表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

永久の権利

作者: はまゆう
掲載日:2026/02/23

その日は、いつものように委員会室の空気が乾いていた。

窓の外では、春の陽射しがビルのガラスに反射して眩しく、室内の人間たちはみなサングラスをかけているわけでもないのに、目を細めていた。誰もが同じような表情をしていた。退屈と、わずかな達成感が混じった顔。

議題は、憲法第97条。


「基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、国民に保障される」


誰かが読み上げたあと、沈黙が五秒ほど続いた。


「永久って言葉、ちょっと大仰じゃないですかね」


最初に口を開いたのは、委員会の最年少メンバーの2世議員Kだった。


「永久ですよ? 永久にって宇宙が終わるまで、って意味ですか?」


隣の席のベテランが小さく笑った。


「まあ、そういう詩的な言い回しは、戦後すぐのあの空気感だからね。もう時代が違う」


「重複してるんですよね。第11条と」


「そうそう。第11条に『基本的人権は、永久に……』って書いてあるから、97条はただの飾りみたいなもの」


「飾りなら、取っちゃってもいいんじゃないですか」


Kがそう言った瞬間、部屋の空気がわずかに軽くなった。

まるで、押し入れの奥にしまってあった古い正月飾りを「もう要らないよね」と捨てるような、そんな気軽さだった。

投票は、異議なしで可決された。

第97条は削除され、内容は第11条にきれいに吸収された。

条文が一つ減った。

紙が一枚減った。

インクが少し減った。

そして、何より「永久」という言葉が、憲法の中から消えた。

誰も、それに特別な感慨を抱かなかった。

少なくとも、そのときは。


それから四年と七ヶ月が経った。

首都圏を襲った未曾有の洪水だった。

記録的な集中豪雨が三日続き、利根川と荒川が同時に決壊した。東京の東部は水没し、地下鉄はプールになり、高架道路は滝になった。

政府は、待ってましたとばかりに「緊急事態条項」を発動した。

新しく追加された条文は、こう書かれていた。


「大規模な自然災害その他の緊急事態においては、公の秩序を維持するため、国民の権利を一時的に制限することができる」


たった一文。

しかし、その一文には、かつての「公共の福祉」という柔らかい響きはなく、代わりに「公の秩序」という、金属的な冷たさがあった。

Tは、その朝、自宅の二階で目を覚ました。

窓の外は水だ。

膝くらいまで浸かっている。

携帯には、政府からの緊急速報が届いていた。


「全住民へ。即時避難命令。指示に従わない場合は、公の秩序を乱す行為とみなす」


Tは眉をひそめた。

避難命令はわかる。だが「即時」というのが気になる。二階にいるのに、どこへ即時避難しろというのか。

さらに続けて届いたメッセージ。


「言論、集会、移動の自由は、当面の間、制限される。詳細は後ほど」


Tは思わずつぶやいた。


「ちょっと待てよ……これ、憲法違反じゃないのか?」


妻が台所から顔を出した。


「もう遅いよ。テレビ見てみなさい」


画面には、官房長官が立っていた。

落ち着いた声で、淡々と説明している。


「今回の措置は、すべて新たに整備された緊急事態条項に基づくものです。国民の生命と公の秩序を守るための、やむを得ない一時的な制限であります」


記者が手を挙げた。


「しかし基本的人権は永久の権利では……」


長官は一瞬だけ、優しい笑みを浮かべた。


「永久の権利、という表現は、旧来の条文にはございました。しかしながら、憲法改正で条文を整理し、より簡潔で現代的な形に整えました。」


その言葉を聞いて、Tは背筋が冷えた。

「整理した」

あの委員会室で誰かが言った言葉が、四年後のテレビ画面から、同じトーンで返ってきた。

まるでタイムカプセルが、今になって開いたかのように。

Tは、ふと思い出した。

子供の頃、祖父がよく言っていた言葉を。


「永久ってのはな、案外脆いもんなんだよ。人間が作った言葉だからな」


当時は何のことかわからなかった。

今なら、わかる。

永久とは、誰かが「永久だ」と言っている間だけ永久なのだ。

そしてその「誰か」が、別の誰かに取って代わられると、永久はあっという間に過去形になる。

数日後。

避難所で、Tは知り合いのSと再会した。

Sは元憲法学の講師だった男だ。

「どう思う?」

Tが訊くと、Sは疲れた笑みを浮かべた。


「思うも何も、もう終わってるよ。97条がなくなった瞬間から、こうなることは決まってた」


「でも、あのときは誰も反対しなかった……」


「反対する理由がなかったんだよ。だって『整理しただけ』だから。誰も損しない。誰も得もしない。ただ、永久が消えただけ」


Sはプラスチックのコップに水を注ぎながら、続けた。


「人間ってのは、永久を信じたい生き物なんだ。でも同時に、永久を信じすぎると面倒になる。だから、永久を信じなくていいように、少しずつ言葉を削っていく。そしたら、いつの間にか永久じゃなくなってる。とても合理的だよ」


その夜、避難所の体育館の天井を見上げながら、Tは考えた。

永久とは、どんな形をしているのだろう。

星のように遠くで光っているものか。

それとも、紙の上に書かれた、ただのニ文字か。

そして、そのニ文字が消えたとき、何が残るのか。

答えは出なかった。

ただ、体育館の蛍光灯が、チカチカと瞬いているだけだった。

外では、まだ雨が降り続いていた。

誰も、空を見上げなかった。

誰も、「永久だ」とは言わなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ