永久の権利
その日は、いつものように委員会室の空気が乾いていた。
窓の外では、春の陽射しがビルのガラスに反射して眩しく、室内の人間たちはみなサングラスをかけているわけでもないのに、目を細めていた。誰もが同じような表情をしていた。退屈と、わずかな達成感が混じった顔。
議題は、憲法第97条。
「基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、国民に保障される」
誰かが読み上げたあと、沈黙が五秒ほど続いた。
「永久って言葉、ちょっと大仰じゃないですかね」
最初に口を開いたのは、委員会の最年少メンバーの2世議員Kだった。
「永久ですよ? 永久にって宇宙が終わるまで、って意味ですか?」
隣の席のベテランが小さく笑った。
「まあ、そういう詩的な言い回しは、戦後すぐのあの空気感だからね。もう時代が違う」
「重複してるんですよね。第11条と」
「そうそう。第11条に『基本的人権は、永久に……』って書いてあるから、97条はただの飾りみたいなもの」
「飾りなら、取っちゃってもいいんじゃないですか」
Kがそう言った瞬間、部屋の空気がわずかに軽くなった。
まるで、押し入れの奥にしまってあった古い正月飾りを「もう要らないよね」と捨てるような、そんな気軽さだった。
投票は、異議なしで可決された。
第97条は削除され、内容は第11条にきれいに吸収された。
条文が一つ減った。
紙が一枚減った。
インクが少し減った。
そして、何より「永久」という言葉が、憲法の中から消えた。
誰も、それに特別な感慨を抱かなかった。
少なくとも、そのときは。
それから四年と七ヶ月が経った。
首都圏を襲った未曾有の洪水だった。
記録的な集中豪雨が三日続き、利根川と荒川が同時に決壊した。東京の東部は水没し、地下鉄はプールになり、高架道路は滝になった。
政府は、待ってましたとばかりに「緊急事態条項」を発動した。
新しく追加された条文は、こう書かれていた。
「大規模な自然災害その他の緊急事態においては、公の秩序を維持するため、国民の権利を一時的に制限することができる」
たった一文。
しかし、その一文には、かつての「公共の福祉」という柔らかい響きはなく、代わりに「公の秩序」という、金属的な冷たさがあった。
Tは、その朝、自宅の二階で目を覚ました。
窓の外は水だ。
膝くらいまで浸かっている。
携帯には、政府からの緊急速報が届いていた。
「全住民へ。即時避難命令。指示に従わない場合は、公の秩序を乱す行為とみなす」
Tは眉をひそめた。
避難命令はわかる。だが「即時」というのが気になる。二階にいるのに、どこへ即時避難しろというのか。
さらに続けて届いたメッセージ。
「言論、集会、移動の自由は、当面の間、制限される。詳細は後ほど」
Tは思わずつぶやいた。
「ちょっと待てよ……これ、憲法違反じゃないのか?」
妻が台所から顔を出した。
「もう遅いよ。テレビ見てみなさい」
画面には、官房長官が立っていた。
落ち着いた声で、淡々と説明している。
「今回の措置は、すべて新たに整備された緊急事態条項に基づくものです。国民の生命と公の秩序を守るための、やむを得ない一時的な制限であります」
記者が手を挙げた。
「しかし基本的人権は永久の権利では……」
長官は一瞬だけ、優しい笑みを浮かべた。
「永久の権利、という表現は、旧来の条文にはございました。しかしながら、憲法改正で条文を整理し、より簡潔で現代的な形に整えました。」
その言葉を聞いて、Tは背筋が冷えた。
「整理した」
あの委員会室で誰かが言った言葉が、四年後のテレビ画面から、同じトーンで返ってきた。
まるでタイムカプセルが、今になって開いたかのように。
Tは、ふと思い出した。
子供の頃、祖父がよく言っていた言葉を。
「永久ってのはな、案外脆いもんなんだよ。人間が作った言葉だからな」
当時は何のことかわからなかった。
今なら、わかる。
永久とは、誰かが「永久だ」と言っている間だけ永久なのだ。
そしてその「誰か」が、別の誰かに取って代わられると、永久はあっという間に過去形になる。
数日後。
避難所で、Tは知り合いのSと再会した。
Sは元憲法学の講師だった男だ。
「どう思う?」
Tが訊くと、Sは疲れた笑みを浮かべた。
「思うも何も、もう終わってるよ。97条がなくなった瞬間から、こうなることは決まってた」
「でも、あのときは誰も反対しなかった……」
「反対する理由がなかったんだよ。だって『整理しただけ』だから。誰も損しない。誰も得もしない。ただ、永久が消えただけ」
Sはプラスチックのコップに水を注ぎながら、続けた。
「人間ってのは、永久を信じたい生き物なんだ。でも同時に、永久を信じすぎると面倒になる。だから、永久を信じなくていいように、少しずつ言葉を削っていく。そしたら、いつの間にか永久じゃなくなってる。とても合理的だよ」
その夜、避難所の体育館の天井を見上げながら、Tは考えた。
永久とは、どんな形をしているのだろう。
星のように遠くで光っているものか。
それとも、紙の上に書かれた、ただのニ文字か。
そして、そのニ文字が消えたとき、何が残るのか。
答えは出なかった。
ただ、体育館の蛍光灯が、チカチカと瞬いているだけだった。
外では、まだ雨が降り続いていた。
誰も、空を見上げなかった。
誰も、「永久だ」とは言わなかった。




