第3話 あの日の答えを問うために
この仕事も板についてきた。
そうは言っても、心無い言葉を浴びせられる日々は、半年前と何ら変わっていない。
「――ふざけないで!」
この光景もそろそろ見飽きた。
俺の目の前で、悲しみに任せて投げ捨てられる一通の白い封筒。
それはこの女性に宛てられた、旦那からの手紙。
「いらないわよ!」
酷く取り乱して泣き喚く女性の前で、俺は玄関タイルに落ちた封筒を拾い上げる。
その間にも、女性は両手で顔を覆い泣き続けていた。
――嫌だな。先輩はどうしてあんなことを言ったのか。何故あんな風に思えるのだろうか。俺にはどうしても理解できない。
けれどやり方だけは、この半年の間に学んだ。
「そうですか。本当に必要ないのなら、私がここで燃やしてしまいますが、それでも構いませんか?」
自分でも酷い言い方だと思う。けれどこれも仕事のうちだ、仕方ない。
彼女は俺の無慈悲な言葉に、大きく目を見開いた。
けれどどうにか震える手で、手紙を受け取ってくれる。
俺はそれ以上何も言わず、サインを受け取り次の家へと向かった。
するとその途中で、半年前に手紙を届けた農家の前を通りかかる。そこを通り過ぎようというとき、誰かに呼び止められた。
それはあの日の女性――佐竹さんだった。
「あなた、あの時の!」
佐竹さんが俺を呼ぶ。
仕方なく、俺はバイクを止めた。
――嫌みの一つでも言われるのだろうか。そう思った、その時。
振り向いたその先で、こちらに歩み寄ってくる佐竹さんの目元から――一筋の涙が零れ落ちた。
「――はっ?」
俺は思わず、素っ頓狂な声を上げてしまう。まさか泣かれるなんて予想していなかったから。
バイクに跨がったまま茫然とする俺に、その人は泣きながら微笑む。
「あの時はごめんなさいね。まさか、本当に息子からの手紙だとは思わなかったのよ。だってあの子が亡くなってから、もう十年になるんだもの。こんなことって、本当にあるのね」
言葉を返せずにいる俺の前で、祈るように目を伏せ、幸せそうに笑うその人。
「本当にありがとう。あの時手紙を置いていってくれて。もしあの時あなたが私の言葉通り手紙を持ち帰っていたら、こんな気持ちになることは一生無かったんでしょうね。
私、ようやく前を向いて歩いて行ける気がするの。お嫁さんともずっと疎遠だったのだけど、連絡したら泣きながら喜んで下さってね。今度孫と一緒に、ディズニーランドに行くのよ」
それは心から幸せそうに。心から、死を受け入れられた様に。
その表情に俺はようやく――先輩の言った意味が少しだけ、理解出来たような気がしたんだ。
***
遂にこの日が訪れた。
俺は1000通の手紙を届けきった。巷では裏郵便と囁かれている、死者から残された者へと宛てた、最初で最後の手紙を。
俺は部長に呼ばれた。
会議室で部長と対面に座る。彼は切り出した。
「まずは、よく手紙を届けきったと褒めてやろう」
部長の瞳が細められる。それは、本当に俺のことを褒めてくれているのかよくわからない表情だった。
「君には入社時に説明した通り、一度だけ――手紙を死者へと届けることが出来る権利が与えられる」
「はい」
そうだ、だから俺はこの仕事を引き受けた。彼女に手紙を送りたくて。
あの日のことを尋ねたくて。
「だがその前に、君に伝えなければならないことがある。これはその権利を手にした者にだけ伝えることになっている真実だ。よく聞いてくれ」
部長の真剣な表情に、俺はごくりと喉を鳴らした。
「君は、全ての死者にこちら側に手紙を送れる権利が与えられていると、そう思うかね?」
「……どういう、意味ですか」
「君には彼女から手紙が届かないだろう? その理由を……考えたことはあるか?」
「――っ」
確かに一度もそれを考えなかったと言えば嘘になる。俺は確かに思った筈だ。どうして俺には、彼女から手紙が来ないのかと。
部長は俺の心を読み取ったのか、会議卓の上で両手を組むと、難しい顔でううむと唸った。
「実はな、我々がこの仕事を達成する必要があるように、彼らもある条件を満たさなければならないのだよ」
「――条件、ですか」
その条件のせいで、彼女は俺に手紙を送れないのだと、そう言いたいのだろうか。――背中に嫌な汗が伝う。
「そう、それは――現世への執着を捨てること。彼らがこちらに手紙を寄越すことを許されるのは、残された者を悲しみから救い出し、自らの足で立ち上がらせるようにする為なんだ。つまり、こちらに未練を残したままでは、手紙を寄越すことは出来ない。――この意味が、今の君にならわかるだろう?」
その内容に俺の脳裏に過るのは――俺に礼を述べたときの佐竹さんの笑顔。
部長は小さく息を吐き「だから」と付け加える。
「書く内容はよく考えるんだな。
手紙が書けたら、地下一階のあの世行きポストに投函しなさい。君の手紙は間違いなく、あちら側に届くだろう。――話は以上だ」
そして部長は、会議室から出て行った。
俺はその背中を、茫然としたまま見送ることしか出来なかった。
部長の言葉が、俺の中でぐるぐると回る。未練があると手紙を送れない――その言葉が。
もしそれが真実なら、俺があの日のことを彼女に尋ねても、決して返事は来ないということではないのか?逆に、彼女のこちら側への未練を強めてしまうのではないか?
……なら、俺が今までやってきたことは一体――。
デスクに戻ったときには既に定時を過ぎており、窓の外は暗くなっていた。
ともかく今日はもう帰ろう。そう思って席を立つ。
けれど、ふいに呼び止められた。その相手は、先輩だった。
彼は、いつものとぼけた態度を欠片も見せず、どこか憂いた様な表情を見せている。
先輩はオフィスをぐるりと見まわし、自分たち以外に誰も残っていないことを確認すると、薄く微笑んで俺の傍の椅子に腰を下ろした。
「聞いたんだな」
先輩の声がどこか寂しそうに呟く。
「この前、俺言ったよな。俺がこの仕事を続けてるのは“手紙を受け取った人の笑顔が見たいから”だ、って。――ごめんな、あれ、嘘だったんだ」
「……嘘?」
先輩の横顔が、自嘲気味に歪んだ。
「ここに残ってる奴は皆、あっちに手紙を送れなかった奴なんだ。1000通手紙を届けてその権利を得たのに、ポストに手紙を投函出来なかった奴。俺もその一人。それに――部長も」
悔し気な声が、静まり返ったオフィスに響く。俺は、何も言えなかった。
「知ってるか? これはあくまで噂だけど――こっち側に未練を残した者は、生まれ変わってこれないんだと。俺はさ、もし俺の手紙のせいで、あいつが未練を断ち切れなくなったらどうしよう、って考えちゃって。――笑っちゃうよな。せっかく手に入れたチャンスなのに。
だから辞められない。ここに居る間は、その権利は一生有効だから。皮肉だけどな」
先輩の声が、震えている。そんな気持ちで何年もここに居続けているのだろうか。
――でも、絶対にそれだけではないと思う。だって、この前先輩が俺に言ってくれた言葉は、間違いなく彼の本心に聞こえたから。
「――はは、ごめんな。別に手紙を送るなって言ってるわけじゃないんだ。俺は、あのポストに手紙を投函した奴を何人も知ってるし、その結果あっち側から手紙が届いて、晴れ晴れした顔浮かべてた奴も……沢山知ってる」
先輩はそこまで言うと、立ち尽くしたままの俺の顔をゆっくりと仰ぎ見る。
「だから、後悔しない方を選べ」
――その顔には、優し気で、それでいて寂し気な――淡い笑顔が浮かんでいた。