第2話 愛する君にいつの日か
「――くみ、……巧、起きて、もう時間」
「……ん」
あぁ、もう朝か――。
いつもの柔らかな彼女の声に、俺はゆっくりと目蓋を上げた。
カーテンは既に開けられており、窓からは初夏の眩しい日差しが降り注いでいる。
その明るさに目を細めながら、俺はベッドから身体を起こした。
「おはよう、巧。もうちょっと早く起きてくれると嬉しいんだけど」
そのどこか不満げな声のした方を見上げれば、そこには俺の愛する小百合の姿。言葉とは裏腹に、ユリの様に華やかな可憐な笑顔。
「おはよう、小百合」
俺が微笑み返せば、彼女は一瞬困ったように肩をすぼめて、けれど笑みを深くした。その表情に、俺の頬は自然と緩む。
――あぁ、俺は君といられて、本当に幸せだ。
彼女の作った朝食を食べ、身支度を整える。
そして彼女と一緒にアパートを出て、電車を乗り継ぎ会社に向かった。
「小百合、今日残業は?」
「定時だよ。巧は?」
「うーん、まだわからない」
「そっか。じゃあご飯作っとくね」
「あぁ、頼むよ。ありがとう」
電車を降りるのは小百合が先だ。俺の職場は二駅先。
ホームへ降りた彼女が、一度だけ俺を振り返る。
にこりと微笑む彼女に俺も微笑み返せば、彼女は満足そうに肩の辺りで手を振った。その背中に絹のように美しい黒髪がさらりと流れる。
いつものように、その姿がホームの向こうへと消えていった。
そしてそれを確認したかのような絶妙なタイミングで、俺を乗せた電車は再び動き出す。
このとき俺は――信じ切っていた。この何の変哲もない日々が、幸せな毎日が、永遠に続いて行くものだと。
それがまさか、これが小百合の笑顔を見る最後になるなんて――そんなこと、想像もしていなかったんだ。
***
その日はトラブル続きだった。
週末のコンペに使うデータの入ったサーバーがエアコンの故障により動かなくなり、後輩に作らせた見積書の数字はめちゃくちゃで。
終いには、メーカーに発注していた製品が検問に引っかかり、中国に引き返してしまった。だから急遽、代替品を探さなければならなくなった。
そういうわけで、気が付けば時刻は夜10時を回っていた。
「先輩、すいませんでした、これせめて」
見積りをミスった後輩が缶コーヒーを手渡してくる。
ま、別に提出前の見積もりだ、間違っていたって問題ない。ないのだが、いかんせん今日はトラブルが多すぎた。
流石に、疲れた。
俺はなるべく平静を装って、後輩からコーヒーを受け取る。
「ありがとう。俺の方こそ途中で確認すれば良かったな。悪かった」
「いえ」
「ま、提出前だし気にするな。それよりサーバーが落ちたのは痛かったな。エアコン壊れるとかあり得んわ」
「はは。本当そうっすね」
そうやって、俺たちは一息入れる。――と、デスクの上のスマホが震えた。小百合からだ。
そう言えば、連絡するのをすっかり忘れていた。
俺は通話ボタンをタップする。
「――遅い! 何回も電話したのに!」
スマホを耳に当てた途端、彼女の高い声が耳に響いた。そうとう怒っているようだ。
「悪い」
「とっくにご飯さめちゃったんだけど」
顔を見なくてもわかる。彼女が今どんな顔をしているのか。
「ごめん、急なトラブルで。終電前には帰るから。飯も、帰ったら温めて食べるし」
「……」
けれど、小百合は何も答えない。
「どうした? 何かあったのか?」
「――別に。ねぇ、私に何か言うことないの?」
「……は?」
小百合の唐突な問いに、俺は間の抜けた声を返してしまった。全く思い当たらなくて。
「無いんだ。ふぅん。じゃあ――もういい」
「は? え、何それ、全然意味がわからないんだけど。何かあるならちゃんと言え!」
俺は疲れも相まって、つい声を荒げてしまった。すると途端に押し黙る小百合の声。
そして――電話はそのまま、途切れた。
「――は?」
何だ、今の。
俺が切れたスマホを訳も分からず見つめていると、隣に座る後輩が心配そうな顔でこちらを見てくる。
「喧嘩っすか……? それ、まさか、俺のせい?」
「んなわけあるかよ」
――まぁいいか。帰りにコンビニで小百合の好きなデザートでも買っていこう。
俺は心にそう決めて、残りの仕事に手を付けた。
――けれど、俺が家に帰ったときには彼女の姿はそこになく。
そして翌日、俺は警察から電話で知らされたのだ。
俺との電話が切れたのと同じ時刻に、彼女がトラックに轢かれて死んでいたことを。
***
「――小百合ッ!」
飛び起きたときには、カーテンの向こうは既に朝日で白んでいた。
いつの間にか眠ってしまっていたのだろう。
俺は夢の中の彼女の姿を思い出し、悲しみを募らせる。
頬が、濡れていた。
「――何て言えば良かったんだ」
俺はあの時、君に何と言えば良かった?
君は、何を望んでいたんだ……?
俺はソファから立ち上がり、写真の飾られた棚の一番上の引き出しを開ける。
そこには、君が居なくなってから書いた、俺から彼女に宛てた手紙が。
「……あと、700通」
――そしたら、俺は……君に。
俺はいつか来るその日を夢見て――手紙を大切に、大切にしまった。
***
半年が経った。
この仕事にもすっかり慣れた――それは春先の事。
いつものように出勤すると、先輩に声をかけられた。俺にこの仕事を紹介してくれた、その人だ。
「おはよ。ようやく慣れて来たって感じだな」
「まぁ、やっと」
屈託のない笑顔で笑う先輩に俺がぎこちなく返せば、彼は急に真面目な顔をして俺の耳に顔を寄せる。
「今、何通?」
その問いに、俺は思わず言葉を詰まらせた。
そうだ――今、何通だ?
指折り数えて、俺は答える。
「……あと100、ですかね」
そうだ、上手くいけば――今月で。
すると先輩は、どこか寂しそうに眉を寄せた。
「そしたら、やっぱり辞めるんだよな? まぁ、ここはそういう奴ばっかりだから慣れてるけどさ。――じゃ、俺先行くわ」
「……」
俺は先輩の背中を見送る。けれどふと、あることが気になって――。
「先輩!」
「――?」
振り向いた彼に、俺は尋ねる。
「先輩は、どうしてこの仕事を続けているんですか?」
そう尋ねれば、先輩はよくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに微笑んで――。
「そりゃあ、喜ぶ人の顔が見たいからに決まってんだろ!」
――俺には信じがたいような言葉を、口にしたんだ。




