<14・狂乱。>
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
凄まじい悲鳴が響き渡った。女子大生の甲斐谷奈々は、ぎょっとして顔を上げる。悲鳴が聞こえてきたのは、自分の部屋の風呂場だった。――悲鳴の主は、一人しか思い足らない。この寮の部屋でルームメイトとして一緒に住んでいる、日暮可南子である。
「ちょ、どうしたのカナちゃん!?」
最近、可南子の様子はおかしかった。自分は呪われるだの、もうすぐ殺されるだの、そんなことばかりぶつぶつと呟くようになっていたのである。あれだけ真面目に受けていたはずの大学の講義さえ無断欠席を続けていた。必修科目の英語なんて、今期に取らないと留年の恐れさえあるというのに。頭の良い彼女が、それをわかっていないはずがないというのに。
奈々が知っていることと言えば、彼女がネットサーフィン中に何かを“見た”らしいということだけである。その何か、の正体についてはまったく教えて貰っていない。知ってはいけない言葉を知ってしまった、というがそれがどういうものなのかはまったくわからなかった。本人も、見た瞬間にその言葉の記憶が消えてしまったというのだから。
――呪いなんて、あるはずないでしょ!そういうの、カナちゃんが一番信じてなかったはずなのに!!
幽霊の目撃情報はみんな、集団ヒステリーで説明できるんだから。そう豪語していたリアリストな彼女は何処に行ったのだろう。一体、何を見たらあんな人が変わったようになってしまうのだろう。
「カナちゃん、カナちゃん!どうしたの、何があったの!?」
洗面所のドアを叩いたものの、向こうからはまともな応答がない。ばしゃばしゃと水の中で暴れるような音と、女性の悲鳴が聞こえるばかりだ。
「いやあああああ、やああああああああああああ!」
「カナちゃん!どうしたの、アナちゃん!!」
「痛い、痛い痛い痛い!助けて、助けてええええええええ!」
よくわからないが、彼女が助けを求めている。意を決してドアを開いて飛び込むと、ユニットバスのカーテンを開けた。そして、奈々が見たものは。
「うぐぐぐぐぐ、ぐうううううううう!」
可南子は全裸で、必死でバスタブのヘリに捕まっていた。お湯は、可南子の趣味もあって入浴剤で白く濁っていてよくわからない。ただ確かなのは、彼女が狭い浴槽の中で明らかに溺れそうになっているということだけだった。
「だ、だずげてななちゃっ……!あ、足!足、何かに引っ張られてっ……」
「ええ!?」
そんな馬鹿な。狭い浴槽の中に、何かが出たとでもいうのか。俄かに信じがたかったが、可南子の尋常ではない様子からして嘘をついているようには見えない。彼女は両腕で、あらん限りに縁に捕まって抵抗しているように見える。
「ま、待って!今助けるから!」
人を呼んでいる余裕がないのは明らかだった。奈々は慌てて彼女の腕を掴むと、浴槽の外へ引っ張り出そうとする。しかし、腕を掴んだ途端ぐい、と体が引き寄せられたのは奈々の方だった。明らかに尋常ではない力で、何かに浴槽の方へと引っ張られている。
――な、何これっ!?本当に、お湯の中に何かがいるの!?
生真面目な可南子が、自分を騙すとは思えない。騙す理由もない。そもそも、華奢な可南子にこれほどの力があるとは思えない。
奈々がぞっとしながらも必死で可南子の体を引き上げようとしていると、段々可南子の呻き声の種類が変わってきたのだった。
「ぎ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?あ、あしっ、足が、あしっ……」
「か、可南子っ……!」
「いだいいだいいだいいだいいだいいだい!ぶ、ぶちぶちいってる、いってるよお!あ、あたしのあじ、あじがっ、ぎっ」
涙と鼻水に塗れた彼女の顔が苦痛に歪み、その眼がぐるんと白く裏返った。
「ぎ、ぐ、ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
ぶちぶちぶち、ごきんっ!
嫌な音がすると同時に、急に体が軽くなった。勢い余って尻もちをつく奈々。その上に、全裸でびしょ濡れの可南子の体が多いかぶさってくる。
引っ張り上げることに成功した、と楽観的に考えることはできなかった。何故なら可南子は大きく開けた口からだらりと舌を垂らし、全身をびくびくと派手に痙攣させているのだから。
「あ、あああ、あ」
風呂場の水が、真っ赤に染まっていた。奈々が恐る恐る見る先。引っ張り上げたはずの可南子の、両足首のあたりから先がなくなっている。
断面から覗く骨らしきものに気付いた瞬間、目の前が真っ白になっていた。
「い、いやあああああああああああああああああああああああああああああああああ!?カナちゃん、カナちゃんっ!!」
奈々はその場で、血と排泄物にまみれながら絶叫するしかなかったのである。
***
「あれ?椎葉さん戻ってきてなくね?」
「……確かに」
そろそろ作業を切り上げるか。そう思って機械を止めたところで、鈴木則之は同僚に声をかけられた。この工場の先輩社員である、椎葉靖男の姿が見えないのである。ひょっとして、またこっそりどこかで煙草を吸ってるのではないか。そう思って、全員がうんざりした。
工場の中は全面禁煙、喫煙所においても休憩時間以外の利用は禁止。そう定まったあとも、ちょこちょこと作業を抜けて煙草を吸いに行ってしまう、という悪癖が椎葉にはあった。確かに、煙草は我慢しろと言われて簡単に我慢できるものではないかもしれないが。
「またかよ、椎葉さん。最近また煙草の量増えてたみたいだしなあ」
はあ、と呆れたように言う同僚。
「なんか悩み事でもあったみたいだけど、だからって仕事に支障来すのは勘弁してほしいよ。あの人の分、結局俺らが補填することになるんだからさ。さっさと禁煙外来でもなんでも行って治療してくれっつーか」
「そうだよなあ。……あーいうの見てると、煙草なんかぜってー吸わねーとしか思わないつーか。財布も痛くなるだけだし」
「違いない違いない。昔のオジさんたちはよくあんなの平気でバカスカ吸ってたよなー」
「うんうん」
まったくもってその通りである。これは、本当に一度苦言を呈さないと駄目だろうか。確かに自分達は後輩ではあるが、平社員という意味での立場は同じのはずである。少なくとも、今の椎葉よりは自分の方がまともに働いているという自覚が鈴木にはあった。
「ちょっと探して来るわ。悪いけど、片づけ頼んだ」
「はいよ」
同僚に最後の清掃作業を任せて、鈴木はプレハブ小屋の外へ出た。椎葉がいつも煙草を吸っている場所は大体わかっている。工場の裏手か、もしくは倉庫の中だ。どっちも灰で汚れるし臭いがつくので全力でやめてほしいのだが、どうにもヘビースモーカーとやらは自分の臭いはわからないものらしい。
「椎葉サーン?何処にいるっすか?そろそろ終礼ですよー?」
鈴木は大声で呼びかけながら、砂利の上を歩いていく。
「椎葉サーン?いい加減煙草でサボるのやめてくれませんかー?みんな困ってるんですからねー?」
工場の裏ではない。とすると、倉庫か。
真っ暗なシャッターの奥を覗きこんだ、まさにその時だった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
「!?」
中年男性の悲鳴。この声は椎葉だ、と慌てて闇の中に飛び込む鈴木。
「ああああああああ、やべ、やべてくれ、やべてええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」
「椎葉さん!?どうしたんですか、椎葉さんっ!?」
「あが、がががが、ああああああああああああああ!!」
さすがにこの悲鳴は尋常ではない。慌てて倉庫内の電気のスイッチを入れると、資材を並べてあるスチール棚の下でばたばたともがいている作業着姿の男を発見した。あの禿げ上がった頭は見間違えるはずがない、椎葉である。
「な、何してるんですか椎葉さんっ?」
スチール棚の下はかなり広めに作られている。恰幅の良い椎葉であっても、あおむけやうつぶせになれば体が入るくらいの広さはあった。だが、一体何をどうしたらその棚の下に腰から下をつっこみ、うつぶせでもがくようなことになるのだろう。
うっかり足でも抜けなくなったのか、そう思った時。
「あ、足が!足が、引っ張られ、引っ張られてえええ!」
「ええ!?」
「た、助けてくれ鈴木!死にたくない、俺は死にたくないんだああっ!?」
挟まって動けないのではなく、引っ張られている?どういうことだ、と困惑した。棚の奥に、何か特別な機械や排気口があるなんてことはなかったはず。まさか、幽霊に足を掴まれているとでもいうのか?
だが、半信半疑の鈴木をよそに、事態は進行していく。ずる、ずる、と文字通り椎葉の腰がどんどん棚の下に引きずり込まれはじめたのだ。
「いだいいだいいだいいだいだい!おれ、おれのあしがっ、あああああああああああああああああああああああああああ!!」
「し、椎葉さっ」
まずい、と思って駆け寄った時にはもう遅かった。鈴木が伸ばした手は虚空を掻く。ずるるるるるる、と椎葉の体は、棚のしたの暗闇に吸い込まれていったのだ。
「嫌だ、嫌だ、嫌だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
凄まじい絶叫と。何かがちぎれるような音を残して。
「な、なんだよ……!?」
鈴木はその場にぺたりと尻をついて、震えるしかなかった。
「な、何やいるってんだよ、そこに……!?」
やがて。
棚の下から、じわり、じわりと真っ赤な血の海がしみだしてくることになったのである――。




