思い立ったが吉日
「(魔法は、生まれた環境やその物質の理解によって、特性が左右される。それなら、爆発の魔法使いは一体どんな環境で生まれたのでしょう……)」
時間だけは沢山あるミューリは、二日後には本を解読し読み終えてしまった。
夜は寝る前にはヴァイオリンを弾いて、本から得た魔法の扱いを試したり、気が済むまで曲を弾き続けたりしている。未だに頭を使って考え込んでの魔法は上手くいかないが、ヴァイオリンに乗せて表現にしてしまえば複雑な造形も動作も余裕で出来てしまった。
「(想像は空想の域を出ないけど、表現は現すものだからかな……)」
魔法図書には二ページも使ってやけに小難しく書かれているが、「魔法の使い方、扱い方は人による」と一行に纏めることもできる。匙を投げたような言葉でしか書かれていないのは少し気になった。
恐れられている希少な人種、姿を隠すことが当たり前の人生。研究対象が全員隠れて生きているなら、研究のしようもないのも分かるが……。
……一瞬、何か引っかかったが、ミューリは掴めずに頭を振った。
本によると国によっては危険人物として投獄か処刑までされると書かれているが、現在ではどうなのか。およそ五十年前に発行されている本である。
酷い話ではあるが、危険人物なら敵国への追放の方がいいのでは。
言わずもがな、魔法使いが恐れられているのは、国一つ消し飛ばしたその魔法使いのせいである。軍事利用という意味で戦争に使いたい人間たちはいるのではないか。そもそもこの世界に戦争の概念はあるかという話にもなるので、これ以上考えても今は意味がない。今は。
国一つ吹き飛ばしてしまうなんて一体どんな理由があったのか、ミューリは顎に指を当ててあらゆる理由を模索し始めた。
「あのー……ミューリお嬢様?」
給仕が声を掛けるが、反応が返ってこない。これはまた無関心で口を利かないお嬢様に戻ってしまったのでは、と給仕は一人ショックを受ける。
じっと椅子から動かずに集中しているミューリに、痺れを切らして失礼にも後ろから覗き込んだ新人の給仕は……その光景に目を見開いた。
どうしたものかと、新人の給仕がそわそわと何度もミューリと紙を見比べる。
そして思考がやっと一息ついて頭を上げたミューリに、このタイミングしかないと声を掛けた。
「あの、何を描いているのか、伺ってもよろしいですか……?」
ミューリの目には、いくつもの術式陣が黒インクで紙いっぱいに書かれているのが見えている。
「魔法を使う為の術式陣なんですが、やっぱり魔法文字は書くのが難しいですね」
下手くそだと紙をなぞるミューリの目には、黒インクで描かれた魔法文字がびっしりと練習してある。
しかし給仕の目には、真っ白な紙にしか見えない。ミューリが筆にインクを着けていたところも、それを紙に走らせているところも見ていた。それなのに、とても白い。
ものすっごく薄いのだろうかと自分の目を疑い、目をぱちぱちと瞬かせてもう一度改めて紙に目を向けるが、給仕の目にはやはり白い紙のままである。
「……申し訳ございません。私の目には、真っ白な紙にしか見えないようです」
真っ白、と繰り返すように呟いたミューリは、きょとんとして紙を見る。もう一度給仕の方を向いて、二人は顔を見合わせて首を傾げた。
試しに、魔法図書を開いて見せる。
「この文字は見えますか?」
「ええと、はい」
ペンを渡して一行だけ書き写してもらったが、ミューリの見えている文字と同じだった。
試したら、どうやら読むことも難しいらしい。単語の読み方を教えても、次の瞬間には別の文字と読み間違える。
失礼ながら、文字の認識力の問題ではないかと新人の給仕の知能を考えたが、少しの動作からミューリの意図を察知する細やかな神経と観察力があるのだ。文字の違いを読み分けるくらい訳ないはずだ。
つまり、魔法文字というものが、そういうものなのだろう。
ふと思い出したミューリは、背表紙に書かれた著者の名前をなぞる。題名も中身も魔法文字で書かれているにも関わらず……著者の名前だけは大陸文字である。
「(さっき頭に引っ掛ったのはこれですね)」
魔法使いではない者が、魔法図書を書いたということだ。
そう考えたら、やけっぱちの様な文章に納得がいく。魔法文字というだけで、魔法使いが書いた物だと思い込んでしまっていた。だから魔法使いが魔法使いに対して投げやりな発言をしているようで、おかしな気持ちになっていたのだ。
なんてことはない、一般人が「魔法使いの研究なんて無理」と様々な言葉で隠しながら、巧妙に文章を伸ばしただけの本だ。
興味の無い分野で無理やり書いたレポートのようなものだろうか。
普通の人が隠れて生きている魔法使いを研究するなんて、喋らない宇宙を想像だけで研究する様なものだろう。魔法文字が書けるだけ大したものだ。本当に、ミューリは心の底から尊敬する。
「(魔法使いの書いた魔法文字は、普通の人には見えない。魔法使い以外が書いた魔法文字は、普通の人にも見える)」
床にあった陣と同じか、と一人で納得したミューリはもう一度紙に向かう。
床に書かれていた陣は、ミューリが魔法を使って水浸しにした夜に消えてしまった。魔法文字は魔法で消せるらしい。
その後も新人の給仕と、何度か見える見えないのやりとりを繰り返したミューリは、やがて静かになる。
ミューリの書いた大陸文字は見えるが、魔法文字と術式陣は読めないことが分かった。魔法に関しては、文字も陣も、例え描き途中であっても見えないらしい。
一人首を傾げている給仕は、ミューリが再び思考の海に出てしまったことを確認して一歩下がった。
喋る様になったお嬢様の姿を見たい給仕は他にもいる。以前とは違って、押し付け合いではなく奪い合いが起きている。その変化が嬉しい反面、自分が近くに居られない事に危機を感じている。今日もババ抜きという熾烈な戦いにより、新人の給仕は一日の世話係を勝ち取ってきた。ポーカーなら負けてた。
子供らしからぬ大人しさで、穏やかな空気を纏うミューリを眺めていると、一体どこが恐ろしい魔法使いなのかと給仕は眉を顰めてしまう。
給仕は少し前までは自分もそうであったことを忘れて、今は公爵家のミューリに対する扱いに腹を立てていた。給仕の、それも新人の身分では何もできないことは分かっているので、それを含めてどうにもならない現状に憤りを感じる。
そんな給仕の心情も知らず、ミューリは夢中になって魔術陣を描き始めていた。
まだこの世界の文字に慣れてはいないものの、形の良い綺麗な字が書けている。大陸文字も魔法文字も紙十枚分は練習したので、他人から見て「ちょっと癖のある大人の字」くらいのレベルだ。
ちなみに紙とインクだけを持ってくるはずだった筆頭秘書からは、「よいこのためのたいりくご」と書かれた児童書も渡された。絵本というほどカラフルなものではないが、それなりに色と絵が書かれた、分かりやすい文字練習の教本である。
筆頭秘書は子供用の教本を渡すことに心底抵抗を感じていたが、よくよく考えたら子供で間違いないので渋々渡すことにした。よくよく考えなくとも子供のはずなのだが、ミューリの卒のない受け答えに大人と錯覚する病に侵されてしまっている。
児童書も、結局は自分で渡す勇気は無かったので給仕を通しての受け渡しとなった。
「(これ、ちゃんと機能するのかな……?)」
そっと陣の真ん中を人差し指で突くと、思った通りの反応が起こる。給仕には見えない位置で発動した魔法に、ミューリは満足気な笑みを浮かべて頷いた。
「あ、いくつかお願いがあるのですが……」
顔を上げたミューリは、くるりと後ろを向いた。
お嬢様からの頼まれごとが少なくて毎日困っている新人の給仕は、出来るだけ平静を保ち背筋を伸ばしてミューリからの言葉を待つ。
期待を込めた瞳が自分に向くことに喜びと優越感を感じながら、必ず願いを叶えようと心が燃えていた。
「お父様に面会をお願いしたいのですが、都合が付く日を抑えてもらえますか?」
なんてことないような声だった。
燃え滾っていた心は一瞬で鎮火して、代わりに不安が膨れ上がる。自身を小屋へ閉じ込めた人間に会いたいという提案は、何が起きてしまうのかと給仕はどこか恐ろしくなってしまう。ミューリは理性的で穏やかだが……しかし、それでも「魔法使い」だ。
ぐるぐると思考しながら、かしこまりましたと上の空で返事をした給仕。
おかしな返事だと気付いたミューリは少しだけ考えてすぐに思い当たり、笑みを浮かべたまま小さく頭を傾けた。
「大丈夫ですよ。最初で最後の挨拶をしたいだけです」
最後の挨拶、と給仕は繰り返すように呟く。
「殴りかかる気も、危害を加える気も……その理由も、ありません」
ミューリは安心させるように大丈夫と繰り返してから、どこか惚けたままの給仕に必要なものを頼む。こんなものが欲しい、という抽象的な要望にも給仕は頷く。
惚けたままであっても仕事はできる。しっかりとした足取りで部屋を後にした。
「(頼まれたものは用意しなければ。お嬢様の願いは少ないから、出来る限り全てを叶えて差し上げたい。どれもこれもささやかなお願いでしかないから、叶えることは、簡単……とても簡単……)」
頼まれた物は、明日にでも渡せてしまうような簡単なものばかり。
「(あの魔法図書を持ち運べるブックホルダーと、ハンカチと、街を歩く為の服と…………っ。あぁ、こんなにも仕事をしたくないと思ったのは初めてよ……!)
新人の給仕は馬鹿では無い。
最初で最後の挨拶の意味も、用意して欲しいものの内容も、準備を終えてしまったらどうなるのか。考えたくなくとも思い当たってしまう。眉間にうんと皺を寄せて、目元に集まる熱を深く呼吸する事で流しながら、ぼやける視界で必死に優雅に歩く。
「(……私が用意しなくとも、お嬢様は賢い方だから、きっと自分でどうにかなさるわ。それなら……私が)」
目尻に涙を堪えて、自然と早足で歩く。歩いていた足はいつの間にか走っていて、その勢いで給仕室の休憩所の扉を開けた。
中で休んでいた給仕たちは、驚いた顔でその給仕に軽く文句をつける。数人はいつかと同じ状況ではないか、またお嬢様に何かあったのかと、話が聞く体勢に映った。
しかし全員が、すぐに新人の給仕の泣きかけた様子に気付いた。
「ミューリお嬢様が……御出立の準備を始めました……!」
その声は喉が詰まってか細くあったが、給仕室の中、近くの厨房、見回りで歩いていた衛兵に届く。
更に、今まさに給仕室にお嬢様の文字の習得の経過を聞きに来た筆頭秘書は、給仕室の前でピタリと動きを止めた。そして誰よりも早く現実に戻って、給仕室の開きっぱなしの扉をノックした。
「その情報は本当ですか?」
前のめりではあるが冷静な声に、その場にいた全員の時間が動き出した。
一方で、ミューリはありったけの紙を使って作業をしていた。
自らも魔術陣が使えると知った今、やることは決まった。
現在の自分が持てる全てを使って、世界を見に行くこと。
「(わたしはあなたで、あなたはわたし)」
口元に笑みを讃えて、楽しげにペンを走らせる。
今のミューリに出来ることは案外少ない。魔法が使える、術式陣が作れる。
それ以外何もない。ならば、それを使うしかない。
「(広い世界を、楽しんで生きる人でありますように)」
『ミューリ』のその願いは叶ったらしいと小さく笑う。
ヴァイオリン片手に各国を回っていた以前は、旅自体が一つの楽しみでもあった。
同一の人間であるとするなら、『ミューリ』も外に出てしまえば世界を歩く楽しみを知ったのだろう。きっと託した願い自体が、『ミューリ』がやりたかった事であり、後悔だ。
「(それでは、良い人生を)」
手紙の中身を思い返しながら、描き終えた魔術の陣に手を置いた。ふわりと作動したそれに、ミューリは満足気に頷いてから紙を丁寧に折り畳む。
そしてまた新しい紙を取り出して、魔法図書の文字を見本にまた文字を書き始めた。昼ごはんの時間に一度ペンをおいて、食べてすぐにまた書き始める。陽が暮れるまで続けて、夕飯が運ばれてきたところでやっとペンを置く。
「お嬢様……今日はシェフが腕によりをかけて作ったんですよ」
「? はい、美味しくいただきますね」
昼からいつもの新人の給仕だけでなく、ティータイムには初めて見るような給仕もいた。そもそも今日までティータイムなどなかったはずなのに、突然に現れたと思えば顔に必死に笑顔を貼り付けて、どこか暗い表情でお茶を注がれる。
そんな態度に毒でも入っているのではと少しだけ警戒してしまった。結果、まったく何も問題の無い美味しいお茶でしかなかった。
たった今運ばれてきた夕食も、いつもの新人の給仕ではない者が持ってきた。
「(担当の人だと思ってたけど違うのかな。……まぁ隠されるような娘に専属はいませんよね)」
自分の境遇を思い出して納得する。
恐ろしいと言われる魔法使い、公爵家の欠点、見放されたお嬢様。
しかしミューリは気付いている。
「(使用人には、好かれているような……)」
初めこそ怖がる様子を見せていた新人の給仕が、やけにこちらの世話をしたがるようになった。代わる代わる来る給仕たちも、恐怖の感情が前面に出てくることはなく、懇切丁寧に扱ってくれる。
そして、もう一つ。
「(食事、どんどん美味しくなっていく……)」
ミューリの食事を壁に下がって見ている給仕は何人かいた。その時に、反応を見ていたのだろう。
虐待するつもりなら、好きな食事を用意しようなんて思わない。
それに軟禁としても緩い。通常は小屋の中にいなければならないとはいえ、お手洗いは使用人用を使う。裏口から入ってすぐの場所とはいえ家の中には変わりない。初めてそこへ案内されたときはミューリ自身が一瞬戸惑った。いいんでしょうか?と口に出てしまいそうだった。
「(公爵様の指示に給仕の人たちが逆らっている、とか)」
しかしその確率は低いとミューリは考える。
命令違反となれば厳罰ものだろうし、屋敷を出された後も「公爵家をクビになった」というレッテルはかなりダメージが大きい。同種の職場はまず難しいだろう。
しかしそれもミューリの中の常識だけで組み立てた憶測である。まだまだこの世界に馴染めていないので、きっと間違った想像が多いだろう。
「(まぁ今は、自分に出来ることを考えましょう)」
そっとフォークを置いて、口元を拭いた。
「美味しかったです。ご馳走様でした」
今日の雨の日も味付けが濃かった、とミューリは小さく笑った。