新設ホールのち物置小屋
「ブラボー!!」
ホールの中に歓声が響く。スリットの入った青いドレスをさり気ない所作で軽く整えて、観客に向けて緩やかに頭を下げる。
ほた、と汗が一つ床板に落ちた。
その水滴に苦笑しつつ、今は拭えない、と歓声の止まらない中で口元に笑みを浮かべて頭を上げる。右の頬に張り付く髪は指先と爪で退かすように耳に掛けた。
瞬間、誰かの悲鳴のような声が耳に届く。騒つく会場の声が耳につく。
何事かと考えている間に、足下にカラカラと透明な装飾が転がった。
そしてやけに眩しい頭上に気付いて見上げれば、眼前に照明が迫っていた。
「(あ、手遅れ)」
ガシャンと高い音を立てて、ヴァイオリニストが一人、煌びやかな照明に潰された。直前の思考がいやに冷静な現状分析の感想で、すでに身体は動かせない。新設のホールに吊り下げられた煌びやかなデザインの照明は、人間を簡単に潰した。
「(あぁ、ごめんなさい、お父様……)」
名のある企業の一人娘。母親は早くに亡くなり、後継者としての教育を受けて育った。ヴァイオリンは交流の為の手段と、唯一の趣味である。
しかしこれで、後を継ぐ者が居なくなってしまった。様々な事を教わり、育てて貰った分だけ申し訳なさに唇が震える。ヴァイオリンを続けて、若くしてソロコンサートまで開けるだけの実力になってしまったことすら後悔してしまう。
地面にでも埋まるように、身体が、瞼が、重くなっていく。死んだら土に還ると聞くけどこういうことか、とまた酷く冷静に穏やかに考えた。
遠ざかる意識の中で、手から離れたヴァイオリンが見える。
弦が何本か切れて床に転がっている様子が、見える。
手を伸ばそうとしたが、もう指先ひとつ動かせない。
「(…………私はちゃんと幸せでした)」
感覚がないままに口角を上げた天才ヴァイオリニストは、静かに目を閉じた。
…………
す、と現実を踏む。
「……うん?」
おかしな表現かもしれないが、その時確かに、軽やかに現実を踏んだ。小屋とも思える部屋の中、意識を取り戻して二度瞬きをする。
「(シャンデリアの眩しい天井でも、病院の天井でもない)」
扉が一つ。高い位置に窓も一つ。ベッドと、小さな机も一つ。
取り乱すことなく冷静に周りを見渡して、何やら視点が低い気がして首を傾げる。最後に自分が立っている足下に目をやると、見慣れた二十代の自分の足は、何故か二回りほど小さくなっている。自分の手も、指が短く小さくなって、見間違いかと手足を動かしてみるが、裸足の足が木材の床の感覚をしっかりと伝えてくることに現実だと思い知った。
子供用のヴァイオリンなら弾けるだろうか、と考えて苦笑する。つい先ほど死んだばかりの記憶があるため、なんとなく未練がましいのは仕方ないことだろう。
一度深呼吸をして思考を追いやり、現状を把握するために周囲の観察を進めた。
自分の立つ場所をぐるりと囲むように、読めない文字がインクのようなもので描かれている。オカルト系の本によくある魔術に使われる陣によく似ているが、そちらには興味がなかったので全く分からない。
よく見てみようとその場にしゃがむと、耳元をサラリと髪が落ちた。
「ん?」
一束落ちた髪は、水色に染まっている。染まっているという言い方は間違いかもしれないが、見慣れた黒髪が上品なスカイブルーに変わっているのを見た瞬間、他人事のようにそう思った。
驚きつつもクセのない髪を二度ほど撫でて、ベッドの横のサイドテーブルに手鏡が伏せてあるのを見つけた。
手に取って裏返せば、眩しい色をした少女がいた。
「あら、可愛らしいですね」
水色の髪に、金色の瞳をした少女。自分が微笑むと鏡の中の少女も微笑むのは、つまりそういうことだろう。苦笑しながら小さな手で髪や頬に触れて、それが自身の姿であることを確かめて一つ頷いた。
惜しむべくは、伸びっぱなしの髪が視界を邪魔するように垂れてくる事だろうか。前髪を真ん中辺りで分けて、小さな手で撫で付けて耳に掛けた。
それから鏡の持ち手に視線をやる。何か文字が書かれているが、全く読めずに首を傾げた。
ふと、扉の向こうの空気が変わった。
鏡を元の場所に伏せて扉の方へ意識を集中させる。身体がやけに周囲の空気を敏感に感じ取っている。少し乾燥している、というくらいなら誰でも感じられるだろうが、今なら湿度まで完全に言い当てることができそうだ。
「(この体は……何を感じ取っているんだろう?)」
耳を澄ませると、こちらに向かってくるカラカラとした音と、靴音が聞こえた。
じっと待てば、音は扉の前で止まり、静かに扉が開く。
そこから覗いたのは、給仕服姿の女性だった。ワゴンからトレーを持ちながら、音を立てないように最小限の動作で入り込み、これまた細心の注意を払って……尻で、扉を閉める。
そして、やっと目が合った。
「ぅひえぇっ!?」
「溢れちゃいますよ?」
子供特有の通る声はしっかりと届いたらしく、動きをピタリと止めた。息まで止めている給仕におかしくなって小さく声を上げて笑うと、給仕は慌てて姿勢を正した。
「申し訳ありません。そ、その……ミューリお嬢様が起きているところを、初めて見たもので……」
「大丈夫ですよ、何も不快には思っていません」
ゆるりと口角を上げて首を傾ける。
その姿に給仕は目を見開いた。恐れも緊張も、急激に無くなっていく。すっかり冷静になった頭で見る目の前の小さな女の子は、なにやら大きな存在に感じた。
一方で、ほんの少しの会話から小さな頭の中は情報を収集し、膨大な量の思考を続ける。
「(名前はミューリ。お嬢様ということはこの家の娘。メイドさんを雇えるほどの家格。スープに湯気が立っているしちゃんと美味しそうです。温かい食事は運ばれてくるし、入って来た時を除けば給仕が礼儀正しいし、蔑ろにされているわけではないらしい。綺麗な食器が古びた部屋から浮いているのは、ここが一般的に使われている部屋ではないから。見るからに小屋ですし、綺麗な食器を使える程度の文明はあるんですね。何の理由があって、この子はここに入れられているのでしょうか?)」
上手く聞き出せないものかと考えながら、食事を机に置くように手で示した。給仕はハッとしたようにトレーを置くと、驚いて乱してしまった食器を丁寧に拭いて整える。
「(手が震えているのは、この家のお嬢様に怒られるのが怖いからか、それとも『ミューリ』が……怖いから?)」
そうだとしたら、この小屋にいる理由もなんとなく見えてくる。お嬢様と呼ばれる家の娘が、恐れられる理由。よく分からない召喚の陣まであるのだから、何かオカルト関係かもしれない。
「(そういえば、あの目立つ魔術の陣に一度も触れてきません。それどころか普通に踏んでいました。目をやることもしないのは気付いていないか、いつものことだと流されているのか……。それにしてはそちらに目が向かな過ぎるし、もしかしたら見えないのかも)」
自分の中で納得したミューリは一つ頷いて、食事の準備を整えた給仕に向けて、そっと視線を上げた。
「少し、お話しする時間はありますか?」
「は、はい……何でしょう?」
笑みを浮かべた金色の瞳を前に、給仕は緩んでいた緊張と警戒がまた強まった。
それに気付きながらもミューリは表情を変えず、少しだけ頭を傾げた。
「わたし、今年でいくつになりましたか?」
想像していたより至極普通の質問をされたことに、給仕は一瞬頭がついて行かずに、パチパチと目を瞬かせる。続けて「毎日このような場所にいるので、日にちの感覚が鈍ってしまったのです」と言えば、現実に意識を取り戻した給仕が「そうですよね……」と憂い顔で俯いた。
「(否定しない。やっぱり毎日をここで……)」
冗談半分のつもりだったが、『ミューリ』は日にちの感覚が無くなるほどの日数をここで過ごしているらしい。と、ミューリは把握する。
給仕は言いにくそうに目を泳がせて、おずおずと言葉を選びながら口を開いた。
「お嬢様は、今年で七歳の、小成人となります」
「小成人?」
聞き慣れない単語が出てきたことに言葉を繰り返せば、給仕は少し憐れむような顔で続ける。
「子供は七歳までは亡くなりやすく、戸籍の登録を認められません。その為、七歳になってから領民や貴族の登録をされるのです」
「では今年、私も登録されるのですね」
「…………いいえ」
おや?と表情を変えないまま目を瞬かせると、給仕はミューリの反応を恐れるように半歩退がり、「ミューリ様は、まだ幼いので知らされなかったのでしょう」と小さく漏らした。
実際のところ、元の『ミューリ』はほとんど誰と会話することもなく静かに過ごしていたので、年齢や習慣どころか自身の誕生日すらも知らなかった。親の名前すら、うすらぼんやりとしている。
それを知らない新人の給仕は、言い辛さを押し込めて息を整えながら続けた。
「ミューリ様は……魔法使いですから」
その言葉に、ミューリは微笑んだままキョトンと呆けてしまう。「魔法」という言葉を口の中だけで反芻する。聞き間違いか子供相手の冗談かとも考えたが、こちらを伺いながら神妙な顔付きをする給仕に、本当の話なのだと察した。
映画や小説の中だけの話だと思っていたものが、現実か夢かよく分からない現状では、自分の手の中にあるらしい。まさか自分の身で経験するとは思わなかったミューリは、この重い空気の中で少々ワクワクしていた。
「魔法使いは……その……」
「なるほど。魔法使いは人として認められないので、登録はされないのですね」
「ぃいいえっ、あ、あの……!」
人として認められない、などとサラッと口にしたミューリに給仕の方が焦ってしまう。
そこまでは言っていない。全く毛の先ほども思っていない。戸籍登録されないということは確かにそういう意味でもあるが、目の前の少女が人として認められないということは絶対に無い。
完全に否定したいが、間違いではない言い回しに給仕は慌てながらもなんとか言葉を絞り出す。
「他は存じませんが、ピオスフィラ公爵家では……」
「ああ、そういう。家の事情なんですね」
言い辛そうに口籠る先を、ミューリがあっけらかんとして答える。あまりにもなんの感慨もなく言ってのける様子に、逆に給仕の方が呆然としてしまった。
ミューリは今の会話から、おおよその自分の状況を理解した。
まず名前は『ミューリ』であり、ピオスフィラ公爵家の娘であること。給仕の様子からして「魔法使い」は恐れられるものか、はたまたミューリ自身が恐ろしい事件を起こしてしまった。公爵家としては倉庫のようなこの小屋に隠しておきたい娘であること。
そして七歳は子供が人として認められる年齢で、おそらく戸籍登録のようなものをする。しかし魔法使いである自分は隠されている為、それができないこと。
「(七歳までは神の子であって人ではない、という七五三みたいな。つまり自分は魔法使いだから、ずっと神の子のままということになります。畏れ多いですね)」
内心穏やかではない給仕をよそに、ミューリはのほほんとそんなことを考えていた。
そして奇妙なことに、自分には『ミューリ』ではない記憶がある。むしろそれしか無い。何故そうなったのかは分からないが、おそらく黒い魔術の陣が関係している。
そこそこの大企業の娘として生きていた経験や立ち居振る舞い、必要な教養の数々も覚えている。
「(身体は人のもの、心は自分のものという感覚……でも違和感がないから不思議です)」
しばらく考えて、ミューリは下へ伏せていた瞳をゆるりと持ち上げ給仕へと向けた。
「もう一つ……聞いてもよろしいでしょうか?」
小さく傾げた頭と心に溶けるような微笑みに、給仕は恐れていたもの全てが消え去るような心地がした。先程から何度も感じている気持ちに、目の前の清廉と神聖な色を纏う少女に何故恐れていたのか分からなくなってくる。
しんしんと雪が積もったような静けさが身体を覆って、しかし冷たい雪とは違う、春のような暖かさに溺れる。その微笑み一つで、給仕は一つ悟った。
―――ああ、高貴な御方なのだ。
その瞬間、給仕は何故かストンと理解する。震えも、張り詰めた緊張も無くなった給仕は、一体目の前の娘は何かと考えながらも、聞かれたそれにほとんど本能的に頷いた。
頷くべきだと、頷くことが幸福であるとすら思えた。目の前の金色の瞳が嬉しそうに緩むことに、柔らかく上がる口角に、ひどく安堵する。貴い方の望まれる反応ができたのだと喜びすら感じる。
しかし、給仕の喜びは長くは続かなかった。
「私がここからいなくなったとして、悲しむ人はいますか?」
ガン、と頭を殴られたような心地に、給仕は一気に現実に戻された。
目の前の方がいなくなることが、何か大きな損失のように思えて仕方ない。相手が恐れるべき「魔法使い」であり、公爵家から隠されている令嬢。この日も食事を運ぶのは誰にするかと、罰ゲームのように押し付けあってきた。
聞かれた質問の答えは分かっているのに、それを答えていいものか分からない。言葉が出ない。
この給仕がミューリへ食事を運ぶのは三回目。いつでもミューリの寝ているうちに運んでいたので、直接相対するのは今回が初めてである。
そもそもミューリが使用人の誰かと喋ったこと自体が初めてなのだが、働き始めて日の浅い給仕はそれを知らない。
手入れもされていないはずの水色の髪が、ミューリが首を傾げるのに合わせて、柔らかくサラリと頬を滑った。
返事を促されていると理解して、開かなかった口が勝手に開く。
「い、ません……」
言葉を発した己を罪深く感じてしまう。頭が混乱する感覚に思わず額を抑えたところで、「そうですか、ありがとうございます」と何事もないような返事が聞こえて顔を上げる。
「教えてくれて、ありがとうございます」
戻って結構ですよと片手を上げて、ミューリはくるりと背を向けた。
ミューリとしては何の意味もない一連のやりとり。聞きたいことは聞いたし、これから「何故記憶を持ったまま子供に生まれ変わったのか」「何をするべきか」を考えたい。
しかし給仕は、どこか心が騒ついて仕方ない。それでも、ここにできる仕事はもう無い上に、背を向けられてしまっては去るしかないのだ。
元々早く去りたいと思っていたのだからと、なんとか気持ちを思い出して扉に手を掛ける。
「あ、そうだ」
扉を閉める直前に掛けられた声に、「ハイッ!」と返事をする。給仕自身も予想以上に元気に返事をしてしまったと口を押さえた。その様子を不思議に思いながら、ミューリは「驚かせてすみません」と少し笑う。
「もし可能でしたら、大陸の地図が見たいです。あぁ、忙しいとは思いますので、扉の前に置いてくれたら結構ですよ」
丁寧に返事を返した給仕は、これまた丁寧に扉を閉めた。まるで上級貴族の給仕であることを思い出したかのような立ち振る舞いを見せて、ミューリの小屋を後にした。
本館までの道を歩く。初めは公爵家の給仕らしくゆっくり歩いていたはずの足は、五歩目には駆け足に、最終的に全力で走っていて、給仕室に駆け込んだ時には周囲が心配するほどに息を切らしていた。
しかしこの短時間で様々な感情が溢れて頭の中がまったく整わない。何をどう説明したらいいか分からないので、「お嬢様に仕事を頼まれたのでもう一度行ってきます!」とだけ言い残してワゴンを置いてその場を去った。
投げるように置かれたワゴンと、開いたままの扉を見て、仕事をしていた給仕たちの全ての動きが止まり、室内には「お嬢様が起きて喋った?」という困惑の空気が流れた。
「起きても何も喋らず窓の外を眺める」「屋敷の書庫から持ち出した怪しげな本を読む」、その二択と思われていた娘が口を開いたとは、給仕たちの間では大事件である。
給仕たちどころではなく、公爵家全体の大事件であることは間違いない。しかし……。
「公爵夫妻には、絶対言ってはいけないわね……」
「そうね」
ピオスフィラ公爵家でミューリの名前は禁句である。特に公爵夫人には存在すらチラつかせるな、と。
前者については魔法使いという理由からだと分かるが、後者については知らない者が多い。事情を知る家老に聞いても、黙秘を貫かれるばかりである。
数年前に小屋へ追いやられた日から、ミューリについての箝口令が敷かれた。信用できない者は屋敷へは入れていないが、その日から使用人の雇用審査が厳しくなったことは言うまでもない。
室内にいる数人は互いに目を合わせ、頷き合い、それまでやっていた仕事を一度片付け、ピシリと身なりを整えた。そしてこれ見よがしに掃除道具を持ち、持ち場を決めて出動する。
勿論、屋敷にいる他の使用人に伝える為である。掃除の為ではない。
魔法使いは恐ろしい。それが世間一般の常識である。
しかし何の事件も起こしていない小さな娘が、心を失くしたように毎日死んだように生きていることが、使用人や衛兵たちは心苦しかった。高い窓の外を眺めて空を望む後ろ姿を見たくなくて、食事の配膳や世話の担当を押し付け合うほどである。
新人の給仕は先輩たちのその姿を見て、「魔法使いが恐ろしいから」と思っているが、その実は「お嬢様の姿を見ることも辛いから」だった。
悲しくも勘違いしたままの給仕がその事実を知るのは、まだ先の話となる。
それ故に、屋敷の図書室から地図を持ち出し、早足でミューリの元へと急ぐ給仕は少しだけ口元をへの字に曲げていた。あんなにも高貴な方のお世話ができるのに押し付け合うなんて、と。同時に、魔法使いは恐ろしいから仕方ないかとも思うが、やはり口元が不満に曲がる。
曲がれるだけ曲がった唇は、ミューリの小屋が近づいたらところでスと戻る。一度深呼吸をしてから扉をノックすると、中から柔らかい声で入室を許された。
「ミューリお嬢様、地図をお持ちしました」
「はい、ありがとうございます」
一冊の本を片手に持ったミューリは、ベッドの傍らに地図を置いた給仕を見て感謝を伝える。そのまま下がって良いと片手を向けると、一瞬とんでもなく残念そうな顔をした給仕が渋々背を向けた。
その際にミューリが下げて欲しいと食べ残した食事を片付けるのを忘れない。口に合わなかったのかと考えながら、口には出さない。スープは飲み終えているので、ついているパンと野菜が多かったのだろうと推測して、次回の献立を考える。
新人であっても公爵家の給仕である。仕事は完璧だ。
静かに閉められた扉を音だけで確認して、ミューリはまた手元の本に没頭する。
本は、給仕が去ってすぐ、サイドテーブルの引き出しの中から見つけたものだ。古い本の表紙には、見覚えのある黒い魔術の陣が描かれている。しかし表紙の陣と部屋の床に描かれた陣は違うもので、ミューリは首を傾げた。
勿論、この国の文字は読めない。
分かっている情報と言えば、手鏡の持ち手に彫られた文字列が「ミューリ・ピオスフィラ」という名前であるということだけだ。その文字の形を覚えて本の一つ一つに文字を当てはめていく。
ほとんど分からない文字でも、何度も繰り返し見返すとなんとなく分かってくる。小さくとも挿絵があるせいか、ヴァイオリニストとして各国を渡り歩いて多言語を聞いていた経験からか、なんとなくの感覚で文字の表現を感じ取っていた。
「(これは……合わせる、ない……合わせない?)」
何度も読み返して、文字の意味の仮説を立て、同じ文字で後の文章がおかしいと感じたらまた別の仮説を立てる。途方も無い作業ではあるが、ミューリは夢中で解読を進めた。
一時間経って、読めたのは最初の一行だけである。
すべては本に挟まれていた、「ミューリ・ピオスフィラからの手紙」を読む為である。
一度本を横に置くと、丁寧に手紙を開いた。
「……はじめまして、わたしの……何かの、もう一方?」
ずっと下を向いていた顔を上に向ける。集中しすぎていた首が痛い。
深呼吸をしてから、もう一度本へ目を戻して、いくつかの文字を辿る。手紙と本とを何度か見比べてから、また一時間。
ミューリは、自然と空いてしまっていた口をきゅっと閉じた。
「『初めまして、わたしの魂の片割れ』」
少しだけ目を見開いて、その文字を何度もなぞる。口元が緩やかに上がり、小さく溜め息を漏らした。それは決して悲観的なものでは無く満足感と達成感からのもの。
ミューリは手紙を横に置いて、再び本の文字の解析を進める。そのまま数時間、日が暮れるまで本に齧り付いて動かなかった。
そして……いつもと違う意欲的な読書の様子を、使用人たちが代わる代わる扉のひび割れた隙間から覗いていたが、空気に敏感なハズのミューリは夢中になって気付かないままであった。
昔書いたものをつい発掘してしまったので、書き足したり書き直したりして上げてみました。