第2話 達哉は中学二年生で自己存在感を認識した
急に達哉は或ることを思い出した。それは達哉が今日までの二十二年間を生きてきた原点ででもあるかのように、これまで何かの折に触れて思い出されてきた事柄である。
達哉が未だ中学二年生の頃であった。
一学期の終わる期末試験の前日に、部活の無かった達哉は級友たちと一緒に下校した。
途中、小高い山頂の公園広場へ連れ立って登った達哉の眼下に、早春の暮れ行く夕焼け空の下に人家が密集しているのが見えた。
仲間達は誰からとも無く、小石を拾って人家に向かって投げ始めた。
皆、出来るだけ遠くへ放うれるように力を込めて投げた。
一投目、二投目、だが、幾ら力をこめて投げても、石は夕暮れの街の喧騒に吸い込まれて、ガラスの砕ける音も、屋根に弾む音も、壁に当る音も、樹枝にかすれる音も、何一つ聞こえて来なかった。石は無限の空間へ吸収されて、達哉たちの何の悪意も無い投石を巨大な何者かの掌が受取ってしまうかのようであった。
「おいッ、石は何処へ消えてしまったのだ?何の音も聞こえて来ないじゃないか!」
達哉が戸惑って叫んだ。
「この野郎!」「今畜生!」と繰り返して何回も何回も石を投げてみたが、結果は同じだった。何の物音も返って来ない。
この現実の世で安穏に日常生活を送っている大人や年寄りや子供たちを、俺たち少年の小さな石から守る何か巨大なものが存在するのではないか、と達哉は思った。
その時、級友の金村が言った。
金村は在日韓国人の三世で、身体も大きく、クラスのガキ大将でもあった。
「なあ石黒。お前が例えば数百回も石を投げても、何一つこの現実世界に結果が現れないとすれば、お前が自分の存在感を確認する為には、小石などという不確かな小さなものではなく、もっと確実な方法で、この現実世界に凄い結果を引き起こさなければならないのではないか?」
そうだ、その通りだ。もっと燃焼的で内実的なもので、自分の実在感を獲得しなければならない、そうして初めて自分独自の真正性をしっかり持って、自分の存在を証明出来るのだ!
その時、初めて、達哉は自己存在感というものを認識したのであった。
大体、このラグビーにしてからがそうだったろうと達哉は思う。
俺は今日まで、ただ唯、好きでラグビーをやって来た。唯々、自己燃焼感と自己充実感、それを基にした自己存在感や実在感を追い求めてやって来た。それが全てだ。
タックルでの体当たりの瞬間、顔を緊張させ刺し違えるほどにきつい眼差しを交錯させて激突する時、達哉はその一つの行為の中でカッと燃焼することが出来た。
やったという満足、或いは、出来なかったという焦燥や悔恨、そうした感慨以外に何に自己充実感を期待出来るのか?一つの行為の後の率直な感慨の内でこそ、初めて自分ひとりの自己存在感を獲得することが出来るのではないか?
今自分がやっていることの意味が解らないままそれをするというのは、苦痛なことである。そんなことが積もり積もって、自分が何故この場所に居るのか、納得が行かないまま生き続けるというのは、やり切れないものである。思った通りに青春を生きていると考えることの出来る若者など滅多に居ない。居心地の悪さ、収まりの悪さがいつも青春には付き纏っている。それほど青春は思いと違うことの連続である。達哉もまた、思い通りにならないもの、思い通りにならない理由が解らないものに取り囲まれて、苛立ち焦り、不満や違和感の息苦しさを胸一杯に溜め込んで、その鬱ぎを突破する為に、自分が置かれている状況を解り易い論理に包んで、その論理に立て篭もろうとした。
ラグビーには今一瞬を捉えることが出来る満足感と、危ういギリギリの生命感が在る、身体中で抱く陶酔感がある。それは他の誰もが奪うことの出来ない達哉一人きりのものである。ラグビーにおける行為の一瞬一瞬或いはその総ての堆積の果てに彼が向き合い乗り越え獲ち得るもの、それがこの現実世界での自己存在感であった。
達哉にとってほんとうに必要だったのは、自分が皮膚で感じている「この身体は俺のものだ。だから、この身体が感得する感覚を最も大事にして俺は生きて行く」ということを、きちんとした論理に仕上げてそのロジックに立て篭もることであった。抵抗というものはそうして初めて確かな形を採り得る。達哉には、「事柄には真理は一つしか無く、その真理は明らかに俺の側に在る」という確信が有った。
死は体験出来るものではない。決して慣れることの無い一度切りのものであり、唯ただ待ち受けるしかないものである。ラグビーのように闘えるものではなく、抵抗というものを全く許さない恐怖の世界であろうか?
そもそも死とは自己が経験や記憶の主体としては消失することであり、従って、人は自身の死を経験することは出来ない。その意味で、死はいつも不在のものであり、思うだけのものであり、何処までも経験の彼方に在るものである。いつも想像されるだけのものである。
人が真実に経験できる死というのは、自己の死ではなく、自己と関わりの有る他者の死である。但し、知らない人の死は、死の情報であっても死の経験ではない。死の経験というのは、自分を思いの宛先としてくれていた他者が居なくなることの経験、つまりは喪失の経験であると言える。誰かに「死なれる」という経験である。
死者は応えを返しはしない。その不在の経験が「死なれる」ということであり、それは問いかけても、問いかけても、空しい。そういう喪失の経験が、それから少しずつ、死者との語らいとして裏返って行くのであろう。
達哉は頭だけが回転していた。
実に雑多な色んなものが、切り無く頭に浮かんでは消え、又、浮かんだ。それがどうにも整理がつかず、苛々しながら彼は目を瞑っている。




