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殿下、そんなつもりではなかったなんです!

作者: 橋本彩里

 

「リリエン・ブリック。この俺をその気にさせた責任を取ってもらおう」


 艶のある黒髪に赤い瞳がなんとも妖艶なこの国の第五皇子であるエルドレッド・ザハディストはにっこりと笑顔を浮かべると、この手を取れとリリエンの前に差し出した。

 リリエンは、はてと首を傾げた。


「責任?」


 エルドレッドが何の責任を求めているのかわからない。

 ここ数日のことを思い返し、リリエンはさらに首を傾げる。


「お前、本当にわからないという顔をしているな」


 むっと拗ねたように眉間にしわを寄せ、エルドレッドはさらにリリエンに近づいた。


「申し訳ありません。本当に何をおっしゃっているのかわかりません」


 素直に述べると、はぁっとエルドレッドはこれ見よがしに溜め息をついた。


「この王城に、俺のところに来たお前の目的は何だ?」

「エルドレッド殿下が女性に興味を持っていただくようにすることです」

「そうだ」

「ということは……」


 リリエンはその可能性に思い至り、ぱぁぁぁっと表情を明るくさせた。

 半ば諦めていた計画が頭の中で小躍りする。


「私は一か月に一度のケーキを食べても許されるのですね!」

「は?」

「何年も使い倒していたタオルを雑巾にしても罪悪感に苛まれることもない日がくるのですね!」

「はぁ?」


 それからそれからと、今まで泣く泣く諦めていたことを思い浮かべリリエンは満面の笑みを浮かべた。

 喜びで身体を揺らすと背中まであるウェーブかかった薄紫ピンクの髪も揺れる。透き通った紫の瞳は想像だけで幸せいっぱいだと語っていた。

 それとは反対にエルドレッドの眉間のしわは深くなり、ぴきぴきとこめかみに青筋を立てた。


「よおーくわかった!」

「何がですか?」

「母からいくらもらった?」

「そ、それは内緒です。女の秘密というやつです」


 リリエンはぽっと頬を染め、もじもじと上目遣いでエルドレッドを見た。

 色白で小作りなリリエンの見た目はほわっと柔らかな美人なので、その姿は非常に可憐に見える。

 エルドレッドの頬がひくりと引きつった。


「ほお。女の秘密ねえ。金銭のやり取りが行われているのに?」

「秘密は秘密です。それにお金は嘘をつきません。正当な報酬を受け取って何が悪いのでしょう。皇后様は殿下のことを非常に心配して」

「ふーん。心配ね。どれほど?」

「殿下が女性に興味を持てば十倍もの報酬をと約束してくださっ、あっ」


 失言に気づきそろっとエルドレッドを(うかが)うと、しっかりと耳に入っていたようで面白そうに口の端を引き上げた。


「へえ。十倍。最初はどれほどもらっていたのか知らないが、きっとかなりの金額だろうな」

「……ああ~っ、私はそれほど皇后様が殿下を心配していたと言いたかっただけで」


 しくじったとリリエンは眉尻を下げた。

 ここ数か月ほどのやり取りで、すっかり慣れた応酬にそのままつるっと口が滑ってしまった。

 でも大丈夫。金額は言ってないから秘密は守られたままだ。


 気を取り直し、私は何も悪いことをしていないのだからとエルドレッドを見つめる。

 すると、なぜかエルドレッドの機嫌が急降下した。

 続いて、はははっと笑い、エルドレッドは差し出していた手をリリエンの肩にぽんと置く。


「エルドレッド殿下?」

「よおーくわかった。お前は男を弄ぶ悪女だ」

「なんでそうなるのですか!? 私は殿下のためを思い頑張っただけなのに」


 悪女なんて心外だ。

 リリエンは男性を誑かそうなんて一度も考えたことはない。そんなことを考える暇があったら、どうやって家計をやりくりするか考えている。


 一度も皇子を色仕掛けしたこともないし、彼に気に入られようなんて思ったこともない。

 ただ、リリエンは任務遂行するためにエルドレッドに近づいただけだ。


 それはお金のためでもあるけれど、それ以下でもそれ以上でもない。お金をもらうからには任務を遂行しようと頑張っただけだ。決してそれ以外の不純な動機はない。

 それにエルドレッドも、リリエンが皇后から遣わされたとわかっているはずだ。


「ああ、性懲りもなくたくさん押しつけてきたな」


 エルドレッドが指を鳴らすと、彼の侍従が重そうな書類の山を持ってくる。

 リリエンはまさかと目を見開いた。


 ――あれは夜にこっそり読むやつなんです。多分。


 贈ったリリエンにやましい気持ちはないが、白昼堂々と人目にさらされるのは違うと思った。

 どうしましょうと焦っている間に、仕事のできる侍従は丁寧に机の上に並べていく。

 白に金箔の表紙や、ドギツイピンク色のものまで実に多様だ。


 凝視できずにそわそわと視線を彷徨わせていると、エルドレッドがとん、とん、と一つひとつ手に取ってリリエンの前に掲げた。


「『帝国未婚者リスト』に『帝国美人図鑑』に『女性の口説き方』から、恋愛小説まで」

「あっ、そっちは」


 それからと視線を移した本に、リリエンは今すぐ隠したいと手を伸ばそうとしたがその手を掴まれあっけなく阻まれる。


「これもリリエンが持ってきたものだろ? どこで手に入れたのか『夜の女帝たち』、ああこれは夜の女性のカタログリストか」


 ぱらぱらとめくりながら、エルドレッドは実に楽しそうにリリエンを見た。


「それと『女体の感じ方』に『男女の営み図録』、これなんかは」

「あははははっ」


 リリエンは誤魔化すように笑った。

 護衛の騎士たちや侍従と人気があるところで、皇子に読み上げられる羞恥。


「こんなものを男に、しかもこの国の皇子に押しつけるのはリリエンだけだろうな」

「私もなんとか殿下に女性に興味を持ってもらおうと必死だったんです」


 そう。エルドレッドのため、ひいてはお金のために頑張っているのだ。

 何せ前金をもらったのだから、それ相応の働きをしなければとただただ最善を考えて動いた結果だ。


「そうか。必死だったんだな。それも俺のために」

「はい。殿下のために」


 こくこくと頷くと、エルドレッドは非常に満足げに頷きすぅっと目を細める。


「なるほど。それは嬉しいな。ところでリリエン、今はいくつだ?」

「十八になりました」

「俺の年は知っているか?」

「殿下は二十歳になります」


 皇后が二十歳になっても女性の気配がまったくないエルドレッドを心配したため、リリエンにまで依頼が来たのだから覚えている。

 急に年齢を訊ねてくるとはと首を傾げると、そこでエルドレッドの双眸が細められた。


「そうだ。俺たちは成人している」


 今更確認せずとも、それは互いにわかっていることだ。成人しているからこそ、自分たちはこうして出会ったと言ってもいい。

 いったい何を言い出すのかと警戒を滲ませドレスを掴む。つるりと滑る素材が心許ない。


「そうですね。結婚してもおかしくない年齢になります」


 頷くと、耳につけた飾りがしゃらりと光る。

 今のリリエンの姿は領地にこもっていた時には考えられないほどオシャレをしている。

 そのすべては用意されたもので、飾り紐一つとってもリリエンには贅沢すぎるほどの値段のものだ。


 そうして着飾ることをしなければ会えない相手。

 面倒くさがりのエルドレッドは普段多くを語らないが、気を許した相手や話すと決めたときは弁が立つ。

 嫌な予感に、じっくり間をおくエルドレッドを見つめた。


「――今まで放置して申し訳なかったな。せっかくリリエンが俺のために選んでくれた本だ。この機会に一緒に読んで勉強しよう。付き合ってくれるよな?」

「辞退することは?」

「できると思うか?」


 がしりとリリエンの両肩を掴むと、にぃっこりとエルドレッドは微笑んだ。



   ◇ ◇ ◇


 そもそもの始まりは、三か月前。皇后からの依頼であった。


 リリエンは、目利きもろくにできないくせに骨董にはまりあらゆるものを買い集めた祖父のせいで、常に金欠な侯爵家の長女として生まれた。

 お人好しの父にのんびりものの母、そしてその二人を足して二で割ったようなのほほんとした長兄に愛情いっぱいに育てられた。


 家族仲は悪くないが、常に一か月先を気にする生活。愛情の素晴らしさを感じてはいるが、実際問題それだけでは暮らしていけない。

 早々にのんびり者の家族だけに任せておけないと気づいたリリエンは、気がつけば家計をやりくりするようになっていた。


 大金持ちになりたいなんてことは言わない。

 せめて年単位の余裕を持ちたいとささやかな願いはいつまで経ってもこず、黄金の雨でも降らない限り夢のまた夢である。


 その日も連日続いた雨のせいで厩舎が雨漏りをし、修繕費をどこから持ってくるか頭を悩ませていた。


「せっかく来月はケーキが食べられると思ったのにぃぃ」

「申し訳ありません」


 頭を抱えて嘆いていると、祖父の代から勤めてくれている執事が申し訳なさそうに頭を下げた。


「フランは悪くないわ。父様も兄様も頑張って働いてくれてはいるのだけど、あちこち修繕が必要なせいでとんと追いつかないのよね。領地の整備ができているだけまだマシだけど」


 いつものように執事と帳簿を睨めっこし、リリエンは溜め息をつく。

 豪遊しているわけではないのに、次から次へとお金が溶けて消えていく不思議。


 さあ、今度こそと思えば、やれここが悪い、やれ税金だと貯まるのを待っていたかのように次々とお金が必要な事案が発生する。

 かろうじて借金は免れているが全く余力はなく、現在も食費を削ってなんとか使用人たちの給金を捻出しているところだ。


「お美しいお嬢様が社交の場に出られないことに心が痛みます」

「仕方ないわよね。そういう場に出ればドレスも毎回新調しないといけないし、ドレスを買うくらいならみんなで美味しいものを食べたいわ。おじいさまの骨董品もお金になるものがあったらよかったのだけど、ガラクタばかりだし」


 はぁっと息をつくと、そこで父がものすごく慌てた様子でリリエンのもとにやってきた。


「リリエン。大変だ!」

「どうしたのです? まさかまたお金が必要なことが発生したのですか?」


 まだ厩舎をどうするか解決できていないのに頭が痛いと額に手をやると、父は随分と高そうな封筒をリリエンの前に差し出した。

 その手は小刻みに震えており、ぶるぶると動く中でも見える蝋判に目を見開く。


「皇后様からリリエン宛にだ」

「やはりそうですか。ですが、どうして?」


 皇室からどんな重要な案件がと気が気でない父を余所に、リリエンは驚いたものの冷静に受け取り開封した。

 お金がかかること以外なら、受け止める自信がある。


「ふむふむ。……はっ? 父様、大変です。今から皇后様が来られます!」

「えっ……、ふえぇぇぇ」


 その後、放心してしまった父を放ってリリエンは皇后を迎え、この家にできる精一杯のもてなしをした。

 あまりにも突然の訪問であったが、急であったことで事前の準備にお金をかけることもなく、父たちはろくなもてなしができずに恐縮しまくっていたけれどリリエンはありがたかった。


 皇帝にはエイローズ皇后と二人の側室がいる。

 そして皇后には二人の息子がおり、皇太子と第五皇子殿下だ。皇太子にはすでに妃がいて継承権や後継者争いにも決着はつき安泰だ。


 後継問題が片付きほっとすると、今度は自分の二番目の息子が気になりだした。

 これまで好きにさせていたけれど、第五皇子殿下は全く女性に興味を示さず頭を悩ませているとのことだった。

 皇后が年頃の年齢の令嬢を送り込んでもことごとく追い出され、微塵も興味を示さず二十歳にもなってのそれはもしかして男色なのではとの噂まで出る始末。


 万策尽きた皇后はそこで社交界に顔を出さないリリエンの存在を思い出し、何がきっかけになるかもわからないと藁にも縋る思いで訪ねてきたということだった。

 突如訪ねてくる行動力といい、皇后は実に愉快でそして太っ腹だった。


 皇后の依頼はエルドレッド殿下に女性に興味を持ってもらうことで、その話術や勢いにリリエンはその気にさせられ、それでも荷が重すぎると渋っていると破格の額を提示された。

 しかもだ。王城に赴く際の衣装やしばらく過ごす部屋もただで用意してもらえ、それは依頼料とは別に用意するとのこと。


 リリエンは金策に悩んでいたこともあり、目先の人参につられ気づけば依頼を引き受けていたのだった。


「任せてください! 女性嫌いというわけではないとのことなので、きっとやりようはあります」


 太っ腹な皇后様の金額に笑顔が止まらない。

 奇跡とも言える黄金の雨の恩恵が頭上に降ってくるのなら、それを受けないわけにはいかない。


「おほほほほっ。その潔さとても気に入ったわ。今回はエルドレッドも興味を示すでしょう。期待していますよ。リリエン」

「わかりました! 必ず殿下に興味を持ってもらえるよう頑張ります!」


 こうして、リリエンは難攻不落のエルドレッド皇子のもとへと通い詰めることになったのだが、エルドレッド第五皇子殿下との初対面は最悪だった。


「初めまして。リリエン・ブリ」

「顔だけでもと言うから顔を合わせた。もういいだろう」


 何度も通いやっと顔を合わせる許可が出たかと思えば、挨拶の途中で寄りつく島もなくひょいっと片手を本人は動かすだけで側近たちに追い出された。

 文字通り、顔だけ見せた。だから、おしまい。


 ――噂通り手強いわね。


 リリエンは古びた窓ガラスの汚れを思い出した。

 何度拭いても綺麗にならないそれ。でも、ずっと拭いていると愛着も湧いてくる。


「こんなこと朝飯前よ」


 ふふふっと笑いながらその場を後にしたリリエンを奇妙な目で護衛たちが見て今回もまた一人女性が傷ついて散っていったかと同情したが、翌日も、その翌々日もリリエンは皇子のもとへと通った。

 そもそも同じ敷地内。毎日通うことなど屁でもない。


 仕事だと思えば、金策に悩みあっちこっちで肉体労働をする領地にいるよりも楽である。

 これだけでチャリンチャリンとお金が発生していると考えれば、むしろ楽なほうだ。


「エルドレッド殿下にご挨拶を申し上げます。私はリリエン・ブリックと申します。どうぞよろしくお願いいたします」


 足繁く通い詰め、ようやく名乗ることができたのは一か月経ってからだった。


 ――全部、言えたわ。


 これだけで感動ものだ。今まで名乗る途中で追い出されを繰り返し、塩対応にいい加減になれてくる。むしろ、扉の前まで来てくれるようになったのは進歩だ。

 にこにこと笑顔で名乗り上げると、目の前のエルドレッドは訝しげに眉をしかめ、ししっと手を振った。


「また、お前か。帰れ」

「それはできません。私は皇后様に言われここに来ましたので」

「聞いていない」

「いいえ。聞いていらっしゃるはずです。きっちり一時間は公務として私との時間を設けられたと聞きました。ですので、今日は一緒にいさせていただきます」


 意地でも動かないぞとその場でじっとエルドレッドを見つめていると、心底面倒だと大きな溜め息とともにエルドレッドが身体をずらす。


「……はぁ。好きにしろ。ただし、俺の邪魔をするな」

「わかりました。好きにさせていただきます」


 リリエンはにこっと笑みを浮かべると、エルドレッドの部屋に入った。

 キョロキョロと視線を動かし隅のソファに腰掛ける。

 部屋には入れてくれたが、どうせ話はしてくれないだろう。


 ならば、存在に慣れてもらうところからだ。言われなくとも邪魔をするつもりはない。

 その意志を示すためだった。


 エルドレッドは目を見張り、ふんと鼻を鳴らし途中だった資料に目を通しだした。

 その姿をしばらくじっと観察し、追い出されることはないと判断すると、リリエンは部屋の内装へと視線を移した。


 それから何度か通っているうちに、リリエンが邪魔をしないとわかると、特に何も言うことなく部屋へは通してくれるようになった。

 しかも名乗る前に、さっと身体をずらして入れてくれる。


 得体の知れない人物は拒絶。

 別に邪魔にならないと判断したら、その範囲で好きにさせる。

 女性がどうのこうのというよりは、エルドレッドは非常に面倒くさがりなのではないだろうかと、こっそりリリエンは笑った。


 そんなある日、定位置のソファで親しくなった側近たちと歓談していると、離れた場所で一人座っていたエルドレッドに話しかけられた。


「お前はいつまでこんなことを続ける?」

「殿下がお話してくださるまでです」


 女性に興味を持ってもらおうにも、話してくださらないなら本当のところどう思っているのか、どういう方が好みなのか、それとも本当に男色なのかわからない。

 男性が好きならば無理強いするつもりはなく、リリエンはそう皇后に伝えて前金も返して諦めて領地に帰るつもりだ。


「俺は女はいらない」

「そんなのだから、男色の噂が出るのでは?」


 いらないならいらないでいいけれど、一辺倒に主張するから誤解されるのだと言えばわずかに嫌そうに眉を寄せたので、その様子は噂の内容が不服であること物語っていた。

 それを見て、噂はただの噂なのだとリリエンは確信した。


 ただ、皇室でマイナスとなるような噂が出ること自体が駄目なのだ。

 そのため、何とかしようと皇后は女性を何人も送ったけれど、ことごとく追い返されたため返ってその噂に拍車がかかってしまった。

 だから、慌てて皇后も毛色の違ったリリエンに依頼することになったのだろう。


 一度、女性がエルドレッドに色仕掛けで迫っている現場に遭遇したことがあった。

 ぐいぐい迫っておきながら、その女性は何も言わずとも察してと縋るような熱い眼差しを向けていた。

 かなりの押しにもエルドレッドの感情は揺れることはなかったようで、ひたすら肩を押して女性を遠ざけ素っ気なかった。ただ、その顔にはものすごく面倒だというのがありありと書かれていた。


 それを見て、大変そうだと思うと同時に面倒なだけだったら、なんとかなる気がした。

 ようは、面倒だと思われない方法を探せばいいのだ。無理矢理押し付けられるのを非常に嫌うので、さりげなくアプローチ。


 幸い、部屋に入れてもらえるくらいにまでなっているので、その女性よりは何かできる可能性は高い。

 最悪、女性に興味を示さなくても嫌だと思わせず、周囲には女性と過ごしている姿を見せることができれば、その噂は次第に薄れ皇后様も許してくれるのではないかと考えた。


 決して前金が惜しいとかそういうことでは……、それも含まれているがリリエンも本人が本当に嫌がることはするつもりはなかった。

 それは皇后にも伝えてあるので、この任務が失敗したからと言って報復があるとも考えていない。


 だから、許された日はきっちり一時間、意地でも一緒にいるつもりだ。

 部屋に入ってしまえば、側近や侍従以外は本当のところ何をしているかわからない。


 もちろん、お金を受け取ったからにはこれは仕事だ。エルドレッドに女性に興味を持ってもらえるように頑張るつもりだ。

 領地のためにも報奨金を受け取ったら、一年先、いや三年先まで贅沢はできずとも今までみたいにあれこれ費用を削って過ごすということはなくなる。

 みんながハッピーな結末だ。


 そのためにはどうすればいいかと、リリエンは真剣に考えた。

 あれこれと思案し、きらりと閃いた作戦にふむふむと頷く。


「殿下も男性だし……、まったく欲がないわけではないわよね」


 よしそれでいきましょうと、そのための準備をするために街にくりだした。

 こうしてリリエンは、エルドレッドのもとに通い続けながらある物を貢ぎ続けたのだった。



 リリエンが城にやってきて数か月。


「リリエーン」


 ここ最近、第五皇子の女性を呼ぶ声が響く。

 そのためすっかり男色との噂は消え、皇后の機嫌とともに皇室の雰囲気もよくなっていた。


 名を呼ばれたリリエンは、暇つぶしに読んでいた小説を閉じ顔を上げた。

 小説なんて娯楽という贅沢品を買うことも読む時間もなかったので、懐痛まずして時間もあるしとエルドレッドの執務室で寛いでいた。


「はい。殿下」

「これは何だ?」


 目くじらを立てた赤い瞳が、ぎらりとリリエンを捕らえる。

 あら、いやだ。そんなに感情をあらわにするなんてこれまた進歩ではとリリエンは感動した。

 選んだかいがあるというものだ。


 によによと締まりのない顔を浮かべるリリエンを見て、エルドレッドがぎりぎりと奥歯を噛んだ。

 機嫌の悪さだけがひしひしと伝わってくる。


「リリエン」


 ドスの利いた声音。

 鍛えた肉体美に、艶やかな黒髪と赤い瞳を持つ美貌。持って生まれた華やかさが加わり、声音を変えるだけで相手を支配する。

 そこらの貴族令嬢なら泣きが入るところであるが、リリエンはそれも悠然と受け止めにっこりと微笑んだ。


「それは殿下のものですよ」

「お前、ふざけているのか」

「まあ、殿下。女性に対してお前だなんて。ダメですよ」


 おほほっと笑うと、ぴきりとエルドレッドの顔に青筋が立った。


「ほお?」

「凄んでも怖くはありませんわ」


 領地には三メートルほどある大柄な熊がいる。それと比べると、凄んでいても優美さを纏うエルドレッドはちっとも怖くない。

 余裕で笑みを浮かべると、ビリッとエルドレッドは手に持っていた薄い本を真っ二つに破り捨てた。


 ばさりと床に落ち、ちょうど女性のまろやかなフォルムが丸見えになる。

 それを見て眉根を上げたエルドレッドが、その上からばさばさと他の資料を落とし見えないように被せた。

 ご機嫌斜めなエルドレッドを前に、リリエンは嘆息した。


「せっかく頑張って手に入れたのに」

「そういえば、どうやって手に入れた?」

「まあ、それは友人に」


 そのせいで今度デートすることになったのよね、と頬に手を当てながら息をついていると、エルドレッドがぴくぴくっと眉を跳ね上げた。


「――……男か?」

「それは、ご令嬢にこんなことを頼むわけにはいきませんもの」

「ほぉ?」


 先ほどよりもトーンが低くなる。

 さすがのリリエンも本気の苛立ちを感じ取り、笑顔をさっと引っ込めた。

 何がそんなにエルドレッドの機嫌を損ねたのかわからないと、様子をうかがうように声をかけた。


「殿下?」

「リリエン。お前は俺に女性に興味を持ってほしいんだよな?」

「はい。できれば」


 それがリリエンの仕事である。そのために多額の報酬を貰えることになっているのだ。

 無理強いするつもりはないが、殿下が興味を示してくれるのならこちらとしてはありがたい。


 その気になったのかときらきらと目を輝かせると、エルドレッドが掴めないヤツだなとぼそっと呟いた。

 失礼な。自分ほどわかりやすい人はいないと思う。


 すべてはお金のため。

 一か月先を心配しなくてもいいように、リリエンはここにいる。


「だから、こんなことをすると?」

「興味の入り口はどこから開くかわかりませんから」

「なるほどな」


 そこでエルドレッドが腕を組み、とんとんと指をあてながらリリエンをじとりと見た。

 穏やかさとはかけ離れたまるで真っ赤なルビーのような瞳がまっすぐにリリエンを見つめてきて、息を呑む。

 近くで見ると、笑みを浮かべる瞳の奥は、一体何を考えているのか底の読めない鈍い光が宿っていた。


「殿下?」


 今までの無関心が嘘のように、ひたとリリエンを見据える双眸を前に、この時初めてリリエンはエルドレッド・ザハディストという一人の男性として意識した。

 これまでは仕事の依頼対象でしかなく、第五皇子殿下をどのように女性に興味を持ってもらおうとそれしか頭になかった。


 初っ端から興味もないと追い出され、同じ部屋にいても無関心。

 どんな女性を前にしても熱のない双眸を前に、リリエンはひたすら職務として向き合ってきただけだった。


 急に目の前に現れた異性の存在にそわそわする。

 初めて見る熱のこもったエルドレッドの瞳から目が離せない。


 何か言わなければと口を開いてみたが何を言えばいいかわからず閉じると、エルドレッドは目を細めてふっと笑った。

 何か企むにしては実に楽しそうな表情に訝しんでいると、エルドレッドは見たことのない爽やかな笑顔を浮かべた。


「よくわかった。リリエンに付き合ってやろう」

「本当ですか?」


 リリエンはぱっと顔を上げて、思わずエルドレッドの両手を掴んだ。

 この流れでそうなるとは思わなかった。


 やはり、薄い本の作戦が功を奏したとほくほくとする。

 どういう心境の変化かわからないけれど、任された職務がうまく進んでいることにリリエンは浮かれた。


 ――この調子で、どんどんエルドレッド殿下に興味を示してもらわなくちゃ。


 意気込んだリリエンは、エルドレッドが思案するようにじっと観察してくるのをよそに、にこにこと掴んだエルドレッドの大きな手を振りながらにっこりと笑顔を浮かべた。



   ◇ ◇ ◇


 白昼堂々といかがわしい表紙がずらりと置かれた机を前に、リリエンは戸惑いの声を上げた。


「あっ、待ってください」


 並べ終わると侍従はさっさと下がり、側近や護衛も含む眼差しを残し、じゃ、と爽やかに部屋の外に出てしまい二人きりにされる。

 是非、彼らにも部屋にいてほしかったのに、エルドレッドのもとに長く通うことによって親しくなり信頼されることになった弊害がこんなところに出てしまった。


 名残惜しむように視線を扉に向け、リリエンはうーむと眉尻を下げる。

 すると、やたらと爽やかな笑顔でリリエンの肩を掴んでいたエルドレッドは、すっと顔を寄せ耳元でささやいた。


「リリエン。こっちを見ろ」


 低く響く美声にぞわっと肌を粟立たせ、リリエンは不安を喉の奥に押し込めた。

 おずおずと振り仰ぐと、目の前で睫毛が瞬き、その奥の赤い瞳がひたとリリエンを見据えていた。

 視線が絡むと、エルドレッドの笑みが深くなる


「殿下。本当に一緒に読むのですか?」

「ああ。その様子じゃリリエンも目を通していないのだろう?」

「そうですけど……。リサーチはしっかりしましたよ」


 人気があるものや密かに流行っているもの、友人の意見を聞いたりして取り寄せた。

 特に変なものがなければそれでいいと、どれがエルドレッドの琴線に触れるかわからず幅広くそして手当たり次第でもあった。


「ならいい機会だろ? その気にさせた責任としてこれから毎日この本を見ていこうか」

「毎日?」


 リリエンは言葉を反復し沈思していたが、具体的に想像しあり得ないだろうと目を見張った。


 ――それが、その気にさせた責任?


 冗談だと言ってくれと願いを込めてリリエンが軽く首を傾げると、その際にはらりと落ちた髪をすくい上げエルドレッドが耳にかける。

 それから耳元に唇を寄せた。


「ああ。全部だ。リリエンは俺と話せる機会をずっと待っていただろう? ちょうどいい。毎日一時間。一緒に勉強しようか」

「あっ、勉強……」


 笑顔で応えようとしたが、少し顔が引きつってしまった。

 嬉々として贈ってきたものが、このような形で返ってくるとは思わない。しかも、息がかかるほど近くでささやかれ、リリエンはばっと上半身を引いた。


「問題でも?」


 リリエンの反応に楽しげに笑みを浮かべたエルドレッドの双眸は、そう訊ねながらも断らないだろと自信に満ちあふれ恐ろしいほど輝いていた。

 いつもなら皇子相手にも遠慮なく言いたい放題していたのだけど、この時ばかりは言葉を慎重に選ぶ。


「いえ。問題はありません。ただ、その、そういうことに私は詳しくなく」

「人に勧めておいてそれはいけないよな? 一緒に勉強して、是非ともリリエンのお勧めを教えてもらいたいものだ」


 なんてことだ。

 リリエンは頭を抱えたくなった。


 エルドレッドに興味を持ってもらうことばかり考えて、自分も読むことになるとは想定していない。

 困ったと眉根を寄せながらちらっとエルドレッドに視線を投じると、皇子はにこやかな笑顔を浮かべてリリエンの腰に手を回し、もう片方の手で机の上を指さした。


 ――逃げられない。


 がっちり回った腕は思っていたより太く、リリエンの動きを封じてくる。

 頭上にあるエルドレッドを見上げると、さあ選べと促された。


「どれから勉強する?」


 リリエンは観念して前方に視線を巡らせた。

 『女体の感じ方』や『男女の営み図録』はさすがにハードルが高い。ならばと、少し離れた場所にある小説に目を向ける。


 白とピンクと黄色を基調とした本は、『キュンキュンメモリー。これであの子も俺に夢中』というタイトルだ。

 誰が書いたこれと突っ込みたくなるようなこのタイトルなら、そんな濃密なものではないだろうとリリエンは手に取った。


「これにしましょう。殿下も、それに私も初心者なので」

「そうか。ならそうしよう」


 私が手にとった本を見て、エルドレッドは面白そうに口の端を引き上げた。

 大きなソファに並んで座り、本を開く。


 ぱらぱらと流し見ている横でリリエンも視線を投じると、壁に女性を追い詰め口説いている様子や、口づけする寸前の顎に手をおく角度など、ものすごく事細かに描かれている。

 そして、無駄に絵が上手い。


 大人の絵本? というほど丁寧に描写されたそれは、裸体がドンとあるよりもなんだか気恥ずかしいものだった。

 しかも、手ほどきなので男女の細部まで描かれ、指先一つとっても艶めかしく見える。


 ――こ、これは……。


 リリエンは顔を赤らめた。

 黙ったリリエンに、エルドレッドは面白そうな顔をして笑う。


「どうした?」


 切れ長の瞳は相変わらずじっとリリエンを見つめているが、責任の追及という割にそこに不機嫌さは表れていない。むしろ、終始楽しそうだ。


「その、やっぱり違うやつを……」

「リリエンが選んだのだろう? さっきも言ったが人に勧めておいて、自分は嫌だというのはおかしいんじゃないか?」


 真っ当な言葉に、リリエンはぐうの音も出ない。


「わかりました」


 期待を裏切らないだろうと好戦的にも見える双眸でじっと見据えられ、確かにそうだとこくりと頷く。

 しかも、手元にある本はエルドレッドに興味を持ってもらおうと吟味した上で購入したものだ。ちゃんと目を通してくれるというのなら、この機会を恥ずかしいといって逃すのは惜しすぎる。


 ――これは最大のチャンスよ!!


 リリエンは気合いを入れ直し、目の前の本に視線を投じた。


 ふっと笑い、エルドレッドがひどく静かに誘うような声で告げる。


「リリエン。気になるところはしっかり意見を言えよ。実際の女性に話を聞けるとより参考になるからな」


 つまり感想を言えと?

 更にハードルが上がった要望に、内心の焦りを押し殺しにっこり微笑んだ。


「わかりました」

「それでこそリリエンだ」


 何の辱めだろうかと思いながらどうにかそう答えるが、エルドレッドは冗談でもなんでもなく言っているようだ。


 ――それでこそって、どんな印象なのかしら?


 すっきりしないが、エルドレッドの期待のこもった眼差しに晒されると、初対面ですぐに追い出されたことを思えば進歩だとその期待に応えたくなるから不思議だ。

 皇子の普段冷ややかな対応が微笑に変わるだけで言うことを聞きたくなるとか、「普段の塩対応な分ずるいよね」だとリリエンはこっそり呟いた。


 流し見が終わると最初のページに戻り、一つひとつ丁寧に捲られていくそれにも真面目に向き合う。

 恥ずかしさが過ぎると、今度は中身が気になってきた。


「へえ」

「いろいろあるな。それを図とともに説明しているのは確かに興味深い」

「そうですね。でも、やはり人によるとは思います」


 女性がきゅんとくるポイントということらしいけれど、それぞれ好みはあるなと感じた。現にリリエン自身もまあいいかもと想像できるものもあれば、これは違うだろうと思うものもあった。

 そもそも、好意がある前提じゃないと萌えない。きゅんとしない。


「確かにそうだな。女性もだが、男性も性格によって攻め方は変わってくるだろう」


 確かにそうだ。胸中、しみじみとその意見に頷いた。

 普段、慣れないことをするとぼろが出る。演じるのが楽しいならまだしも、無理をするのは精神的にもよくないだろう。

 女性側からすれば内気な男性が急にぐいぐい押してきたらそれが魅力となる場合もあるだろうし、逆に嫌だと思う場合もあるだろう。


 意外とエルドレッドも真剣に見てくれているので、リリエンも熱が入ってきた。

 だが、後半になってくるとその描写が更に艶めかしくなり、動揺で落ち着かなくなる。


「リリエン、どうした?」

「いや、えっと」


 初心者にはハードルが高すぎる。

 そわそわと視線を彷徨わせいたたまれずエルドレッドから距離を取ろうと動くと、皇子は逃げかけたリリエンの腰を掴み、乱暴なほどの勢いで引き寄せた。


「殿下……」

「リリエン。恥ずかしがることではない。そうだな。やはりこういうのは実践してみてこそだと思わないか?」


 エルドレッドは思わず見蕩れるような笑みを刷いて、ぽん、とリリエンの頭を撫でた。


 ――頭、ぽん?


 最初のほうにあったそれをさっそく実践され、リリエンは目を白黒させる。


「あっ……」


 言葉にならない声を上げ、触れられた場所に手をやると、その手も掴まれて指を絡められた。


 ――これは三ページ目のやつ!?


 大きな手に包まれ、ぴきりと絡まった。今更ながらに、爽やかな中に甘さが混じったエルドレッドの匂いを意識してしまう。

 リリエンはぼっと顔を赤らめた。


「どうだ?」

「どうと言われましても」


 いちいち近いです。

 これも実践? それとも素?


 腰に腕を回され密着している状態から顔を覗き込まれ、頬にエルドレッドの髪が触れる。

 くすぐったくて、すごい速さで鳴る自分の心臓がどこどこ響いてうるさい。


「そうか。もっと試さないとわからないか」


 そういうつもりの言葉じゃありませんが?

 エルドレッドのほうを見ようにも近すぎて振り向けず、際どい絵が開けられたページに視線をやるしかできない。


 そのほうがマシだった。

 あの魅惑的な赤の双眸を見てしまったら、もしどこかに触れてしまったらと思うとどうしようもなく、リリエンはかちこちと固まる。


 ――あ、ダメだ。


 くすり、と笑うだけで吐息がかかりぞくぞくする。

 思わず身を震わせそうになったが、ここで反応すればエルドレッドの思惑通りとなりそうでぐっと堪えた。


「リリエン。何か言ってくれないと」


 困っているのに、エルドレッドはさらに追い詰めてくる。


 ――くっ。鬼畜め。


 艶っぽくも笑みを含む声音は、この状況を楽しんでいることがわかる。

 普段、面倒くさがりなのに、いざ興が乗ればどこまでも楽しそうなのが悔しい。


 余裕のあるエルドレッドに腹立たしくもあり、どうすることもできないもどかしさを抱えながら、リリエンはおずおずとエルドレッドのほうへと視線をやる。


「殿下、そんなつもりではなかったんです!」

「ほぉ? なら、どんなつもりだ?」

「純粋に殿下に女性に興味を持っていただこうと」


 実践するつもりなんて微塵もなかったですけど?

 そういうつもりで贈ったのではないのですけど?


「ああ。そうだろうな。でも、リリエンが始めたのだから最後まで責任は取らないとな」


 エルドレッドは眩しそうに目を細めると、さらにリリエンを引き寄せ極上の笑みを浮かべた。


 張りのある黒髪がさらさらとなびき、赤の双眸が興味津々に自分に注がれ、リリエンは慌てた。

 きゅっと唇を引き結び常に機嫌が悪そうなイメージはあるが、薄い唇に縁取られた口は本気で笑うと意外に大きく横に広がることをもう知っている。


 この部屋に入ることを許されてから、エルドレッドは冷たくも厳しくもなかったが、単純に『邪魔しないなら追い出すのも面倒だし置いておく』程度の熱量だった。

 リリエンも邪魔だけはしないように気を配りながら、当初の目的を忘れずたまに話しかけたりしていた。


 そのおかげでエルドレッドの態度は軟化していったけれど、あくまで『邪魔をしなければ』が前提だ。

 遠慮せずに話しかけるほうが表情の険が取れると、ぽんぽんと言い合うようにはなったけれど、それも『気を遣われるのも面倒』という理由だ。


 ――ったはずなんだけど……。


 距離感の違いに戸惑ってしまう。

 あの面倒くさがりの殿下が実践までするその心は?

 妙な焦りで喉が乾きこくっと中途半端に喉を鳴らし、リリエンは口を開いた。


「……あっ。実践せずとも、殿下は十分素質があると思います」


 エルドレッドの持つ身分や美しい顔立ちにそれほど深い関心は持っていないリリエンでも、興味を浮かべた笑みを向けられればその端整な顔に意識は向くし動揺する。

 何しろ、今までにないほど距離が近い。これがいけない。


「ふうん? 素質ね。つまり、リリエンは俺を意識している?」


 くいっと顎を持ち上げられ見つめられる。

 こくこくと顎を掴まれたまま小さく頷くと、エルドレッドが悠々と笑みを浮かべた。


「それはよかった。なら、もっと意識しろよ」


 リリエンは驚愕で目を見開いた。


 ――なんでそうなる????


「いや、なんで?」


 内心の動揺のまま訊ねると、エルドレッドはリリエンの唇に親指を押し当て顔を近づけた。


「実践」


 ぽそりと一言落とし、顔を近づけてくる。

 ぎゃーっ、と内心大慌てしているのに身体はぴくりとも動いてくれなくて、リリエンはその美貌が近くのをただただ眺めるはめになった。


「あっ」


 冴え冴えとした瞳の奥が熱に揺らめく。

 指をどけたら触れてしまうところで耐えきれなくて声を漏らすと、触れる寸前でぱっと顔が離された。


「さすがにここまではな。ふっ。本当にされると思ったか?」


 吐息の感触だけを残し、エルドレッドがにやにやしながらリリエンの頬をすぅっと優しく撫でた。

 はくはくと驚きと羞恥で口を動かしていると、こつり額をくっつけてくる。


「な、な、なっ」

「可愛らしい反応だな。リリエン。これからよろしくな」


 ろくな反応が出来ずに声を上げていると、エルドレッドが凄絶な笑みを浮かべた。


 そうして、この日から実技? を含む実践が毎日行われることになった。

 今まで、ふらっと訪れきっかり一時間気楽に過ごしていたのが一変。

 毎度、リリエンはよれよれになりながら部屋を出て行くことになり、それもまた、くしくもリリエンが考えていたエルドレッドの噂払拭に一役を買っていた。


 本日も際どい接触を終え、リリエンはぜえぜえ息を吐きながら、エルドレッドを見上げた。


「こ、これで終わりですね。エルドレッド殿下、女性に興味を持っていただけましたでしょうか?」

「そうだな」


 リリエンはよしっと内心ガッツポーズをした。

 ここまでしておいて、女性に興味ないと言われた日には干からびてしまって涙も出なかったであろう。


 だけど、頑張った甲斐があって、色よい返事を聞けた。

 リリエンの頭の中でチャリンチャリンと金の音がなる。ついでに、黄金の鐘も鳴った。


 大量の本と濃い中身に、贈った自分を呪いたいと何度思っただろうか。

 だけど、領地を思い、切り詰めた生活を考えると引くに引けず、本日無事に目を通し実践という名の羞恥も乗り越えた。


「本当ですか?」


 その成果がしっかりと表れたことがわかったのだ。

 リリエンはぱあっと表情を明るくさせ、ほこほこと笑顔を浮かべた。

 それを見たエルドレッドが、するりとリリエンの薄紫ピンクの髪を一房取り口づける。


「ああ。成果は出ているな。これもリリエンのおかげだ」


 近い距離も熱っぽい視線も気にならない。

 散々、エルドレッドに慣らされてきたリリエンは、これくらいの仕草や距離は不意打ちを食らわなければ受止められるようになっていた。


 そうだろう、そうだろうと、リリエンは報われたことに終始ご機嫌で、こちらも機嫌の良いエルドレッドと話をし、その日は今までで一番実りのある楽しい時間を過ごした。

 そして、言質とったぞとリリエンはその足で皇后に成果を報告し、報酬を受け取るとすたこらと領地へと帰るのだった。


 次の日、エルドレッドの執務室。


「人を弄びやがって。覚悟しろ、リリエン。俺の興味を引いたんだ。最後まで責任を取ってもらおうか」


 いつもの時間になっても現れないリリエンを探し、その話を聞いたエルドレッドの不敵な笑い声が響いたのだった。


 ものすごく機嫌が悪くなったエルドレッドとは正反対に、領地に戻ったリリエンは良い仕事をしたと清々し気持ちで、前金で修繕済みの厩舎を眺めほこほこしていた。

 キス寸前やそれ以上のあれやこれや、思い出せば羞恥ものだけれど一線は越えていない。


 ――もう二度とあんな恥ずかしいことはごめんだわ。


 精神がごりごり削れ、神経が焼き切れるかと思うほどの負荷だ。

 エルドレッドの雰囲気作りが上手すぎる。もともとの気質のためか、リードも自然でついつい流されてしまった。

 勉強といえば勉強で、リリエンとしても知らないよりは知っていたら今後役立つかもれないしと経験の一つだと思う外ない。


 その日、美しい朝日とともに目を覚ましたリリエンは、腕をぐっと上げて伸びをしカーテンを開けた。

 今回の報酬はほぼほぼ修繕に充て、あっちこっち補強の跡だらけだった建物も今は順番に綺麗になっている。

 少しずつ進んでいく過程に、リリエンはニマニマと頬を緩めた。


「この景色見ると気分いいわよね」


 頑張った成果がわかりやすくあるのは良いことだ。

 ついでにエルドレッドは元気にしているだろうかと思わないでもないけれど、あの皇子なら自ら望んだ道を突き進むだろう。

 そこに皇后が望む女性もついてくれば万々歳だけれど、リリエンの仕事は興味を持ってもらえるまでなのでその後のことは知らない。


「よし、今日も頑張りますか」


 ふふふんと身支度をして階下に下りると、そこには先ほどちらりと脳裏をかすめた人物が優雅に足を組んで座っていた。


「エ、エルドレッド殿下!? どうしてこんなところに?」


 リリエンが声を上げると、リリエンを視界にとめたエルドレッドが立ち上がった。

 皇子を相手にした両親はひたすら恐縮してじっと座っていたようだが、リリエンの顔を見てほっと息を吐き出した。

 用のない私たちはこれでと、すたこらさっさと部屋から出て行く。


 残されたリリエンは、数日ぶりのエルドレッドと顔を合わせた。

 目の前にやってきたエルドレッドは口元に笑みをかたどり、リリエンの頬をむにゅっと長い指で挟む。


「リリエン。よくも好き勝手してくれたな」


 反射的に誤魔化すようにへらりと気が抜けた笑顔を返してしまいそうになり、リリエンははっとして気も頬も引き締めた。

 どうやらあのタイミングで領地に帰ったことが、気にくわなかったらしい。

 きりきりと目くじらを立てたエルドレッドを目の前に、リリエンは瞬きを繰り返し、怒っているのかと眉尻を下げた。


「何か不都合がありましたでしょうか?」


 今回の仕事、リリエンは最善を尽くした。自分のできる限りのことをした。

 それに最後は、エルドレッドも随分ご機嫌で互いに楽しい時間を過ごせたはずだ。なのに、なんでこんなにご機嫌斜めなのだろうか。

 うーんと悩ましげに瞼を伏せると、エルドレッドは大きな溜め息をついた。


「……全く何もわかっていなかったんだな。俺を金のために弄びやがって」

「ご、誤解です。何てことを言うのですか!?」

「だってそうだろう? 自分から押しかけてきておいて挨拶もなしに帰るとは薄情だな」

「それはほかの令嬢だって同じじゃないですか」


 殿下目当てで突撃してきた女性たちと何が違うのだろうか?

 彼女たちは皆追い出されてしまったけれど、追い出された者と追い出されなかった者の違いというだけで、最初からリリエンは目的も告げていた。


「いいや。違うね。お前は金をもらえばそのままとんずらするつもりだっただろう?」


 実際、そうしたしなと皮肉げに口の端を引き上げ、エルドレッドはずいっと顔を寄せてくる。


「と、とんずら。先ほどからお言葉がよろしくありません」

「とんずらじゃないというならば、俺のもとにいるのだな」

「そ、それは……」


 話せば吐息が触れるほどの近さに、数日ぶりの息遣いに、無理矢理押し込めて忘れようと思っていたあれやこれやが一気に駆け巡った。

 ぶわりと顔を赤くしたリリエンを、エルドレッドが咎めながらも熱のこもった眼差しで射る。


「責任を取れといっただろう?」

「実践に付き合ったじゃないですか?」

「あれはリリエンのための慣らしだ」


 ――あれが?


 唇が微かに触れ、少しでも動けばさらに触れてしまうと視線だけで訴えると、エルドレッドは見惚れるような笑みを刷いて、うっそりとささやいた。


「俺を惚れさせたんだ。最後まで責任持って俺と付き合ってくれるよな?」


 告白に反応する前に、唇が重なる。

 身体が浮きそうなほどぎゅっと抱きしめられ、背が仰け反った。


 しばらく唇を触れ合わせていたがエルドレッドは顔を上げると、つま先立ちになったリリエンの目尻にキスを落とされた。

 それから、頬や耳や、顔中に何度も軽く口づけられる。


「で、んか?」


 キスを受けるたびに、好きだと言われているようで、むずむずする心を持て余したリリエンは、エルドレッドにされるがままキスを受け入れた。


「リリエン。好きだ」


 告白も自信が溢れる力強いもので、生命力溢れた赤の双眸の美しさに見惚れていると、また形のいい唇が近づいてきた。


「もう一度、キスしてもいいか」


 触れる寸前に問われる。

 ここまで追いかけてきたことや、告白にぽおっとなったリリエンは小さく頷いた。


「んっ」


 消極的な受諾に、エルドレッドは嬉しそうに口角を上げリリエンの唇を奪った。

 何度かのキスの後、エルドレッドが手を絡ませながら訊ねてくる。


「さて、リリエン。責任持って一緒に帰るよな?」

「だから、そんなつもりではなかったんです!」


 ついキスを受け入れてしまったし、告白も嬉しかったけれど……。

 キスを受け入れるくらいだから異性として好きだとは思うが、それとこれとは別だ。

 リリエンの心からの叫びが、ブリック家に木霊した。


 三日後。皇后とタッグを組んだエルドレッドに再び連れ戻され、今度は攻守交代となり再びエルドレッドとの攻防戦が始まるのだった。




FIN.


過程やこの先の攻防戦を書きたくなる二人です。

お付き合いありがとうございました(*´∀人)♪


追記:誤字報告、そして評価、いいね、ブクマとありがとうございます!


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― 新着の感想 ―
いうて第5皇子って身分的に家を興す必要があるよなあ
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