第2話 プロローグ2
翌日、俺は朝一番に保健室を訪れていた。とは言っても、訪れたのは保健室の前なのだが。今日も今日とて理子に何か言われるのではないかと思慮して躊躇っているのだ。特に、昨日の今日の提案を翌日に返事をすることで、俺が乗り気であると理子が勘違いしかねない。実際、俺は多少は乗り気であった。しかし、それを理子に悟られてしまえば、からかわれること間違いなしである。とは言ってもいつまでもウジウジしていれば1時間目の授業に遅刻してしまうかもしれない。この状況での最適解は・・・
などと俺が考えていたその時
「あ、広哉じゃん。おはよー、どしたー?」
聞きなれた声がした。そしてその声の主は聞かずともわかる。他ならない、指田理子である。
「あ、おはようございます」
「うんおはよう。どうしたの?」
「いや、あの、えーっと、昨日の話の、返事?というか検討結果をお伝えしようと・・・」
俺は消え入るような声でそう言った。すると理子は、少し思案したのちに、
「あぁ!勉強のやつか!」
「はいぃ、まぁ、結論としては」
「やるんでしょ?」
「え、あ、はい?」
不意を突かれて理子に俺の心の内を代弁され、俺は激しく動揺した。
「だから、やるんでしょ?」
「え、い、いやぁ、やりますけど」
「うんだろうね、柚希ちゃんにはもう伝えてあるから。じゃ、よろしく~」
そう言い残して、理子は保健室のドアを開け、中へ入っていってしまった。
(あっさりしすぎだろ…)
鼻の奥にかすかに残る消毒液のにおいを感じながら、俺は教室のある3階への階段を上った。
俺が教室についたころには、すでに始業の10分前になっていて、生徒はほぼ揃っていた。
「よぉ、広哉。なんかいつもより遅くねぇか?」
そう話しかけてきたのは、中学のころからの友人かつ、俺が心を許している数少ない人物の一人である、北山泰正だ。彼は中学の頃、あまりクラスに馴染めずに孤立していた俺に話しかけてきてくれ、ボッチ回避へと導いてくれた救世主的な人物である。
「ああ、ちょっとな。それより、放課後時間あるか?少し話しておきたいことが」
「あーまぁいいけど、もしかしたら野球部のミーティングあるかもしれんから、それ終わってからになる」
「りょーかい、教室かどこかで待ってるよ」
「おっけ」
俺が話しておきたいことなど決まっている。昨日あったことと、今朝あったことについてだ。
こうして、今日も長いようで短い一日が始まった。
1時間目が始まる前は、今日も長い一日が始まった、6時間もある授業をどう乗り切ろうかと考えてしまうものだが、実際授業が始まってしまえば、案外短く儚いものである。
この日の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、
「じゃ、ミーティング行ってくる」
「わかった」
そう言って颯爽と教室を出て行った泰正を見送り、俺は自分の机で自宅から持ってきた文庫本を開いた。
すると、廊下から女子たちの楽しそうな声が聞こえてきた。
「何それうける!あはははははは!」
「いやマジでないわー」
俺の席は、最も廊下側の列の、1番後ろに位置しているため、よく聞こえる。
女子たちが俺の教室の後ろのドアを通過した時、顔が見えた。学年によく知れ渡った顔であった。名前は確か、渡辺風香だったような。メイクが施された顔は、男子の人気を集めそうなビジュアルで、実際、入学してからすでに10人以上から告白されていると言う噂を耳にしたことがある。
「てかさー、最近うちのクラスの古賀さんって子が学校来てなくてさー」
「誰それー?」
「聞いたことなーい」
不意に風香が柚希の名前を出したので、俺は半分ほど文庫本に行っていた意識のほぼ全てをそちらに向けた。
「なんか入学式のあとから来なくなっちゃったんだけどさ、最近保健室登校してるらしいよ」
「なんじゃそりゃ、あはははは!」
俺は得体の知れない不快感、嫌悪感を覚えたが、彼女たちの声が遠くなってしまい、立ち上がることも、声をかけることも、できなかった。
思いがけず、女子たちの会話、それも柚希に関するものを聞いてしまい、自分でもよくわからない気分を抱えつつ、俺はそのまま泰正を待った。
「悪い!遅くなった!」
あの出来事から20分ほど経ち、やっと泰正が教室に戻ってきた。
「やっと来たか、じゃ、行こうぜ」
「おう」
俺は泰正を連れ立って、高校の最寄駅の前にあるファストフード店へ向かった。
店に着くと、食欲をそそる匂いが充満していて、俺の期待値も上がった。今日は昼食が少し足りなかった上、体育の授業が5限にあったので、程よくお腹が空いていた。
1階席は学生や近所のマダムたちで埋まっていたので、俺たちは2階席に上がった。
席を確保し、荷物を置くと、忙しいのに相談に乗ってもらう泰正への申し訳なさが、心の中で迫り上がってきた。
「じゃ、注文してくるわ。今日は俺が奢るよ、付き合わせちゃったし」
「お、さんきゅ。ハンバーガーとポテトLのセットで、飲み物はコーラでよろしく〜」
「オ、オッケー」
(学生の財布にその組み合わせは結構痛手なんだがな…)
そんなことを思いながらも、俺は泰正の注文を受けると、財布を持ってレジのある1階へと降りていった。
大混雑だったレジをなんとか攻略し、注文を終え、受け取った商品を持って2階席に上がる。
そこには泰正が、待ってましたと言わんばかりに目を輝かせて座っていた。
「遅いよ広哉〜、早く食べようぜー」
「ああ、食べよう食べよう」
俺は目の前に広がるジャンクフードたちに食欲を刺激され、ポテトに手を伸ばした。
泰正は王道の組み合わせを注文したが、俺はエビカツバーガーとポテトと野菜ジュースのセットという組み合わせだ。中学生の頃、エビカツバーガーのおいしさに目覚め、それ以来、この店に来ると、必ず注文するようになっていた。
(今日も安定の美味さだな)
少しばかりの間、俺たちは黙々と食事を進めた。
「それで、相談って何よ?」
ハンバーガーとポテトをぺろりと平らげ、コーラをチューチュー吸っていた泰正が、今日の本題を投げかけた。
「それがさ、昨日からいろいろあって」
俺は手に持っていた野菜ジュースのパックを置き、そう語り出した。
俺は、昨日保健室で柚希と出会い、理子の勧めというかゴリ押しで、勉強を教えることになった旨をかいつまんで泰正に話した。
「んーなるほどなぁ、いやーそれにしても、にわかには信じがたい展開だな。広哉って今まで俺以外の人とはそんなにコミュニケーション取ってこなかったのにさ」
「まぁ、指田先生のゴリ押しだから、あんまり主体的じゃないがな」
「でもなんか嬉しいわ、しかも女子だろ?かぁー!成長したなぁ、南條少年!」
泰正は昭和の親父のように言い放ち、3分の1ほど残っていたコーラをズズズッと一気に飲み干した。
(どの立場なんだよまったく…)
「とにかく、今日呼んだのは、俺はどうすればいいのか、一緒に考えて欲しいんだよ」
「え?そんなん、勉強教えてあげればいいじゃん」
さも当然、と言ったように泰正は言い、俺はたじろいだ。
「い、いや、そうだけどさ、その、女子との接し方とか、上手い教え方とかわかんないし」
「うーん、俺は成績も悪いし、彼女もいないからなんとも言えんなぁ。保健室登校してる可愛い子がいるってのは、俺もちらっと聞いたことあるけど、どんな人かも知らないから接し方もわからん」
「そ、そんな無責任な」
「わからんもんはわからんのだよ、広哉くん」
なぜか自信に満ちた表情でそう言う泰正を眺めつつ、俺は野菜ジュースを飲み干し、空になったパックを潰した。
店から出て、俺たちは駅への道を歩いていた。とは言っても、駅は店から1分歩けば着くので、適当に雑談していれば、もう目の前には改札があった。
俺と泰正は同じ方向の電車なので、同じ階段を登って、閑散としたホームで電車を待つ。
「なあ、さっきの話だけどさ」
ふいに泰正が切り出した。
「うん」
「俺も会ってみたいな、その、古賀さん?だっけ」
「え、あぁ、いいけど」
予想外の泰正の提案に驚いたが、俺は承諾した。その時感じた、言葉には表し難い感情の正体を、俺は知らなかった。