予感
一昨年の冬。私はとある人と出会った。
高身長で、スラっと美しく伸びた手足。その整った顔立ちは、誰もが認める程のものだった。学歴、職歴、共に名高いものばかりの彼は正に完璧___そのものだった。
___なんて、夢物語のような話、あるはずもなく。私が出会ったのは王子様でもなんでもない。最低最悪で、でも、憎めない。私の一生涯のパートナーとなるであろう人。今までも、これからも、愛し続けたいと思える、そんな人。この物語は、そんな彼と私が出会ってから今までに起きたことを綴った、儚くも、尊い話だ。
一昨年、冬。仕事でミスが続いていた私は、ストレスが溜まる一方、それを発散できずに塞ぎ込む日々が続いていた。
「___暇だ。何かないかな___」
ベッドに寝転んでいた私はスマホを手に取ると、沢山のアプリを開いては閉じ、開いては閉じを繰り返す。
「___何も面白くないな」
そんな中、ふと頭の片隅を一つの閃きが過ぎった。
「そうだ。それだ___」
私はスマホを握りなおすと、その開いたページのブラウザに入力を済ませた。そして、数週間ぶりか、数ヶ月ぶりの「娯楽」に胸を躍らせる。
「よし。あとは待つだけだ」
スマホを置いてしばらく経った。私は心を弾ませながらスマホを開くと、そこには何着も好意のある着信が入っていた。
気さくに話しかけてくれている人もいれば、かしこまった人もいる。中には、触れない方が良さそうな人も___
けれど、その中の一件のとある着信。
『こんばんは、陽奈さん!良かったら俺とお話ししてください!』
サイトのテンプレートとも言える、典型的文章。内面が探りにくい為、話を聞き出して本心を暴く。
『こんばんは!メッセージありがとうございます!私でよろしければぜひ!!』
こちらも同様に、テンプレートで返す。できれば純情と思われたいし、目的を探られるのも避けたい。
『ありがとうございます!じゃあ早速。住んでる場所なんですけど、東京都ってプロフィールに書いてあったじゃないですか?23区ですか?』
『いえ。港区女子とか憧れるんですけどね(⌒-⌒; )でも私は、ちょっぴり栄えた町出身の、ただのレジ打ちです』
『え、もしかして立川だったりします?』
『え?よく分かりましたね!そうです、そうです!え、なんか嬉しい…』
『いや、俺、西国!隣!!』
『えっ!?西国分寺!?マジですか!?えぇ、ちょ、ま、ウソ、信じられん…。え、え、え?』
『いや、動揺しすぎだから(笑)』
『えっ、LINE交換しません?』
『うん!いいよ!!』
そして、私と稔勝の関係は幕を開けた。
私と稔勝の関係が始まって一週間。僅かな間に、私たちは沢山のやり取りを重ね、沢山の共通点を知った。
サイトを始めたきっかけが、仕事でのストレスだったこと。甘いもの好きだということ。夢の国が好きだということ。そして何より、価値観や感性が合っていた。
だが、あの直後、衝撃の事実を知った。
『___俺、かなりオジサンだけど大丈夫?』
そんなメッセージと共に、彼の実年齢が明かされた。
三十六歳。プロフィールでは、三十から三十五と書いてあったが、どうやら少し、サバを読んでいたようだ。もしかしたら、年齢が年齢なだけあって、もしかしたら結婚を急いでいるなどの理由もあったのかもしれない。
そして今日。多くのやり取りを重ねた末、初めて稔勝と会う、ということになった。
当初の予定では昼過ぎに立川駅のみどりの窓口前に集合し、その後昼を食べてカラオケでゆっくり過ごす、という予定だった。しかし、数日前になって「俺、絶対に手出さないって約束するから、もっとゆっくりできる所にしよう」と稔勝に提案され、コンビニに寄った後、ラブホテルに行くことになった。今まで稔勝と話していて身体目的のような様子は感じ取れなかったし、人柄としても悪人には到底思えない。もちろん、最悪の事態を想定して事前の準備はしておいたが、きっとそれも度を越した準備となるだろう。多分。
「___一時間前、か」
妙に落ち着かなくて、早くに起きて早くに家を出た私は約束時間の一時間前に集合場所に着いてしまった。お互いの今日の服装や特徴などは把握しているものの、やはりネットの出会いは妙な緊張感がある。
「___お待たせ」
「___!」
声がした方を振り返ると、長身痩躯の若い男性がいた。特徴とは全く違う。誰___
「大丈夫。私もさっき来た所だから」
隣にいた、可憐な女性が小花のように可愛らしい笑顔を男性に向けて歩き出す。なんだ、驚いた___
「陽奈ちゃん?」
「え?」
高まるばかりの鼓動を宥めようと深く息を吐いた刹那、私の名を呼ばれ、顔を上げる。
するとそこには、稔勝から聞いた特徴そのものの人が微かな笑みを浮かべて立っていた。
「あ、ええと、あ、あ___」
「稔勝です。その感じ、多分陽奈ちゃんで合ってるよね」
赤面して言葉に詰まった私は言われるがままに首を縦に振った。
「よし。じゃあ行こうか」
稔勝は可笑しそうに笑うと、私の横に並んで北口へと向かって歩き出した。
車で移動すること数十分。稔勝が事前に調べてくれた寛げるラブホテルに到着した。移動途中私の緊張もいくらか解け、少しはまともに話せるようになっていた。
「___じゃあ陽奈ちゃん、今は実家暮らしなんだ」
「そうです。でもやっぱ、両親と一緒だと窮屈で。制限されることが多くて、中々自由が効かないんですよ」
「そっか。じゃあ、俺と二人暮らしする?」
タッチパネルを操作していた手を止め、こちらに目をやった稔勝は怪しげに笑った。
「つ、付き合ってもないのに同棲なんて。ちょっと___」
「冗談。さっきも言ったでしょ。俺は初めて会う子に手を出すほど、最低な男じゃないよ」
稔勝はクスクスと笑うと再びタッチパネルに目を落として操作を始める。そして、少し値の張った部屋を選択するとエレベーターに向かって歩き出した。
「心配しなくていいからね。怖いようなら、信用できる人とか、警察とかにすぐ電話できるような体制取ってもらってて構わない。なんなら途中で帰ってもらっても全然いいよ。帰りのお金なら出すし。だから、何か少しでも嫌なことがあったら言ってね」
「___わかりました」
部屋に着くと、そこには教室の三分のニくらいの広い空間が広がっていた。
部屋の一角に置かれたその大きなベッドは、あたかも恋愛物の映画に出てくるかのようなお洒落なデザインで、入り口側に置かれたソファや机もセレブの家にありそうなゴージャスな雰囲気を醸し出している。
「お金持ちになったみたい___」
「喜んでもらえて何より。時間いっぱいまでは好きにしてもらって構わないからね」
稔勝は手にしていたバッグとコンビニ袋をソファの横に置くと、ゆったりとソファに腰掛けた。
「あ、ありがとうございます」
普段絶対に味わうことのない空気に、再び緊張が押し寄せてきた私は少し距離を開けて稔勝の隣に腰掛ける。
「___因みに、どうしてサイトで私にメッセージくれたんですか?」
少しの間が空いた後、私は静かに稔勝の横顔に向かって言葉を放った。
「どうして?うん、特に深い意味はないかな。シンパシーみたいな、そういうの。強いて言うなら、陽奈ちゃんのアイコンが夢の国のキャラクターに見えて、同志かもって思ったんだよ」
「あぁ。花弁で作ったキャラクターアートみたいなやつですか。個人的に気に入っていたので」
「そうなんだ。でも話してみたら本当に共通点ばかりでびっくりしたよ。住んでる場所も近いし、趣味とか好きな食べ物とか。こんな人この世にいるのかって思った」
稔勝はにこにことそう話しながらコンビニの袋に手を突っ込むと缶ビールを取り出し、その栓を開けた。
「私も。これだけ話が合う人なんていないって思ってました。そんなの、物語の中だけだって」
「違うもんなんだね」
「ですね」
私が言葉を返すと、稔勝はビールを一気に流し込み、小さく息を吐く。
「ビール、お好きなんですか?」
「好きって言うか___。お酒は基本的にビール以外飲まないかな。それって好きってことなのかな?」
「___さあ?」
少しの間、微妙な空気が流れる。少し、思ってたのと違う。SNSで話してた感じではもう少し話しやすかった。けれど、実際話してみるとなんだか思うように会話が弾まない。
「陽奈ちゃん?」
「はい?」
「変に色々気にしたりしなくていいからね」
「え」
「俺に気遣って、話さなきゃとか、何か良い返事しなきゃとか、そんなのしなくていいから。そういうの、疲れちゃうでしょう。今日は陽奈ちゃんの為の一日だから。好きなようにしていいからね」
「え。あ、はい」
心を見透かすように言うと、稔勝は「うん、うん」と頷いてまたビールを口にした。
「所で陽奈ちゃん。世間では性暴力の被害とか増えてきてるけど、陽奈ちゃんはそういうのどう思う?」
「え、唐突ですね」
「まぁ気にしないで。で、どう?」
「そうですね。程度にもよりますが、対処できるものは女性側も何かしらの対策をして対応するべきだと思います。被害に遭われて苦しまれている方も大勢いるとは思いますが、だからこそ、被害に遭う前に体制を整えておくのが一番かと。まぁ、こういうことは災害でも言えることですけどね」
「なるほど。結構しっかり考えてる感じなんだね」
稔勝は目を細めると、何かを考えるように遠くに目をやった。
「どうして___」
「じゃあ___」
途端に言葉を吐き、すぐ側まで迫ってきた稔勝は私の耳に触れた。
「どこからが『アウト』だと思う?」
「___ッ」
囁くように言うと、私の身体と稔勝の身体の距離は少しずつ縮まり、触れられている箇所も耳に収まらず顔や手足と増えていった。
「大丈夫だよ。セックスとかしないから。陽奈ちゃんのこと、いっぱい気持ちよくしてあげるだけだから」
私の身体を優しく撫でるその手は、何度も何度も足や腕、耳や背中を撫でた。けれど、触れてはいけない「その場所」に触れることは決してなく。保とうにも保てず、崩れていく私の顔に、彼はいやらしい笑みを浮かべた。
止まることを知らない彼の手は、私の身体のあちこちを這い、時には際どく身体をなぞることもあった。
「そろそろ触ってほしい?もっと気持ちよくなりたい?」
稔勝は怪しげな笑みを浮かべると、崩れきった私の顔を覗き込んだ。
「___なにも、しないって___」
「うん、嫌がることは何もしてないよ。でも、触り始めた時、陽奈ちゃん嫌がってなかったよね。ここから先、どうされたい?ベッドでもっと攻められたい?それとも、もっと焦らされたい?それか、終わりにしちゃう?」
「___もっと、欲しい___です___」
「お利口です。じゃあいっぱい触ってあげる」
どこかのネジが緩んだのか、外れたのか。もう私は何も考えられなくなっていた。ただ、彼にもっと触れられたい。愛でて欲しい。その感情で満ちていた。
「___っしょ」
稔勝は軽い掛け声と共に私を軽々と持ち上げると、ベッドまで運んだ。そして、私の着ていたトレーナーを少しずつ捲り上げていく。
「電気、暗くする?」
「___うん」
部屋は一段とムードを纏い、オレンジ色の光が稔勝の頬を照らした。服の擦れる音と、二人の少し乱れた吐息だけが部屋に響く。
「いいよね?」
「え」
「入れないから___ちゃんと、気持ちよくするから___」
稔勝はそれだけ言うと、私の服を脱がせた。
「ま、待って___」
「もう、待てない」
剥き出しになった私の身体は熱を帯び、部屋に薄暗く灯るオレンジの光もまた私の気持ちを高調させた。
稔勝の手は少しずつ、少しずつ私の肌を優しく撫でるように太腿から上に上がっていくと、小股でピタリとその動きを止める。その刹那。局部に身体の髄まで響くほどの快感が走り、それと同時に、どこからか自分じゃない自分が声を発する。
「へぇ、感じてる陽奈ちゃんも可愛い」
稔勝はニマリと笑うと、更に激しく手を動かした。
ただでさえ抑えられなかった声は更に上がり続け、身体はビクンビクンと大きく脈打つ。
堪えきれない___今までになかった感覚が急に込み上げてくると、身体は一気に火照り、激しく脈打ち、声も信じられないくらい大きくなった。
しかし。途端にプツリと何かが切れたような感覚。唐突に力が抜けると、今まで盛大に感じていたはずなのに、途端に感覚がなくなった。
「あれ、イッちゃった?」
「___わから、ない___」
「その感じ、イッちゃってるね。気持ちよかった?触る前からすごい濡れてたけど」
「___知らない。気持ちよかったけど、ふらふら、する___」
「うん、完全にイっちゃってるね。少し休みな。横になってればその内良くなるから」
稔勝は私の頭を優しく撫でると、優しくその上に布団をかぶせる。未だ大きく脈打つ身体に稔勝は優しく触れると、ポン、ポンと私の身体を宥めた。
「よし、よし。可愛かったよ」
「___」
イッてしまった恥ずかしさと、今のこの愛でられている状況の恥ずかしさで私は思わず布団に顔を埋めた。
「うん?」
「なんでも、ない」
私が応えると稔勝は唐突にベッドから立ち、しばらくして戻ってくる。すると、唐突に電子音と共に痺れるような快感が局部を走る。
「___ッ!?」
突然の出来事に、大きく脈打った身体を無理矢理ぐいと逸らし、後ろにいた稔勝の顔を見上げた。
「嫌だった?イッちゃった後、また悪戯したらどんな反応するのかなって思って。やってみた」
全く悪びれない様子の稔勝は、再び「それ」を局部に当てると、私の反応を楽しそうに覗った。そしてそれは、私の限界が来るまで続いた。
夕暮れ。寒さが肌に突き刺さる、立川駅の改札前にて。
「それじゃあ、今日は俺に付き合ってくれてありがとね。帰り、気をつけてね」
「うん。としくんも。着いたら連絡、入れるね」
「うん、それじゃあ」
「うん。また」
私は手を振る稔勝に背を向けると、南口へと向かって行った。
今日は、人生初経験だらけの一日だった。二十二にして、ラブホテルに来たことは一度もなく、彼氏らしい彼氏ができた経験だって、全くない。唯一のその経験も、今考えればエッチもなかったし、彼氏と言っていいのかすら分からない。
家に着くと、両親はまだ帰ってきていなかった。コロナ禍になってテレワークが激増してからは、両親もその一端となっていた。けれど、それでも週に何回かは出勤しなければいけない日があるようで、二人とも今日がその日のようだった。
「___ただいま」
ひっそりとした部屋に一人入ると、温かくも冷たい夕焼けが静かにリビングに差し込んでいた。
私はスマホを取り出して稔勝に連絡を入れると、翌日の仕事の支度を済ませ、ベッドに横になって目を伏せた。
稔勝との出来事から数ヶ月。
私たちは毎日のように連絡を取り合っていた。彼と出会う前の日々と比べると、毎日が充実していて、私の職場と稔勝の自宅が近いこともあって、私の仕事帰りに迎えに来てもらうようなことも度々あった。ある日は、こんな出来事も。
「___へぇ。じゃあ陽奈ちゃんの家は結構家族仲良いんだね」
「そうなの。まあ、お母さんの方はそこそこって感じだけど、お父さんなんかは真希、真希って絡んでくることが___あ」
「___ん」
「ええと___真希って言うのが本名で___」
しまった、本当はこの人の本心をしっかりと見極められるまでは本名を明かすつもりじゃなかったのに。でも、言ってしまったものは仕方ない。このまま素知らぬ顔をしてやり過ごそう。
「可愛い名前だね」
「え」
「俺は『真希ちゃん』の方が好きだよ」
「あ、ありがとう」
私は、普段絶対に言われるはずのないその言葉に意表を突かれつつ、どこか嬉しさを感じていた。
そして今日は、私の誕生日祝い。
仕事が終わった後、ビジネスホテルで二人きりのパーティーを催してくれるとのこと。
「あと少し___」
私は壁に掛けられた時計を横目で見ると、客足の減った店内にぼんやりと目をやった。
私が稔勝に出会ったのは、ミスばかりで落ちていた頃。
稔勝と出会ってからは彼とのこともあってか好調で、ミスも減り、褒められることが多くなった。
しかし。スーパーの社員というものは残酷で、間も無くして人事異動が発令された。
仲の良かった同期や仕事仲間はもちろん、やっと覚えた常連の顔や空き時間に話すまでに至った客までも、一気に失うことになった。だが、悲しみに暮れていた所を支えてくれたのが、稔勝だった。
辞令が出て、最後の出勤日。その日も、いつものように稔勝は迎えに来てくれていた。同僚たちから送り出され、私は名残惜しさを抱きながらも稔勝と共に彼の社宅へと向かった。
「___そっか、じゃあ新しいとこ行っても頑張らないとだね」
「うん。でもやっぱり寂しいし、折角色々慣れてきたのに___まぁ、仕方ないんだろうけど」
「どうなんだろうね。けど、俺は真希ちゃんのこと応援してるから。それに少し距離は離れちゃうけど、必要であればまた俺迎えいくから」
「うん、ありがとう」
そんな昔の出来事を思い出していると、やっと一つのカゴにめいいっぱい商品を詰め込んだ客がやってくる。
「こんばんは、いらっしゃいませ。ポイントカードはお持ちですか」
「はい、持ってます」
「こちらにタッチお願いします」
レジ台の前でスキャニングを行いながら、ポイントカードのスキャナーに手を添えると、客はポイントカードをかざした。
「ありがとうございます___」
そして、それから間も無くしてその日の勤務時間は終わった。リーダーと店長に挨拶を済ませると、退勤打刻を済ませて急いで着替える。既に、稔勝との屋上での待ち合わせの時間に五分ほど遅刻している。
『ごめん、さっき終わった。これから着替えて上向かう』
『了解( *ˊᵕˋ)✩急がなくて大丈夫だからね』
『うん、ありがとう』
私はスマホをロッカーに置くと、刹那の合間に身支度を整える。肩にコートとリュックを掛け、跳ねた髪を手で撫でながら重たい通行口の戸を開け外に出た。
未だ寒さが見に染みる、今冬の夜はなぜかその寒さが心地良く思えた。私は稔勝の車の横に来ると、ドアウィンドウを軽くノックした。中の稔勝は私に気がつくと、弄っていたスマホを置き、内側からドアを開ける。
「お疲れ様、真希ちゃん」
「としくんも、お疲れ様。待たせてごめんね」
「ううん。大丈夫。それじゃあ、行こうか」
稔勝はエンジンを掛けると、今日のための二人きりのパーティー会場へと向かって走り出した。道中、稔勝はどこか寂しげな顔をしていた。
ホテルのチェックインを済ませ部屋に入ると、そこにはどこか懐かしい空気が漂っていた。
小学生の頃の、微かな記憶。家族旅行で大阪に劇を観に行き、懐事情で高い旅館は諦め、劇場から数駅離れたビジネスホテルに泊まっていた。そこと、どこか似た部屋の造りになっている。
「広い部屋じゃなくてごめんね」
「平気だよ。多分、広くても持て余しちゃうだけだから。所で、車の中で言ってた『大切な話』ってなに?」
「あ___うん。後で___話すのは、後ででいいよ。まずはパーティー、楽しもう。俺、ケーキとか買ってきたから」
稔勝は話を逸らすように言うと、冷蔵庫にしまいかけていたケーキを私に向けた。その箱の側面には茶色い文字で「Chateraise」と書いてある。昨日、シャトレーゼのショートケーキが食べたいと言ったから本当に買ってきてくれたのか___
「大切な話、なんでしょう?だったらなおさら先に聞かせてよ。気になってパーティーに集中できないじゃん」
「わかった」
稔勝は一拍間を置くと、ゆっくりと口を開いた。
「実は、俺___異動になった」
「え___」
「来月にはもう完全に引っ越しで、今月中に荷物をまとめなくちゃいけない。ごめんね」
「嘘___」
頭が白く、染まった。稔勝との思い出が走馬灯のように一気に浮かんでは、霧のように消えていった。もう、会えない。もし、仮に会えたとしても、何ヶ月後、何年後か。その時に彼はまだ覚えていてくれているのだろうか。仮に覚えていてくれていたとしても、今と同じように会えるのだろうか。話せるのだろうか。幾つもの想いが巡っては、一雫の涙となって瞳からこぼれ落ちた。
「どこに、行くの?」
「___埼玉」
「___は?」
ぶん殴ってやろうか。神妙な面持ちで大切な話と言うから、てっきり四国とか九州とか、近くても東北とかって思っていたのに。隣県?会おうと思えばいつでも会えるじゃない。
「全然近いじゃん」
「え、うん___まさかそんな、泣いてくれるなんて思ってなかったから___ごめんね。悲しい思いさせちゃったなら」
「___本当だよ。馬鹿」
稔勝は安堵の涙を流す私を抱き寄せると、ポン、ポンと優しく頭を摩った。
「大丈夫。ずっと一緒だよ」
「___うん」
「さ。悲しい話はおしまい。今日は真希ちゃんのお誕生日のお祝いなんだから。思いきり楽しもう」
「うん」
そうして、私たち二人だけの盛大な誕生日パーティーは開催した。
稔勝は待ってました、とばかりにどこからか海賊船にありそうな宝箱を取り出した。箱には小さな南京錠が掛かっており、その大きさは文庫本が一冊、横にギリギリ入らない程度のものだった。
「こういうの、好きでしょう。真希ちゃん。はい、これ。鍵」
私は渡された宝箱に目を輝かせていると、稔勝は鍵を差し出す。
「凄い、ありがと___」
受け取ろうと手を伸ばした刹那、稔勝は手を振り上げ、ニマリと笑った。
「え」
「嘘。ちょっと意地悪したかっただけ。あげるよ」
私の固まった表情に稔勝は可笑しそうに笑うと、鍵を手渡した。
南京錠に鍵を差し込み、カシャリとロックを外す。そして、宝箱から出てきたのは「Happy Birthday」と蓋に書かれた薄桃色の箱だった。サラサラとした滑らかな手触りがまた心地良い。
私は高まる鼓動を抑えながら、蓋についていたボタンを押して、ゆっくりと箱を開いた。すると、中から文字通り顔を出したのは人形だった。
「え___」
「失敗___それじゃあ意味ないじゃん。もっとビヨンって飛び出す感じで、もっと驚くのをイメージしてたのに」
「え、ごめん。え、でも、これ、可愛いね。この箱___」
反応に困ったのと、これだけ凝ってドッキリだったこととで戸惑った私は、中途半端な笑みを浮かべた。
「ふふふ、いいよいいよ。プレゼントはちゃんと別であるから。はい。これ」
稔勝は再び手品のようにどこからかプレゼントを取り出すと、今度は綺麗にラッピングされた小さな箱を私に手渡した。
私はおずおずと箱を受け取ると、そっと包みを開けた。すると、中から出てきたのはずっと欲しがっていたワイヤレスイヤホンだった。
「え___どうして」
「前聞いたらさ、欲しいって言ってたでしょ。だから」
「まさか本当にくれるなんて思ってなかった。ありがとう」
私は真っ白なイヤホンケースを手に取り、中のイヤホンを耳に着けた。___大きくて入らない。箱の中のイヤーピースの一番小さいサイズをそっと手に取ると、イヤホンに付け替えて耳に着けなおした。うん、さすがApple。最高だ。
「接続とかは分からなくて時間かかっちゃうと思うから、また後でやるね。でも、着けた時の密封感って言うのかな。すごくピッタリしてて、良いよ。ゴムの感じも、嫌じゃない」
「気に入ってもらえて良かった。それじゃあ、ケーキ、食べようか」
「うん」
稔勝はプラスチックのフォークを私に手渡すと、冷蔵庫からケーキを取り出した。箱からケーキを取り出すと、稔勝は箱に貼り付けられていたロウソクを手にする。
「___ロウソク、三本でいい?」
「え、いいよ。恥ずかしいし」
「折角のパーティーなんだからさ。ライターも持ってきたし」
稔勝はケーキを椅子の上にゆっくりと置くと、苺を囲むようにして三本のロウソクを立てる。そして、ワイヤレススピーカーの電源を入れた。
「電気、消すね」
ケーキに灯りが灯され、室内照明が消されると、部屋の中は静かに揺らめくロウソクの灯で満たされた。間も無くして、スピーカーから音学が流れる。
「はっぴばーすでー、とぅーゆー___」
「ブッ___」
保育園や幼稚園で流れていそうな、幼稚な「ハッピーバースデー」に、思わず吹き出す。
「なんで、この選曲なの?」
「いいじゃん、真希ちゃんらしくて」
「どこが」
「いいからいいから。歌わせて。はっぴばーすでーとぅーゆー。はっぴばーすでー、でぃあ真希ちゃん___」
恥ずかしげもなく、楽しそうに歌うものだから、なおさら嬉しいやら、恥ずかしいやらでこちらが照れてしまった。
「ほら、ロウソク、消して」
「うん。___ふぅっ」
これからも、としくんと居れますように。私の夢が、叶いますように。お願いごとをしてロウソクを一気に消した。
「おめでとう。それじゃあ、食べて食べて」
稔勝は電気を点けると、私にケーキを勧めた。「いただきます」と小さく合掌すると、四号のケーキにそのままフォークを入れて、甘い甘いショートケーキを口に運ぶ。
「うん、美味しい。生クリームもしつこくないし、スポンジもしっとりしてて。あれ、ショートケーキ好きなの、話したっけ」
「うん、ちょびっとだけ。だから、誕生日なら美味しいところのって思って、シャトレーゼにしたんだ」
「そっか、ありがとう。美味しいよ」
オルゴール調の「ハッピーバースデー」をBGMにバースデーケーキを口にする。すると、付け足すような口調で稔勝は私の前にAppleの小さな封筒を差し出した。
「あと___これ」
私が封を開けると、そこには「無くした五百円玉、見つけたよ!」と言うメッセージカードと共に、新・五百円玉が入っていた。
「え」
「朝、お姉ちゃんからもらった大切な五百円玉が無くなっちゃったって言ってたから。はい」
「___え、うん。無くなっちゃったって言うか、仕事遅刻しそうでタクシーで行ったらお金足りなかったから、泣く泣くそれで払ったって言うか…」
「え」
「でも、ありがとね。気持ちだけでも、すごく嬉しいよ」
「うん」
稔勝は柔らかな笑みを浮かべると、少し熱い、ブラックコーヒーを口に運んだ。
それから、私たちは会話を弾ませながらケーキを食べ進めた。因みに幾ら二等分とは言え、四号ケーキとなるとそれなりの量になるわけで。私の念願の、「ケーキワンホール丸々食べ」が叶った。早速、誕生日の願い事が一つ、叶ってしまったみたいだ。
夜も更けて。私たちははしゃぎ疲れたのと、仕事疲れとでどんと睡魔が襲ってきていた。
静まり返った狭い部屋の中。これから、稔勝と「初めて」一夜を共にする。
「ごめんね、ベッド、一つしかないけど」
「ううん。寧ろ、私がそうお願いしたんだから。そんな大きくて贅沢な部屋なんかにしたら、バレちゃうもん」
「それはね。でも、いいの?」
「なにが?」
「何されるか、わからないよ。もしかしたら、寝ている間に『されちゃう』かもしれないよ」
「うん。そうだね。___でも、としくんならいいよ」
「え」
「___好きだから」
「え___」
聞こえるか聞こえないかくらいで放ったその最後の言葉に、稔勝は目を丸くした。
「なんでもない。おやすみなさい」
私は照れ隠しで笑うと、顔半分まで隠れる程度に布団をかぶった。
後から、少し後悔が押し寄せる。あと何時間、一緒にいるんだっけ。もし向こうがなんとも思ってなくって、聞こえてたら。とてつもなく恥ずかしい女になってしまうのでは。
「___うん、じゃあ、一緒に寝よう」
稔勝は照明を消すと、私と一緒の布団にゆっくりと入ってきた。次第に鼓動はドクン、ドクンと高まり、静寂に包まれた部屋に私の鼓動だけが響いていた。
「___くっついて、いい?」
先にその静寂を破ったのは、稔勝だった。
「___うん」
稔勝に背を向けたまま、私は小さく返した。
緊張で、恥ずかしくて、向ける顔がないのだ。勇気がないのだ。
その刹那。背後から、私に覆いかぶさるようにして稔勝がハグをした。腕を回して、足を絡ませて。全身で、稔勝の温もりを感じた。
___あぁ、わかった。これって、「好き」って事なんだ。これって、多分、「愛」ってやつなんだ。なんでかはわからないけれど、きっと、そういうことなんだ。
私は心の中の「何か」がずっと止まっていた。けれど、稔勝に会って初めて、突き動かされる瞬間が幾度もあった。ただの、「ネ友」じゃなかった。
「好き」言いたいけど、言えない。きっと、私と付き合ったら、彼に苦労させてしまう。迷惑をかけてしまう。彼の気持ちを踏みにじってしまうことも、あるかもしれない。やっぱり、この気持ちは、心の中に。彼とは、このままで。
翌朝。目が覚め、隣に目をやると稔勝は静かに寝息を立てていた。
そうか。私は昨日両親に嘘を付いて、この人と一晩ここで過ごしたんだ。あれは全部、夢じゃなかったんだ。
時計の針は八を差し、案外熟睡していたことに驚く。
私はむっくりと起き上がると、部屋の中でも堪える寒さに身震いした。薄いカーテンを開け、窓の外を見ると三月の空に深々と雪が舞っていた。今冬初の雪。思わず、窓の外の景色に見入っていると、稔勝も目を覚ましたのか、声をかけてきた。
「おはよう。いつの間に起きていたの?」
「おはよう。さっき。ねえ見て。雪が降ってるよ」
「え。___本当だ。俺、生の雪見たの久しぶりかも」
「私も。綺麗だなぁ___」
私はぼんやりと窓の外を眺めていると、後ろから稔勝に抱き寄せられ、ベッドに倒れ込んだ。驚く間も無くして、稔勝は私を抱きしめる。
「好き」
「___ありがと」
軽々しく、「私も大好き」なんて言えない。その場の勢いや、その時々の空気で言うことはできても、今の自分の気持ちに確証は持てないし、なにより、私と付き合うことで彼を傷つけたくない。
「___じゃあ、チェックアウトの時間になる前に支度済ませちゃおうか」
「うん」
私たちはチェックアウトを済ませると、稔勝の社宅で過ごすこととなった。
「ちょっと散らかってるけど、ごめんね」
稔勝に案内されて部屋に入ると、久しぶりに入るその部屋は彼の匂いで満ちていた。私は彼に気がつかれないように、小さく息を吸い込む。
「大丈夫だよ。多分、私の部屋の方が散らかってるから」
稔勝の日常をそのままに映し出したその部屋は、どこか新鮮なものがあった。机の上に置かれた、ビールの空き缶。物干し竿から幾らかぶら下がる、乾いた洗濯物。そんな光景が彼の日常を連想させていた。
「昨日の今日で疲れてるだろうし、今日はゆっくりしていいからね」
「うん、ありがとう」
稔勝は荷物を下ろすと、バッグをゴソゴソと漁った。すると、ビニールに包まれた、大きな迷彩の筒を取り出す。
「え」
コートをハンガーに掛けながら、思わず私は二度見した。どこかで見たこと、ある。確か、YouTubeで誰かが鳴らしてた、バズーカ式クラッカーだ。まさか、これをここで鳴らすつもり___
「真希ちゃん。いっぱい余っちゃったクラッカー、鳴らしてみない?」
「え」
「大丈夫。今日は平日だし、迷惑掛からないよ」
「そう言う問題___」
「いいじゃん。楽しそうだし」
稔勝は目を輝かせながら、私の前に沢山のクラッカーを並べた。先程の、バズーカ。時限爆弾のような形をしたクラッカー。散らからない、テープが派手に飛び出るクラッカー。最後に、音だけのシンプルなクラッカー。内心思う。ナイスチョイスだ。
「___うん、やる」
まず初めに手を伸ばしたのは、やはりバズーカだった。包みを開け、映画で見るように構えると、私は一思いにクラッカーの栓を引いた。
「バンッッ」
「「わぁッッ」」
幾ら身構えていたとはいえ、普段は聞くことのない爆発音に二人して飛び退いた。
「すごい音だね」
「ね、打った時、少し反動あった気がする」
「やっぱりそうだった?じゃあ次はどれにしようか」
二人して、笑いながら次のクラッカー、もとい、時限爆弾クラッカーに手を伸ばす。
「この三本の線のどれかがハズレで、音が鳴る仕組みになってるみたい」
「赤、青、黄色…。信号カラーだね。どっちからやる?」
「え。うん、ここは男らしく俺からやる」
「男らしいのか」
稔勝はクラッカーを手にすると、天井に向けて赤い線を強く引っ張った。___何も鳴らない。残り二本。
「怖っ」
「次、私ね」
稔勝から受け取ると、最初から決めていた、青い線を恐る恐る引っ張る。___再び、間が空いた。
「___てことは」
「黄色?」
私たちは顔を見合わせると、二人で黄色の線を一緒に持ち、「せーの」で強く引いた。
「バンッッッ」
「うわぁッッ」
思いの外の大音量に、目を剥いて飛び退く。けれど、それがまた面白かった。
「超うるさかった」
「うん、めちゃくちゃ驚いた」
その後も、私たちはクラッカーを打ち鳴らし続けた。散らからないクラッカーは予想通りだったものの、シンプルな方は予想外に音が大きく、「多分、夜に集合住宅で鳴らしたら迷惑だね」などと話して盛り上がった。
クラッカーを存分に楽しんで、落ち着いた頃。昼も食べ、やることもなくなった私たちは布団の中でゆっくりすることにした。
「昨日、今日。楽しかった?」
「うん。とても。できれば、ずっと続いてほしいくらい」
「そっか。俺も、ずっと続いてほしいって思ってるよ」
「ね、真希ちゃん」
「うん」
「もし、俺が付き合ってくださいって言ったらどうする?」
「うん、どうだろう」
「そっか」
「うん」
「___じゃあ、俺と付き合ってください」
「___そう来るか。___うん、こんな私で良ければ」
「え___本当に?___ありがとう、大好き。大好き___」
稔勝は今までにないくらい嬉しそうにすると、強く、強く私を抱きしめた。
本当に、良かったのだろうか。後で後悔しないだろうか。幸せに、出来るだろうか。___でも。そんなの、今考えていたって仕方ない。きっと、後で分かる。今は、束の間の幸せを噛み締めて、楽しもう。
四月。桜が舞い、世間では進級生や新社会人などの話題で盛り上がっていた。私も、異動先で新たな一年を踏み出す。そう思っていた。しかし。
「___はい。やりたい事というか、叶えたい夢があるんです」
「そっか。それなら仕方ないね。ちなみに、それはどんなことなの?」
「ごめんなさい、言えません」
「___そっか。まあ、やるって決めたからには頑張りなよ。応援してるからね」
「はい。ありがとうございました。お世話になりました」
夢を叶えるため、もっと、稔勝と長く過ごすため。社員を辞めて、埼玉の稔勝の元へ向かうこととなったのだった。
引っ越し先の片付けが終わり、稔勝が新社宅のお披露目、兼、お泊まり会にと迎えに来ることとなった。
これまでは両親になんとか言い訳をして稔勝の家に遊びに行ったり、泊まりに行ったりしていたが、七転八倒あった末、正式に付き合いを認められた以上、何も誤魔化さなくていい。
『仕事終わるの遅くなりそう』
『大丈夫だよ。無理しないでね』
『ありがとう。終わったらまた連絡するから、また後でね!』
『うん!頑張ってね!!』
スマホを置くと、私はすぐに家を出れるように荷物を手早くまとめた。
夜。月が高く登り、星々が静かに瞬く頃。
『仕事終わったぁ。これから迎え行くね。支度して待っててね』
『わかった!気をつけてね!』
返信を済ませると、急いで身支度を整える。そして、待つこと一時間ほど。稔勝から到着の連絡が入り、自宅を出た。
結局、稔勝と合流できたのは日が変わる頃だった。幼い頃から人との交流が少なかった私は、当然こんな時間に他人と家を出る機会などなく。人生初の経験にソワソワしていた。
「どうしたの?緊張してる?」
「え、あ、はい。じゃなくて、うん。こんな時間に出るのなんて初めてだし、やっぱり、こうして久しぶりに二人っきりってなると___」
しどろもどろになりながら答えると、夜の景色に照らされた稔勝はそっと私の手を握った。
「大丈夫だよ。そんな緊張しなくても。別に今までと特別何か変わったってわけじゃないでしょう?」
「あ、うん」
「今日は遅くなっちゃったけど、別にこの後何かしようって訳じゃない。___まあ、さすがにここから埼玉ってなると体力的に少し厳しいから、ラブホテルに泊まろうとは思ってるけど___」
「え」
「嫌?」
「嫌じゃ、ない、けど___」
処理して来て良かった___
「少し、恥ずかしい」
「大丈夫だよ。すぐ、慣れるよ」
私たちを乗せた車は一度マクドナルドに立ち寄ると、高速近くのラブホテルへと入っていった。
建物に入ると、フロント端にパネルが置いてあった。初のラブホテルでは稔勝が操作する横で眺めるだけだった私も、今では少し理解できるようになっていた。
「あ、ねえ。この部屋、何?」
「え」
私が指差したのは、群を抜いて奇抜な見た目の部屋だった。何に使うのかもよくわからない、器具が置いてある。
「ええと___『SMルーム』って言って、《そういう》プレイをしたい人向けの部屋なんだよ」
「へえ。面白そう」
「乗り気だね。ここにする?」
「うん」
未知の界隈に胸が高鳴った私は、首を大きく縦に振った。
部屋がある階に着くと、その「SMルーム」の部屋の上部のランプが点滅していた。
ワクワクしながらランプの下まで足速に行くと、稔勝に目配せをした。
「どんな部屋なんだろうね」
「まあ、うん。見れば分かるよ。ほら、早く入ろう」
どことなく、稔勝の様子がおかしい。緊張しているのか、戸惑っているのか。私が開けた扉にそそくさと入ると、彼は部屋の奥へと行ってしまった。
「な、なにこれ___」
稔勝に続いて部屋に入ると、そこには様々な器具と奇抜な調光の空間が広がっていた。
「な、これ___なに」
見慣れない器具が立ち並ぶ中、一際目を引くものがあった。
人一人くらいの大きさのX字型の形をした硬いクッションに、手枷がぶら下がっているという、いかにも「それらしい」もの。
私はそれを見るなり、誰に問いかけるでもなくその言葉を口にしていた。
「それはね。その手枷で両手を固定して、そこから動けなくした所で苛めるってもの。どう、やってみる?」
稔勝は迫って来ると、その十字架に付いた手枷を手にした。それをゆっくりと私の手に近づける。
けれど、私はなぜか無性に怖かった。近づけられた手枷からできる限り手を離し、稔勝から優しく握られた右手首を強引に振り払った。嫌だ。その一心で、私は激しく首を横に振った。
「え、嫌?」
「うん___ごめんね」
「___ううん、大丈夫だよ。じゃあ、ベッドの方で少し休もうか」
稔勝は私の頭を優しく撫でると、壁を隔てて隣りの狭い部屋にあったダブルベッドに誘った。「部屋」と言っても、ベッド一つだけの簡素なものだ。しかし、隣の部屋の奇抜な調光とは打って変わって、とても落ち着いた照明に、シンプルで可愛らしい壁紙の部屋だった。
「さっきはごめんね。無理矢理やろうとしちゃって」
「ううん、私の方こそごめん。私からここが良いって言ったのに」
「全然いいよ。それじゃあ、いつもみたいに、イチャイチャ、しよう?」
稔勝はベッドの中で腕を広げた。私は頷くなり、その腕の中に飛び込む。温かい。稔勝に包み込まれて、全身が彼の温もりに包まれた。
「あったかい」
「うん、俺もあったかい。甘えたかったら全然甘えていいからね」
「うん」
稔勝は優しく私を抱きしめると、私は彼よりも強く、抱きしめた。そして、甘いキスを交わす。___MINTIAの味がする。甘い、よりかは、スッキリしたキス。でも、好き。
深く、深く。もっと愛したい。もっと欲しい。
気がつけば、私は稔勝に絆され、息も絶え絶え、肩から下、つま先まで何も着ていなかった。
「愛してるよ」
「私も、愛してるよ___」
意識が、少し、朦朧とする。眠いからなのか、イッた後だからなのか。
その日、私が最後に見た光景は稔勝が悪戯に電気マッサージ機を私に充てがう姿だった。
埼玉県入間市。低階層のとあるアパートに稔勝は越してきた。新築、木造建築のそのアパートの戸を開けると、落ち着いた木の匂いがふわりと香る。太陽の光を受けて白く光る床がまた、新生活を思わせた。
「俺の新しい家。どう?住みやすそうでしょ。真希も一緒に住めるようにって、ちょっと広めの部屋にしたんだ」
「うん、ありがとう。綺麗なお部屋だし、凄くいいよ。これから、楽しみ」
「___本当は一人暮らし用の部屋なんだけど」
稔勝は小さく付け足すように言葉を吐いた。
「え」
「ううん。なんでもない。自分の家だと思って、自由に使ってもらって良いからね。そこのカラーボックスも。空にしておいたから。真希が自由に使っていいよ」
「うん。でも、一人暮らし用って___」
「まあ、大丈夫でしょう。それに、定住する訳じゃないならなおさら」
「そっか」
「うん。何かあったら俺が責任取るから。真希は心配しないで」
「分かった。ありがとう」
そして、稔勝と私の半同棲生活は始まった。
半同棲生活が始まってから一ヵ月程の時が経った。
今まで実家暮らしだったからか、一人で家のことを済ませることはなかった。しかし、この一ヵ月間で稔勝は仕事で家を開け、私は稔勝の為に、と、家事をこなす機会が増えた。ようやく私も「主婦もどき」程度にはなれたのではないだろうか。
そして今日はその労を労ってくれる、ということで稔勝とお台場に来た。プランは決まっているらしいが、サプライズ、とのこと。
記憶にある中では、初の場所。中でも「アクアシティお台場」「東京ジョイポリス」「パレットタウン大観覧車」等。人気デートスポットらしく、一日いても遊び尽くせないほど楽しめるのだとか。
「まずは、映画。平日のこの時間なら人も少ないだろうし」
稔勝と一番に足を運んだのは、「ユナイテッド・シネマ アクアシティお台場」。
目当ての映画を見るついでに、映画体感型の座席「4DX」を試してみようと話していた。
「4DX」というのは、映画内のキャラクターが感じている振動は勿論、匂い、飛沫、風等を感じることができ、没入感を味わえるという映画好きには堪らない座席だった。
「___お待たせ。行こうか」
「うん___え、ポップコーン、大きくない?」
「だよね。でもこれ、Mサイズなの。食べきるの、大変そうだね」
「そうだね、頑張ろう」
ポップコーンとドリンクを手にした稔勝と共に、私は場内へ入っていった。
座席に着くと、開演五分前にも関わらず、場内にはまだ誰も入っていなかった。広くも狭い、劇場内に番宣の動画が淡々と流れ続け、二人の間には静寂が訪れていた。
「ねえ。真希」
「何」
口にしていたドリンクを置き、稔勝に向き直る。その刹那。頬に彼の手が触れ、唇と唇が重なる。
「___!」
「___大好きだよ」
稔勝は顔を離すと、目を逸らして呟いた。そして、いつもの顔で言葉を付け足す。
「やってみたかったの。映画みたいでしょう。二人きりの映画館でキス。なんだか、ロマンティックじゃない」
「___うん。そうだね。___私も、大好きだよ」
私は身体をスクリーンに向けると、小さく言葉を吐いた。
「え」
「ほら、映画始まったよ。見よ」
「あ、うん」
上映が終わり、私たちは少しくたびれていた。言うまでもなく、「4DX」だ。
「面白かったね」
「うん。でも、シートベルト欲しいね」
「ね。凄い振り回されるもんね。しっかり捕まってないと、前の座席に顔ぶつけたりしそう」
「ああ、ありそうだね。これ、次見るときはもっとアクション満載の映画で観に来よう」
「ね。でもそうしたらスクリーンまで飛ばされちゃいそうだけどね」
「大丈夫。そうしたら俺が飛ばされないように守ってあげるから」
「え___大丈夫」
「え。なにそれ、俺そんな頼りない?」
「いや。多分そんな威力はあの椅子にない」
「あ、そう」
そんなくだらない話をしながら、休憩がてら、向かいの「ダイバーシティ東京 プラザ」に向かった。
建物に入ると、平日だからかすれ違う人は少なかった。昼時だと言うのにイートインも、空いている。
「何食べる?」
「ガッツリ系食べたい」
「ガッツリか。じゃあ、とりあえず上も見てみようか」
主に、軽食を兼ねた食事処を初めとし、ファストフード店、甘味処と並ぶ。多種多様な店が立ち並ぶイートインを抜けると、私たちは上層階にあるレストラン街に来た。
「ぶらぶら回ってみて、食べたいものとか、気になる所があったら言ってね」
「分かった」
歩くこと数分。餃子に、ヘルシー定食。様々な店が軒を連ねる中、特段と目を引く店は中々見つからなかった。
しかし。とろける半熟卵に、ふっくらジューシーな肉。そこにドンと君臨する黄金の輝きを放つ黄身は、何とも言えず美しく___
私の空腹に、更なる追い討ちを掛けるような親子丼の写真が大きく掲げられた店に来た。
「ねえ。ここ、美味しそうじゃない」
「親子丼か。いいね、行ってみようか」
のれんをくぐり、店内に入るとふわりと出汁の匂いが香る。
「いらっしゃいませ。二名様でよろしいですか」
「はい」
「こちらのお席へどうぞ」
店の中は先程のイートインに比べると意外にも混雑しており、カウンター席のみが空いていた。厨房内の料理人も忙しなく動き回っている。
「私、入り口で見た親子丼にする」
「おお。さっきのか。じゃあ俺も___あ、でもこっちもいいな。すみません」
「はい、お伺いします」
「究極の親子丼〈軍鶏〉大盛りと究極の親子丼と丸鶏らーめんセット、お願いします。あと、ジョッキ」
「かしこまりました」
そして、待つこと十数分。
「お待たせしました。究極の親子丼〈軍鶏〉でございます」
「おお。ありがとうございます」
出汁の柔らかな匂いと共に微かな湯気が立ち上る。その中からは店頭で見たようなトロトロ半熟卵と黄身が輝く、正に「黄金比」の親子丼が綺麗に器に収まっていた。
私はずっしりとした黒塗りのどんぶりを受け取ると、そわそわとしながら稔勝の丼の出来上がりを待った。
「先、食べてていいよ」
「え、いいの」
「うん、感想、聞かせて」
「わかった。じゃあお言葉に甘えて。いただきます」
私は両手を合わせると、黄身を静かにスプーンで突いた。とろり。そこから一気に流れるようにして黄金色の「それ」がトロトロの半熟卵に染み渡っていく。
「わあ___」
稔勝には悪いけど___お先に。
とろける___でも、軍鶏がジューシーで、ブリブリとした歯応えが卵のアクセントになっていて。噛む、じゅわっ。噛む、じゅわっ。その見事なハーモニーが、エンドレス。
軍鶏の炭火の香りもまた…卵に合うのなんのって。それを引き立てる、ご飯。炊き加減がこれまた良くて。
美味しい、それ以外、言葉が手でこない。これは、正に「究極」。
「___お待たせしました。究極の親子丼とらーめんセットでございます」
「ありがとうございます」
「まじで、早く食べてみ。本当に美味しすぎておかしくなるから」
「そんなに?」
「そんなに」
稔勝は私と同じように、黄身を突く。とろけだした黄身は一瞬にして卵を覆い、食欲をそそる。
「いただきます」
まずは一口。とろっとろの卵に、覆われた肉と黄金色の黄身がかかったご飯を一気に頬張る。途端に、稔勝は目を見開いた。
「え、美味くね___」
「でしょう」
美味い、だと表しきれないくらい、美味しい。絶品、グルメ、ミシュラン___私の中の「人生最高レストラン」となったのだった。
人生最高のランチを終え、少し、休憩にと外に出た。
お台場の海を横目に、遊歩道を並んで歩く。
「親子丼、美味しかったね」
「うん。凄い美味しかった。___この後は何か考えているの」
「うん、一応は。でも、それまではだいぶ時間があるから暫くぶらぶらしているつもり」
「そっか」
稔勝は腕時計に目を落とすと、何かを確認する様に宙で指を振った。
「それとさ」
「うん」
いつもの顔で稔勝は口を開くと、半ば強引に私の手を取った。
「手、繋ご!少しの距離でいいから」
「え___」
遊歩道を歩く、沢山の歩行者。若年層から、中年。国境を超えて、どこかの国の観光客まで歩いている。
今まで意識もしていなかったが、気がついた頃には広い遊歩道の左右どちら側でもなく、堂々と中心を歩いている。これは___恥ずかしすぎる___
「待って、無理。今までろくに手繋いだことなんてなかったじゃない___」
「うん。だから、練習」
「無理、無理。離して___」
自分自身でも感じ取れるくらい、赤面してる。恥ずかしい。けれども、この男は離さない。それでまた、「いつもの顔」をする訳で。そんなか彼、稔勝にまた、心が動いてしまう訳で___
「はい、着いた。離してあげる」
「もう、離してって___言ったのに___」
「ごめんごめん。可愛くて、つい。でも、楽しかった。今も、凄い林檎みたいに紅くなってるし。本当、可愛いね」
「やめてよ___」
恥ずかしい、そう思うだけじゃない。もっと、のめり込んでしまう。好きになってしまう。けれど、その感覚がまた心地良かった。
海浜公園で暫く会話を弾ませた後、モールへ戻り、ぶらぶらとショップを見て回った。
そのとある一角。不気味な割には、妙にそそられる、どこか見覚えのあるピエロのポスターが目に付く。
「なに、ここ」
進みかけた足を止め、稔勝を呼び止めた。チラリと目に入ったポスターの中心には、「IT」の文字。
文章の内容から要約すると、VR体験ができる、ITの世界に入れる、とのこと。
「ねえ。ITだよ。VRだよ。面白そう、やってみない?」
「え。どう見てもこのポスターホラーじゃない。俺ホラーとか無理だよ」
「私も無理。でも、VRの魅力には勝てない。初体験だよ、VRだよ、面白そう。やってみよう___」
VRの熱烈なアピールと、猛烈な熱い眼差しを稔勝に向け続けた結果、数分間に渡る長い戦いは幕を閉じた。
「やったあ、ありがとう」
待つこと数十分。暗くも、どこか不気味な雰囲気が漂う待合室では、他のVR体験のプロモーションビデオが座席前の大きなモニターに映し出されていた。
「俺___やっぱり怖いんだけど___」
「大丈夫。何かあったら、私がとしくんのこと守るよ」
「うん___」
立場が逆転している気がする。
「十四時三十分でお待ちの遠藤様、遠藤様」
「ほら、呼ばれたよ。行こう」
「うん___」
私は稔勝の腕を引くと、稔勝と共に職員の元へと歩いていった。
職員に案内され、狭い小部屋に入る。暗く黒いその部屋は、何枚かの尋ね人のビラが貼ってあった。そこには「Missing!」という赤文字が書かれ、その下には少年少女、それぞれの顔写真が貼られている。
今回のVR体験としては、その尋ね人ではなく、新たに出た尋ね人、「トニー」を探し出すこと。それがゲームクリアとなる。そして、私たちは近所の住人という設定でこのゲームに参加するという設定だ。
VR体験の部屋に入ると、先程の尋ね人のビラが何枚も貼られていた。真っ白な部屋に古びた茶色いビラが不気味に映え、それが余計に恐怖心を煽った。
「こちらでお二人にはITの世界を体験して頂きます。お兄さん。お姉さんをしっかり、守ってあげてくださいね」
「あ___は、はい」
稔勝は自信無さげに答えると、私の方をチラリと見た。
ついさっきまで震え上がっていた稔勝に、果たしてそんなことができるのだろうか。
「では、こちらがVRのゴーグルとなりますので。それぞれ被って頂きましたら、電源の確認をお願い致します。目の前に、景色は映っていますでしょうか。そして、お互いのお姿のご確認もお願い致します」
「おお。凄い。雰囲気出てる。え。としくん、なんか怖い」
「うん、凄いリアル___あの。これって、手とか繋いでいても大丈夫なんですか」
「はい、大丈夫ですよ。お姉さん。お兄さんのこと、しっかり守ってあげてくださいね」
「はい、もちろんです」
逆な気がするけど___可愛いしいいか。
「それでは、間も無く開始となります。トニーくんが見つかるかどうかは貴方たち次第___くれぐれも、『赤い風船を持ったピエロ』には気をつけてください___」
なんだか思わせぶりな言い方だな。
「あの。追いかけられるようなシチュエーションはあったりするんですか?」
「___」
私は職員に話しかけるものの、先程までスピーカー越しに聞こえていたその職員の声はいつの間にかなくなってしまっていた。きっと、「ゲーム開始」ということなのだろう。
「___進もうか」
ガッチリ繋がれた稔勝の手を引くと、私は物置のようなサーカスのテント内をあちこち覗き回る。彼らの失踪の手掛かり、ピエロの手掛かり、何か一つでも。基本的なRPG等でも言えることだが、何にもない、と見せかけてその付近に隠し部屋、レアアイテム、その他諸々があるなんて、最近のゲームでは当然の作りだ。___無かった。何も。
気を取り直して、テントの外をあちこち見て回る。怖いはずなのに、どこか楽しくて、どこか面白くて。私のゲームを愛するこの心は、恐怖の感覚をも狂わせてしまうようだった。
しばらく進むともやに包まれた空間に出た。前後左右、もやに包まれ、思わず怖気付く。
「これ___前、進めてるの。よく、あるよね。霧に包まれた森で、同じ場所をぐるぐる回ってた、とか」
「うん___でも、進むしかないんじゃない___」
どこまでも頼りなさげだ。私は稔勝の手を握り返すと、気を持ち直して歩みを進める。その刹那。黒い小さな影が一斉に私たちに襲い掛かる___と、思いきや。
「うわああっ」
「うわあ___って、なんだ。コウモリか。びっくりした」
恐怖の感情を植え付け、視界を奪った上でのコウモリの演出。定番中の定番といえばそうだが、いざ体感するとなると、こうも驚くとは。中々に面白い。
それから少し歩く。すると、トニーが赤い風船を持ち、辺りを不安そうに見回しながら歩く姿が見えた。
「あ___トニーくん、トニーくん」
私たちは彼を呼ぶようにして声を出すも、彼が気がつくような様子はなく、束の間に幻影のようにトニーの姿はモヤの中に溶けて消えてしまった。
間も無くして、「赤い風船を持ったピエロ」が現れる。その背後には、ジェットコースター乗り場。その場にはとても似つかわしくない怪しげな笑みを浮かべ、手招きすると、その姿を消した。
「折角、トニーくんもピエロも見つけたのに___それに、このジェットコースター。絶対、職員さんの話のだよね。二人で別れて乗れば、何かあの子の手掛かりが見つかるかもって話。どうする、別れて乗る?」
「嫌だ。絶対、一緒に乗る」
「え、でも手掛かりが___」
「絶対一緒じゃなきゃ嫌だ。絶対、離れない」
稔勝はこれまでにないくらい手を強く握ると、断固として言い切った。
「わ、分かった。じゃあ、行くよ」
この際、手掛かりやらゲームクリアは諦めるとして、稔勝を守ることだけを念頭に置いておこう。
二人でコースターに乗り込むと、途端にコースターは不気味な音楽と共にゆっくりと動き始める。けれど、それも初めの内だけだった。気がついた頃にはコースターはスピードを上げ、部屋の中で立ち止まっているはずなのにどこからか風が。なぜか動いているかのような衝撃が。薄気味悪いだけだったはずの景色はいつの間にか消え、今はもはやインディー・ジョーンズとでも言ったところか。その刹那、背後から気配を感じる。
「なに___」
振り返った先にいた「それ」は、溶岩と岩石を併せたような、異形の姿をした何かだった。それも、一体や二体じゃない。うじゃうじゃと、私たちの後ろから今にも襲い掛かろうとコースターにしがみ付いている。
稔勝を、守らなくては。私は握っている懐中電灯をめいいっぱい振り回し、モンスターを威嚇した。しかし。
「うわああ」
勢い余り、振り向きざまに現実世界の稔勝の耳にコントローラーが当たってしまった。
「ごめん、ごめん。今の、私。後ろに変な化け物が居たから、追っ払おうとしたら当たっちゃった。本当にごめん」
「だ、大丈夫___俺も、後ろに何か変なの、感じてた___あ、ありがとうね___び、びっくりした、怖かった___」
___ごめん。可愛い。
終着地。暗い洞窟に生き埋めになり、ただひたすらに細い一本道を進む。その奥に待ち受けていたのはピエロだった。
そして、私たちは___
「ぎゃあああああ___」
「あははは、あははははは___」
稔勝の絶叫が響き、私は恐怖の余り、なのかVRならではのリアリティが凄くて、なのかは分からないが笑いが止まらなくなってしまっていた。
ゲームオーバーとなってしまい、体験開始前の優しげな職員の声がスピーカー越しに響くと、職員は機器を取るように指示した。数十分ぶりの現実世界はどこか懐かしく、とても安心した。
隣に立つ現実世界の稔勝の姿も、いつもと同じ___いいや。目をとても潤ませていて、とても、頼りなさげな顔をしている。先程の絶叫といい、今回のプレイ中の様子といい、新たな一面を知れたみたいだ。
「とても、楽しかったです。ありがとうございました」
私は職員に一礼すると、未だ肩をすくめている稔勝の手を引き、店を後にした。
夕暮れ。いつの間にか空は夕焼けに染まり、街灯もポツリ、ポツリ、と点き始めていた。
「今日はあと一箇所、一緒に行きたい所があるんだ」
「へえ。どこなの?」
「まだ内緒。でも、すぐ近くだよ」
アクアシティお台場から歩くこと数分。そこに佇んでいたのは、大きな観覧車だった。
「ここ。あと少しで解体されちゃうんだって。だから、その前に一度真希と乗ってみたくて。知ってる?この観覧車の頂上でキスすると、別れないってジンクスがあるんだって」
「へえ___観覧車って久しぶり。そう言うお話とか、観覧車でキスとか、ドラマの中だけだと思ってた」
「そっか。じゃあ、なおさらやってみないとね」
稔勝は私の手を引くと、観覧車の列の最後尾に並んだ。
列が進み、観覧車に乗り込む。私たちを乗せた赤いゴンドラは、少しずつ、少しずつ夕陽に照らされながら上昇していく。
二人きりのゴンドラは地上から離れていくにつれ、二人の間に静寂をもたらした。
「綺麗だね」
「うん」
「緊張してるの」
「うん」
「ねえ、真希」
「何」
「好きだよ」
稔勝は言葉を放つと私をそっと抱きしめ、顔を近づけた。彼からの、キス___
「あと、少し」
「え」
視界いっぱいに広がる稔勝は甘い顔でそう言った刹那、私の唇を奪った。
「___!」
「___これで、ずっと一緒だね」
「___うん」
いつも、やられっぱなしだ。ずるい。稔勝ばかり___
アクアシティに戻り、夕飯。
実家では外食なんて滅多になかったし、稔勝と出会ってからは、良い意味で「イレギュラー」ばかりだ。
「夕飯何食べる?」
「うん、何にしよう」
案内板に目をやると、「夜景の見えるレストラン」の文字が目に入る。
「夜景の見えるレストランだって。折角だし、そういうお洒落な所にしてみない?」
「うん、いいね」
高級感と温かな空気溢れる店内。その落ち着いた照明がまた雰囲気を増していて、店外からは想像できないほど、間取りは広い。
「意外と、空いてるね」
「うん___て、あれ」
「雨、凄い降ってるね___」
雨越しに都会の景色と、レインボーブリッジは一応見える。そして、雨が降っているからか、平日だからか。店内は二人きりの貸切状態だった。
「さっき観覧車晴れてたし、お料理が美味しければそれで良いんじゃないかな」
注文を済ませ、少しするとノンアルコールのシャンパンボトルが運ばれてきた。
「そう言えば、どうしてシャンパンだったの。そういう気分だったから?」
「ううん。ほら、今日何の日か忘れちゃった?一ヵ月記念のお祝い」
「だから今日もサプライズだったんだね」
「そう。じゃあ、乾杯しよう」
「うん、一ヵ月記念おめでとう。乾杯」
「おめでとう、乾杯」
グラスを掲げると、そっとグラスに口を付けた。一ヵ月祝いのそのシャンパンは、スッキリとした優しい甘みがあった。
暫くすると料理が運ばれてくる。
「お待たせしました。小海老とマッシュルームのウニクリームソースでございます」
「はい。ありがとうございます。___美味しそう」
器が机に置かれると、ウニと海老の濃厚な匂いが押し寄せる。これは___絶対美味しい。
「食べて、食べて」
言うまでも聞くまでもなく、稔勝は私に促した。
まずはタリアテッレをひと口。美味しい。タリアテッレに濃厚なウニソースと、海老、の味が絡み合ってて、口の中でまろやかな香りが広がっていく。
ぷりぷりとした小海老も、贅沢に散らされたウニも、ソースをとことん引き立てていて。癖になる。
「お待たせしました。魚介のトマトソースペスカトーレでございます」
稔勝の元にも品が運ばれて来ると、稔勝は美味しそうにペスカトーレを口にした。
「美味しい?」
「うん。このトマトソースも美味しいし、パスタの歯応えも良い。凄く美味しいよ」
満足気に稔勝は答えると、再びペスカトーレを口にした。
長い一日も幕を閉じ、私は稔勝の布団に潜った。
目を瞑って、今日あったことを思い返す。
破天荒な映画館、人生最高親子丼、サディスティックな稔勝、稔勝を守りながらのVR体験、ドラマさながらの観覧車、貸切レストラン___どれもこれも、忘れられない思い出だ。
「真希___」
「何」
「キス、しよう」
「うん___」
そうして、私たちの穏やかな夜は更けていった。
夏。二人での生活はだいぶ慣れ、二人の間の「遠慮」も消えつつあった。因みに、お台場はいつからか二人の定番のデートスポットとなり、ホームシアターとなっていた。
そして今日は、稔勝と久しぶりのデート___ではなく。今日は初めて、稔勝の家に一人で泊まる。それも、稔勝が実家に帰って、用事を済ませないといけないからなのだとか。
「___じゃあ、明日には帰ってくるからね」
「うん。いってらっしゃい」
「___一人、かあ」
ここまでは、いつも通り。稔勝が家を出て、私がリビング奥の寝室に行く。
いつもは稔勝と寄り添って眠るベッドに大の字で寝転がると、ベッド脇の引き出しからSwitchを取り出した。
「いいや。Minecraftでもやっていよう」
それから、昼、夜、と時間が過ぎ、気が付いた頃には時計の針は七を指していた。
「___もうこんな時間なんだ。___結局、今日も何も描かなかったな」
ベッドに無造作に広げられたSwitchケースと、カードケース、充電器にコントローラ。散々な堕落っぷりが窺える。
「___まあいいや」
私は手にしていたSwitchをベッドに置くと、キッチンに向かった。昨晩の残りのおかずと、茶碗一杯の白米を温めてダイニングテーブルへ向かう。
「いただきます」
まだ少しぬるい、おかずと白米を口にしながら先程プレイしていたゲームの実況動画を見ながら箸を進める。
「___」
食事が終わった頃には、料理は完全に冷めきっていた。
寝る支度が整い、ベッドに向かっているとふいに目の端を「何か」が横切る。
「え」
稔勝がデートの時によく着ている、Paul Smithのシャツ。それが、洗濯機に入っていた。
「え___なんで」
いつも稔勝とデートする時、彼はPaul Smithのコーディネートで揃えて、お洒落な格好でエスコートしてくれる。
反対に、近所の買い出し程度ならラフな格好で、帰り際には二人して両手一杯に、パンパンに詰まったエコバッグを持って帰ってくる。それなのに。
今、眼前にあるこれは、何。彼は一体、私の居ない所で何をしていたの。
頭の中で悪い想像が沢山浮かんでは消える。最近帰りが遅いのは。今日、夜電話できないと言ったのは。彼が、毎晩のように求めてくるのは。
一体、稔勝の本音は何なのか。そうして、私たちの運命の歯車は軋みを立ててゆっくりと止まっていくのだった。