<13・恐慌。>
榎本早稀という少女は、酷く怯えているようだった。高校三年生――受験生であり、本来相当忙しい身分のはずである。ましてや、午後八時半にこんな寂れた神社に出歩くことを親が許可するとは思えない。典子がそう思っていると、なんとなく疑惑を察したのか彼女は「友達の家に行くって言ってるんです」と語った。
「さっき、お話したこと。友達にも話して、協力して貰ってるので。……す、すみません。いろいろ要領を得なくて。その、もう、此処にいるだけでもいっぱいいっぱいで」
「い、いえ。それはいいんだけど」
彼女は受験のストレス発散もかねて、大型掲示板を覗くことが珍しくなかったという。その時見てしまった掲示板の名前は『【誰か】オカルトな話を相談したい part8【わかるひと】』というもの。基本的に自分で書きこむことはしない、いわゆるROM専というものであるらしかった。
――とりあえず、中身を見るのは後ね。
メモしたタイトルだけを、急いで千夜に送信した。なんとなく予感があったからだ。スレッドのタイトルさえわかれば、彼等なら探し出してくれることだろう。うっかりその掲示板そのものが削除されているなんてことがなければだが。
「多分、私はまだ正気な方なんだと思います。……どんなに逃げても隠れても意味がないって、すぐにわかったから」
彼女が掲示板を見たのは、昨夜のこと。リンクに貼られていた画像を見た瞬間、即座にこれは自分を殺すものだと理解したのだという。
その夜は怯えて、ベッドに下に潜り込んで震えていたそうだ。母親はそんな異常な様子の娘を心配したが、早稀本人も恐怖の正体をきちんと説明することができなかったという。
と、いうのも。
「どういう言葉だったのか、私にも説明できないんです」
「どういうこと?日本語ではなかったということ?」
「いえ、その時私は自分に読める言語として、それを理解したはずです。それは、一枚のメモをスマホか何かで撮影しただけの画像でした。鉛筆か何かで、ただ一つの単語がそこに書かれていただけだったのは覚えています。でも、その言葉が“駄目”でした。即座に私は、自分が呪い殺されるんだと理解したんです。正確には、生きたまま足を引きちぎられる自分が見えました。それ、がやってきてしまったらもう終わりだと。自分は、足を捧げない限り生き残れないと……」
でも、と彼女は震えながら、テーブルの上で拳を握る。
「じ、自分で自分の足首を切り落として供物として捧げるなんて、できるわけないじゃないですか……!それが、唯一助かる方法だとわかっていても、そもそも普通は足を切り落としたところで出血多量と激痛で死んじゃうわけですから。だ、だからもう、自分で助かる方法を見つけることができなくて。でも、どこに隠れても逃げても無駄だとわかるんです。あいつが追い付いてくるまで、あとどれくらい時間があるかもまったくわからない。ただ、それが、遠くない未来だってことはわかってる……」
話しながら、段々興奮してきたのだろう。息が荒くなり、彼女は長い黒髪をくしゃりと掴んで続けた。
「な、なんて言葉だったのかこの場で言えないんです。というか、確かに理解して恐怖したはずなのにもう私の記憶の中にその言葉がない。でも、覚えていたとしても人に言っていい言葉でないことはわかります。あれは、見ただけで、知っただけで呪われる言葉なんです」
「……わかったわ。大丈夫、貴女の話を信じるから」
典子は少しだけ安堵していた。この少女が、その言葉をもしこの場で口にしたら、まず間違いなく典子も標的にされたであろうことがわかったからだ。覚えていない言葉なら口にしようもないだろう。否、本人の防衛本能からその言葉の記憶を無理やり消してしまったということも考えられるが。
「その言葉は、一つの単語だけだったと言ったわね。固有名詞?」
なるべく落ち着かせるように、ゆっくりと語りかければ。早稀はやや曖昧に頷いた。
「お、恐らくは。ごめんなさい、それもよくわかってないんで、多分、としか」
「わかったわ。……それを見た途端、自分が殺されるとわかったのよね。何故、殺されるかはわかるの?」
「恐らくですが、知る、ことがトリガーなんだと思うんです。その名前を、存在を知る。それが、生贄になる証なんだと。生贄とは、それ、に恨まれる存在なんです。知るだけで、恨まれてしまうんです。……それを知って、恨まれずに済む者がいるとしたら……悪魔に命の代わりに魂を捧げて、代わりの生贄を捧げる者だけなんだと」
「……待って」
やはりそうなのか。典子は言われるがまま、その言葉をスマホに打ち込んでいく。パソコンよりもやり取りすることが多い反面、タイピング速度は速いという自信があった。
この言葉を広める人間が、この言葉を知らないはずがない。
それでもその人間が生贄にならずに済んでいるのは、その言葉を広めて生贄を捧げるという役目を担うことにより、生贄を求める邪神と協力関係を結んでいるからではなかろうか。あるいは――邪神を鎮める儀式の祭祀、をしているという可能性もあるだろう。
少なくとも、旧徳永邸は怪異に見舞われつつあった。恐らくは、封印されていた邪神が目覚めつつある状況だったのだろう。その際封印のためには、生贄の儀式が必要だった。祭祀を担ったその人物は、邪神を使って人々を苦しめる目的ではなく、儀式によって多くの人々の命を救おうとしているという可能性もないわけではない。
とはいえ、だからって無辜の人々を殺していいとは思えないし、本人の正体と意図をきちんと確認する必要はあるわけだったが。
「何故恨まれてしまうかは、わかる?」
この少女が、いつ襲われて消えるかもわからない。とにかくリアルタイムで彼女の証言を千夜に送信しながら典子は尋ねる。
「文字を見ると、その神様の心が全部伝わってくるということなのかしら?」
「全部かどうかはわかりませんが、ある程度理解が及ぶようになるのは間違いないと思います」
早稀は真っ青な顔色で息も荒かったが、口調は存外しっかりしている。恐らくは問答無用で正気を奪うであろう文字を見たにもかかわらず、随分と冷静さを保っているようだった。私はまだ正気な方、というのは本当だろう。生まれつき怪異への耐性が高かったせいなのか、それとも本人の強い精神力ゆえかは定かでないが。
「その神様は、人間から産まれたんです。多くの命は人と人が愛を交わすことによって女性から産まれるものですが……その神様は違っていました。憎しみと憎しみを交わすことによって、男性から産まれたんです。その命と引き換えにして」
それは、と典子は眉をひそめる。千夜たちが調べてきたという、雑誌に載っていた“チギリ村”の伝承を思い出したからだ。
『「愚か者、呪ってやる!お前達みんな、呪い殺されてしまえばいい!!」
すると、奇妙な事が起きた。
男であるはずの少年が身ごもったのである。それも、凄まじい速度で腹が膨らんでいく。十日後、少年が事切れると同時にその膨らんだ腹が割れ、中から怪物が産まれたそうだ。
その怪物は、到底人間の姿をしていなかった。
そして少年がされたように、次々と村人たちの足をその怪力で引きちぎり始めたのである。
村の男達と、村の掟に従順だった女達は殺された。生き延びたのは、少年が命がけで逃がそうとした若い女達ばかりであったという』
――やっぱり、そっちが元凶だったか。
スマホの上で指を滑らせながら、頭を回す。
この伝承の元となる出来事が実際に起きたとして。その元凶となる邪神が“少年”か、あるいは“少年から産まれた怪物”か、どっちかわからないと思っていたが。やはり、呪っているのは怪物の方であったというわけらしい。
あるいは、少年の魂を食らった融合体のようなものであろうか。
女性たちを搾取し、食い物にして生き延びてきた大人たちへの恨み。そして自らも穢され、自由に駆ける足を奪われた憎しみ。それらを晴らすため、彼が村に元々いた神様と契約を交わしたことで産みだしてしまった新たな邪神こそ、その怪物であったのではないか。
ただ、それならばその怪物の恨みは村人たちを全て殺したところで晴れていてもおかしくはないはず。また、呪いの対象が少年が本来守ろうとしていたはずの女性達であっても関係なく降りかかるというのはやや疑問の残るところである。
どこかで、この神様の性質が捻じ曲げられた、あるいは変質した可能性が高い。とすると、やはり一番怪しいのは例の宗教団体だろうか。
――掲示板に、画像を貼りつけた人物も。友達が宗教団体から、やばい言葉を知らされたと言っていたわね。
恐らく画像を貼りつけた人物は“魔術師本人”か、そのうちの一人だろうとは思うが。こうして考えてみると、その人物は己を探す人間が宗教団体“浄罪の箱”に辿りつくことを恐れていないように思えるのである。
むしろ、辿りつくことを待ってさえいるようだ。だとすると、自分達は着々と罠にかかっているということなのだろうか。
――……一応、それも踏まえて千夜君たちに警告は出しておきましょうか。
送信ボタンを押す。それで、と典子は顔を上げた。
「その、貴方を呪っている神様は何が望みなの?恨みを晴らすといっても、貴女自身は神様の存在を知ってしまっただけで、実際に恨まれるようなことなど何もしてないでしょ?」
そして、気づいた。早稀の様子が、明らかに先ほどまでよりもおかしくなっていることに。その顔は紙のように白くなり、額にも頬にもびっしょりと汗を掻いている。そして、その眼は明らかに――典子の背後の一点を、凝視していた。
「あ、ああ……」
早稀は自分の頬に、がりがり、と力いっぱい爪を立てた。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい!わ、私は村の人じゃないんです、違うんです!あ、貴方にも、貴方のお母さんにも酷いことをしようなんてしてないです、本当に、本当に関係ないんです、お願いです助けて、助けて!!」
「榎本さん!?」
「助けて、お願い、許して、許して、許してえええええええ!!」
先ほどまで比較的落ち着いているように見えた少女は、突然頬に爪を立ててがりがりとひっかき始める。それも生半可な力ではないようで、みるみるうちに少女の顔が血まみれになっていくのだ。
常軌を逸したその光景に唖然としながらも、どうにか彼女を落ち着かせようと典子が手を伸ばした、まさにその時だった。
「――……」
背後で、誰かが声を。
ぎょっとして典子は振り向いた。そう、振り向いてしまったのだ。
そして、次の瞬間。
「あ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
上がったのは。喉が擦り切れるかと思うほどの、絶叫だった。




