人鳥温泉街の家出人/中編
走り去る自動運転タクシーを見送った海田は、白い息を吐きながらやれやれと髪をかき回した。とりあえず、すぐに自治会に回覧メッセージを回しておこうと携帯端末を取り出す。
夏見春香、か。彼女のふくれっ面を思い出して思わず苦笑する。
話し方や態度で、黙って家を出てきたなとすぐにわかった。しかしのん気な性格だが、頑として引かない頑固さもある。数日は様子を見つつ相談相手になる必要があるだろうなと、海田は考えた。年下の女性というのはやり辛いが、仕方ない。彼女の身内が状況を知って動くまで様子を見よう。
海田はカフェに戻ってコーヒーの料金を支払い、店員に礼を言ってから外に出た。ペンギンの大福はまだ歩き回りたいようだったが、さすがに人間が出歩くのは辛くなってきた。大福に「帰るぞ」と声をかけ、フードを深くかぶって雪が降る中を土産物屋へと歩く。途中、雪だまりに顔を突っ込んで遊ぶ大福を見ていると、海田の頭上に銀色の巨大クラゲが音もなく、ゆっくりと漂ってきた。初めて見る雪クラゲ。春の桜が咲くころに温泉街の空を漂うクラゲは以前見た事があるが、大雪の日にだけ姿を見せるという雪クラゲは初めてだ。
――海田はしばらくの間、雪が降り続く灰色の雪空を見上げていた。どこからか漂って来て、どこかへ去っていく不思議な、大きなクラゲ……。
春香はタクシーから降りて「なつみ旅館」の表玄関前に立った。覚悟はしていたけど、大雪の降る薄暗くて寒い日に見る、全ての雨戸が閉じられた古くて大きな旅館の建物は何だか怖いような感じが……いやいや弱気になっちゃ駄目だ。
ナップザックを担いで建物の横から裏手に入る。防犯システムのおかげか荒らされたりはしていない。まあ元々人気のほとんど無い場所だけども……。雪で滑らないように注意しながら、建物の端にあるドアに辿り着き鍵を開けて中に入る。中は無人で暗いけど寒さはマシだ。ようやくここまで来た、と春香は大きく息を吐いた。
ここは従業員用の住居に通じる扉で、清掃はされているけど狭い玄関と短い廊下に通じている。しかし古い建物なので、思い切り古色蒼然としているのは否めない。それでも春香は元気に廊下を歩き、襖を開けた。中は畳敷きの暗い和室で、結構広い。春香は電気を点け、ナップザックを置くと座り込んだ。が、ぐったりしている訳にはいかない。何とか立ち上がると、壁のエアコンのスイッチを入れる。窓の雨戸をあけるのは雪が止んでからにしようと決め、廊下に出て風呂とトイレと洗面所がちゃんと使えるのを確認する。水周りだけは一応新式なので安心だ。和室に戻り、ようやく防寒着を脱ぐ。
押入れを開けると、数枚の座布団以外何も無い。布団が無いのは困ったな……と春香は考えた。客室の寝具は使えない。明日急いでネットで注文するにしても、夏ならともかく今は最高に寒い時期だしどうやって寝よう? その時、奥の方に炬燵と炬燵布団があるのを見つけた春香は、大喜びで引っ張り出した。これで落ち着くまで何とか過ごせるだろう。
しばらくして、春香は楽な室内着に着替え、炬燵に入って、ぬくぬくのんびりとしていた。
持参した小型ケトルでお湯を沸かし、同じく持参したカップと紅茶で熱い紅茶を飲んで体の中から温まった。家具も何も無いけど、自分だけの、誰にも邪魔されない場所が出来たのが嬉しかった。このままじっとしていたいけど、携帯端末で時刻を見るともうすぐ夕方。海田の忠告を思い出し、気が重い事はさっさと先に済ませようと携帯端末の画面をポチっと叩く。呼び出し音がしたと思ったら、即座に声が響いてきて春香は顔をしかめた。
<春香! 何回電話しても無視して! あんた今どこにいるの!?>
姉の亮子はいつも強気だ。春香はそれがとても苦手だった。
「……なつみ旅館。無事に着いて落ち着いたから連絡だけしようと思って」
<無事って、あんた黙って出て行って、これからどうするつもりなの?>
「何度も言ったでしょう。旅館を手伝うって。寝起きする所はあるし、バイトで貯めたお金もある。だからしばらくほっといて」
怒って叫ぶ姉を無視して、通話を切断する。姉とはどうしても上手く話せないし、わかってもらえない。また着信はあったけど、春香は無視して座布団を枕にすると畳の上に横になって目を閉じた。さすがに疲れた……。
何やらペンギンの夢を見ていて、目が覚めたら夜になっていた。
空腹を感じたけど、今から旅館の広い台所に行って夕食を作るのは面倒くさい。春香はナップサックからカップ麺と割り箸を取り出すと、小型ケトルで沸かしたお湯を注いで食べた。今夜はこれでいいだろう。それでも春香はうふふ、と楽しそうに笑った。
明日、1月23日は21歳の誕生日だ。雪が止んでいたら温泉街に出かけていって色々買い物をしてケーキも買っちゃおう。
春香は時計を確認した。そろそろ夜の9時。今の時間なら祖母はメッセージに気づくだろう。携帯端末を取り上げると、メッセージを打ち込んで祖母宛てに送信した。
【おばあちゃん。ちゃんと20歳のうちに旅館に引っ越してきたよ。約束通りこれからずっとここで手伝うからね。おやすみなさい】
祖母から返事が無いのはいつもの事だ。それでも既読の印がついたので安心した。これで安心してここに居られる。
春香は少し考えてから、海田宛のメッセージを作成した。
【海田さん。さっきはありがとうございました。無事になつみ旅館に着いてきちんと姉と祖母に連絡しました。姉はすごく怒ってましたけど何とかなると思います。家具も布団も何も無いけどコタツはありました。これでしばらく無事に暮らせます。今後ともよろしくお願いします。迷惑をかけないように頑張ります。おやすみなさい】
送信すると、既読の印がついたと思ったらすぐに返信があった。春香にとっては少々意外だ。
【それは良かったです。風邪をひかないように注意してください。おやすみなさい】
春香は、じっと画面を見つめた。今日会ったばかりの海田に「おやすみなさい」と言ってもらえたのがとても嬉しかった。
うん、これから先、きっと大丈夫。きっと上手くいく。春香は携帯端末を握り締めて笑った。もしかしたら、ずっと昔に海田さんと会ってるような気がするのは正しいのかもしれない……。
同じ頃。春香からのメッセージを読んだ海田は、土産物屋の2階で頭を抱えていた。
ようやく雪が小降りになった夜の人鳥温泉街の空を、全体を青白く光らせながら雪クラゲがゆっくりと漂っていた。明日の朝にはどこかへ去り雪も止むだろう。




