父親の後悔と、赤毛の騎士
ピオスフィラ公爵は、一人の給仕からの言葉に驚き、そして沈黙した。
筆頭秘書は表情を崩さないまま、公爵の背後から様子を伺う。
給仕長は目を伏せながら、なんと返答するのかと心ばかりが焦っている。
給仕長の隣に立つ新人の給仕は、「ミューリお嬢様が、公爵様との面会を希望しておられます」と言ったきり、黙ってしまった公爵と同じように黙っていた。それ以上の言葉は、喉元がつかえて出てきそうに無い。それもあって、給仕長と同じくじっと目を伏せて黙った。
一分が何十分にも思える空間で、やっと公爵が息を吐き出した。
「……そうか」
その一言を言うと、新人の給仕、給仕長と目をやって、そして自分の秘書へと振り返る。
筆頭秘書は内心穏やかでない。主人に黙って娘の様子を見に行くような真似をしていたのだから当たり前だ。公爵は何も言わないまま目を逸らしたが、後に報告しなければならないと秘書は口端を横に引っ張った。
しかし秘書の気持ちとは裏腹に、まるで誰を責めるわけでもない言葉が公爵から漏れた。
「娘の……ミューリの最近の様子は、どうだ?」
今更聞くのもおかしな話だと俯けば、公爵の藍色の目が視界の端に落ちる深緑の髪を捉えた。
魔法使いは、親の色を継がずに生まれてくる。
目が開き髪が生える頃。目や髪の色が両親のものとは違うことで、初めてその赤子が魔法使いだと知る。各世遺伝の可能性もあるので、だいたいの貴族の家系図には髪と目の色が記載されている。
公爵家ともなれば間違いが起こらないよう必ず書かれているが、歴史も相応に深い為、膨大な数を調べなければならない。偶然同じ色を見つけることはあり得ない。不思議なことに魔法使いは、通常の色をしていない子が産まれる。
髪が水色に見えるような人間はいないわけではないが、ここまでハッキリと水色と言える髪は珍しい。瞳の金色などもっと珍しい色だ。人として異質な色彩。陰っていると茶色にも見えるが、陽の下では間違いなく金色だと分かる。
本には「それが人ではないのだと神が教える為に、人並外れた美しい色を与える」と然もそれっぽいことが書かれている。魔法使いの奔放さに辟易している本の著者が、素直に「美しい色」と言うくらい、魔法使いというのは珍しい色彩をしているのだ。
ミューリなんかは、魔法図書でそれを読んだ時「神隠しにあった取り換え子みたいですねぇ」などと呑気に笑ったが……要するに生まれた瞬間に魔法使いだと認知され、かなり幼い頃から小屋に隔離することが可能だと言う事だ。
その幼い頃から小屋へ追いやった公爵の言葉に、新人の給仕などは悔しさから両手をギュッと握りしめるが、給仕長が目だけでそれを咎める。
公爵も秘書もそれに気付きながらも、咎めることはしない。秘書は何も言えずにいる給仕の代わりに口を開いた。
「ミューリ様は文字を覚えられたそうです。大陸文字と……魔法文字のどちらもです」
「文字が……書けるのか。そうか、そうだな。もう……七歳になる」
「それから、おそらく魔法も自在に扱っているそうです。衛兵が見回りをしていると、よく何かの音色が聞こえるそうです」
「音色、か……危険はないのか? いや、愚問だな。危険と判断したら報告が来ているはずだ」
「はい。数日は警戒しましたが、何の害もありません」
むしろ素晴らしい演奏に聞き入って、警戒心も無く観客のように拍手した衛兵の話は彼らの為にも隠しておく。
「黙っていたこと、本当に申し訳ありませんでした」
「……良い。お前の判断は信用に足る」
公爵がミューリの報告を聞くのは、二歳の頃以来だった。
その年頃からミューリはどんどん喋らなくなり、窓の外を眺めたり本を読んだりと、季節の変化を感じるだけの生き物になった。報告の度に顔を曇らせていく公爵を見かねて、前任の秘書が報告することを止めさせた。
父親である前に、公爵としての立場を選ばせたのだ。
「そうか……」
秘書が代替わりしたが、「お嬢様の報告はしない」という言葉だけで理由は教えて貰っていない。前任は「父親としての心を捨てさせたのは自分だ」という事実を、自分だけの罪として後任には伝えていない。
その結果、公爵家の主としての姿だけを残し、父親としての姿を眩ませることに成功した。
「そうか……っ、そうか……!」
しかし、娘の成長を知って何度も同じ言葉で頷くことしかできなくなった姿を見せている今、部屋にいる三人は「娘を小屋に追いやった父親」の認識を間違えていたのだと理解した。
額を押さえてこみ上げる感情を抑えようとする姿は、威厳ある大貴族の姿ではなく、どこか頼りない父親にしか見えない。筆頭秘書がぽつりぽつりと、自分の知るミューリの姿を教える。発言を躊躇っていた給仕も、最近の様子や発言をありのままに伝えていく。
いくつかの話を終えてから、またしばらく部屋の中に沈黙が落ちた。
そして、公爵もその答えに辿り着く。
「あの子は……出て行こうとしているのだな」
平坦な、何の感情も含まない声が、ひどく聞くものの心臓を抉った。
その声色に、自然と俯いていた秘書が視線をス、と上げる。
「公爵、止めますか?」
「それは秘書の立場から見て、止めた方が良いという提案か?」
「いいえ、ただ公爵のお考えを聞いておきたいのです」
「つまりお前の意見としては、止めた方が良いという考えなんだな。考えを聞きたいなら、『どうするか』と聞けば良かっただろう」
「……失礼いたしました」
垣間見せた父親の姿に元々の自分の意思が出てしまった。気付かされた筆頭秘書は、一歩下がって口を手で覆う。
少しだけおかしそうに笑った公爵は、良い、と一言言って手を払った。
「私の娘は……魔法使いである前に、人だ。人としての扱いをする前に、魔法使いとしてしか見えていなかったのだ。もはや私には、娘の意思を止める権利など無い。そんなもの、初めからなかったのだ。ただ……近くで見守り、育てる義務があっただけだ」
何もかも手遅れで、何もできないまま終わる。
自嘲気味に笑って言った公爵に、秘書は掛ける言葉が無かった。知らなかった、聞かなかった。何か解決策はなかったものか。無かったからこそ、先代秘書は選ばせるしかなく、黙ったまま消えるしかなかった。
今も「魔法使いは恐ろしい」という、世界の常識に抗うことを躊躇っている。
給仕長も新人の給仕も、ただぐっと唇を噛んで黙る。
公爵はすっかり静まってしまった部屋の中で、一つ静かに深呼吸をした。
「さて……お前たち、そろそろ仕事に戻ろう。今がどんな心であろうと、仕事をしていれば表面上だけは日常でいられるものだ。さぁ、戻ろう」
面会予定は調整次第すぐに連絡すると片手を上げると、給仕の二人は一歩退がる。
給仕長は険しい顔で「かしこまりました」と頭を下げて、隣の新人の給仕も頭を下げる。頭を下げた際に留めていた涙が落ちたが、上質なカーペットに吸い込まれて消えた。
退室する背中を見送ってから、公爵は給仕の落とした涙の位置をぼんやりと見つめる。
「……私の娘は、魔法使いであっても愛されているのだな」
少し驚きを含んだ声に、筆頭秘書はほんの少し口角を上げた。
「ミューリ様だからこそだと思われますが……それはお姿を見なければ理解できないものですよ」
失礼な物言いに公爵は片眉を上げたが、納得して溜息を吐く。
そしてペンを片手に持ち、目尻に涙を溜めながら仕事を再開した。
ミューリ・ピオスフィラが旅支度を始めた。
その日のうちに屋敷中に広められた噂である。ミューリの存在を知る者は複雑な感情を抱いたが、父親としての顔を見せた公爵の話と共に広まった為、誰もが口を噤んだ。
公爵として、父親として、家族としての決断に、他者が入り込むことはできなかった。
……
「(……あぁ、今日は違う人が来たんですね)」
夜の見回りの衛兵を気配で感じ取ると、仕方ないと魔法図書を持って小屋の扉を開けた。
実はお手洗いに行く以外で外に出るのは初めてだが、ミューリは迷うことなく見回りの衛兵へと向かっていく。
ミューリが土を踏む音に気付いて、衛兵が警戒して片手を剣に伸ばしながら振り向いた。
しかし……そこに居たのは、夜だと言うのにぼんやりと眩しく思える色合いを持った娘である。
「………………へっ!?」
「声が大きいですよ」
言われて口を閉じた衛兵は息まで止める。
最近もこんなことがあったな、と給仕を思い出したミューリはクスクスと小さく声を上げた。
「あ、ミューリ、お、お嬢様、でしょうか……?」
「はい。見回りお疲れ様です」
「ぃぃいいえそんな、とんでもない……?」
一瞬にして混乱した相手が、逆に剣の柄を握りしめてしまったのは仕方ないことである。失礼な反応をした、とすぐに手を離して恐る恐るミューリを見たが、そこには変わらずニコニコと笑う妖精のような姿があった。魔法使いだからという理由の前に、小さな子を怖がらせてしまったのではないかという気持ちが先だった。しかしすぐに「小さな女の子」の認識は「お嬢様」に変わる。その違いが何なのかと気付かないまま、怒らせていないことに心の底から安心して、大きく息を吐き出した。
衛兵の傍までくると、ミューリは少しだけ考えてから大柄の相手を見上げる。ハッとした相手がすぐに膝を着いて目線までさがったが、ミューリは構わず聞いた。
「人を探しています。夜の警備担当で、少し高めの声をして……貴方よりは背が低いと思います」
「は、はぁ……」
「あと、騎士だと言ってました」
衛兵は基本的に城内の見回りで、馬に乗らない。それでも騎士と言ったのは、騎士として騎士道の精神を学んだ人間だったからだろう。
そう思っていってみれば、衛兵は何かを思い出したように頷いた。
「えと、確かにいますね。国に仕える騎士だった奴が」
「その人は今日いますか?」
「え? えぇ、今日はまだ詰め所で書類仕事をしてるかと」
そっと手を伸ばしたミューリは、柔らかく微笑みながら衛兵の服の端を掴んだ。
「連れて行ってください」
え、と声を漏らす衛兵に、ミューリは微笑みを崩すことなく首を傾げた。
「これは脅しですよ」
見回りがまだ終わっていないことは分かっている。自分と言う存在を外に出してはいけないということも分かっている。
それでも今日行かなければ明日の機会は無く、これ以上夜更けになれば六歳の体が起きていられない。
申し訳なく思いながらも、強硬手段としてそう言ってみれば、案の定衛兵はサッと青い顔をする。
「いぃぃいやでもですね、もう夜も夜ですからお休みになった方が良いとおもっ……」
パシャンッ。
すぐそばの地面に水が落ちた。
「………………かしこまりました」
半泣きである。
公爵家に仕えるガタイの良い衛兵がここまで簡単に脅されてしまう。この世界における「魔法使い」は恐怖の対象なのだと、しかし逆を言えば一番使える強力な能力でもあるのだとミューリは思う。
冗談ですよと言いながら先行する衛兵に着いて行くが、半泣きの男にはもう慰めも通じなかった。強力過ぎるのも考え物である。
初めて外の様子を見たミューリは、公爵家が立派な城の作りであることに驚いた。小屋の外に見える一部分が丈夫な作りだけで、見た事ない部分は屋敷のような作りだとばかり思っていた。しかし周囲を見回しながら歩いてみれば、城壁がぐるりと周りを囲んで、堅牢な城であることがわかる。しかし城壁がそこまで高くはないのと、壁を修理したような痕がある。
戦争の跡だとしたら戦利品の城だ。ミューリはそう考えてそっと目を細めた。
小屋があるのは、城を正面から見て左側。厨房がそちら側ということもあって、城壁に搬入の為の門があったが、正面の門は比べ物にならないほど大きい。歩く間に見た庭園は手入れされていて美しかった。
しばらく歩いて、あの塔が衛兵の詰所です、と酷く恐縮し切った様子で示された。
そこでやっと服を掴んでいた手を離してやる。掴んでいなければ子供の足では置いていかれるという理由もあったので仕方ない。途中何度か目で訴えられたし、大の大人が鼻水をたらさんばかりの情けない顔を向けてきたが、仕方のないことだったのだ。
そのまま詰所の扉を開けて、先に入ってもらう。
中からは話し声が少ししていたが、男が入った途端に疑問のような声色に変わった。「やけに早くないか?」「何かあったのか?」と声が聞こえる。答えようにもオドオドとはっきりしない男に、掛けられる言葉が焦ったものになっていく。
ミューリは男の後ろで一応大人しく待っていたが、男の体が邪魔をしてミューリからは尻しか見えない。仕方なく服を引っ張れば、デカい図体が「ヒェッ」と飛び跳ねてじりじりと横に退いた。
しん、と詰所の中の声が止んだ。
「こんばんは。お邪魔します」
夜に昼空のような色の娘が現れる。
小さく頭を下げたミューリに、座っていた何人かが反射的に立ち上がった。そして何故立ち上がったのかと混乱する。高貴な方に対して座っていては失礼だと、反射的に立ち上がってしまったことに目を瞬かせる。
男臭い詰所に居てはいけないような気さえする。星が落ちてきたと見惚れる人もいれば、自分の身なりを気にして落ち着かない者もいる。
もちろん、魔法使いだと恐れる顔つきの者もいる。
全員が全員、その娘がミューリだと分かってそれぞれの反応を示した。ミューリはその反応を一つ一つ見逃さないように記憶した。
その中でも、いち早く冷静になったのはその場の最年長である。
「ミューリお嬢様、ですかな?」
目の前で片膝を着いた相手に、ミューリは頷いて挨拶を返す。夜間の責任者であるらしいその人は、いつまでも扉の外側ではいけないとミューリを招き入れた。
簡易な椅子も用意されたが、持って来た衛兵に片手を上げて微笑むだけで断った。
「こんなに遅くに……どうされました?」
「お騒がせして申し訳ありません。人を探しているのです」
「人を……。それは……明日の昼間ではいけなかったのでしょうか? こんな夜中では、お体に良くないのではありませんかな?」
決してミューリを追い出そうというものではなく、心の底から心配しているらしい。まるで祖父のような眼差しに、少しだけおかしく思ってしまった。
それでも今日でなければならないミューリは、その眼差しに一つ瞬きを返す。
「明日、この家を去るつもりです」
目の前の祖父のような優しい目が、ハッとしたように見開かれた。
公爵様のお時間が取れたらしい。
今日の昼間に報告を受けて、旅支度を始めた。支度は前日からやる派だが、今のミューリには持っていく荷物がほとんど無い。お別れの挨拶をしておきたい人もそう多く無い。
そのうちの一人が、詰所にいる。
「夜の勤務の方のようですから、昼間は寝てしまっていると思って。それに、昼間に歩くのは公爵様の目に触れますし、魔法使いである私を恐ろしいと思う方は少なくないでしょう? ですから今日、この瞬間しか機会がなかったのです」
奥歯を噛んで何かを耐えるような相手の肩を、ミューリは困ったように数回撫でた。会ったこともない娘をここまで心配されると思っていなかったミューリは、申し訳なく思いながら謝罪する。
こんな反応するなんて、小屋へ入れられる前の『ミューリ』を知っているのか。それとも入れられた後の『ミューリ』を知っているのか。
話を聞いてみようかと口を開いたが、その前に別の場所から声が飛んできた。
「明日、出ていかれるというのは本当ですか……?」
聞き覚えのある声に、ミューリが視線を上げた。
くすんだ赤毛の青年が、人の間を縫って前に出てくる。明らかに他の衛兵よりも立ち姿が良いのは馬に乗っていたからだろう。
赤毛の彼がミューリの前で片膝を着くと、場所を譲るように最年長の衛兵は立ち上がって下がった。
「出て行く前に、会えてよかったです」
「えっ、私を探していらっしゃったんですか……?」
「はい。私の初めてのお客様ですから」
お客様、と繰り返して首を傾げる目の前の相手に、ミューリは少し下がって構える。弓を引く動作をした途端に、それは音と共に姿を現して、霧のように消えた。
周囲の空気が少しだけ鋭いものに変わってすぐに落ち着く。そして静かに騒ついた。
ヴァイオリン、と誰かが呟く。
この世界にも同じ楽器があると知ったのはつい昨日のことだ。ヴァイオリンを
出して確認しているところを、給仕が食事を持って入って来て見られてしまった。恐れて手が震えても食事を落とさなかったことが救いである。
「防音はしてましたが、流石に小屋のすぐ側だと聞こえていたようですね」
「あ…………も、申し訳ありません」
初めからであろうと、途中からであろうと、毎回弾いている時間が合えば演奏が終えるまで側で聞いていた。もちろん気配を辿れるミューリは気付いていたが、黙って聴かせていた。観客がいても問題ない演奏をすれば良いだけだ。
バレていたことが恥ずかしいらしく、謝罪をしてから地面を見たまま頭を上げなくなってしまった。
「それでも私は、聞いてくれる人がいて嬉しかったのです。だから、ここまでお礼を伝えに来ました」
おずおずと顔を上げた赤毛に、ミューリは同じようにしゃがんで本を開く。挟んであった二つ折りの紙を一枚差し出した。
「ご清聴ありがとうございました、騎士様」
丁寧に差し出された物に目を瞬かせて、赤毛は両手で受け取った。
目線だけをミューリへ向けると、微笑みながら頷かれた。開いて欲しい意図を正しく汲み取って、二つ折りの紙をゆっくり開く。
一体何が書かれているのかと息を呑んで見れば……。
そこには、まだまだ拙い大陸文字で「ありがとう」の一言だけ。
ぱちぱちと瞬きして、赤毛がミューリを見れば、至極満足そうな顔をしている。その顔に「この方もまだ子供だった」と思い出した。
あまりにも大人な対応で、大人顔負けの所作で貴族然としている姿に忘れてしまっていたのだろう。こんなところへやってきてまで手紙を渡すのだから、もっと重要なことが書かれていると思っていた。
こういう悪戯のようなことをするところは子供だと、安心すら覚える。
赤毛は頬を緩ませてその感謝の文字を嬉しそうに指でなぞった。
その瞬間、手紙から淡い光が漏れる。
「えっ、うわぁっ!」
魚が水中から飛び跳ねるように、紙から手のひら大の馬が飛び出した。
落としそうになった紙を寸でで持ち直し、馬の無事を確かめる。なんの心配もなく、馬が紙の上で草でも食む仕草をしているのを見て、ホッと心の底から安心した。
次いでその姿に魅入る。まるで本物のように首を振り、前足で地面を掻いて、長い尻尾を揺らす。透明な馬は細部まで美しく、どこまでも走れてしまうような力強さを感じた。
後ろで見ていた衛兵たちも、目を丸めてその紙の上を凝視している。
「(もっと怖がらせてしまうかと思ってましたが……)」
目を輝かせて馬を見ている赤髪の反応に、ミューリは悪戯が成功したように口元に手を当てた。
「驚きましたか? 馬が飛び出すお手紙にしてみました」
「ええとても、あの…………心臓に悪いです……」
「ふふっ、それはすみませんでした」
赤髪はなんとか言葉を選んで発言しようとしたが、何も出て来ずにそのまま素直な感想を述べた。ミューリもそれが分かってクスクスと笑ってしまう。
「……なんだか、貴女が子供に思えます」
ミューリはその言葉に少しだけ目を見開いて、嬉しそうに微笑んだ。
いえ貴女はまだ子供ですから当たり前ですが、と困ったようにこめかみを指先で押しながら言う。ミューリはその様子をにこにこと笑いながら、紙の上の馬をつついた。
透明な馬はガラス細工のようにも見えるが、水で出来ている。興味津々で周りに集まった衛兵たちがそれに手を伸ばして、赤毛に嫌がられている。
馬自体に触れても紙を濡らしたりその上から何か書いたとしても問題ないが、紙が破れてしまうと術式陣も破棄されてしまうので、馬もいなくなってしまう。
それを伝えれば、集る周りを押し除けて「絶対大事にします」と紙を懐に仕舞い込んだ。
長居しては業務に支障を来してしまうだろうと、用事を済ませたミューリは立ち上がる。
「もう行かれるのですか?」
「はい。ご迷惑おかけしました」
「そんなことは……」
ふと言葉を切った赤髪が、少しだけ迷ったように後ろを振り返ってから、意を決したように顔を上げた。
「一曲、いえ……ほんの少しだけでも、演奏を聞かせていただけませんか?」
目を瞬かせるミューリは、多くの人に魔法を見せようとは思えない。断ろうと口を開いたが、後ろから飛んだ声に遮られてしまう。
「魔法は恐ろしいと思いますが、私はミューリお嬢様を恐ろしいとは思いません」
深く落ち着いた声は最年長らしいそれで、ミューリの側まで来るとくるりと詰所の中を振り返った。
「今ここに恐れる者がいるならば、奥の待機部屋で待っていろ」
なんと潔い職権乱用か。落ち着いた思慮深い大人だと思っていたミューリは、その言葉にぱちくりと目を丸めてしまう。……そして少しだけ残念に思う。
ざわつき始めた中で意見する者、待機部屋の扉近くに移動する者はいるが、この部屋を出ていく様子は無い。
ヴァイオリンの音色は本物のようだった。水でできた馬が動いているのを見ただろう。小さなの魔法でしかないから怖がる必要を感じなかっただけではないか。それらの魔法はお嬢様が扱っているのだぞ。魔法使いは恐ろしいと思うが美しい透明なヴァイオリンの演奏は聞いてみたい。しかし、それも、魔法だ。
それら全てを聞いていると、唐突にそれは遠ざかる。目の前の赤髪がミューリの耳を塞ぐようにして両手で顔を挟んだ。口元だけで「申し訳ありませんでした」「もう帰りましょう」と伝えてくる。
金色の瞳を真正面から捉えた赤毛はその美しさに一瞬狼狽えたが、逸らすことはなくもう一度「帰りましょう」と唇を動かした。伸ばされた小さな手が触れるように目尻を触るが、赤毛は特に逃げることもせずに目を瞬かせる。
……呑気にも「地毛が赤いと睫毛まで赤い」と感動しているなど知りもせず。
ミューリはゆわり、微笑んだ。
「私は貴方が気に入りました」
瞬間、赤髪の衛兵はどこか心が湧きたつような心持ちがした。
それはただ人としてか、公爵家の兵士としてか、それとも元騎士としての喜びか。ただただ自らの存在そのものを褒められたように思えて、息を吐き出す際に微かに唇が震えた。
金色の瞳は緩やかに細まり、景色でも眺めるように周囲の衛兵たちへと向けられる。
魔法使い。
人として認められない者。それでも人として生きていく者。
本の内容から自分がどういう生き物か、給仕たちの態度から、視線から、どんな目で見られるのかを理解したつもりでいた。しかしやはり文章ではなく生きている人間から直接聞こえてくる「言葉」というものは貴重で、どんなに綺麗な言葉を選ぼうと隠れない気持ちは率直で、人の気持ちの真実である。
「貴方に会いに来て、本よりも確実な人の意見を聞けました」
凛とした声に、詰所の中はしんと静まった。
ただでさえ男たちの中に少女の声は目立つが、それだけではない。
人を怯ませるだけの確かな芯を持った声が、空間を突き刺すような気さえした。
小さな存在がやけに大きく感じられる。今まで隠していたのかと思えるほど煌々と輝く金色の瞳の前に……自分たちがいかに愚かな発言をしたのかと後悔した。
魔法使いは恐怖の対象という共通認識を持って、仲間のいないたった一人でしかない少女へ勝手な発言している。自分たちにとっては「恐ろしい」という言葉がいつも通りの会話であっても、魔法使いである少女にしたらどんな思いか。多勢対一人の状況であっても凛と立って真っ直ぐに金色の瞳を向けられ、衛兵たちは初めてそれを自覚する。
許してくれと懇願しようにも、柔らかい笑みを浮かべるミューリが怒っているようには微塵も思えない。謝罪など受け付けないと言われている気さえする。言ったとしても首を傾げられるだけだろう。それが分かってしまって何も言えなくなる。
そして唐突に、ミューリはヴァイオリンを構えた。
「―――私は、魔法使い」
小さく呟き音を奏で始めた途端、詰所の壁に水で出来た植物が張り巡らされる。木々や草花が咲き乱れ、床には小さな川が流れ始める。恐ろしさや驚きに声を上げた衛兵たちが数歩下がり、赤髪との間を遮るように動物まで姿を現した。それらは小鹿や子兎、成長していない小さなものばかりが赤髪の側へ集まる。
戸惑いながらもそれに手を伸ばす様子に、ミューリは更に音を繋げていく。
一匹の子馬が、ゆっくりと赤毛の元へ近付いた。
何かを小さく呟いて立ち上がった赤毛は体勢を崩すが、子馬に支えられてなんとか立ち上がる。ただの馬一匹を、どこか泣きそうな表情で撫で続ける。
その間もミューリはただただ、郷愁を思わせる音を繋げていく。
じわりじわりと心を濡らす様な曲調は、しかし決して不快なものではなく。どこか物悲しく、しかし優しく幸せで、途中であるのに終わった後かのようにずっと余韻が続いているような曲であった。
たった三分ほどの音楽は、終わりを迎えると同時に全てが霧のように、或いは風にさらされる砂のように霧散していく。
霧に変わる馬だったものを掴もうと手を伸ばした赤髪は、掴めないことに俯いて、しかし口元は微笑んでいた。
「ミューリお嬢様……、魔法使いは人の望むものが分かるのですか?」
冗談半分、しかし半分は本気で聞いてくる赤毛に、ミューリは微かに首を傾げて見せる。
「そんな力しかない魔法使いなら、恐れることはありませんね」
騎士とは、騎馬で戦う者への称号だ。
多くは王都や王族に仕え、選ばれるのも一握り。剣の実力も馬を操る実力も、貴族に近い者として礼儀作法も学んでいる。それとは別に「騎士道」の精神も学ぶ。
給仕から簡単に教わった騎士の職に、以前の世界で学んだものと大差ないことをミューリは確認していた。
公爵家の衛兵にも関わらず「騎士です」と言うのは、心にはその精神が宿っているからだろう。しかしどうして名誉ある騎士から、公爵家ではあるものの巡回が主な衛兵になったのか。
ここからはミューリの想像の範囲でしかない。
「(騎士だと言えるほどの崇高な心を未だに失っていない。しかし騎士ではいられない。となると、騎士を続けられない理由があったのでしょう。一番大きな理由であれば……馬に乗れなくなってしまった、とか)」
精神的な理由であれば「騎士」を名乗ることすらできないだろう。弱さを隠す理由に使うものではない。愛馬を失った悲しみで騎士から離れているということも考えたが、全て背負って前に進めないような騎士では、国に仕えることはできないだろう。
そしてミューリが思う一番大きな可能性が、怪我による引退だった。
致命的な怪我一つで、馬を操ることが出来なくなってしまう。ゆっくり走らせることはできたとしても、それでは戦場では使えない。騎馬で戦わない者を、騎士とは呼ばない。
まだ若くして騎士の引退など、どれほど悔しかったか。
せめて公爵家に就職できたことは運が良かったことだが、それは彼にとって何の慰めにもならないだろう。
騎士として一生を送ることは、もう叶わない。
「人の望みを知ろうとする力は、魔法使いだけの力ではないと思います」
然も当然のことのように言えば、赤髪は吹き出すように晴れやかに笑ってから……背筋を伸ばした。立ち姿は元々綺麗なものだったが、それに加えて表情が何か取り戻したような意志が見える。
しかし少し考えるように視線を彷徨わせると、またミューリの前にそっと膝を着いた。
「素敵な演奏でした」
片手を差し出されそこに手を乗せると、指先に唇を落とされる。
なるほどこれは騎士だ、と感心したように頷く。海外でキスは挨拶のようなものだったので慣れてはいるが、これは本物だと感動してしまった。こういった文化は同じなのだと勉強にもなった。
未だに呆けている衛兵の面々に「お嬢様をお送りしてきます。ついでに見回りも」と声を掛けて、そのまま指先を摘まむようにしてミューリの手を持ち上げる。
「エスコートさせていただいてもよろしいですか?」
「いいんですか? 是非お願いします」
固まった面々を放って、なんなら引き留めるような声も聞こえたが、構わずに手を引く赤髪に着いて詰所を出る。扉が閉まる前に一礼して、夜も深まった城壁の近くを沿って歩き出した。
夜の庭園を通り抜けて花の名前を聞いて、星空を指さしては「星座」が無いのだと知る。小屋で給仕と話すより、実際に見て聞いた方が学べる。
「悪い方たちではないんですよ」とポツリと漏らした言葉に、ミューリは微笑みだけを返しておく。非難するつもりは無い。「魔法使いは恐ろしい」。この世界の常識として教えられているものであるなら、それを受け入れなければならない。
「……お嬢様は、ここを出てどこへ向かいますか?」
受け入れて上で、その理由を知りたくなった。
「爆発の魔法使いがどうして国を一つ消したのか、理由を探しに向かいます」
足を止めてしまった赤毛を見上げて、繋いだままの手を少しだけ揺らす。
「筆頭秘書の方に聞いてみたのです。どうして魔法使いは国を消したのか、と。彼は知りませんでした。『魔法使いは恐ろしい』ということだけが共通の認識として根付いています」
筆頭秘書の世代では、最早魔法使いは恐怖の代名詞のように言われて育っている。
しかし実際に魔法使いを見ることはないので、何がどう恐ろしいのかというのも想像でしか語られない。魔法を使う、というだけで不特定多数の人間を攻撃をするわけでもないのに。
「少なくとも私は、魔法は自分の意志で扱っています。爆発を起こすような方が、暴発に気を付けていないわけがありません。しかも……自分を含め、国を一つ消す程の威力です」
ただの癇癪では片付けられない。悪を貫いたとしても自分も死ぬ選択をしたのは何故か。赤毛は口元に手を当てて目を丸めた。次いで難しい顔をして、目を逸らす。
「理不尽に大きな力は、理由が無くとも恐怖の対象でしょう。でもちゃんと制御できているなら、恐怖の対象は『魔法使い』ではなく『人としての意思』です」
それだけ言うと、ミューリは動かない赤毛から手を離した。
数歩歩いて、周囲に簡単な水の球を浮かせて見せる。ふらふらと辺りを彷徨わせて、さらりと空気に溶けるように消した。
赤毛の騎士は、月明かりの下を歩く小さな姿に唇を噛んだ。何故ここまで思慮深く聡明な方が、魔法使いというだけで端に追いやられるのか。知っていたら何か変えることが出来たのだろうか。知っていても魔法使いに積極的に関わろうとはしなかっただろう。
自問自答しても自分がいかに浅はかだったのか思い知るだけだった。
「騎士様の番です」
「え?」
「今後もここで衛兵を続けるんですか?」
数歩前にいるミューリを見て、赤毛はそっと口元を緩ませる。
「私は実家に戻ろうと思います。名馬を輩出することで有名な家なんですよ。長男が継いでいますが、手伝うくらいはできますから」
王都に近い場所にいるのは未練のようなものだ。気付いていたが、前にも後ろにも行く勇気がなかった。この選択が前なのか後ろなのかは分からないが、確実に停滞している自分を動かすことが出来る。
ミューリは「そうですか」と一言だけ返して、小屋へ向けて歩き出した。
赤毛はミューリの隣に立って、もう一度手を差し出す。残りはたった数十メートルの距離でしかないが、エスコートは欠かさないらしい。
「ミューリ様……もし旅に疲れてしまったら、フォルクス侯爵領へお越しください。このジェイン・フォルクスが心より歓迎いたします」
侯爵家の方だったのか、と。
ミューリは「機会があれば」と軽く頷いた。断言はしないミューリに苦笑するジェインだが、元々どこへ向かうかも分からない旅路だ。近くを通りかかることを気長に待つしかないのだろう。
小屋の扉を開き、ミューリが入るのを確認する。
おやすみなさいと声を掛け合って、そっと扉を閉めた。
数歩下がり、深く頭を下げる。
「…………どうか、良い旅を。いってらっしゃいませ」
何もしてやれない無力さを嘆くような、嗚咽交じりの贖罪の挨拶だった。