人鳥温泉街の家出人/前編
1月ももうすぐ終わる、1月22日。人鳥温泉街では厳しい冷え込みとなり、朝から雪が降っていた。
人鳥温泉街駅前広場に止まった大型の長距離バスから、大きなナップザクを背負って降りた夏見春香は、白い息を吐きながら空を見上げた。
濃い灰色の空から雪はしんしんと降り続き、一向に弱まる気配が無い。大雪警報が出ているので、防寒着はしっかり着込んできたし手袋もはめている。でも帽子もかぶってくれば良かったと春香は少し後悔した。
さすがにクリスマスの日のように徒歩での移動は無理だな、と人影の無い駅前広場を見回しても自動運転タクシーが1台も見えない。今日は平日の昼間だから仕方ない。中央通りを歩いて中央広場に行けば、色々とお店もあるし何とかなるだろう、と春香は気楽に考え元気に歩き出した。
この人鳥温泉街は特別レトロ地域で見かけは古びているけども、積雪対策は完備されているので道にはほとんど雪は積もって無いし、凍結もしていない。良かった、と春香は安堵した。
けれどしばらく歩いているうちに、雪が激しく降り出した。風が無いので吹雪いてはいないけど、前方が良く見えなくなってきた。ここまでになると、道路にも雪が積もり出す。おまけに、防寒靴を履いていなかったので爪先が冷たくなってきた。
うわあ見通しが甘かった! とぶつぶつ文句を言いながら頭を下げて通りを歩き、シャッターの下りた店の前を通り過ぎる。
何とか中央広場に辿り着いたけど、誰もいないし見える範囲のお店は全部閉まっている。気のせいか、雪がいよいよ激しく降り出し逆に視界が白く明るくなってきた。春香は寒さと疲れで立ち止まった。足の感覚も無くなって来たし、顔面も凍りそうに冷たい。とりあえず広場の隅のベンチに積もった雪を手で払ってから座り、両手で頬を覆った。吐く息が真っ白だ。携帯端末でどこか開いている店を探そうかと思うけど、それも何だかひどく億劫で体が重い。
――こうやって無音の白い空間の中に座っていると、なんだか世界中に誰もいなくて、自分だけ取り残されたみたいだ……。
その時、上空に不思議な物体が見えた。
しんしんと降る雪の中をゆっくりと漂う銀色の巨大クラゲ……胴体から長く伸びているひらひらとした紐のような足の内部には、赤色や青色の丸い発光体がぼんやりと光っている。
何だかわからないけど、綺麗だなあ。と春香がうっとりと眺めていると、巨大クラゲはゆっくりゆっくりと漂い遠ざかっていった。あーあ見えなくなったなあ、と残念に思っているうちに頭が更にぼんやりしてきた。まずい、と心の中では思うけど、焦る気にも動く気にもなれない。このまま座っていると、雪だるまになったりするのかな……。
ペタペタペタペタペタペタ! とすぐ側で聞き慣れない音がした。ん? とそちらをゆっくり見ると、自分の顔をじっと覗き込んでいる大きなペンギンと間近で目が合った。
ペンギン? なんでここにペンギン? えらくはっきりした幻覚だなと思った瞬間、ペンギンは上を向き嘴を開けて「キエー!」と大きな鳴き声を出して、春香はびっくりした。
すると、少し離れた場所から男性の声がした。
「大福、どうした?」
大福? お饅頭?
雪の中から灰色の影が現れ、座り込んでいる春香に気づいたらしく、急いで駆け寄って来た。
「大丈夫ですか!」
背の高い男性で、防寒着のフードを深くかぶっているので顔は良く見えない。
「はあ、その……」
春香が見上げながらぼんやり答えると、今度は男性が顔を覗き込んできた。ペンギンも相変わらずじっと春香を見ている。
「驚いたな。またあなたか……動けますか? ともかく近くのカフェに行きましょう。手を貸します」
「はい……寒いです……何とか……」
まだ頭がぼやけている春香は、男性が妙な事を言ったのに気づかず、頓珍漢な反応をしてしまった。
男性は適度に春香から距離を取って、ベンチから立たせてくれた。そのまま男性のがっちりした腕にすがって、よろよろと一本横道に入ったカフェに案内して貰う。
ドアを開ける男性に続いて店内に入る。広くはないけど、木を基調にした感じのいい雰囲気のカフェは暖かで春香はほっとした。紺色のエプロンを着けた若い男性の店員が、びっくりしたようにカウンターの向こうから声をかけて来た。
「うわ、どうしたんですか」
男性が春香を手近の席に連れて行きながら店員に答える。
「広場のベンチで座り込んでいた。とりあえず熱い飲み物、それとタオルも」
春香は何とかナップザックを背中から下して防寒着を脱ぎ、椅子に座り込んだ。「どうぞ」と店員が分厚いタオルを手渡してくれたので、礼を言って受け取る。
「ココアをお持ちしますけど、それでいいですか?」
「ココア! 嬉しいです。お願いします」
男性がそばに立って、手袋を脱いでから顔や髪をタオルでごしごし拭く春香に尋ねる。
「どこの旅館に行かれる予定だったんですか? 連絡して送迎車を寄こしてもらいますよ」
「あ、いえ旅行じゃなくて。駅からなつみ旅館まで行くつもりだったんです」
「なつみ旅館?」
「タクシーが見つからなくて、中央広場まで来れば何とかなると思ったんですけど、無理でしたね。疲れて寒くてベンチに座ってたんです」
春香が顔を上げると、フードを外した男性の顔が見えた……あれ? 確かこの人。
「あのー、もしかしてペンギンのぬいぐるみの土産物屋さんですか?」
春香の言葉に男性はかすかに苦笑した。
「そうです。ところで、なつみ旅館は今は長期休業中で営業はしていませんが」
「あ、はい。実は私の祖父が経営者で私は孫で、旅館を手伝う予定なので、これから行こうと」
タオルで顔を半分隠しながら、もごもご説明する春香を男性はじっと見下ろした。
「……わかりました。とにかく休んで体を暖めてください。今タクシーを呼びます」
男性が少し離れて携帯端末でどこかに連絡を始め、その間に店員が湯気の立つココアを持って来てくれた。
「どうぞ。うちの自慢です」
「うわ、美味しそう。ありがとうございます」
熱くて甘いココアを啜ってほっと息をつきながら、窓の外を見る。相変わらずの大雪で、その中をさっきのペンギンが嬉しそうにくるくる踊っている。何だかとても幻想的だ……けど何でペンギンが普通に道を歩いているんだろう? 人鳥温泉街のマスコットがペンギンというのは知ってるけど、こんなに自由に出歩いているのか。眺めていると、男性が春香の横に戻って来た。
「タクシーはこの大雪で出払っていて時間がかかりますが、後30分ぐらいで来ますから」
「ありがとうございます。すみません、迷惑をおかけして」
男性が言った。
「少しお尋ねしたい事がありますが、体調は大丈夫ですか? 向かいの席に座っても?」
春香はちょっと驚いた。えらく礼儀正しい人だな。
「はい、もちろんです。どうぞ」
男性は店員に、コーヒーを頼む、と声を掛けてから席に座った。
「私は、人鳥温泉街の自治会の者で、土産物屋を経営している海田と言います」
「カイダさんですか? どんな漢字ですか?」
いささか唐突な春香の質問にも、男性は表情を変えなかった。
「海に田んぼで海田です」
「海田さん。へえ、広々した感じですね」
海田と名乗った男性はしばらく黙って、ココアを飲みながらのん気に構えている春香の顔を見ていた。
「……お孫さんという事は、夏見さんとお呼びしていいですか?」
「はい、夏見です。夏見春香と言います」
春香は、思わず元気に名乗ってしまう。海田は一瞬困惑したような表情を浮かべた。
「……それで夏見さん、これからなつみ旅館に行ってどうされるのですか?」
「今日から、従業員用の部屋で暮らします。今入院中の祖父がもうすぐ退院して夏には旅館を再開する予定なので、それまでに私が色々と準備をしておこうと思ってます」
「夏まで一人でですか?」
「はい、そうです」
「なつみ旅館は今は無人ですよね?」
「そうです。でも鍵はちゃんと祖母から預かってます」
海田は、考えながら頬を撫でた。
「夏見さんが長期入院しているというのは、自治会で聞いていますが……あの旅館は一軒だけ離れた場所に建っていて、周囲には店も何も無いですよね。そこに若い女性が一人で暮らすというのは……」
春香は、大きな目をぱちぱちさせて海田を見た。
「そんな、大丈夫ですよ。十分注意しますから」
その時、海田にコーヒーを持って来た店員が、気さくに会話に混ざって来た。
「あの旅館、レトロが売りの相当古い建物なのに2年ほど休業してますよね。防犯システムとかはちゃんと作動するんですか?」
「う。いや宿泊施設の基準は満たしています。それに去年の夏に、祖母がちゃんと業者さんに頼んで施設の点検や全館清掃を済ませてますから、大丈夫です」
海田が言った。
「今日は深夜まで大雪警報が出ています。安全策としてどこか別の場所に泊まった方がいいのでは? 営業している旅館を紹介しますよ」
春香は大慌てで言った。
「いえ! あの本当に大丈夫です! ちょっと雪は甘く見てましたけど、子供の頃から何度か遊びに行って、勝手はわかってますから! 食料も持参してますから!」
心配して親切で言ってくれているのはわかるけど、かなりまずい。何としても今日中になつみ旅館に入り込まないと。
海田はあまり感心しないようだったが、少し考えてから言った。
「わかりました。私の連絡先を教えておきますから、何か困った事があったら、いつでも連絡かメッセージをください。自治会の者として対応します」
「はい。って私は助かりますけど、いいんですか?」
「なつみ旅館も自治会に入っていますし、私が一番動きやすいんですよ。旅館と違って土産物屋は割合気楽ですから」
春香はかなりほっとした。温泉街に誰も知り合いや相談相手がいないのは心細いなと思っていたのだ。
「よろしくお願いします。あ、それじゃあ私の連絡先も。交換でいきましょう」
「……ありがとうございます。ですが夏見さんは女性ですから、対応には注意します。安心してください」
春香はきょとんとした。
「え? 海田さんは助けてもらったいわば恩人なんですから、別に注意なんかいりませんよ」
なぜか海田は眉間に皺を寄せて春香を見た。何でだろ? 春香は不思議に思った。
携帯端末に表示された名前は『海田誠也』とあった。へえ誠也さんか。
気が楽になって、雪の中を踊っているペンギンを眺め海田に尋ねる。
「ペンギンの名前、大福っていうんですか? 変わってますね」
「大福がこの温泉街に来た時、和菓子屋の職人が面白がって大福と呼んで、それが定着しました。本人も自分の名前だと思ってますよ」
「へええ。海田さんはあのペンギンの飼い主なんですか?」
海田は面白そうに笑った。
「一緒に暮らしていますが違います。大福は自治会が保護者となっているマスコットペンギンで、私はいわゆる世話役です。大福は雪が大好きなので、付き合って温泉街を散歩していたんですが、いきなり走って離れて大声を出したので何事かと思いましたよ。でも奴が騒がないと夏見さんに気づくのが遅れたでしょうから、運が良かった」
「そうだったんですか。あとで大福君にお礼を言わないとですね」
急に海田が少し声を低めて、春香に言った。
「夏見さん、ここに来たのをご家族は知っているんですか?」
春香はぐっと言葉に詰まって海田の顔を見た。いささか表情が厳しい。
「個人的な事情を詮索するつもりはありませんが、黙って出て来たのでは?」
いきなり図星をさされて、春香はうつむいて少しばかり反抗的な気分で唸った。
「うー。家出ってわけじゃないです。けど。反対されたので仕方なく、そっとこちらに来ました」
「やっぱり……」
海田は小さく溜息をつき、春香は思わず唇を尖らせた。
「なんでわかったんですか?」
「何となくです。それはともかく、なつみ旅館に到着して落ち着いたら、ご家族か信頼できる人に居場所の連絡はしておいてください」
「…………」
「ご家族が心配して捜索願いを出したりすれば、騒ぎになる可能性がありますよ」
春香は無意識にふくれっ面になっていた。
「心配なんかしないでしょうけど、確かに騒がれるかもです」
「困りますよね?」
「それは……困ります」
海田は穏やかに春香に告げた。
「もちろん無理強いはしません。けれどこちらとしても心配ですから。よろしくお願いします」
「はい……わかりました」
言われた事は面白くはないけど、海田が心配してくれているのは素直に嬉しかった。まあどうするかは、旅館に着いてから考えよう。
ちらりと海田の方を見ると、窓の外のペンギンを眺めている。優しい表情を浮かべた横顔で、春香はふうんと思った。
海田さん、ずっと年上みたいで頼りになるけど、どこか不思議な人だな……。
やがて、思ったより早く自動運転タクシーがカフェの前に到着した。店員が教えてくれたので、春香は急いで防寒着を着てナップザックを担ぎ、店員にココアの料金を支払ってタオルを返しながら何度もお礼を言って、カフェを出た。相変わらず激しく雪が降っている。海田は、特に何も言わず春香と一緒にタクシーの横まで来た。お礼を言おうとした時、ペンギンの大福がテトテトと春香に近寄ってきた。
「大福君、今日はありがとうね。落ち着いたらお魚でも奢るからね」
春香の言葉に大福は嬉しそうに羽をパタパタ振って小さく鳴いた。うわー賢いんだ、と春香は感心してから海田に言った。
「じゃあ、海田さんもありがとうございました。また改めて連絡します」
「ええ。お気をつけて」
タクシーに乗り込み音声案内に行き先を告げて、走り出した車内から見送ってくれている海田と大福を振り返る。
――白くぼんやりと光る世界に、背の高い灰色の影の海田と、横に立つ白黒のペンギンの影は何だか絵画のようだった。
すぐに1人と1匹の姿は見えなくなり、春香はシートに座り直してふうと息をついた。それから首をひねった。
やっぱり私、海田さんと昔、どこかで会ってるような気がする……。




