都市ガーデンローグでは、果たして何人の人間がこの神々しい眺めに歩みを止め、ため息をつくだろうか。
少なくともこの街に住む人間たちは、自然の神秘なる美をこの場所に求めていない。
そういった風景は、旅行会社のパンフレットか、旅番組で紹介されるような場所でしか見ることができないと思っているのだ。
ここは、そんな街だった。
野心の巣窟、同時に、それらの成れの果てが集う都である。
一台の黒いスポーツカーが、雨に塗れたボディーをきらめかせながら、高層ビル群を貫く中央通りを南に向かって猛進していた。
鼻先には一際鋭い輝きを放つ、跳ね馬のエンブレム。
時速百五十キロを超えているのは明白で、ブレーキを踏むくらいなら歩道を走りそうな勢いだった。
狂気の沙汰としか思えない走行の後には、それに連動した些細な事故や、無法者に対する抗議のクラクションがうるさく取り残されていた。
この事故多発地帯では、そういった光景もさほど珍しくはなかったが、それにしても横暴だ。
トラブルメーカーの運転席に座っているのは、細身で目鼻立ちの尖った若い男だった。
黒い髪を後ろに流し、濃度の高いサングラスの上に不機嫌そうなシワを立てている。
薄い唇を堅く結んでいて、顎骨の際立った様子から歯を食いしばっているのがわかった。
クリームで艶々に磨かれたビジネスシューズが、クラッチとアクセルをせわしなく踏む。
軽快なギアチェンジサウンドに合わせて、車は躍るように障害物をかわした。
交通量の多いメインストリートで時速百五十キロ以上をキープできるとは、おそらく誰も思うまい――そう、人間には不可能だ。
しかし、彼には可能だった。
なぜなら、彼の正体は悪魔だからである。
それも、ただの悪魔じゃない。
すこぶる急いでいる悪魔だ。
「私の顔にどれだけ泥を塗ったら気が済むのだ、マイケル・ホッパー」
そう言ったのは彼ではなく、ダッシュボードに取り付けられた携帯ホルダーに収まっている、タッチパネル式の携帯電話だった。
黒く光る液晶画面に、“ミスター・グランド・ブラック”という青い文字が浮かび上がっている。
マイケル・ホッパーと名前を呼ばれると、悪魔は一層表情を険しくした。
「ミックです、マイケルじゃなくて」
ぼそりと言ったが、下腹を撃つような重低音にかき消されて電話口には届かなかったらしく、グランド・ブラックは話を続けた。
「さすがは低級悪魔だな。期待通り、いやそれ以上だ。周りのクズ共もそう悪い出来ではないと気付かせてもらったよ、お前のおかげで」
ヤギがしゃべったらこんな感じだろうな、というような声色だった。
低く落ち着き払っていて、それが逆に、相手の怒りを明らかにしている。
ホッパーは短くため息をつくと、大してためになりそうもない叱責を聞き流すために、勤めてどうでもいいことを考えた。
海外映画の吹き替え版で、よく脇役や敵役の声を吹き替えているあの俳優、名前をなんと言ったかな。
マイナー役すぎてスポットを浴びることはないのに、なぜか声を聞いただけで、そいつの吹き替えだとわかる。
いちいち覚えてなんかいないが、しゃがれた癖のある声や、冷静でシニカルなところが、今否応なく耳に注がれている声とそっくりだ。
あんた、あのくだらない映画の敵役に似ていますね、と言ってやれたら、どんなにかスッキリするだろう。
ああ、やっぱりダメだ。
そういうヤツに限って物語の終盤でカメラを掻っ攫う、キーパーソンだったりするんだから。
「今や人間どもは、我々悪魔が手をださずとも自ら地獄に堕ちてくるような時代だというのに、お前は魂一つ堕せないどころか、我々の足を引っ張ってばかりだ。いったい、何をどうすればこういう結果になるのか、ぜひとも教えてもらいたい。二世紀に一度の逸材だよ」
語り聞かせるような物言いはとても誇らしげで、とてつもなく意地悪だ。
容赦ない真実の羅列を聴くでもなく聞きながら、いっそう奥歯をかみ締める。
聞き流すというのも、案外気力を使うものだ。
彼は口を一文字に閉ざし、ハンドルをきつく握りしめた。
同時に、車は赤信号を無視して交差点に突進し、クラクションの猛攻撃を受けた。
「同僚に自慢しなければならないな、ことごとく期待を裏切ってくれる忠実な部下のことを。きっと彼らも喜ぶだろう――そう思わないか?」
今やその最新式携帯電話は、背もたれの高いオフィスチェアーに深く背を預け、足を組んで、出来の悪い部下を罵る上司そのものだった。
たぶん、頭はヤギだろう。
三本の角を持ち、のみのような歯と、ピンク色の歯茎をむき出した、不気味な黒いヤギだ。
「あの」上司の皮肉がようやくひと段落ついたところで、ホッパーは恐る恐る切り出した。「俺の名前はミックです。ミック・ホッパー、マイケルじゃない」
彼にとって、名前を間違えられることは、これまでの実績を否定されることより重要だった。
ミックとマイケルじゃ、全然違う。
そして、そんなことはどうでもいい、と言われてしまう前に、続けて言った。
「それから仕事の件ですが、今回は絶対に上手くいくと報告したはずです」
彼の声はお世辞にも美声ではないが、フラットでどこかニヒルさを漂わせる声は気に入っている。
しかし、今の声色には、上司に対する畏怖が隠し切れずに滲んでいた。
「今にも手に入りそうな魂があるんです。それも、半年前までは小心者で純粋だった。心優しい青年は今や、大胆不敵なイカサマ賭博師、薄汚れた魂。俺が育てたんですよ。たった半年で。これは快――ちっ、どきやがれポンコツ車め!――快挙じゃありませんか?」
たとえば低級に限っても、悪魔の仕事はさまざまである。
地獄で亡者を地獄の門まで案内する者、亡者に罰を下す者、亡者のリストを管理する者。
そして、地上へ派遣される者。
低級悪魔ホッパーの仕事は、地上界に潜伏して、一つでも多くの魂を地獄へ堕とすことだった。
心に囁き、誘惑するのだ。
それはなんら特別な仕事ではなく、地上界には、いたるところに悪魔が潜んでいる。
もちろん、ベルゼブブなんて有名な名前ではない、ちっぽけな低級悪魔たちである。
とはいえ、彼は地上に派遣されてまだ三年目だった。
世紀を超える悪魔にとって、三年などという年月は取るに足るものではなく、したがってドがつくほどの新米だ。
しかも残念なことに、電話の向こうから上司が言ったとおり、あまり出来のいいほうではなかった。
「わかります、どうせすぐに改心する、とおっしゃりたいでしょうね」ホッパーは、グランド・ブラックが答える前に話を続けた。「しかし、その魂は昨日交通事故にあって、今まさに死にそうになっているんです」
本来ならば、一つの純な魂を手に入れるのに十年も二十年も費やすのが、悪魔の業である。
殺し屋が丁寧に下調べをし、標的を分析し、無防備になったその瞬間に、一ミリの誤差もなく眉間を撃ち抜くのと同じように。
それは美学ともいうべきプライドだろう。
しかし、そんなやり方は時代遅れだ。
殺し屋だって、今では無差別殺人に見せかけて標的を殺す――食中毒とか。
「人間は、時間さえあれば懺悔しようとする。だから、真に邪悪な魂を育てるのには時間がかかるし、時間をかけたところで、最後の最後に懺悔なんぞされた日には、何もかも水の泡だ」
パンッと手を打って、両手を広げる。
彼がハンドルを離すと、車は小気味良いスキール音を立てて蛇行し、次々と走行車を追い越した。
「しかし、俺のやり方はどうですか? 人間をある程度の小悪党に仕立て上げ、あとは事故でも起こしてもらえばいいんだ。小さな罪とはいえ、現時点では救いようがない。そして、懺悔をする時間すら残っちゃいない。地獄行きは確定。あと三十分もすれば、俺の手の中に堕ちてくる。この生産性の高さは、まさに改革だ」
たとえ、その魂の逝き先が地獄のもっとも浅い階層だったとしても、“魂を一つ地獄に堕とす”という意味では、同じことだ。
ホッパーは広げた手を、ゆっくりと握り締める。
三十分後に手に入る魂の感触を想像して、優しく、そっと。
そして、完全に捕まえた、と感じたところで、ふと我に返ってハンドルを握ると、冷めた声で言った。
「それなのに、どうしてそう過去のことばかり掘り返して、俺のやる気をそぐようなことをなさるのです」
まったく、思い出したように説教電話など掛けてきやがって暇な野郎だな、と彼は思った。
どうせ、俺が簡単に魂を手に入れるのが、面白くないに決まってる。
すると、電話の向こうの上司は静かに笑った。
「たった一つの魂を得られそうになったくらいで、ずいぶん威勢がいいものだ。それで、お前のクズ以下にまで落ちた名誉が挽回できるとでも?」
「お言葉ですが、俺は今までだって着実に成果を上げています。あなた方からの評価は低いかもしれませんが、ちゃんと地獄に貢献している」
電話越しともあって、ホッパーは大胆に訴えた。
滅多に発言権を与えられない者が自分の発言に酔ったときには、誰しもそうなるものだ。
「あなた方の考え方は古――あ、いや、ええっと。つまり、俺は俺なりのやり方を見つけたんです。一つの魂を完全に堕落させるのに何年も費やすより、何十何百という魂を少しずつ汚したほうが効率がいいとね。今の世の中、質より量ですよ」
目の前で突然停車した黄色いタクシーにこれでもかというほどクラクションを浴びせると、黒いスポーツカーは白煙と轟音を残してさらにスピードを上げる。
「こうして俺が車を暴走させている後ろで、何人の人間が汚い暴言を口にしていると思いますか? 何人の少年が俺の暴走を見てカッコいいと思い、将来不良に育つかを考えたことは?」
バックミラーを睨むと、買ったばかりと思しきツヤツヤのオープンカーに若い男女が四、五人乗っていて、ホッパーの車に追いつこうと躍起になっている。
「ないね」にべもなく、携帯電話は言った。「興味もない」
ホッパーはため息をつくと、ハンドルを一瞬左にきり、すぐさま右へ深く切り込んだ。
遠心力で後輪が左方へ振り出され、車体が横向きになる。
道路が悲鳴をあげ、オープンカーに乗っていた若者たちも悲鳴をあげた。
次の瞬間には、ホッパーの車は中央通りを東西に貫く通りの流れに滑り込んで、猛然と西を目指していた。
後方がひときわ騒々しいが、上司の言葉を借りるなら、興味もない。
「残念ながら、地獄は数字がすべてだ。過去のお前のの報告書から見ても、貴様は一切、地獄に貢献などしていない。いきがったところで、お前が堕とした魂はゼロだ」
面白がるような口調で、電話が言った。
ゼロ。
ホッパーは道路の先を睨んだ。
赤いテールランプがひしめいている――渋滞だ。
「確かに、数字はゼロかもしれない。ですが、一切貢献していないというわけではないでしょう」
詰まった道路に舌打ちをし、またも急なドリフトで細い路地に滑り込む。
暢気に路を渡っていた小さな白犬を轢きそうになったが、それを無事にかわしてから――目撃者曰く、一瞬車が馬のように跳ねたという――いっそ轢いてやればよかったと思った。
「一昨年は若者たちが崇拝する俳優に非人道的な発言をさせたし、その前の年には、逆再生すると“魔王万歳”というフレーズが入った音楽を流行させました。もちろん、それだけじゃないですよ。確かに去年は大きな功績を上げられませんでしたが、地上界は全体的に黒く汚れつつある。それらの実績と、今から手に入る魂の功績を考慮してもらえれば――」
「貴様は、」
グランド・ブラックは、野太い声でホッパーをさえぎった。
いよいよ、本気で怒っている様子だ。
「その腐れ俳優が、年の暮れに大規模なチャリティーコンサートを開催したことを知ってるのか? 集まった募金で、のたれ死ぬはずだったガキどもが何人救われたかを」
ホッパーは閉口する。
知ってるけど、知りたくなかったし、思い出したくもなかった。
「貴様が中途半端に手を出すからだぞ。その男は、歴代に語り継がれるであろう邪悪な魂の素質を持っていた、我々が何もしなくても地獄の碑石にその名を刻むことができるくらいのな。なのに、ヤツは報道からのバッシングに反省し、見事に立ち直って聖人みたいになってしまったではないか。これはまったくもって遺憾だ。豚でさえ貴様よりマシな働きをするぞ。善人を増やすくらいなら、何もしないほうがマシだからな!」
「あれは、そう、実験で……。誰だって、初めは失敗するじゃありませんか」
ホッパーは、上司に聞こえないくらい――上司の地獄耳にすらとどかないくらい――小さな声で呟いた。
まったく、あんたの言うとおり、中途半端に持ち出して叱られるくらいなら言わなきゃよかった。
「それから次は何だ、逆再生で魔王万歳だと? 歌の題名はたしか“天国のあなたへ”だったか。あれは実に感動的な歌詞だったな。何人の人間が自殺を思いとどまったんだ? ええ?」
グランド・ブラックの怒りはとどまらない。
かさぶたを乱暴に引っぺがされるような思いで、ホッパーは噛み締めた歯の隙間から浅く息を吸った。
「さあ、十人くらい、だったかな」
「百二十二人だ馬鹿者!」
声は車内に充満して破裂し、ホッパーはこめかみに激痛を感じた。
悪魔の怒声には、それなりの魔力が宿る。
「逆再生して“魔王万歳”を聞いた人間は両手に収まるほどしかいなかったというのに、貴様は百以上もの地獄行き予備軍を改心させたのだ! いっそ天使に転職するか!? 私が口利きをしてやる!」
逆再生のトリックに気づいたのは、正確には二人だった。
そのうち一人は少年で、この事実をネットの動画サイトに投稿したが、「まあ、そう聞こえなくもない」「は? 聞こえない。こんなにいい歌を汚すな」「無理がある」といったコメントに心折れて、投稿を取り下げている。
認めよう、確かにあれは大失敗だった。
それにしても、天使に転職しろだって?
そいつは言い過ぎだ、あんまりじゃないか。
ホッパーはひどく傷ついた。
「仕事もろくに出来ないくせに、その自信はどこからやってくるんだ。貴様が努力していることといえば、無駄に着飾ることばかりじゃないか。まったく、何のために派遣したのだか、こっちがわからなくなる」
こういう場合、説教はたいてい、どうでもいいことにまで飛び火する。
うんざりしつつ、ホッパーはハンドルを握る両手の間から自分の身体を見下ろした。
「あの、でも、」弱々しく言う。「スーツは、ここらじゃメジャーな衣装なんです、一応」
角を立てないようにそう言い返しながら、ジャケットの襟を撫でた。
素材は軽く、気候にあわせて体温調節してくれる優れもの――何よりこの手触り。
春のニューモデルだ。
しかし、電話の向こうは沈黙したままだった。
なんとなく恐ろしくなって、その沈黙を埋めようとしゃべりだす。
「それからですね、日光が嫌いなんでサングラスは必須なんです。ズボンにベルト、靴下に靴は常識だし、それに下着を穿かないと捕まるんですよ。この世界はいろいろ面倒くさくて。これらは、どれも極々一般的な成人男性のスタイルなんです、何一つとして無駄はありません」
ブランドロゴを光らせるそれらの衣装をかばうように、ホッパーは言った。
「聞くところによると、」相手は、まるでホッパーの言い訳など聞かなかったかのごとく、平然と話題を変えた。「貴様はシャワーも浴びるそうだな」
「もちろんです」
ホッパーは、さも当然というように言ってしまってから、急いで言い訳をまくしたてた。
「いや、俺は風呂もシャワーも大嫌いだし、そんなことに時間を費やしたくなんかないんです。ですが、浴びないといけないんです、この社会に紛れ込むには。人間ってのは、思った以上に臭いに敏感なんです。悪魔だと見抜かれでもしたら、それこそ一大事でしょう?」
携帯電話は、しばらく黙してから言った。
「今まで、体臭で悪魔だと見破られた報告は聞いてない」
「ええそうでしょう。今までは、ね」
根拠はなかったが、ホッパーは説得力のある声で言った。
たしか、中世あたりの本のどこかに表記されていたはずだ、悪魔は異臭を放つと。
「人間は、それだけ臭いに敏感になっているんです。消臭殺菌ブームなんて、今に始まったことではないですから」
彼は自分の言ったことがまさに真実だとばかりに、鷹揚に頷いた。
俺は正しい、何も間違っちゃいない、と言い聞かせる。
しかし実際問題、悪魔が地上に潜伏する本来の目的を考えれば、ホッパーはブランドスーツに身を包むことはないし、身体を鍛える必要も、シャワーを浴びる必要もなかった。
物陰にコソコソと潜み、人間の魂を付けねらっていればよいのだから。
スポーツカーに乗って国道を飛ばす必要も、当然ないのである。
けれども、ホッパーはそれらを好んだ。
なにしろ彼は低級悪魔で、地獄では上階級の悪魔に虐げられ、物を所有したためしがなかったのだ。
それが地上派遣が決まった途端、いきなり人間の肉体が与えられた――もちろん、初めは痩せぎすで肌艶の悪い、いかにも「悪魔です」といった容姿だったが。
さらに周りを見れば、地上界にはあらゆる物が溢れている。
この世界では、金さえあれば好きなものを所有できるのだ。
なんという贅沢!
そして彼は、自分の所有物を、常にぴかぴかに磨いておきたがった。
地上派遣の仕事は大変だと先輩悪魔に聞かされていたが、ホッパーにとっては“まさに天国”だったのだ(この比喩は完全に的確ではないが、地獄よりマシという意味では、概ね相応しい)。
サングラスをずらし、バックミラーに自分の顔を映せば、この三年間の成果がキリッと自分を睨み返してくる。
尖った鼻顎に、多少目つきは悪いものの、それがハリウッドスターを思わせる美貌であることは確かだ。
今や、数ある所有物の中で一番のお気に入りである。
車は細道を抜け、再び広い通りへ躍り出す。
すると、グランド・ブラックは耐えかねたようにクックと押し殺すような、不気味な笑い声を漏らした。
まさか怒鳴り声以外のものが聞こえてくるとは思わず、ホッパーは一瞬耳を疑った。
「今までは、か。時代は変わったものだ。ではやはり、貴様は風呂に入るのだな」
何が可笑しかったのか、掠れた声はそう言って笑う。
今までの怒鳴りようからすると、もはや気がふれたのではないかと思わざるをえないほど、可笑しくてたまらない様子だ。
ホッパーは叱られるよりも不安な気持ちになり、サングラスを堀の深い眉下に押し戻した。
「それが、なにか?」
「風呂を好む悪魔というのも、致命的な話だ」
「いや、好んでいるわけじゃあ――」
「同じだろう。好んでいようといまいと、貴様は風呂に入るのだろう?」
ホッパーは怪訝な顔で携帯電話を見つめた。
身を浄めるという行為が悪魔にとって何を意味するのかを、考えないわけではない。
それ故に、彼は風呂が好きではなかった。
すべては、ただ所有物を汚したくないという一信のエゴイズムだ。
確かに、水浴びは悪魔の習慣ではないが――だからといって、入浴と反悪魔をイコールで結んでしまうことはない。
それがホッパーの持論だった。
しかし、所詮は持論だ。
少なくともグランド・ブラックの意地の悪い笑い声を聞く限り、その持論が周りに受け入れられることはなさそうだった。
やがて、グランド・ブラックはひとしきり笑ってから、咳払いをした。
「まぁいい。今から魂を狩りに行くんだな?」
「ええ、まあ」
「さっさと様子を見て来い。今度はしくじるな」
妙に機嫌のよくなった上司は、そう言って話を終えた。
もちろん、電話を切る間際に捨て台詞を残して。
「せいぜい、奇跡が起こらぬことを祈るがいい」
電話は切れた。
ホッパーは、静かになった車内に取り残されたような気がした。
奇跡――鋭い響きをもつその言葉が、ねばっこく耳に残る。
なんて嫌味な捨て台詞だ。
「シャワーを浴びるくらいで、奇跡が起こってたまるか」
ぼやきながら、すっかり害された気分を紛らわせようと、カーラジオをいじる。
――が路上に倒れていて、意識不明の重態です。女性に外傷はなく――
――のリクエストは、一昨年のヒットチャート『天国のあなたへ』。この歌は――
――
チャンネルを回し続けると、パッフェルベルのカノンが流れ始めた。
ホッパーはハンドルに手を戻すと、上司の声とともに残るわだかまりを考えないよう音楽に集中しようとした。
けれども、うまくはいかなかった。
もはや後がないことは明確だ。
確かに彼は、いかにも低級悪魔らしい些細な悪を地上界にもたらしてはいるが、地獄が提示するノルマをこれっぽっちも果たせていない。
ホッパーは、上級悪魔たちが舌なめずりをしながら、自分の後ろにゆっくりと迫りつつあるのを感じていた。
低級悪魔をいたぶるのを何よりの楽しみにしている連中だ。
そして、曲がりなりにも悪魔である以上、ホッパーには、苦しみと快楽の両方を手放す道が与えられていない。
最悪の結末を――いや、終わりなき悪夢を想像すると、にわかに身が震えた。
なりふり構わず骨身を惜しんで働くより、自分の宝物を磨いたり、それらに囲まれてうっとりしているほうが楽しい。
けれども、働かなければ、その楽しみは地獄に変わる。
大丈夫だ、なんたって俺は今、たった半年で魂を手に入れようとしている。
やれば出来る悪魔なのさ。
深呼吸をすると、ホッパーはアクセルを限界まで踏み込んだ。
静かなバイオリンに合わせ、ギターがシャウトし始める。
じつにロックなカノンじゃないか。