第21話 走る
3月になりましたね!
今月もよろしくお願いいたします!
俺が理子から連絡を受けたのは、17時過ぎ。
この日は珍しくゲームではなく読書をして過ごしていた。
余命わずかな恋人に、ずっと寄り添い続けたある男性の話だった。
悲しい話だなとしんみりしていた時にスマホが鳴り、理子からと知った時には、どうせしょうもない内容だろうと高をくくっていた。
『柚希ちゃんがベランダから落ちて総合病院に救急搬送された。家から近いからすぐに来て』
かつてないほどに深刻にそう言われた時は、俺は自らの背筋に冷たいものが走るのを感じた上、血の気が引いていくのが手に取るようにわかった。
電話を切ったすぐあとは、ショックで呆然としていたのと、貧血か何かわからないが、頭がくらくらしてしまったので、ベッドに腰かけたまま動けずにいた。
それでも、柚希を思う気持ちが俺の体を突き動かす。
俺はスマホだけ持って、着の身着のまま、はだしでスニーカーをつっかけ、家を飛び出した。
鍵を閉めるのを忘れなかったのを自分でほめてやりたくなるくらいには、俺は意識のほとんどを柚希に集中させていた。
何度も最悪の事態が頭をよぎって、心臓が強く締め付けられる。そのたびに、足を止めようか迷った。
でも俺は、走り続ける。
靴下を履いていないせいで、両足が尋常ではないほど痛む。
きっと出血もあるだろう。
でも柚希はもっと苦しんでいるはずだ。精神面でも、体の面でも。
だから俺は、足を前に出すのをやめなかった。
駅前まで走ってきて、水族館に行った日、二人でここで待ち合わせたことを思い出す。
あの日、何かしてあげられていたら、今日の悲劇は避けられたかもしれない。
そんなことを考えると、頭の中がうるさくなって、俺のスピードは速まる。
(あぁもう!マジで頼むよ…!)
俺の怒りが誰に向けたものかは自分でも全く分からなかったが、俺は怒っていた。
自分自身に向けたものかもしれないし、運命をこうなるように仕向けた神様に向けたものかもしれない。
俺は走る。
ぽつぽつと降り出した雨には一切の意識を向けず、ただひたすらに走る。
汗なのか、雨水なのか、はたまた涙なのか。
そんなことはどうでもよかった。
柚希が生きてくれていれば───
そこまで考えて俺はやっと気が付いた。
俺自身が柚希を特別に思っているということ。
そしてその”特別”を別の言葉を用いて表すのなら、
柚希が好き
が最も適切な表現だった。
正直、びっくりした。
生まれてこの方、誰かを明確に好きになったことなんてなかった。
だから、今自分を突き動かしているこの強烈な感情が、恋によるものなのかどうかはわからない。
でも、説明にぴったりで、なおかつ都合のいい言葉は、”恋”だった。
(あぁ、好きだったんだな。)
俺は納得して、すっきりした気持ちになって、俺はまた一段とスピードを上げた。
暗い中、そして雨の降る中俺は走り続け、柚希が入院していると伝えられた病院へとやってきた。
ひとまず正面入り口から中へと入る。
病院独特のにおいが鼻を衝くが、気にしてなんかいられない。
ずぶ濡れの来訪者にぎょっとする人も多くいたが、周りには目もくれず、俺は総合案内と書かれたカウンターへ向かった。
「すみません、救急搬送された患者のお見舞いって、どこからいけばいいですか」
俺はカウンターの向こうで終業前のデスク周りの整理をしていたであろう中年の女性に尋ねた。
「基本的には初療、最初の治療ですね、これが終わるまでは直接会うことはできないようになってまして、あちらでお待ちいただく形になります」
そう言いながら、女性は俺の左手にある待合スペースのような場所を手で示した。
落ち着いた緑色のベンチがいくつか並んでいるその場所は、心なしか電気がうす暗く、重々しい雰囲気をまとっていた。
「ありがとうございます」
「あ、あの、びしょぬれですけど大丈夫ですか?」
心配する声を背中に受けるも、俺は振り返ることもなく、一番手前のベンチへ腰かけようと、そちらへ向かう。
腰を下ろすと、それまで一切感じていなかった疲労が一気に押し寄せてきた。
「ふぅ───」
俺は長い息を吐いて、天井を見上げる。
無機質な色をしたそれは、こちらを否定も肯定もせずに見つめている。
それこそ、俺のことなど気にしていないという感じで。
柚希はなぜ、自宅から飛び降りるなんてことをするに至ったのか。
やっぱり原因は俺にあるのかもしれない。
もしこのまま、柚希が…
頭の中で、そこまで言葉が出てきて、続きは出てこなかった。
怖かったから。
柚希がいなくなることも怖かった。
それでもやっぱり、考えることそれ自体が怖かった。
そんなのは、自己防衛を理由にして考えないようにしているだけ。
結局俺は、弱っちい人間だ。
そんな俺が、柚希を好きだなんて、堂々と言えるわけもない。
この気持ちは、俺の中で大切にしまっておくべきなんだ。きっと。ずっと。
「はぁ───」
こんどは天井ではなく、床を見ながら息を吐く。
自分の足が視界に入って、ジンジンと痛むことに気が付いた。
傷を見てしまうと、余計に痛くなってきそうだったので、今は放っておくことにする。
不安、恐怖、そして心身の痛み。
入り乱れ、織り交ざる感情に顔をしかめる。
俺はまっすぐ前を見た。
そこには、”初療室3”と書かれたドアがあった。
防音扉なのか、中からは何も聞こえないので、どうなっているかわからない。
そもそも、柚希は別の部屋にいるのかもしれない。
そんなことを考えると、無性に落ち着かなくなってきて、俺は思わず立ち上がった。
とその時─
「広哉!」
母親の次に聞き慣れているであろう、その声。
もしかしたら父親よりも聞いている声かもしれない。
特に最近は。
だからなのかもしれない。
そう俺のことを呼ぶ声を聞いて、とても安心したのは。
声をかけてきたのは、ほかでもない理子だ。
病院から第一報をくれたのは理子だったし、当然病院にはいるのだろうとは思っていた。
だが直接理子の顔を見たことで、俺は心底安心した。
もし一人でこの場に座っていたら、俺はどうなってしまっていたのか。
考えるだけでも恐ろしい。
「広哉、ずぶ濡れじゃん。雨の中傘も差さないで走ってきたの?」
俺は声を出そうとするも、喉が言うことを聞かなかったので、首肯する。
「ちょっと待ってて、タオル借りてくるから」
理子がその場を後にし、タオルを借りられる場所はないか探しに出た。
理子が去った方は照明が暗めにされていて、不気味なトンネルを連想させた。
柔らかさとはほど遠い革製のベンチに腰掛け、理子を待つ。
急に寒気がして、ブルっと身震いした。
俺の真上では、そこそこ年季が入っていそうな空調が、ブオーンと控えめに音を立てながら、せっせと働いている。
その風が直撃するもんだから、濡れた体はどんどん冷えていく。
どうして病院の空調の温度は、やや低めに設定されているのだろう。
ともかく、理子には早くタオルを持ってきてもらいたい。
完全に他力本願な俺だったが、靴の中では足が悲鳴を上げているし、気力もないので、その場を動こうにも動けなかった。
少しして、理子が1枚の大きめのタオルを抱えて戻ってきた。
「ナースステーションから借りてきた。とりあえずこれで体拭いて」
言いながらタオルを差し出してくる理子に、俺は意気消沈状態で反応できずにいると、見かねて俺の頭をわしゃわしゃと拭いてくれる。
「元気出しななんて、軽々しくは言えないけどさ。これから柚希ちゃんも頑張って回復するんだから、広哉が風邪ひいたり、しょげてちゃだめ。だから、今日はもう少ししたら帰りな。明日も学校でしょ?」
母親のような、それでいて、母さんなら言わないような言葉を言ってくれる。
変に飾った言葉でなく、俺の心にすとんと落ちるような言葉で、理子は言ってくれた。
それがどれだけありがたいかということを、俺は嗅ぎなれない柔軟剤のにおいのするタオルの中で痛感していた。
(俺が弱くちゃだめだ。変わらなきゃ。)
どこかで聞いた言葉がある。
「己の弱さを自覚できた者は、すでに強い。」
その言葉は俺の背中を強く押した。
「…ありがとうございます。俺、古賀さんが元気になって帰ってくるって信じてるんで」
「そう言ってくれると思ってた。じゃあさ、広哉は早く帰って、明日に備えな」
「でも!でも…もう少しだけ、ここにいさせてください。俺は医者じゃないし、何か直接できるわけじゃないけど…けど…そばにいたいんです。ここに」
理子の言葉が、俺のこと、そして柚希のことを最大限に尊重してのものであったことは、十分に理解していた。
でも俺は、その言葉に従って帰りたくはなかった。
柚希のそばにいたいという欲求が、体の奥底から猛スピードで這い上がってきた感覚だった。
そしてその欲求は、言葉となり、そして気迫にまで変貌を遂げた。
「…わかった。そんな目されたら、今すぐに帰れなんて言えないな。でも、20時には帰ること!あと、美里には連絡入れて。それが守れるなら、一緒にここにいよう」
「っ…ありがとうございますっ!」
「ちょ、声が大きい…」
俺はすっかり夜の雰囲気に包まれた病院内で、つい大きな声を出してしまった。
注意する理子も、言葉とは裏腹にどこか嬉しそうな雰囲気をまとっている。
この長いトンネルを抜けた先にはきっと、絶景が広がっている。
俺は強く、そう感じたのだった。
いつもお読みいただきありがとうございます、作者の山代悠です
現在私は中2日で小説を投稿させていただいておりますが、当面の間、中3日での投稿に変更させていただきます
誠に申し訳ございませんが、「あれ、今日は更新予定日なのに更新されてない…」という読者様の困惑を防ぐため、このように告知させていただきました
今後も本作と、私をよろしくお願いいたします!




