嵌められて処刑された令嬢は、全てを知ったまま戻ってきた。だから二度目の人生は……
なぜ処刑されたのか。
理由は単純。嵌められたから。
王国を二分する二大貴族家、ベンティンク家とグレイ家。
議会で争い、軍部で争い、社交界で争い、時には領地の境界線一本を巡って剣を抜きかねないほど険悪だった両家を、王家は一組の婚約で結びつけようとした。
ジョルジーナ・ベンティンクとトマス・グレイの婚約。
これはただの男女の約束ではない。
王命であり、和平の象徴。
故に、公爵令嬢ジョルジーナ・ベンティンクは必死だった。
嫌味を言われても微笑み、夜会で放って置かれても笑って頭を下げた。会ってもくれない婚約者……トマスに対して何十通も手紙を書いた。
家のために。和平のために。
これが、仕掛けられた罠だとも知らずに。
トマスはこれ見よがしに浮気をした。
耐えかねて浮気相手を責めた言葉は、「嫉妬に狂った令嬢の恫喝」に変えられた。
婚約を繋ぎ止めたい一心で綴った手紙は、文面を書き換えられ、「脅迫状」として社交界に晒された。
去っていく彼を止めようと伸ばした手は、「か弱い令嬢に刃を向けた証拠」に変えられた。
真実を訴えれば訴えるほど、悪女の悪あがきと嗤われた。
味方だと信じていた者たちは、一人、また一人と目を逸らしていった。
ジョルジーナは悪女。
それが、相手の家が金と人脈で塗り固めた事実だった。
父は失脚し、兄は遠方の領地へ追われた。母は心労で倒れ、二度と寝台から起き上がれなかった。
和平の象徴と呼ばれた娘は、王命に泥を塗った大罪人に変わった。
処刑台の上から最期に見えたのは、罵声を上げる群衆。
その向こうで寄り添い嗤っているトマスと浮気相手。
そしてジョルジーナは、処刑された。
---
――はずだった。
目覚めたら、見覚えのある天井が視界に入った。
「っ……!?」
跳ね起きて慌てて首に手を当てる。
……繋がっている。
一つ、深呼吸。
ベルを鳴らして侍女を呼び、身支度をしてもらう。
最中、なんとなく侍女に日付を聞いてみたら、今は処刑される一年前だという。
婚約が決まってしばらく経った頃だ。
私はなんとなく理解した。
神様の気まぐれか何かで過去に巻き戻ったのだと。
……思い出すのは、処刑までの日々。
婚約者のトマスは、最初から私を迎え入れる気などなかった。
これ見よがしな浮気も、私の目の前での囁き合いも、すべては私を怒らせるための撒き餌だった。
あの家は一族総出で舞台を整え、私が激昂するのを待ち構えていたのだ。
そして一度目の私は、見事なまでに期待に応えてしまった。
衆目の中で浮気相手を問い詰め、感情のままに手紙を書き送った。
家のため、和平のため、その必死さすら連中の脚本の小道具にされてしまった。
……あぁ、本当に。
なんて愚かだったのだろう、私は。
相手に非があるかどうかなんて、社交界では二の次だ。
感情的に喚く女と、しおらしく怯える女。世間がどちらの味方に付くかなど、考えるまでもなかった。
長年争い続けた家同士、落とせる隙があれば落としに来るのは当然のこと。その隙を私は自分から差し出し続けてしまったのだ。
「はぁ~~……。呆れてしまうわ……」
あまりの自分の間抜けさに、乾いた笑いしか出てこない。
でも。
今の私は、すべてを知っている。
連中の企みも、その手口も、この先に起きることも。
同じ轍はもう二度と踏まない。
今度は感情に振り回されたりしない。
この記憶という武器を使い尽くして必ず生きてやる。
見ていなさい。
二度目の人生、私は、私のやりたいようにやらせてもらうわ。
だから私は……
---
逃げなさい。
そのまま、誰にも捕まってはだめ。振り向かず、ただ真っ直ぐに、一番先へ……!
「そのまま!! そのまま逃げ切りなさいゾハルーーッ!!」
広大な緑のターフが広がる王立競馬場。
その貴賓室のソファーから身を乗り出して、私はレース用の双眼鏡を握りしめたまま絶叫していた。
私の声援に応えるように、美しい白毛の馬が芝を蹴り上げ、先頭でゴール板を駆け抜ける。
瞬間、場内が地鳴りのような歓声に包まれた。
「おーほっほっほ!!! 当然ですわね!!」
私は双眼鏡を放り出し、高らかに笑った。
復讐? 断罪?
いいえ。
競馬である。
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この国において競馬は王家肝いりの一大興行。開催は毎週末、大レースには国王陛下も臨席あそばすという、今や王都で一番の娯楽である。
にもかかわらず、一度目の私は、あの忌々しい婚約者に「淑女が競馬場に入り浸るなど下品極まりない」と言われ、泣く泣く競馬場へ足を運ぶのを控えていた。
だが、だからといって、愛する馬たちの動向を追うことまでやめられるはずがない。
私は侍女に頼み、王都で発行される『週刊・王都競馬新聞』をこっそり取り寄せて貰い、暇さえあれば読み込む日々を送っていた。
グレードレースの着順はもちろん。その勝ち時計、展開、騎手の乗り替わりなどなどなど。
行けない悔しさをぶつけるように、それらの記録を余さず頭に刻み込んでいたのだ。
そう。断罪され投獄されるその日までの、約一年分。
つまり今の私は、これから先一年に行われるグレードレースの勝ち馬を全て知っている。
答えを知っている賭けほど、確実な稼ぎがこの世にあるだろうか?
否、あるわけがない。
となるとするべきことは一つ。
勝つと決まっている馬に資金を積む。
外しようがないため、賭ける端から自分のお金は雪だるま式に膨れ上がっていく。
しかも、ただ儲かるだけではないのだ。
たとえば今日のこのレース。
好位につけた白毛馬ゾハルが最終直線で堂々と抜け出し、大外から猛追する1番人気をクビ差で凌ぎ切りレコードタイムで駆け抜けるという……
白毛馬は体が弱いやら白毛は走らないやら、今まで散々な言われようだった常識を完膚なきまでに粉砕した、歴史に残る名勝負!
一度目の人生では活字で読むことしかできなかった、あの伝説の一戦を、今、この目で、特等席から観てしまったわ……!
はぁぁ……感無量……!
折角、未来のレース結果を丸ごと抱えて戻ってきたのだ。
これを使い尽くさないでどうする。
賭ければ賭けるだけ儲かる上に、最高のレースを生で楽しめる。
あぁ……なんて素晴らしい二度目の人生なのかしら!
下品だなんだと言っていたあの婚約者の言葉なんて律儀に聞いてやる必要なんかない。
こうなりゃとことん、しっかりがっつり稼いで楽しませてもらうわよ!!
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「お、お嬢様……! 換金してきましたっ……! と、とんでもない額です……!」
勝利の余韻に浸っていると、麻袋を抱えた侍女が息を切らして貴賓室に駆け込んできた。
テーブルに置かれたそれは、ずしり、と鈍い音を立てた。
「ご苦労様」
私はバサリと扇を広げ、口元を隠してふわりと微笑んだ。
2番人気とはいえ、手持ちの小遣いをありったけ突っ込んだのだ。
多少の手間賃を差し引いても、平民が数十年遊んで暮らせる額が、たった数分のレースで生み出されたことになる。
……でも、まだ足りない。まだまだぜんぜん足りないわ。
私の頭の中には、これから一年分の『勝ち馬』のリストが揃っているのだ。
答えを知っている賭けに、巨額を積み増していったら……さて、一年後にはいったいいくらになっている?
考えるだけで笑いが込み上げてきた。
「……ふっ……ふふふっ、おーっほっほっほ!!」
「お、お嬢様……? い、いよいよ本格的におかしく……」
「なんでもありませんわ。あぁ、なんて素晴らしい世界かしら……!」
王命の婚約? 家同士の政争?
そんなものどうでもいいわ。
どうせあの忌々しい婚約者は、私がこうして歓喜に打ち震えている今この瞬間も、屋敷で浮気相手と乳繰り合っているのだろう。
一度目の私は、そんな男の顔色を窺い、家のためにと必死に心をすり減らしていた。
……思い返すだけでも馬鹿みたい。
今の私の頭には、どうでもいい男の機嫌なんかより、大好きな競馬を骨の髄までしゃぶり尽くすことしかない。
「さぁ、休んでいる暇はないわ。次は……未勝利戦のパドックを見に行かなくては!」
私はバサリと扇を閉じ、意気揚々と立ち上がった。ドレスの裾を優雅に持ち上げ、貴賓室を飛び出す。
ただひたすらに、馬券を当てる快感と己の欲望を満たすため、私は次なるレースへと挑むのだった。
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一方その頃、婚約者トマスの屋敷では、呆れるほど呑気で陰湿な茶会が開かれていた。
「ふふっ、甘いお菓子ですわ」
「君の唇の方が甘いさ」
「まぁ」
豪華なサロンのソファーにて。
トマスと浮気相手の令嬢が身を寄せ合って笑い合っている。
周囲には何人もの使用人が控えているが、誰一人としてこの状況を咎めようとはしない。
この屋敷の者たちは全員、この浮気を容認どころか、推奨しているのだ。
「でも、本当によろしいのですか? 私がこんなに堂々と出入りしていては、ジョルジーナ様がお怒りになるのでは……」
浮気相手の令嬢がこれ見よがしに不安げな表情を作ってトマスの胸にすり寄る。
するとトマスは、醜く口角を吊り上げた。
「怒らせればいい。いや、大いに怒ってもらわねば困る」
そもそもこの婚約は、長年争い続けてきたベンティンク家と我が家を無理やり結びつけるための王命だ。
トマスの家は、和平の象徴としておとなしくジョルジーナを迎え入れる気など毛頭なかった。この婚約を利用して、目障りなベンティンク家を丸ごと陥れる腹積もりだったのだ。
「あの女は無駄に家への責任感が強く、少々感情的なところがある。君が私と親しくしているのを見せつければ、必ず顔を真っ赤にして怒鳴り込んでくるはずだ」
「そんな、怖いわ……」
「心配いらないよ。あの女が感情に任せて君を責め立てれば、嫉妬に狂った悪女の恫喝として社交界に広めることができる」
それに、あらかじめ社交界にはこう囁かせてある。
王命で押し付けられたベンティンクの娘は氷のように冷たく、気位ばかり高い女で、心優しいトマス様は安らぎを求めておられるのだ、と。
同情はこちらに、悪評はあちらに。舞台は既に整っている。
そう、これは家全体でジョルジーナを罠にはめる計画なのだ。
「王命とはいえ、か弱い令嬢を害そうとする非道な悪女を妻に迎えるわけにはいかない、と王家に訴え出ればベンティンク家は終わりだ。そうすれば、晴れて君を正妻として迎えられるというわけさ」
「あぁ、なんて素晴らしい計画……!」
クスクスと下劣な笑い声がサロンに響いた。
彼らは微塵も疑っていなかった。
ジョルジーナが自分たちの罠に嵌り、怒りと嫉妬に狂って思い通りに動いてくれる未来を。
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未勝利戦のパドック。
まだ勝ち星のない若駒たちが、厩務員に引かれてゆっくりと周回している。
メインレース直後とあって、柵の周りに人影はまばらだ。
観客たちのほとんどは酒場か換金窓口に流れてしまっている。
私は出馬表を広げ、出走馬の名前をざっと目で追った。
……うん。一頭も知らないわね。
数ヶ月後のグレードレースで名を轟かせる馬でもいてくれないかと期待していたけれど、流石にそう都合よくはいかないか。
もしかしたらこの中に、私の記憶よりもずっと未来に大成する馬が紛れているのかもしれないが、それは分かりようがない。
私が記憶しているのはあくまでグレードレースの結果や、のちに歴史に名を残す名馬たちの名前だけ。
一つ一つの未勝利戦や新馬戦の勝敗まですべて暗記しているわけではない。
つまりこのレースに私の知っている答えは一切なし。
「……ふふ。ふふふ」
ええ、それでいいのよ……!
未来の結果をなぞって儲けるのは確かに痛快だ。
でも私の真の歓びはそれだけではない。
毛艶、筋肉の張り、歩様、気性。そのすべてを己の目で観察し、誰も見向きもしない原石を掘り当てる。答え合わせは数分後、ターフの上で。これぞ競馬の醍醐味にして真骨頂!
私は柵に歩み寄り、双眼鏡すら使わずに、一頭一頭を舐めるように観察していく。
3番の芦毛。毛艶はいいけれど、飛節が緩い。
7番の鹿毛は立派な馬格だけれど、歩様が硬い。
11番の栗毛は気性が勝ちすぎ。もう汗でびっしょりだ。パドックで消耗してどうするの。
ふと、私の視線が止まった。
5番。小柄な鹿毛の牝馬。流星も白足袋もない、絵に描いたような没個性の馬体。
馬柱は三戦して二桁着順が並ぶ真っ黒。人気になる要素が何一つない。
……でも、あの後肢の踏み込み。
後ろ脚が、前脚の蹄跡を深々と踏み越えていく伸びやかな歩様。小さな体のわりにトモの筋肉が豊かで、一歩ごとに毛皮の下で滑らかに波打っている。付いている場所に一切の無駄がない。
そして何より、この喧噪の中で散歩でもしているようなあの落ち着きぶり。
「……見つけた。5番だわ!」
私は振り返り、傍らに控える侍女に金貨の入った麻袋を渡しながら伝えた。
「5番の単勝を」
「……かしこまりました」
侍女は一礼し、スカートの裾をつまんで駆け出していった。
改めて5番の馬を眺め、ほう、とうっとりため息をついていると。
「その馬に賭けるのかね?」
背後から、しわがれた声がかかった。
振り向くと、杖をついた白髪の老紳士が、心底不思議そうな顔でこちらを見ていた。
仕立てのいい外套に、使い込まれた革の双眼鏡。そして胸元には……王室競馬会の徽章。
この方、確か……アシュフォード公爵。
王家の傍流にして、この国で最も多くの競走馬を持つ大馬主。一度目の生で読んでいた競馬新聞でも、所有馬の勝利の記事を何度も目にした御仁だ。
「5番は三戦して見せ場なしの馬じゃぞ。馬柱は真っ黒。大穴狙いだとしても、流石に……」
「あら」
私は扇を広げ、にっこりと微笑んだ。
「ちゃんとご覧になりまして? あの子の歩様。後肢はこのパドックのどの馬よりも深く踏み込んでいますわ。トモの筋肉の付き方は完璧、毛艶を見れば今日の体調は一目瞭然。それにあの落ち着き。……三戦の凡走は、おそらく体がまだ幼かっただけですわ」
公爵はしばし私の顔とパドックとを見比べ、それから、愉快そうに肩を揺らして笑った。
「ふぉっふぉっふぉ! 儂の本命は7番での。知人の生産馬じゃが、馬格が立派で前走も2着に好走しておる」
「7番……あぁ、確かに素晴らしい馬体ですわ。ですが、今日は歩様が硬うございましてよ。あれは疲れの抜けていない脚。あの立派な体が今日ばかりは重りになりますわね」
「……よろしい、ならば勝負といこう。儂は7番、貴女は5番。負けた方が勝った方に茶菓子を奢る。どうかね」
「ええ、受けて立ちますわ!」
---
結果。
最後方に控えていた5番の小柄な鹿毛は、直線に入ってから鋭く伸びると、瞬く間に先頭を捉え、2着に5馬身の差をつけて圧勝した。
「……ふぉっふぉ。参った、参った。完敗じゃわい」
貴賓室にて。
公爵は約束の茶菓子を上機嫌に注文してくれた。
「5番……確か、マリンクラッカーといったか。馬柱を無視して、当日の馬体だけであれを獲るとは。大したご慧眼じゃ」
「うふふ。光栄ですわ」
「……次の開催も、顔を出されるかの?」
「えぇ、もちろん。今度は勝てるといいですわね、公爵様の本命」
「言いおるわ!」
マリンクラッカー。
弾けるように抜け出した末脚にぴったりの名前だ。
ちなみにこの日から、私はマリンクラッカーの出走予定を欠かさず確認するようになった。
私が見つけた、私だけの原石。あの子がこれからどこまで強くなるのか……絶対に、この目で見届けたい……!
---
そして。
それからの私の競馬場通いに、拍車がかかったのは言うまでもない。
アシュフォード公爵とは、あの日以来すっかり勝負仲間だ。
さらに公爵の紹介で、夫の遺した牧場を女手一つで切り盛りする豪快なご婦人……ローズデール伯爵夫人とも親しくなり、私の週末は貴賓室の常連たちとの予想合戦で埋まっていった。
一度目の私には婚約者しかいなかった。
でも、二度目の私には馬で繋がった友人たちがいる。
たったそれだけのことが、こんなにも世界を軽くするなんて。
ただし。この楽しい日々の中で一つだけ自分に課している決め事がある。
決して目立ちすぎないこと。
マリンクラッカーの一件で、私の眼力は貴賓室でそこそこ有名になってしまった。
しかし、あれ以上当てる令嬢として注目を集めるのは得策ではない。
未来視でじっくりしっかり稼がせてもらう以上、大勝ちを重ねて妙な持ち上げられ方をしたり、あらぬ疑いの目を向けられたりするのは、絶対に避けたいのだ。
だから、今回のレースで私が買うのは、ごく常識的な馬だけ。
「ジョルジーナ様、今日のメインはどの馬に?」
「1番人気から手堅く、ですわね。この距離なら崩れないと思いますの」
「あら、わたくしは2番人気の盤石な先行力に期待しておりますのよ」
「ふぉっふぉ。儂は5番人気じゃな。ベテランの意地に期待しておるんじゃ」
新聞と馬体を見て、誰もが頷く筋をほどほどの金額で。
おかげで貴賓室での私は、「ギャンブルとしての競馬ではなく、ひたむきに走る馬たちへの純粋な愛と応援にお小遣いを投じる、ちょっと熱狂的なご令嬢」で通っている。
……そして、誰も知らない。
私が今朝、密かに買い集めさせた馬券のことは。
13番。
堂々の最下位人気。
新聞の印は一つも付いておらず、予想欄では名前に触れられてすらいない、誰の眼中にもない馬。
そう。今日はあの日なのだ。
誰の眼中にもない最低人気が、2番手から抜け出してそのまま押し切り、単勝270倍の大波乱を巻き起こす……あの、奇跡の復活劇の日。
---
レースは記憶のままに進んだ。
最低人気の13番が、逃げ馬のすぐ後ろ、2番手の絶好位にピタリとつけて悠然とした足取りで進んでいく。誰もが最後の直線で力尽きると信じ、そして……堂々と先頭に抜け出し圧倒的な人気馬たちの猛追を背に、そのまま止まらなかった。
「そ、そんな馬鹿な!」「何かの間違いだ!」
貴賓室が悲鳴と怒号に包まれる中、私はそっと紅茶に手を伸ばした。
落ち着きなさい、私。頬が緩んではだめよ。
今の私は、手堅い本命が2着に沈んでがっかりしている、その他大勢のうちの一人なのだから。
「いやはや、とんでもないものを見たわい……。ベンティンク嬢、貴女の馬券は……」
「2着ですわ。ご覧の通り、紙屑ですわね」
私は大袈裟に肩を落としてみせた。
「あーあ。手堅くいったつもりでしたのに。競馬というのは本当に分からないものですわねぇ」
「まったくじゃ。……ま、だからこそ、やめられんのじゃがな」
「ふふっ、同感ですわ」
嘘は一つも言っていない。
1番人気の馬券が紙屑になったのは事実だ。
その夜、屋敷の私室。
「お、お嬢様……わたくし、何度も計算し直したのですが……これはなにかの間違いでしょうか……」
「間違いではなくてよ」
腰を抜かしかけている侍女の前で、私は本日の収支を改めて確認する。
まずは、表から。
貴賓室で堂々と買った、メインレース1番人気の単勝。これは2着に沈んで、金貨二枚の損。
友人たちと笑って悔しがって、次のレースの話で盛り上がるための、楽しい楽しい社交の経費。
それから別のレースで、公爵の所有馬だからと買った応援馬券。こちらも残念ながら惜敗。
他にも小さく当てたり外したりを繰り返して、今日一日の収支は金貨三枚の赤字。
……そして、ここからが本日の本命。
13番の単勝。王営投票所の確定配当、270倍。
最下位人気の大穴を獲る今日は、賭け方にも特に神経を研ぎ澄ませた。
まず、この美味しい配当を自分で崩さないよう、王営への投票は控えめに。
残りは、店主がそれぞれ倍率を張る街の賭け屋……東の賭け屋、市場通り、川向こう
小分けにして、まとめて刈り取らせてもらった。
買い付けも、侍女の他に口の堅い使用人や雇いの代理人で手分けして。
王都のあちこちで小さく儲けた金が、巡り巡って一箇所へと流れ込んでくる。
その成果が……帳簿のこの、桁。
……ふふ。ふふふ。
「おーっほっほっほっほ!!」
「お嬢様あぁ……!」
表は、ちょっと浮いてちょっと沈んで、行ったり来たりの微笑ましい趣味の記録。
しかし裏は、そろそろ中規模の商会が丸ごと買えてしまう大富豪の台帳。
完璧だわ。完璧すぎて笑いが止まらなくてよ!
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一方その頃、婚約者トマスの屋敷では、苛立ちに満ちた密談が交わされていた。
「……どういうことだ。なぜあの女は乗り込んでこない!?」
トマスは爪を噛んだ。
浮気相手を屋敷に堂々と出入りさせて、もう何ヶ月になる。
夜会で二人並んで踊ってみせ、あの女の目の前でこれ見よがしに囁き合ってもみせた。
なのに、ジョルジーナは怒鳴り込んでくるどころか、こちらを見もしない。夜会では完璧な淑女の挨拶だけを済ませ、あとは老公爵だの伯爵夫人だのと楽しげに談笑して、さっさと帰ってしまう。
「何なのだ、あの女は!」
「お、恐ろしいですわ……きっと何か企んでいるのよ……」
この計画は、ジョルジーナが嫉妬に狂って暴れることが大前提だ。
彼女が動かなければ悪女の証拠が生まれない。
……だが、待つのはもう終わりだ。
婚約者は爪を噛むのをやめ、部屋の隅に控える初老の家令を振り返った。その口元には、もう笑みが戻っている。
「あの女の筆跡は手に入っていたな」
「は。婚約の折の礼状を保管してございます」
「文書係に写させろ。あの女からか弱い令嬢への醜い脅迫状を。日付を散らして、時間をかけて追い詰められたように見せろ」
「畏まりました。手紙を投げ入れる光景を見たという使用人の証言もご用意いたしましょう。口の堅い者を、既に見繕ってございます」
「ははっ、話が早いな」
彼の悪意を家令は眉一つ動かさず受け取り、淀みなく形にしていく。
「ですが若様、一つだけ。日付を勝手に定めて、万一その日の在り処をあちらに証し立てられては……」
「……ふん。多少は考えてある」
婚約者は、酌をさせたワインを回しながら続けた。
「平日は避けろ。あの女、平日は兄の領地仕事の手伝いや王宮への伺候で、存外人目のある場所をうろついている。妙な証人が湧いても面倒だ」
「では、休日の日付で」
「あぁ。……あの女、あの歳で友人の一人もいないのだ。茶会に呼ばれず、観劇にも興味を示さん」
「……なるほど」
「休日のあの女はどうせ屋敷の奥にこもって、刺繍だ、読書だ、祈りだと、一人きりで時間を潰しているに決まっている。目撃者のいない女に、在り処の証明などできるものか」
「……つまり、仮に何か申し立てたところで」
「証人は身内の侍女くらいだ。誰が取り合う?」
「では証言の日付はすべて休日に。二週間でご用意いたします」
まぁ、と浮気相手の令嬢がうっとりとその光景を見つめている。
トマスは上機嫌でワインの栓を新しく抜かせた。
屋敷の奥にこもり、刺繍をして、祈るだけの退屈な女。
あの女について何一つ調べもせず、彼らの筋書きは、その思い込みの上に組み上げられていった。
毎週末、競馬場の貴賓室のど真ん中で、双眼鏡を片手に絶叫していることなど、彼らには知る由もなかった。
---
王宮での夜会、当日。
王家主催の年に一度の大夜会。
両家の和平の象徴たる婚約者同士は、当然そろって出席せねばならない。
……そう、一度目に私が断罪された、あの夜会である。
シャンデリアも、楽団の調べも、あの夜のまま。
「皆様、お聞きください!」
トマスは一度目と寸分違わぬ台詞で、ホールの中央に進み出た。
「私は今宵、皆様の前で告発せねばなりません。私の婚約者、ジョルジーナ・ベンティンク嬢の、淑女にあるまじき悪行を!」
ざわり、と会場がどよめき、音楽が止む。
数百の視線が、一斉に私へ突き刺さった。
……始まった。
婚約者は芝居がかった仕草で、書類の束を高く掲げた。
「これは、ジョルジーナ嬢がこちらのか弱い令嬢へ送りつけた脅迫状の数々! 嫉妬に狂い、こともあろうに命まで脅かすと書き連ねた、おぞましき悪意の証拠です! 彼女の家からは、これらがいつ、いかにして届けられたか、日時と経緯をまとめた記録と、使用人たちの証言もお預かりしております!」
「怖かった……わたくし、本当に怖かったのです……!」
浮気相手がよよと泣き崩れる。会場のざわめきに、非難の色が混じり始める。
あぁ、思い出すわ。
一度目のこの瞬間、私は真っ青になって震えていた。
何故なら本当に手紙を書いていたから。
婚約を繋ぎ止めようと必死で綴った何十通もの手紙。その文面を切り貼りされ、書き足され、脅迫状に仕立て上げられた。
身に覚えのある筆跡を突きつけられて、私はしどろもどろに言い訳をするしかなくて。
脅すつもりなんて欠片もなかった。でも書いたのは事実。その一点を突かれ続けて、私は衆目の中で崩れ落ちたのだ。
だが。
二度目の私は、あの男に手紙なんて一通も書いていない。
だから私は、扇をゆったりと広げ、ただ首を傾げてみせた。
「まぁ……怖い。それで、その記録によると、私はいつその脅迫状とやらを届けましたの?」
「し、白々しい! 読み上げてやろう! 青陽の月、十一日の夕刻、令嬢の屋敷の門前に外套で顔を隠したジョルジーナ嬢本人が現れ、これを投げ込んで立ち去った。使用人が確かにその姿を見ておる!」
……青陽の月、十一日の夕刻。
「ふぉっふぉっふぉ。それは面妖な話じゃのう」
凍りついた会場の空気を割って、こつり、と杖の音が響いた。
人垣が左右に開き、アシュフォード公爵がゆっくりと進み出る。
王家の傍流たる老公爵の登場に、婚約者の顔が強張った。
「こ、これは公爵閣下……」
「青陽の月十一日の夕刻といえば、王立競馬場の開催日。白毛のゾハルがレコード勝ちをした歴史的な日じゃから、儂もよう覚えておる。そして、その日の夕刻じゃがな」
公爵はにんまりと笑った。
「儂は未勝利戦のパドックで一人の令嬢と出会うたのじゃ。その令嬢ときたら、儂の本命馬を目の前でばっさり切り捨てよった挙句、誰も見向きもせん牝馬を推して、それを見事に的中。賭けに負けた儂は茶菓子をせしめられた上、日が暮れるまで馬談義に付き合わされ……」
公爵の視線がまっすぐ私に向いた。
「ベンティンク嬢のことじゃよ。……あの日の夕刻、貴女が儂の目の前から一歩も動いておらんことは、この儂が、王室競馬会の名にかけて証言しよう」
「付き合わされたは余計ですわ。公爵様も存分に語っておられたくせに……」
どっ、と会場に笑いが起きた。
張り詰めていた空気が一気に緩んだ。
「そ、そんなはずは……い、いや、では他の日は!」
「あら。それでしたら、わたくしも証言できましてよ」
ローズデール伯爵夫人が、扇を優雅に揺らしながら進み出た。
「花燈の月の二十三日? ジョルジーナ様はわたくしの隣で、外れた本命馬券を握りしめて頭を抱えておられましたわ。それ以外の日もご一緒でしたわねぇ。よりにもよって、レース開催日ばかり選んで目撃されるだなんて……貴方達のお屋敷は、競馬場の中にでも建っておりますの?」
再び会場が笑いに包まれる。
……目撃証言の日付はことごとくレースの開催日と重なっていた。
彼らなりに考えはしたのだろう。
平日の私は、兄の領地経営の仕事を手伝ったり、王宮に伺候していたりと人目のある場所にいることが多い。
故に避けた。
対して休日の私は、友人も少なく、お茶会だの観劇だのにもとんと興味のない女。
どうせ屋敷にこもって一人で過ごしているに決まっている。目撃者のいない女に、アリバイの立てようなどあるはずがない、と。
えぇ、お見事。大正解よ。
……一度目は確かにその通りだった。
でも残念でした。二度目の私の休日は王都でも特に人目の多い場所にありますの。
王立競馬の開催は毎週末ですもの。
「だ、だが……! この女が嫉妬していたのは事実だ! 私と彼女が親しくするたび、憎悪の視線を……」
物証を捨てて心証に逃げた。
「嫉妬……のう」
公爵が心底不思議そうに顎髭を撫でた。
「儂はこの一年近く、ベンティンク嬢と毎週末語り合っておるが……貴公の話が出たことは、ただの一度もないぞ」
「一度もありませんわねぇ」
「この令嬢が熱を上げて語る殿方といえば……気品ある佇まいをお持ちの牡馬について、くらいじゃな」
こらえきれない笑い声があちこちで弾けた。
「ば、馬鹿な……そんな、はずは……」
潮が引くように笑いが冷えた。
年配の貴族たちの視線が、す、と婚約者へ集まっていく。
「……時にご子息。ベンティンク嬢が書いたのでないとすれば、その脅迫状とやらは」
「一体誰が、何のために、あれほど手間をかけて拵えたのですかな」
「王命で結ばれた婚約相手を偽りの証拠で……それはもはや、王命そのものへの叛意では?」
叛意。
その瞬間、会場の潮目が完全に変わった。
婚約者と同じ家門の者たちが、目立たぬよう壁際へ下がっていく。
さっきまで彼を囲んでいた取り巻きが、一人、また一人と輪から抜けていく。
「わたくし、何も存じませんわ……」
浮気相手が後ずさった。
「ち、違う、私は……これは、その……」
誰も助け舟を出さない。
弁明の言葉は誰の耳にも届かず、ただ、週明けには王家の査問が入るだろう、という囁きだけが、さざ波のように広がっていった。
一度目、私と私の家を地獄に落とした筋書きが、そっくりそのまま、書いた本人たちの首に絡みついていく。
私は扇を閉じ、公爵と伯爵夫人にそっと目配せをして、騒然とするホールを後にした。
ざまぁみろ、とすら思わなかった。
それよりも、頭の中はもう今週末のレースの検討でいっぱいだった。
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それから。
婚約は王家の裁定により、正式に白紙となった。
婚約者の家は捏造工作の全容を暴かれて謹慎処分。当主は爵位を返上し、あの婚約者は遠方の領地に追いやられ、反省の日々を送っているらしい。ベンティンク家に非は一切ないどころか、王家から見舞いの言葉までいただいた。
お父様は「お前が社交界で人脈を築いていてくれたおかげだ」と涙ぐんでいたけれど、ごめんなさいお父様。あれはただの競馬仲間です。
そして今朝、私は鏡の前で、そっと自分の首筋に手を当てた。
……今日は、あの日。
一度目の私が処刑された日。
「ふふ。当然ですけれど、繋がっておりますわね」
鏡の中の私は、あの日の絶望とは無縁の顔で笑っていた。
よし。憂いはなし。それでは今週も行ってまいります!
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王立競馬場、貴賓室にて。
「差せ! 差すのよマリンクラッカー!! そこから、そこから……!」
最終直線。
マリンクラッカーが、大外から懸命に伸びてくる。伸びてくる……けれど。
「…………あぁっ!」
届かなかった。
結果、4着。
私は双眼鏡を握りしめたまま、その場にへなへなと崩れ落ちた。
「お、お嬢様!? だ、大丈夫ですか!? 今日はいくら賭けて……」
「賭け金なんてどうでもいいのよ!」
悔しいのはそこではないのだ。
「なんで……なんでよ……マリンクラッカーは絶対あんなものじゃないのに……!」
マリンクラッカー。
あの未勝利戦のパドックで、私がこの目で見つけ出した、私だけの原石。
あの日の圧勝を私は忘れていない。
磨けばあのゾハルにだって届き得る器だと確信した。
なのに、あの子は未勝利を勝ち上がって以来一つも勝てていない。
理由は明白だ。
勝ち上がった途端に厩舎が色気を出して、レースの間隔を詰め、きつい追い切りを課すようになったのだ。
……一度目の生でもきっと、この子は大成しなかったのだろう。
この素晴らしい才能は誰にも見出されないまま、噛み合わない調教と騎乗に磨り潰されて、記録にも記憶にも残らず、静かに消えていった。
ふざけるな。
「調教が合っていないのよ……! あの子は追い切りで無理をさせたら駄目な子なの! それに騎手! なんでいつも大外を回すの!? マリンクラッカーは我慢に我慢を重ねて、最後の直線で全部を出し切る子なのよ! なのに毎回外を回されて余計な距離を走らされるんじゃ、せっかくの切れ味が届く前にゴールしてしまうじゃない! もっと内で脚を溜めて、最短距離で追い込ませてあげなきゃ、あの子の脚は生きてこないのに!!」
「お、お嬢様、落ち着いて……」
「私だったらもっと違う方法を提案するのに! 私だったらこうするのに! 私だったら! 私だった……ら……?」
私だったら、こうするのに?
…………すればいいじゃない。
ゆっくりと顔を上げた。
脳裏に浮かぶは、一年かけて積み上げてきた、馬鹿げた額の個人資産。
中規模の商会どころか、そろそろ小さな街がひとつ買えてしまう。
ただ金庫の中で眠っている私だけの財産。
お伺いを立てるべき相手はいない。
婚約は無くなった。
あの男の家の顔色を窺う必要も、和平の象徴という重責も、婚約ごと消えてなくなった。
我がベンティンク家の厩舎にいるのは屈強な軍馬ばかりで、競走馬は一頭もいない。
父はきっと難しい顔をするだろう。
でも、使うのは家の財産ではなく、私が馬券で稼いだ私だけのお金。
道楽と笑うなら笑えばいい。自分で稼いだお金で何をしようと私の勝手だ。
だから……
「…………買えばいいのよ」
「え?」
侍女がきょとんと私を見る。
それに。
今日は、一度目の私が処刑された日。
新聞で読んだレースは、もうすべて終わってしまった。
私の頭の中の答えは、綺麗さっぱり尽きている。
今後のレース結果は一つも知らない。
どの馬が勝つのか、どんな波乱が起きるのか、どんな名馬が現れるのか。何一つ。
まっさらな未来。何も知らないこれからの日々。
だったら、自分で歴史を作っていけばいい。
馬券を握って祈るだけの日々は今日でおしまい。
これからは、私が選んだ馬を、私が信じたやり方で勝たせてみせる。
私は立ち上がり、ドレスの裾を払って、扇をバサリと広げた。
「決めましたわ」
「お、お嬢様……?」
「私、馬主になるわ。手始めにあのマリンクラッカーを買うわよ!」
「はいぃ!?」
目指すは最強の一頭。
王都中……いいえ、大陸中がひれ伏す、歴史に名を刻む名馬をこの手で!
金なら腐るほどある。
競馬で得たものは、競馬にお返しするのが筋というものだ。
「おーっほっほっほっほ!! 待っていなさい競馬界! ジョルジーナ・ベンティンク、いつか絶対ウイナーズサークルからご挨拶して差し上げますわ!!」
一度目、悪女として処刑された令嬢は、
二度目の人生で同じ日に、未知の世界へ意気揚々と足を踏み出した。




