<2・雛子。>
姉妹でルームシェアしようと言われた時、躊躇う理由は雛子になかった。姉の苺子とは昔から仲が良かったし、お互い一人で東京で暮らすには少々心もとない懐具合だったのもある。
快活でリーダーシップタイプの姉は、雛子とは顔以外まったく似ていなかった。思い立ったら吉日、が彼女のモットーであり、細かなことでうだうだ悩むタイプではなかったように思う。面白そうだと思ったことは何でも取り入れるし、嫌なものは嫌だとはっきり言う。優柔不断で、何事も時間をかけなければ決められない自分とは大違いだった。雛子はずっと、そんな苺子のようになりたいと思っていたのだ。
ボロいワンルームのアパートに二人。友人も男も絶えないタイプの苺子は、大学卒業後に一度男性と一緒に住んでいたこともあったと知っている。が、現在は別れてひとり身状態。その時のことを尋ねると、彼女はいつも笑ってこう答えたのだった。
『いやー、結婚を前提に付き合うなら、やっぱ一度一緒に住んでみないと駄目だわ』
『そうなの?』
『うんうん。デートだけだとさ、お互い取り繕った部分しか見ないわけよ。でも一緒に住むと、色々と見えてくるでしょ、お互いのアラってやつが。それも受け止められるなーって相手じゃないと結婚しても続かないわけ。でもって、盛大に親戚とか呼んで結婚式しちゃったらさ、やっぱり引っ込みもつかないじゃん。なら、駄目そうな相手とは結婚する前に別れておいて大正解なのよー』
大酒飲みで、豪快。年齢のわりにオバさんくさいところもあって、基本大雑把。それが苺子の良いところでもあるのだが、相手の男性にはお気に召さなかったということらしい。
酒を飲むたびこの話が出て、最後は同じ結論に帰結するのだった。
『だからさ、やっぱアンタと一緒に住むのが一番いいわ。赤ちゃんの頃から知ってるんだもん。お互いの良いとこも駄目なとこも全部わかってるし、言いたいこと我慢しなくちゃいけないような間柄でもないし。うん、家の中でまで空気読まなくちゃいけないのって人生損してるっつーか意味ないっていうか……ね、雛子もそう思うでしょ?』
仕事では結構優秀なキャリアウーマンといった雰囲気の彼女も、家の中では結構だらしないところが多かった。仕事でダメダメな自分とは正反対だ。雛子は逆に、家の中のこまごまとした家事や料理、掃除などをやっている方がずっと気楽だし得意であったから。
自分達はまさに正反対で、二人で一つのようなものだったと思う。二歳離れているのに、まるで双子のようだった。おばあちゃんになっても仲良しでいようね、なんてことも何度も話したし――そんな未来が当たり前に来るはずと、雛子自身も思っていたというのに。
その苺子の様子が、ある日突然おかしくなったのである。
記憶にある限りでは、昨夜寝る前までは彼女に特に異変はなかったような気がするのだ。平日だったし、雛子は疲れていたので“早く寝るね”と姉に声をかけたのを覚えている。姉はその時まだ起きていて、パソコンで何かを見ていた様子だった。
『お姉ちゃん、何見てるの?なんか面白い動画でもあった?』
『あーいや、動画じゃなくて掲示板なんだけどさー』
『ええ、えぶりちゃんねる?あそこ、結構治安悪いって話だけど』
『それは一部の板の話だって。普通に見てて面白いやつとか、参考になるやつもあるんだよ。特に、怖い話の板とか面白いね。やっぱ夏は怪談っしょ!』
『う、お姉ちゃん好きだねそういうの……』
それが。まともな彼女と交わした、最後の会話だった。
翌朝雛子が目を覚ました時にはもう、今までの姉はいなくなってしまっていたのである。その日も互いに仕事があり、苺子も雛子と同じ時間に目を覚まさなければいけないはずだった。ところが、起きた時布団に彼女の姿はなく、トイレや洗面所、キッチンにもなし。朝早くから出かけたのかと思って見れば携帯電話と財布は置きっぱなしになっている。もっと言うと、着替えのつもりで枕元に置いてあった服もそのままという状態。
何かがおかしいと思って見れば、部屋のどこからかガタガタと音がするのである。音は、おしいれから聞こえてきていた。もしかして、と思って雛子が押入れを開けると、そこには。
『あ、あ、開けないで!』
目を血走らせ、布団を被り、ガタガタと震えている姉の姿が。
『お願い、閉めて、閉めてよお!』
『お、お姉ちゃん?どうしたの!?』
パジャマの姿のまま。彼女は押入れの中で布団を被り、一晩中ガタガタと震えていたようだった。姉の、あのようにパニックになった金切声など初めて聞いたように思う。明らかに、苺子には“見えるはずがないもの”が見えていた。雛子の向こう側、ありもしない敵を見て怯えているかのような。
どうにか何度も呼びかけ続けると、僅かばかり冷静さを取り戻したらしい苺子は答えたのだった。
『知ってはいけないことを知っちゃったの。だから私は死ぬの。もうすぐ殺されるの。死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない!あれは、知ってはいけない言葉だったのよ!!』
だから隠れる。少しでも長生きできるように、アレに見つからないように。彼女はそう、ぶつぶつと繰り返すばかりだった。
オカルトのことなど、特に信じていたわけではない。それでも姉の変貌ぶりは、妹を愕然とさせるには充分だったのである。
彼女は、何かに呪われてしまった。
このままでは本当に、姉の身に良くないことが起きる、と。
***
マジか。
駅前のレストランにて。岡崎雛子の言葉を聞いて、最初に男子高校生・御影千夜が思ったのはそれだった。というのも、雛子に呼びだされた時点でいやーな予感はしていたからである。彼女の電話の向こうで、明らかに妙なノイズが聞こえていたものだから。
「……こんな話、聞かせてごめんね」
雛子と千夜は遠い親戚関係だった。法事の時に時々顔を合わせるくらいなものである。ただ、全国区のバスケットボールの腕やら芸能活動やらで、千夜の方が身内で“ちょっとした有名人”になってしまっているだけで。
法事などで顔を合わせると、あっという間に親戚のおじさんとおばさんに取り囲まれてしまうのが千夜の常だった。雛子とも喋ったことはあるものの、彼女は基本的にそんな親戚のみんなに遠慮して、遠くから囲まれている千夜を見ているような雰囲気である。
だからこそ、メールが来た時驚いたのだ。千夜のメールアドレスが親戚中にぐるぐる回っているのは知っていたので、きっとどこからか連絡先を教えて貰ったのだろうが。
「困るよね。そんな仲良しでもなんでもないのに、こんな相談されても」
「あー、いやまあ……でも、慣れてますから、そのへんは」
「そっか。優しいね千夜君」
そんな雛子からされたのが、たった今の“姉の話”である。明るく元気いっぱいだった、彼女の二歳年上の姉がおかしくなった。押入れに引きこもって出て来なくなってしまい、どうやらそれは何か呪いとか祟りを受けたかららしい?というものである。
で、何でそんな話をするために千夜が呼びだされたのかといえば、単純明快。
「千夜君、すごく霊感が強いって聞いた。悪霊とか、祓うのも得意なんだって」
雛子は本気で困ったような顔で、頭を下げて来たのである。
「ネットとかでも有名だし、心霊系のテレビ番組に呼ばれたこともあったでしょ?だからさ、何か……わかんないかな。お姉ちゃんを助けたいけど、私じゃ何もできないから」
こういうことである。
元々ただのバスケットボールが大好きな高校生で、たまーに俳優としてちょっとしたドラマやCMに出るくらい(子供の頃に、親が勝手に芸能事務所に応募してしまったのである)。そんな自分が、小学生の時にとある事件に巻き込まれたことがきっかけで“人じゃないものが見えるように”なってしまった。霊感を売りにするつもりもないので黙っていたが、身内に降りかかったオカルト事件を解決したことで注目されるようになってしまい――いつのまにやら“ゴーストバスター高校生”として一部界隈で有名になってしまったのである。
千夜自身は、まったくそんなもの求めていないというのに。
むしろほどほどのところで俳優の仕事はやめて、大好きなバスケと学業にだけ集中していたいというのに。
――うう、どうしよう。
確かに、霊感はある。多分、それなりに強い方であるとは思う。彼女から用件を聞く前に、電話の段階で“やばいものに絡まれてるな”というのがわかっていたくらいなのだから。
実際会ってみれば、彼女は背後に妙な気配を背負っているではないか。もうこの段階で、千夜の手に負えないレベルの“何か”に関わってしまっているのは明らかだった。なんせ、自分はちょっと霊感があってちょっと祓う方法を知っているだけの一般人なのだから。
――気の纏わりつき方からして、雛子さん本人は特に憑りつかれてるわけじゃないみたいだけど……お姉さんにくっついてきたものの気配が、雛子さんにまで移ってるってことは。うっわ、これものすごく強いやつだ……。
神社や寺に相談したら?と言いたいのはやまやまだったが。果たしてこれ、むしろ神社や寺に相談していいものなのだろうか。
除霊というのは諸刃の剣なのである。失敗すると、手負いの熊と同じで相手を怒らせて余計暴れさせることになる。もしどうにかするのなら、相手を安全に排除できるレベルの、それはもうものすごい霊能者に相談しないといけないだろうが。ただの神社や寺で、果たしてそれが務まるかどうか。
「……正直、話聞いた時点で……俺の手に負える相手じゃないような気がひしひしとしてるんですが」
多分、彼女のアパートに行くだけならば、自分に実害が飛んでくることもないだろう。
別の依頼先を探すにしても、自分に出来る範囲のことはしておいた方がいい。事前情報があれば対処もしやすいことだろう、と千夜は判断した。
「とりあえず、アパートに行って様子見るだけなら……」
「ありがとう、千夜君!ごめんね、ただの親戚なのに……」
「いや、それは全然いいですよ。困ってる人はほっとけないし」
残念ながら、ここまで憔悴している親戚のお姉さんを無下にできるほど薄情にはなれないのである。千夜は苦笑いしつつ、ひとまず彼女の“依頼”を引き受けたのだった。
これが、とんでもない嵐の始まりであることを知る由もなく。