<25・濱田。>
――何で、何で、何で私が!!
ギリギリ、ギリギリ。足首を締め付ける強さが強くなっていく。鋭い爪が、スーツのズボンに食い込み、皮膚ごと引き裂いていくのがわかった。
痛い。
だが、このままではこんな程度と痛みで済まないことはわかっている。その爪は自分の皮膚どころか肉をも破り、引き裂き、そして骨を砕いて引き千切るだろう。今までの被害者がそうであったように。
「神にとって、我々がなんであったのか。濱田さんはご存知でしたか?」
謳うような声で、秋風が言うのが聞こえた。
「遠田様が神を見つけた時、それはさながら迷子の子供のような姿だったそうです。一見すれば怪物のように膨れ上がった憎悪、しかし実際のところ村人達に虐げられたのは神本人ではなく神の母親です。彼は、母親に胎内にいた頃に教わった憎悪を振りまいていただけにすぎません。彼はただ、母に愛されたかっただけなのです。母に愛されるために、その命令をこなしていただけですから」
しかし、と彼は続ける。
「命令をこなして村人を皆殺しにしても、彼の母親は褒めてはくれなかった。当然ですよね、彼は母親の命を奪って生まれてきたのですから。しかし、生まれたての神……さながら幼児のような彼にはそれがわからなかったのです。だから、苦悩した。暴れた。自分が母親を殺したことを知ることもできないまま、母の望んだ通りの殺戮を続けるしかありませんでした。そうすることで、いつか母親の愛を得られると信じて……」
「あ、秋風っ……!」
「実に健気で可哀想だとは思いませんか?同情しませんか?私もです。その神が大人しく遠田様についてきたのも、遠田様の言うとおりにしていればいつかまた母親に出会えると信じたからなのです。ようは、遠田様は神を騙して連れてきたわけですね。……そして、遠田様と言うとおりにしていれば望みが叶うと信じて、供物を捧げられることにより痛みを癒やし、信者たちの願いを叶えることを良しとしたのです」
ところが、と彼は眉を寄せる。
「神は、裏切られてしまった。望むとおりに願いを叶えてやってきたのに、肝心の自分の願いは叶わない。あまつさえ、その力の正しい対価を要求したら、それをたかが人間に拒否されたわけです。そりゃ、怒って祟るのも無理からぬことではありませんか?」
『ど、どうか考え直してください!流石に、人間の足なんて捧げられません、それもたった一日なんて!!』
平川南々帆が言ってしまった言葉が蘇る。彼女は間違っていたわけではない。実際、一日で人間の足を用意しろと言われて叶えられるものではなかっただろう。
だが、彼女は冷静にならなければならなかったのだと濱田は知る。そもそも、本人は魔術師――祭祀である遠田の補佐でしかない立場。本来、神と直接の交渉が許されていたわけでもない。
たった一日しかないと言うが、裏を返せば一日の猶予はあったのだ。その間に遠田に話して、遠田の方から神にきちんと交渉して貰えれば通った可能性もあったのではないか。
だが、平川はその場で拒否してしまった。それが、どのような結果を齎すかも知らず。神を、どれほど怒らせることになるかも予想できずに。
「私は、いずれ世界の境を超える。神のほしいものを必ず手に入れてみせると誓った。私は遠田様や皆様とは違う。神に偽りを述べたりはしません。供物を捧げながらその心を浄化し、本物の安寧と救済を齎してみせましょう」
そのために、と濱田は微笑む。
「貴方は、邪魔なのです。余計なことをされないうちに、貴方と遠田様……そして、あの少年達には消えていただくと決めました」
何故、なんて思う余裕はもはやなかった。がちゃり、と入ってきたドアが開く音がする。その向こうから、生温い風が吹き込んできていた。ずる、ずる、とカーペットの上。両足首を掴まれた状態で引きずられていく濱田。
ぶちぶちぶち、と爪が肉を引き裂く音がした。
「が、がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
ジタバタと足掻いて抵抗しても無意味だとわかっている。それでも濱田は、あまりの苦痛に抵抗する他なかった。見えない神に、怒る存在に。ただ逃れようと暴れる人間の力など微々たるものとわかっていながら。
――た、助けっ……誰か助けてくれええええ!!
ぶちぶちぶちぶちぶちぶち、ぼぎっ!
鈍い音とともに足の骨が砕ける。ぎょふっ、と喉から奇怪な声が漏れ出た。
「ひぎいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
じわ、とズボンが湿っていく。耐え難い苦痛に襲われると人は下半身の我慢がきかなくなるらしい――現実逃避気味にそんなことを思った。それが、最後のまともな思考だった。
足首を引きちぎられんとする濱田を、笑顔で見下ろす秋風。そして。
「いつか地獄で逢いましょう、濱田さん。貴方のことは敬愛していましたよ」
ぶちぶちぶちぶちぶちぶちぶち。
ばきり。
ぐしゃっ。
激痛とともに、体が宙に浮かび上がった。くるくると視界が回転し、カーペットの床に叩きつけられる。
両足に、灼熱。びゅるびゅると真っ赤な液体が、濱田の命とともに噴出していく。
そして、濵田の視界に入ったのはそれだけではない。開いたドアの向こうで、濵田の引きちぎった両足を握りしめて嘲笑っていたものは。
「ひ、ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
痛みと、それを上回るほど凄まじい恐怖。吐き気、嫌悪感、寒気――それらのどれとも形容しがたい、全身を包む絶望的感覚。
結局のところただの人間でしかない、濱田に耐えられるものではなく。
ぶつり、とスイッチを切るようにして、その意識は強制的に断ち切られたのである。
***
「!?」
それは、シュートを決めた直後だった。千夜は背筋に氷を突っ込まれたような悪寒を感じて振り返った。しゅっ、とボールがネットを潜る音。そして、コートの床に落下して跳ねる音。
「ないっしゅ!……って、どうしたの千夜クン?」
「い、いえ……」
憐が不思議そうな顔で首を傾げる。どうやら、彼は何も気づかなかったらしい。とすればただの気の所為だろうか、と千夜は思った。確かに何かを察知する能力ならば憐よりも千夜の方が上ではあるが、憐が感じない程度のものならきっと大したことではないのだろう。
「あー……またやられた!」
だあー!と目の前の大学生らしき青年が、頭を抱えて言った。その隣には、彼の友人らしき青年が疲れ果てて尻もちをついている。
「お前ら強すぎ!全国区つっても所詮高校生じゃん、ってナメてたわ。すまんかった!」
「いえいえ、お二人も手強かったですよ」
「よく言うぜ完封しておいて!」
当初は、体育館にて千夜と憐だけでワン・オン・ワンする予定だったのだが。二人でやり始めてすぐ、たまたま来ていた大学生たちが声をかけてきたのである――せっかくなら2対2でミニゲームしようぜ、と。それで、たまには知らない人とバスケをするのも良かろうと対戦してみたわけだった。
ちなみに、憐はセンターで千夜はスモールフォワードである。近年のバスケットボールは全ポジションの選手が内側も外側も戦えることを求められると聞くが、どちらかと言えば千夜は外から狙うほうが得意で(シューティングガード寄りのスモールフォワードなのである)、憐は圧倒的に内側を守るのが得意だった。結果、綺麗に役割分担が成立。憐が内側で守りつつ千夜が外中心に攻める、ということになったわけである。
得意なことと苦手なことが綺麗に分かれているというのは、シンプルに強い。お互いの苦手なところを上手に補えるから何よりである。後になって聞けば、大学生二人は千夜と憐の顔を知った上で声をかけてきたわけらしい。地元の全国区の高校、そのレギュラーメンバーともなればそれなりに有名だったというわけだ。
結果は、大学生が言った通り。彼らも一般人よりは余程上手かったが、千夜と憐の敵ではなかったというわけである。
「あんな遠くからスリー決められたらもうどうしようもねーわー。あんがとな、いい勉強させてもらったぜ。今年は惜しかったな。来年は全国制覇しろよー」
「はい、ありがとうございます!」
スポーツはいいものである。彼らと握手を交わして、笑顔で別れた。確かに勝った負けたがあるのは事実だが、それ以上に得るものは大きい。爆弾や銃で殺し合うよりずっとまともな戦う手段であり、わかりあう術だ。オリンピックが平和の祭典と呼ばれるのも頷けるというものである。
「学校サボってここにいるんですーって言えなかったねえ」
「あ、はは。確かに」
使ったボールやバッシュを返却しつつ、千夜は笑った。いい具合に汗をかけたし、ストレス発散にもなった。やはり悩んだ時はバスケに限る。ミニバスからずっとバスケ馬鹿をやっているだけのことはあって、すっかり体に染み付いているのだ。
「とりあえず、今日はこれで帰ろうか。明日は学校行かないとだしね」
体育館を出たところで、憐が渋い顔をして言った。
「休んだ理由、めちゃくちゃ無理矢理誤魔化したから……明日先生からも監督からも質問攻めされるよ。覚悟しといて」
「で、ですよねー。先輩、なんとかしてくれません?」
「頑張るけど限界があるのはお忘れなくー」
「うへぇ」
鬼のように厳しい監督の顔を思い浮かべ、千夜は意識が遠のきそうになった。憐がある程度努力してくれるだろうが、二人仲良く休んだ手前“法事です”みたいなことは言えないわけで。そもそも、千夜と憐が仲良しであることは周知の事実である。また悪巧みでもしているのか、と思われるのが関の山だ。
せめて監督がオカルトにある程度理解がある人ならばともかく、残念ながら彼もコーチもそういったことには懐疑的な人である。キャプテンは正直に話せばわかってくれるだろうから、なんとか彼を巻き込んで一緒に言い訳を考えてもらえたら少しは落ちる雷が小さくなるかもしれないが。
――俺達も俺達なりに頑張って世界を救おうとしてるのになー。理不尽。
少しだけ呆れ気味に、そんなことを思っていた時だった。ロッカーに入れていたスマホを取り出した憐が、“あ”と小さく声を上げる。
「千夜クン、残念なお知らせ」
彼はメールアプリを開いたスマホ画面を見せて、苦笑いしたのだった。
「明日もお休みしなきゃ駄目っぽいよ、俺達」
そこには。
『遠田寿と申します』と件名に書かれたメールが、表示されていたのである。




