第4話 ぼーっとしてました
なぜだろう。なぜ俺はあんなにも照れてしまったのだろう。いつものように理子にからかわれただけだというのに。
本当は、俺も知らない心の奥底で、柚希にまた会いたいと思っていたのかもしれない。
それを理子は見透かしたのだ。
だとしたらそれは、なんで恥ずかしいのだろう。
そんなことを延々と考えながら、俺は廊下を早歩きしていた。
俺のスピードというか、勢いに、廊下で駄弁っていたであろう生徒たちが道を開ける。
背中からはコソコソと俺について話す声も聞こえる。
が、今の俺にはそんなことを気にする余裕はない。
一刻も早く、教室の自分の席へと戻り、突っ伏すとかなんとかして、平常心を取り戻さねば。
いろんなことが頭の中をぐるぐると巡っていたが、突然、胸の辺りに衝撃を感じた。
「うわあぁっ!ちょっと、どこ見て歩いてんのよ!?」
声色から女子だとわかるが、その語気は強い。
「す、すいません!」
先輩かも知れなかったので、俺は念のため敬語で謝罪する。
「まったく…気をつけてよね」
「はい…」
去り際、ぶつかった女子生徒の上履きの色で、同学年だとわかった。そして、どこかで聞いたような声をしていたが、その場では思い出すことができなかった。
今の俺は、なんて情けないんだろう。
きっと、声もか細いだろうし、弱々しい見た目だろうな。
今までそんなこと、考えたこともなかったのに。
きっと、理子のせいだな。
俺は力無い足取りで教室に着くと、泰正に声をかけられた。
「おいどうした、受験票忘れて第一志望校受けそびれたみたいな顔してるぞ」
「微妙な例えはやめてくれ…ちょっと指田先生に弄ばれて萎えてるだけだ…」
「そっか、話は聞くからな?飯奢ってもらうけど」
「最後の一言が余計だ」
なんだかんだ言って、泰正はいい友達だ。3年ちょっとの付き合いでも、それはわかる。
昼休みに散々理子にからかわれた日から1日経ち、俺はいつも通りの朝を迎えていた。
「おはよ」
「おはよう、今日はすんなり起きてきたね」
「うん」
数こそ少ないが、母さんと言葉を交わし、ダイニングテーブルの椅子を引いて俺は腰を落ち着けた。
すると、母さんがスマホの画面を少し操作してから言ってきた。
「あ、そうだ、昨日理子ちゃんから連絡があって、『今日は広哉には申し訳ないことしたけど、近いうちに勉強教えにきてあげて』って言ってたよ」
「え?あぁ、うん。考えとく」
俺の返事に、母さんは控えめに笑った。
時々、母さんは今のような控えめな笑みを浮かべる。
どこか寂しそうで、儚げな笑みを。
俺はその笑みがあまり好きではなかった。
小学校低学年の頃は、父さんと母さんと俺の3人、仲がいい家族だった。俺の幼い目から見ても、温かい家庭だったように思う。
だが、俺が4年生に上がったころに変わってしまった。
その頃は色々あって、父さんと母さんの喧嘩が増えた。
今では父さんは、あまり家に帰らない。たまに帰っても、夜遅くに帰り、少し寝て、早朝に出勤してしまう。
近頃は、母さんも父さんの姿を見ていないと言う。
母さんの心からの笑みは、父さんがいなければ見ることはできないのかもしれない。
いつの日か、また3人で幸せを分かち合える日は来るのだろうか。
朝食をとった後、俺はいつものように学校へ行き、1時間目の授業の開始を待っていた。
ぼんやりと前を見つめていたその時、視界の隅に1人の顔が見えた。
渡辺風香だ。まだ入学して1ヶ月と半月。俺が顔と名前を一致させられる生徒は少ない。それこそ、泰正とクラスの数人、写真部員、そして風香くらいだった。
それほどには、俺は彼女の存在感の大きさを肌で感じていた。クラスメイトの反応を見ても、風香に注目しているのがわかる。
このクラスの誰かに用でもあるのかな。
そんなことを考えていると、風香と目があった。
「あ、昨日ぶつかってきた人よね?ちょっといい?」
「え?あ、はい」
突然のことに驚いた俺は、なぜか敬語になってしまう。
「ここじゃまずいかな、場所変えましょう」
俺は何やら不穏な予感を憶えつつ、席を立った。
風香に誘導されてやって来たのは、美術室だった。
「私1時間目美術なの、ちょうどいいわ」
そう言うと、風香は抱えていた美術の教材を机に置いた。
絵の具やら木材やら、いろんな匂いが混ざった部屋だ。俺は芸術選択で書道を選んでいたので、美術室には来たことがなかった。
「それで、ここにあなたを呼んだ理由だけど」
チラチラと周りを見回していると、とても友好的とは言い難い声で風香は話し始めた。
「まずまぁ、昨日は悪かったわね。私もぼーっとしてたし」
「あぁ、はぁ、まぁ僕もすみませんでした」
「なんで敬語?同学年なんだからタメ口でいいじゃない」
「そ、そうですね。そう…だね?」
「うける」
クスッと笑った彼女の笑顔に、俺は一瞬見惚れてしまった。
が、すぐに現実に呼び戻される。
「それでね、一個聞きたいことがあるの」
「う、うん」
「昨日の昼休みくらいから、私のスマホに付いてたキーホルダーがないの。あなたとぶつかったときに落としたかも知れなくて…何か知らない?」
風香が困ったような表情をして尋ねてきて、俺は記憶の引き出しを一つ一つ確かめるように、昨日の昼休み、特に風香とぶつかった時のことを思い出そうとした。
だが、俺の記憶する限りでは、落とし物を見たり、風香とぶつかった時に何かが落ちる音を聞いた覚えはない。
「うーん、俺が覚えてる限りでは、特に心当たりはないかな…ごめん、力になれなくて」
俺は風香の気に障らないよう、事実だけを端的に伝え、丁重に謝罪した。
「そっか、いいのいいの!気にしないで。呼び出して悪かったわね、じゃ、1時間目始まるし、戻っていいよ。ありがとう」
「う、うん」
意に反してあっさりとした返答だったので、俺は少々驚いた。
だがまあ、話してみれば、意外に普通の女子というか、想像よりキャピキャピしていなかったので、新たな発見だと感じた。
ふと俺は、疑問に思ったことを聞いてみた。
「ん?なんでわざわざ場所を変えたの?これくらいの話、教室でしても問題はないと思うけど…」
「え?ああ、それはね、あまり人の多いところだと、周りが私に話しかけてきたり、男子と2人で話してたらコソコソ言われるかもしれないじゃない?だから、呼んだの。まぁ、1時間目が美術だったってのもあるけど。とにかく、時間とってごめんなさいね」
再び風香に謝られ、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。
場所を変えたことの理由に多少の違和感を覚えつつ、美術室を後にした。
風香から解放され、教室に戻って来た俺は、大きなため息をついた。
「はああああー」
「どうした?広哉。そういや、渡辺お嬢様に呼び出されてたけど」
怪訝な目をした泰正がそう尋ねて来た。
「そんなふうに呼ばれてるのか、あいつ。まぁ、ちょっと聞きたいことがあったらしいぞ」
「はーんそうだったのか。おっと、もう授業始まるな」
そう言うと、泰正は自分の席に戻って行った。
泰正が席につくのとほぼ同時に、1時間目の数学を担当する教師が入って来た。
今日も長いようで短い、ようでやはり長い1日が始まった。




