風車の丘
目を覚まして、いつもの天井ではないことに疑問を抱く。
そしてすぐに「家を出てきたのだった」と思い出す。
海外のホテルで目を覚ますと、よくそうやって別世界を感じていた。この感覚も久しぶりで、いっそ新しい。
じん、とした気持ちで、暫くは微睡の中で朝日を浴びていた。
スペロは、街自体はどこにでもあるような街並みだが、街を抜けた周辺に広がる畑や果樹の豊かさが有名な場所である。食料が豊富で料理の研究も進んでいるようで、美味しい物が多い。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れたかい?」
「はい、お陰様で」
宿屋の店主へ朝の挨拶を交わして、ミューリはブックホルダーを肩に掛け直す。
前日の夕方に街に着き、顔の怖い行商のおばさんに宿屋を紹介された。馴染みの店で料金も良心的だからと言われ、ミューリはありがたく頷いた。
実はお金の心配は全くしていない。昨日の路上演奏で稼いだ分もあるが、それよりも公爵家で稼いだ分が大きい。
魔法使いだけが扱える術式陣。それを全力で利用して、術式陣の書かれた道具を量産した。買い手は筆頭秘書である。お金の勉強だと言って差し出した作品の数々を、「こんなに珍しく便利すぎるものを私が欲しがらないわけがありません」と悔しそうな表情で値段をつけてお買い上げいただいた。
最後の方では貰い過ぎたと反省したミューリが値段を下げる交渉を始め、秘書は様々な理由を上げてむしろ値段を上げる事態に陥った。勝率は半々だったが、魔法使いの商品の需要を知るにはいい経験をしたと思う。
魔法使いの商品は、世界的に見ても数が少ない。
まじない師から買った幸運のお守りに本当に幸運の魔法が掛かっていたり、ただの壺に泥水を入れたら浄水されたり……。本当になんてことないものが魔法使いの品だった例が多く見受けられる。
上手に隠れてるんだなぁなんて、ミューリはのほほんと考える。
「(人に紛れて生きる、か……この容姿の私にできるのかな……?)」
街の観察と同時に、人間の観察をしてきた。
結果から言えば、ミューリの髪色も瞳も目立つということだ。
人々の色の種類は様々だが、多くは街並みに溶け込むような自然な色味が多い。しかしミューリの髪色は街並みに馴染むことなく、かなり異質な部類だった。そもそも金色の瞳の人間が全くいない。
おそらく見る人が見たら「魔法使いだ」と指をさされてしまう。
今のところ、魔法使いを意識して生活している人がいないからか、声を上げる人間には出会っていない。
もしかしたら感付いた人もいたかもしれないが、面と向かって「魔法使い」と言う人はいない。おそらく、「魔法使い」という言葉すら蔑称のような響きで使われるからだろう。見ず知らずの初対面の人間に、突然「嫌いだ」という人はいないから。
「(とても……美しいと思うんですけどね)」
自分の髪を撫でながら他人事のように思うが、今は自画自賛でしかない。
術式陣を自分の腕に書いて、肌の色を変えたり錯覚させたりすることはできないかと試行錯誤してみたが、一瞬だけ血の巡りが悪くなったことを気に断念した。上手く身体への負担が無いような書き方をしなければ、血の巡りを悪くしてまで肌の色を変えようとするらしい。
色々制約のようなものもあるようで、便利だが実は難しい。
自分の色を変える手段については、思い付いた時にまた試そうと思う。
「……、……?」
ふと、おかしな気配を感じ取った。
前の街から少しずつ、肉眼では見えない水の粒を感じ取る練習をしている。水の魔法の練習でもあるが、周囲の人の気配に敏感になれるようにという意味もある。知らない世界を歩く為の自己防衛の手段はいくつあっても良い。
そうして自分を中心として波紋を広げるように周囲を警戒していると、明らかにミューリを追ってくる者が、合計三人いる。合計で、三人だ。
「(二人は一組として、一人は距離的に単独のような気がする)」
さてどうしようかと考えて、一先ず露店のパンの匂いに釣られてみることにした。お腹が空いたとも言う。
「お兄さん、クロワッサン三つください」
「はいよ……へっ? な、なんだ……随分身なりの良い子だな。お貴族様か? てかお嬢ちゃん、一人かい?」
「そうですね。あ、この辺りで地図を売ってくれるところはありませんか?」
「地図? あぁ、門番が売ってるやつが最新の情報を細かく書いてくれてるよ」
「そうですか。ありがとうございます」
一人という言葉に頷くと心配そうにされてしまったので、話題を変えてそれ以上の追及を逃れた。それはそうか、と自分の容姿を思い出して苦笑する。
先程より気配が近い位置にいることに気付いて、ミューリはそちらを見ないように警戒を強める。
二人と、一人、どちらが一体何の目的で追ってくるのかは分からないが、二人の方は良い気配とは言えない。ミューリが止まれば止まって、建物の影から様子を窺っている風である。
露店のりんごを手に取って眺めるフリをしながら、後方にいるもう一人の方へ意識を飛ばしてみる。
はた、とミューリの動きが止まった。
驚いたように目を見開き、何かを辿るようにゆっくりと空を見上げる。立ち上がって、周りを見渡すように視線を巡らせると、ゆっくりと微笑んだ。
「おう、お嬢ちゃんどうしたんだァ? 迷子か?」
「お兄さんたち、一緒に探してあげるよ」
親を探しているとでも思ったのだろう。二人組がミューリに近付き声を掛けてきた。
その二人に向けて微笑んで首を傾げ、ミューリはゆっくりと瞬きする。
男たちは、柔らかく、どこまでも穏やかに、「何を言っているんだ」と言われた気がして心臓が早まった。男の一人はその態度に怯え始め、もう一人は苛立つように口元をひくつかせる。
「……、どぅ、どうしたんだい……?」
「あぁ、じゃあお菓子でも買ってあげるよ。ほらあっちに行こう」
おおよそ子供が放つ空気ではないことに、二人組は気付かない。
綺麗な顔立ちと珍しい色合いのミューリを、何としてでも攫いたいという気持ちだけで、目の前の子供が普通でないことに目がいかない。更に男二人は、たった一人の少女を前に自分より弱い者だという意識が大いにあった。それは年齢差だけではなく、経験による自信から来るものもあるような気がする。
ミューリは相手への観察と考察を続けながら、じっと見つめて……待った。
何も言わずに向けられるただ金色の目に、何故か強いはずの自分たちの方が気圧される。見上げてくる瞳は、二人の頭の中から心の中までゆっくりと見透かすようだった。いつまでも反応の無いミューリと、現れない保護者に、焦れた男の一人が手を伸ばす。
その手がミューリに届く数センチ前で、唐突に咎めるような声が掛かった。
「オイ、何してるんだ」
目の前に立つ二人のせいで、ミューリからはその声の主は見えない。狼狽えたような空笑いする男たちは、「た、助けようとしていたんだ」「連れがいるなら大丈夫だなァ」と口々に言い訳する。
子供にとって大の男がこんなにも大きいものなのかと体感しながら、ミューリはその男たちの足の隙間からやっと相手の姿を認めることが出来た。
肩までを覆う外套を被って、眼鏡を掛けた男が、睨むこともなく静かな瞳で二人組を見ている。隙間からこっそり覗いているミューリの姿に気付いた相手は、小さく息を吐き出しながら眼鏡を上げた。
「おいで」
その男は買い物の紙袋を抱え直して、片手を差し出してくる。
ミューリは目の前に立つ男二人を順に見れば、その視線だけで前が開く。別に退かす気は無かったものの開いたならそこが最短距離である。
遮るものが無くなったど真ん中を悠々と通り、差し出された男の手を取った。
たった一人の小娘に道を開けて、しかも苛立ったような足取りで去る男二人を見て、呆れたように息を吐き出し……、改めて見たミューリの姿に、ひくりと目元をひくつかせた。
ミューリが纏う異様な雰囲気に、よくもこれを攫おうなどと考えたものだと尊敬すら覚える。陽に透けるような柔らかい水色の髪、見上げてくる金色の瞳は自分が価値あるものだと主張するようで触れ難く、子供であっても穏やかな笑みを湛える表情は種として上位の余裕を感じさせ、失ってはいけない何かだと思わせる。
一体何者か、誘った手前ここで別れるのもおかしな話だと諦めて、眼鏡を上げながらミューリへと向き直った。
「……僕が何者か、分かるな?」
ミューリは嬉しそうに頷いて周囲の空気を動かす。空気というよりはそこに含まれる水分を動かしている。
肉眼では見えない空気中の『水』が、不自然に肌を撫でる。
そして……それはすぐに不自然に吹いた『風』によって、さらさらと散らされてしまった。
「分かります」
ふふ、と笑い声を漏らしながら両手で男の手を掴む。
そうか、とぶっきらぼうに一言だけ言うと、手を繋いだまま歩き出した。「とりあえずうちに来い」と言った相手に「また誘拐の方ですか?」と言えば、嫌そうな顔で手を離されてしまう。
ミューリは笑いながらも、逃げられないように男の服の端を掴んだ。
「(……こんなに早く会えると思いませんでした)」
魔法使いは隠れて生きている。
外套の陰に隠した髪や、眼鏡の下の瞳は、やはり普通とは違うから隠しているのだろうか。見たところ二十代後半くらいか、もう少し若いような気もするが、どんな魔法を使うのだろう。ミューリは水の魔法を扱うがこの人は風だろうか。だとしたらどんな環境に生まれて育ったのか。
自分以外の魔法使いを前に、聞きたいことが溢れて思考が止まらない。
服の端が皴になるからと手を繋ぎ直して、ミューリは軽い足取りで隣を歩いた。
人通りの多い街から出て、小高い丘に畑が広がる場所までやってきた。風車がいくつか立っていて、地下から畑の横溝へ水を引き上げているらしい。
丘にはポツポツと離れて小さな家屋が点在している。小屋のようなものが多いので、人が住んでいるかは怪しい。
その中の一つ。大きな木の影に……というよりも、半分ほど木に埋もれて侵食されたような家がある。ちょっとした秘密基地のようにも見えるそこが、男の家らしい。
周辺の人通りは、ほぼ無い。畑の様子を見に来ている人が遠目に見える程度で、特に仲良く話をしたりするような関係性も無さそうに思える。
家に入ると、男は外套を取りながらテーブルに荷物を置いた。
「……僕はフェルエス・エウルス。君の名前は?」
外套を取ったそこには、青みがかった黒髪があった。眼鏡の下は色の薄い紫。
確かに珍しい色だが、特段目立つような色ではない。ミューリの金の瞳のように、人として異質な部類の色ではなかった。
名前については、なんだか噛んでしまいそうな響きだと思いながら、ミューリは微笑んで頷く。
「ミューリです」
「…………後ろは」
「昨日までは、ピオスフィラでした」
「ぴ、ぉ…………」
すぐ思い当たったようで、口を無理やり閉じて言葉を切った。よりにもよって貴族かと表情を歪ませて眼鏡を上げながら、買い物の袋を整頓している。落ち着く為の行動にも見えた。
人の家をじろじろ見るのは躊躇われたが、魔法使いの生活はとても興味深い。ミューリはログハウス調の家の中を軽く見回して、明らかに加工されていない剥き出しの木にソロソロと近付いた。
「魔法は、もう使い慣れたか?」
「んん……そうですね。慣れたと言えば慣れたのかもしれません」
外側から見た時は家の中を突き抜けて生えているように見えた大きな木は、やはり内側を侵食して突き抜けている。しかし木材の壁が、幹や枝に合わせてピッタリと隙間無く、家の一部として受け入れられているようだ。これも魔法か何かだろうか。
家を突き抜ける木を一通り観察し終えたミューリは、フェルエス・エウルスと名乗った彼に振り向いて、そっとヴァイオリンを構える。
瞬きをした瞬間に現れたヴァイオリンの存在に、フェルエスは目を見開いた。一体なんだと口を開こうとしたが、響いた音に掻き消されてしまう。
ヒィ、と特徴的な音が三度、四度と鳴った。
すると家を突き抜ける木の幹から透明な枝が伸びて、ふんわりと花が開く。その花びらは瞬く間に散り始め、ひらひらと家の中へ降って積もる。
どうですか?とミューリは首を傾げてから、困ったように眉を下げた。
「ヴァイオリンの音に乗せるととても上手に扱えるんですけど……何の音も無い状態だと水の球を出したり、気配を感じ取ったりしかできません」
「意味がわからんな」
真顔だった。
まだ魔法を使い始めて日が短いのだろうと、フェルエスは額を押える。出来ることが少ないのは、魔法で出来る範囲を頭が理解していないからだ。例え透明なヴァイオリンをキィキィ鳴らして細か過ぎる彫刻をいくつも作っている様子を横目で見ても、それ以外に説明できそうにない。
「……とりあえず座りなさい」
「はい」
クッションを端に寄せて、乱雑に投げられた薄い掛け布団をきちんと畳む。もしかしてソファで寝ることもあるのだろうかと考えながら、ミューリはちょこんと小さく座った。
お湯を沸かしながらその様子を見たフェルエスは、一体どんな生活をしてきたのかと片眉を上げる。ところどころに垂れ下る植物や本棚が気になるのか、楽し気に部屋を見回している金色の瞳に仄暗さは見当たらない。
「楽しいか?」
「とても。目新しいものでいっぱいです」
本当に、どう生きて来たのか。
大人のように賢く嫋やかな仕草で、子供のように興味深々に目を輝かせる。
フェルエスはお茶の入ったコップに白い小さな花をいくつか浮かべると、ミューリの前に差し出した。案の定、浮いた花を頬を染めて眺める様子に若干口元が緩む。
椅子を引き寄せてミューリの前に座る頃には、その緩んだ口は何事も無かったように元のムスッとしたものに戻っていた。
「今、いくつだ?」
「昨日七歳になりました」
「小成人か……あ? 待て……『昨日まではピオスフィラ』と言ってなかったか?」
「昨日、家を出てきました」
誕生日に家を出た。目を細めて眉間に皴を寄せるフェルエスに、ミューリは首を傾げて目を瞬かせた。
研鑽を積んだ教授のようにも思える雰囲気や口調、基本的に落ち着いて頼りになりそうな大人だと思う。しかし家を出たと言った瞬間に、ミューリを透かして静かに激情を燃やし、何かを睨むような目をする。
お互いにお茶を一口飲んで落ち着いてから、ミューリはぽつぽつと五年ほど軟禁生活だったことを簡単に説明した。
「……どうして、そんなに穏やかに笑っていられる」
「仕方のないことだったからです」
公爵家という家柄、魔法使いを産んだことで壊れてしまった母親、殺すこともできず公に生かすこともできなかった公爵当主、そして与えられたものを世界の全てとして遊び切ったミューリ・ピオスフィラ。
死にたいと思う程に虐げられていたわけではない。恐れられてはいたが、憐れまれるだけの情の深い人々に囲まれていた。
生きて家を出てこれただけで、それは幸せなことだ。
お蔭でこうして、コップに浮かぶ花が揺れるのを眺めていられる。心底そう思っている。
フェルエスはコップの花を眺めて視線を落とす小さな姿に、そっと、静かに話し出した。傷付けないように。恐ろしさに泣いてしまわないように。しかし真実を教えなければならない、と。
「僕は何人か、貴族に生まれた魔法使いを知っているが……子供のうちに殺されるか、物心つく前にどこか遠い地に捨てられた。捨てられた子たちはどうなったかは分からないが、大抵は人を襲う危険な獣の多い場所に置いて行かれる」
ミューリはコップの中に息を吹きかけて、花を揺らす。
「なら私は、とても良い暮らしをしていましたね」
「およそ五年間、小屋で何も喋らないことが? 僕にはそうは思えないな」
ぶっきらぼうな口調でどこか怒ったように言う。優しい人なのだとミューリはコップに口を付けた。綺麗な白い花はただ綺麗なだけではなく、ほんのり甘くて美味しい。
自然と口元が上がる。
「それでも私は生きていますし、食事も十分に貰いました。本は魔法図書を一冊貰ったし、紙とペンを貰ったので文字の練習も、術式陣の研究もできました。貴方と何か……生活が違いますか?」
「まず軟禁されていない」
「わぁ」
「わぁじゃない。まったく……」
脱力したように背もたれに体重を掛けた。お疲れの様子を見て、ミューリはテーブルに置かれたティーポットで、フェルエスのコップに静かにお茶を足した。ポットの口から小さな白い花がポロポロ出てきたことに、また目を輝かせる。
小さな花畑のようになったコップの中を眺めていると、ふと視線を感じて顔を上げる。じぃっとミューリを見るフェルエスが何を思ったのか溜め息を吐きだし、ミューリからポットを奪った。
今度はミューリのコップにお茶を足せば、同じように小さな白い花がポロポロと浮かんだ。
「すごく綺麗です」「良かったな」と短すぎる会話を交わして、ミューリは静かにお茶を楽しんだ。
「フェルエスさんは、貴族ではありませんよね? 捨てられたりしなかったんですか?」
「捨てられた。だが、拾われた」
何の感慨もないように「捨てられた」と言って、どこか感傷的に「拾われた」と言う。
「拾う、こともあるんですね……?」
「魔法使いを恐れる人は多いが、それに疑問を持つ人もいる。僕を拾ったのは、そういう疑問を持っている人だった」
それはつい昨日も聞いた話だ。
楽器屋の偏屈な老人も同じことを言っていた。
「『怖い』と喚き散らす人間の声が大きいだけで、『怖くない』と思ってる奴は何も言わないんだ。怖いと思うことが普通の感覚で、怖くないと思うことが普通ではないからだ……言っている意味が分かるか?」
ミューリは微笑んだまま頷く。
苦笑するフェルエスは、賢い子だなと寂しそうに呟いて俯いた。意味を理解して欲しかったが、理解して欲しくなかった。人の世界に出たばかりのような子が、既に悲しい目に遭っていることに苦しく思う。
数は正義だ。多い方が常識で、少ない方が非常識。
どこの世界も同じなのだと、ミューリはコップの縁をつついて中の花を揺らす。
「人の社会は常に多数決ですね」
仕方なさそうに微笑むミューリに、フェルエスは一瞬目を見開いてから顎に手を当てる。
「その通りだが……君が言うと違和感があるな、七歳」
「わぁ」
「わぁじゃない。喜ぶな。別に褒めてないぞ」
ふふ、と笑いながら足先を少しだけ揺らした。
ここで初めて子供らしい仕草を見たフェルエスは、どこか安心したように目元を緩める。その顔を誤魔化すように立ち上がり、キッチンの方へ向かった。
その背中を首を傾げながら見送ったミューリは、またお茶を一口飲んでから……本棚を眺める。
ふと、一冊だけ、本ではなく本の形をした物入れだと気付いた。
引き寄せられるように近づいて見れば、大陸言語で「フェルエスの贈り物」と書かれている。指で何度かなぞって、文字に間違いがないと確信を持って頷いた。
かなり達筆で書かれた背表紙の文字は何故か心惹かれるもので、一体何が入っているのかと本棚から抜き取って手に取ってみる。
怒られたら大人しく戻そうと決めて、ソファの方を振り返った。
振り返る様子に気付いたフェルエスは、「どうした」と声を掛ける。その手にはカッティングボードに林檎とナイフを乗せて、反対の手には小さな壺が一つ。
「気になる本があります」と言ってみれば、支障ないとでもいうように頷かれた。まんまと本を持ち出す許可を得たミューリは、迷わず本ではない物入れを手にソファに戻り……そしてゆるりと首を傾げる。
「りんご、ですね?」
「市場で手に取っていただろう」
この世界の食べ物を観察する為に一つ手に取ったが、食べたいと思われたらしい。フェルエスの手に納まるほどの小さな壺は蜂蜜の入ったもので、するすると切った一切れにとろりと蜂蜜をかけて、皿を寄せられた。
「小成人の祝いだ。色々あったみたいだが、まぁ……おめでとう」
うちは子供が食べるような甘いものがこれくらいしかない。お前は子供らしくないから、出されたら何でも喜びそうだ。食べたくないなら別に良い、祝いの日に嫌な物を食べることはない。嫌だと言うくらい出来るだろう?……出来るよな?
何故か言い訳をするようにつらつらと言葉を並べ立てて、一切れのリンゴに蜂蜜を掛け、お茶に入ってるものと同じ小さな白い花が散らされた。
完成していく様子を嬉しそうに眺めるミューリに、「どうぞ」と声が掛けられる。早速感謝を伝えながら、フォークをりんごに刺した。小さな白い花ごと上手に齧る。ハチミツに負けないりんごの甘さと、瑞々しい口当たりに、ミューリは幸せいっぱいに微笑んだ。
何故かフェルエスは納得がいかないような顔でそれ見ていたが、ふとミューリが持ち出したそれに目を止める。
「おい……本が読みたいんじゃなかったのか?」
「おやっ、本じゃないんですか? 騙されました」
「嘘をつけ」
りんごを一口齧って、むぐむぐと咀嚼しながらフェルエスを見る。また一口齧って咀嚼しながら、またフェルエスを見つめる。
……ふい、とフェルエスが視線を逸らした。
「まだ本である可能性はあります。本は開くものですから」
「読む文章があってこその本だ」
つまり中には、文章は無いらしい。
「開いた先に物語があればそれは本です」
「ただのガラクタ入れだ。分かって言ってるだろう。面倒な……」
ぐちぐち言いながら、もう一切れりんごを切って差し出された。ハチミツの壺も近くに寄せられる。
しかしミューリは誤魔化されない。美味しそうなりんごを前にフォークを皿の縁に置いて、その偽物の本を膝に置いた。開けることは咎められないものの「本当に大したものは入っていない」と念を押される。分かったと頷きながら、本を閉じている鍵のような装飾を見つけてパチリと外した。
開いてみれば……確かに一言も文字はない。
「……僕を拾った人間に、何かある度に渡していたものだ」
そこにあるのは、大量の花びらだった。
一枚も同じものがなく、どれもしっかりと保存加工されている。触り過ぎたら壊れてしまいそうで、ミューリは触れることなくそれを眺めた。
「フェルエスさんが集めたんですか?」
「あぁ。……風の魔法使いは、集めることが得意なんだ。風の噂、風の便り、風の知らせって言うだろう。情報だけでなく、風に飛ばされるものなら収集することが出来る」
「便利ですね」
「そうだな。だが、性格は難ありの気難しいやつが多いさ。風は気まぐれで……人間と関わることが嫌いな奴が多い」
ふぅん、と軽く返事をしながらも、ミューリは膝に視線を落とす。
気まぐれで人と関わることが嫌い。しかし「人が嫌い」というわけではない。フェルエスは自分を拾った人間にこんなにたくさんの花びらを集めて渡すくらいには、心を許していた。おそらくこの家もその人間の物だったのだろう。ところどころにある綺麗な花の咲く植物たちは、フェルエスの趣味ではないような気がする。
丁寧に閉じて、本の装飾をしっかりと止める。
「拾ってくれた方は、ご老人ですか?」
「よく分かったな」
「歳を重ねると大体二種類に分かれるそうです。魔法使いは恐ろしいとそのまま信じて恐れているか、何が恐ろしいのかと疑問を持つか」
「……良い出会いをしたな」
良いも悪いも物事を正しく教えてくれる人間に会えたことは幸運だと、りんごを齧りながら言う。
それはミューリに向けたものでもあり、フェルエス自身にも向けた言葉でもあるのだろう。生まれた環境は違うが、お互い人には恵まれたらしいと、一瞬だけ視線を交わした。
フン、と鼻を鳴らして目を逸らしたフェルエスは、少しだけ視線を彷徨わせてから……もう一度ミューリを見る。
「……小成人の祝いは、何が欲しい?」
「今貰ってますよ?」
「違う。……普通は、ドレスや代々伝わる装飾品、好きな色を詰め込んだタペストリー、花の咲く植物なんかも贈られるらしい」
「植物、ではダメなんですね」
「赤い花なら愛情深く、黄色は成功を、青色は誠実……これくらいしか覚えてないが、花の色の意味の方が大事らしい」
ハチミツ掛けのリンゴは誕生日ケーキみたいなものらしい。そう考えると、誕生日プレゼントは別で用意することになる。
特に、ミューリは何が欲しいとも思わないのだが、フェルエスは「小成人の日に家を出た子供」という部分が引っ掛かっている様子だ。
確かに以前の世界では、成人式は一生に一度しかなく、特別なものとして着物も化粧もお金を掛けた。
小成人は「人として認められる日」だとぼんやり認識していたが、文字通りに受け取るならとても重大なことではないか。
「(ちょっと特別な誕生日、くらいの気持ちでいたかも……)」
ミューリは自分が考えているより重要な日であったらしいと、認識を改めた。
そして考える。自分が必要としているものは何か、と。
「ドレスや装飾品でなくてもいい。それは普通の考えであって、人間からしたら僕らは普通ではないらしいからな」
「皮肉たっぷりに聞こえます」
「当たり前だ。そういう気持ちを込めて言っている」
ふふ、と声を立てて笑えば、フェルエスは目を伏せて静かに息を吐き出す。
「君は、もう少しわがままになっていい」
「……わがままですか?」
「あぁ。殺されなかった、生かして貰えた、捨てられなかった、食事を与えられた、本を読めた、勉強と研究ができた……終いには、生きて家を出てこられたことを喜んでいるだろう。子供が貰えて当たり前のものを、君は幸運だと言って笑うんだ。……少しはこちらの気持ちも考えろ」
感傷的に顔を歪ませる相手に、ミューリは困ったように微笑みながら「すみません」と謝るしかなかった。
フェルエスが考える程、ミューリは悲観していない。決して現状に鈍感なわけではないが、他の生まれた魔法使いがどうなったかを聞いて、自分が最悪の状況ではないと知った。
最悪ではないだけで普通の状況ではないのだと、人の口から聞くのは少し考えさせられてしまったが……。
それでも。
「……フェルエスさん」
「なんだ」
それでもミューリは、幸運なことだと微笑む。
「私は、魔法使いです」
真っ直ぐに、金色の瞳はフェルエスへ向けられた。
この世界における「魔法使い」への扱い、視線、決して優しくない世界の現状。状況を全てを受け入れて、魔法使いである自分を認めている。
認めることで、ミューリ・ピオスフィラの人生を肯定することにもなると思っている。飽きるほど小屋の中を楽しんだその子は誰を傷付けようともしなかった。魔法使いである以前に、人として強い人だった。
あなたはわたし、わたしはあなた。
それなら、私もそう在ろう。元からそうだったように。
あなたのように。わたしのように。自分が自分であることを、自分でしかないことを、他に代わることなどない自分を生きて……。
だからミューリは胸を張る。
「私は多分、自分のことを普通の人より少しだけ多く知っているんです。だから魔法使いでもただの人間であっても、変わらない部分を理解しているんだと思います。どんなに傷付いても、私は私なんです」
この感覚を一体どう伝えたらいいのか、ちゃんと言葉にできている気がしない。自分を説明することがこんなにも難しいとは知らなかった。音楽でなら伝わるのだろうか。
ミューリは難しい顔で口元に手を当てて、フェルエスをチラリと伺う。少しは安心できる回答を返せることができただろうかと見れば、至極静かな瞳がミューリへ向いていた。
静謐を感じさせる紫の瞳に憐れむ色はもう無い。次の瞬間には、本当に仕方がないと言いたそうに緩められる。
「……伝わった。大丈夫だ」
「本当ですか? それはよかったです」
「君は本当に頭が良い」
「わぁ」
「……あんまり褒めてないぞ」
今度こそ褒められたと思ったのだが違ったらしい。
残念と呟きながら、残りのりんごを食べる。口の中に甘さが広がっていく感覚と一緒に、一瞬にしてたくさんの思考を巡らせて疲れた頭にじんわりと糖分が回る。
幸せな顔で味わっていたミューリは、ふとそれを思い出した。
「あの……わがままを言ってもいいですか?」
「なんだ、欲しいものが見つかったのか?」
「はい。たぶん、フェルエスさんにしか用意できないものなんですけど……」
「あぁ、魔法関係か? 僕が用意出来るものなら聞いてやろう」
風魔法は情報を集めるのに便利だと話した手前、おそらくそれだろうとフェルエスは考える。これからをどうするのか聞いていないが、賢い子だから目的はちゃんとあるのだろう。
そう思って頷けば、ミューリは出会ってから一番の笑顔を浮かべて見せた。
「(本当に、この子は子供らしくない)」
街の子供はみんな大口を開けて笑うのに、ミューリはそうしない。貴族としての教育を受けたわけではないのに、自然体で清廉だ。清廉で、穏やかで、落葉で波紋が広がるだけの静かな湖面のような子供。
賢い子は好ましく思うがこの少女がやたら美しい生き物に見えて見惚れてしまうのはどうなんだ、とフェルエスはやや頭を抱えそうになる。ただ確実に、ミューリの振る舞いのせいであることは自信をもって言える。
「(……つまり自分の趣味嗜好がコレというわけではない)」
その事実を何度か心の中で唱える。
落ち着いてきたところで、お茶のコップを持ち上げて、口を付け、傾ける。
「名字ください」
ゴブフッ。
咄嗟に口に手を当てて飛散を防いだが、口に含んだ全てを噴き出した。
フェルエスは落ち着いてコップを置いて、空中を引っ掻くような動作をする。どこからか飛んできたタオルで口元を拭いて、眼鏡を外し、手を拭いて、周囲に飛び散ったものを簡単に掃除した。
ソファから降りて近付いたミューリも、フェルエスの濡れた服から水分のみを取り出して乾かす。これくらいならヴァイオリン無しでも出来るようになったらしい。
自分の成長にホクホクと顔を綻ばせながら、改めてフェルエスに向き直った。
「………………なんだって?」
ミューリは少し考えた末に、服の端を逃げないように掴んだ。
「名字ください」
「……新しく付けろってことか」
「エウルスが良いです。よろしくお願いしますね」
「は、おいっ、服を引っ張るな……! 君はそんな性格じゃないだろう?」
「名前の後ろが寂しいです。私もエウルスって名乗りたいです。父が欲しいですね」
「取って付けたようなわがままっぷりだな……!」
わがままなど言い慣れていないことが丸わかりの、なんとも穏やかな要求である。
「一応聞くが……ドレスとか装飾品の方がいいんじゃないのか?」
「私たちは普通では無いので、普通のものを欲しがらなくても良いそうですよ」
「ああ言えばこう言う」
「用意できるものなら聞いてくれるとも言ってました」
「追い立てて来るな」
「そんなつもりはないんですけど……今後の旅の為にも欲しいかな、と」
この世界の戸籍事情がよく分かっていないので、いきなり名字をくれと言って貰えるとは思っていない。言葉を並べて言うより、わがままを言った方がフェルエスの気が晴れるのではないかと思った故の行動だった。
ふふっ、と跳ねたように笑って、ミューリは掴んでいた服をそっと離す。離れた指を目で追ったフェルエスは、小さく息を吐いた。
「……君は賢いよ、本当に」
「それは褒めてますか?」
「全然、全く」
フェルエスの紫の瞳が、ミューリの金色の目を覗き込む。
「今日初めて会ったようなやつに頼むことでは無いと思うが、まぁ……いいだろう」
「本当にいいんですか?」
「僕たちは普通ではないからな、仕方ない」
「ふふっ……ありがとうございます」
丁寧過ぎるミューリの頭に自然と手が伸びたが、そう言えば口から吐き出した物を拭いただけの手だったと引っ込めた。それを察したミューリは笑いながら手の中に水球を作る。
「お父様と呼んだらいいですか?」
「やめろ」
無理だ。この淑やかでどこか神々しい子を娘だとは到底思えない。身分というより格が違う。娘にすることすら烏滸がましい気がしているのに……。
判断を間違えたかとフェルエスは苦い顔をしたが、「綺麗にしますね」と手を水で包んでいくミューリに、娘も悪くないという気の迷いが起きる。即行でその危険な思考を追いやって、水の魔法もかなり便利だと考えるに留めた。
「改めて自己紹介しますね。ミューリ・エウルスです。よろしくお願いします」
「……まぁ、好きに使え」
綺麗になったフェルエスの手は、ミューリの頭に乗せられた。
不器用でぎこちない、慣れていない手つきだった。