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ネオンの森

作者: カモメ

「 」

 語り明かそう。今日は朝まで飲もう。と松岡先生が言った。

 結城さんが大きく肯く。少し遅れて僕も。二人に気付かれるか気付かれないかってくらいに小さく肯いた。少しだけ肯いたつもりが頭蓋は大きく揺れた。まるで脊椎を失ったみたいに首が役目を放棄して、首から上がユラユラと揺れた。どうやら酔っているみたいだ。

 歩き出した結城さんの横顔を窺うと彼女も少し酔っているのか、なんだかどうやら、少し楽しそうに見える。

 宵の深まった繁華街を先生と結城さんが闊歩する。その後を僕は千鳥足で着いてゆく。ゆっくり慎重に、転ばぬように駆けてゆく。


 ******


「桜の花が咲くと花見だとか新歓コンパだとかいって世間はやたら騒ぐ。いかにも春、ランマンって感じでね。嘘をつけ。と思う。ていうか言っていたのだよ、嘘であると。うん、誰が? 安吾だよ。坂口安吾。知らないのかい。僕なんかよりずっと、君たちの方が馴染も深いだろうに。まあとにかく。大昔は桜の花の下は怖ろしいと思っても、綺麗だとか爛漫だとか、絶景だなんて誰も思いませんでした。と。僕の生まれ育った町はこの町に比べると少しだけ暖かい所にあってね。出会いよりは別れの季節だったな、桜の花は。高校を卒業する年の三月に、前途洋々たる若者たちが乾杯し。互いの門出を祝し夜を徹し大いに飲んだ。いや夜を徹しというのは嘘だ。若者は途中で気を失ったのだ。つまりまあ飲み過ぎたんだな飲み慣れていないものだったから。店では飲めないものだから、酒を持ち寄り最初は誰かの家で飲んでいたのだが誰かが言い出して外へ出て飲み始めた。学友の一人が裕福な家の子で、彼の持ってきたスコッチ・ウィスキー、黒色のラベル。そこで初めて、金持ちの学友以外の若者たちは初めてそんな洒落た酒を飲んだ。歩きながら飲み、語りながら飲み、飲み慣れていないものを大いに飲んだものだから、当然のように気を失った。気が付いたらどこかの公園だった。目を覚ますと、目の前は天上を覆う一面の桜だった。辺りに人気は無く、若者は初めて安吾の言うことを理解できた。一人桜の花の満開の下で取り残された若者は、気が狂いそうだった。気が狂いそうな桜だった。あるいはまだ頭の芯にアルコールが残っていたのかもしれない。とにかく気が狂いそうだった。少し離れた場所に学友の一人が倒れていた。少し安堵し、起こそうと思い近寄り触れてみると、学友の躰はえらく冷たくなっていた。うん、この話の教訓? まあ酔って酔い潰れて気を失うなんて、ロクなもんじゃあないって事だ。ゲロ吐くくらいに留めておきなさいよ、と安吾も……いや言っていなかったかな」



「1」

 三月某日。ゼミの四年生の追い出しコンパと、それから僕らゼミの偉大なる指導教授、知の巨人、松岡先生の古希の祝いとの二つを兼ねた酒宴が催され、ロクでもないゼミの先輩たちではあったがこれでようやく追い出せるとあればまあ四の五の言わずに飲み会の一つ二つくらいはやってやろうかというもので、それはさておき尊敬する松岡先生の祝いとなればこちらは手を抜くわけにもいかない。どこから聞きつけたのか、現役のゼミ生は僕ら三年生が二人と追い出される四年生が二人と大学内でも指折りの少数精鋭ゼミで通った我々だったが、卒業生を始め、飲み会には何故だかわんさかと人が集まった。

 追い出される四年生の内の一人、ハチロウ先輩が、この人は四年生というか正確に言い直せば大学在籍八年目の強者なのだが、とにかく大学に八年もいたものだから矢鱈と顔が広い。その交友の網目は上へ下へ左右へと好き勝手に伸びて、交わり流れ、松岡先生の信者とも言うべき卒業生たちを掻き集め、あとはとにかく大勢で騒げればなんでもいいやというサークル関連の友人知人たちが数珠のように連なって、今宵の宴の参加者は五十名弱の大所帯となった。

「けったいな人やねえ。知ってる? ハチロウさん結局、卒業論文書き終わらなくて、卒業じゃなくて除籍らしいよ」

 同じ松岡ゼミの同級である結城さんが教えてくれたので、そこで僕は初めて、大学には最長で八年までしかいれない事を知った。いやしかし、八年しかというには八年という年月は随分と長いモラトリアムなのだけれども。


 ******


 午後五時四十五分。ちょうど夕陽が沈みきったくらいの時間だろうか。駅の東口を出ると外は薄い闇に包まれ、繁華街を彩るネオンは五分咲き。駅前ロータリーを囲うようにして屹立する背高のビルたちを眺め、少しだけ気分が昂揚するのを感じる。我ながら田舎者だなあと思う。正面のビルの一本に目をやると大きな看板に「おせんべいの町へウエルカム」ってな感じのカッコイイ文句の看板。視線を上へスライドさせると屋上には清酒メーカーの看板。ここは日本有数のコメドコロ。もう何百年も前に白米を食う事に飽きてしまった町。信号を渡って看板のビルを左折。駅東口から真っ直ぐ伸びる大通りを背に、一本裏の道へ。途端、喧騒の色が変わる。バス、タクシーのクラクションから人の声へ。通りの入り口には三味線抱えた弁財天を象った小さな石造がお出迎え。コンビニ前で、若いスーツ姿のサラリーマンが栄養ドリンクを煽っている。狭い道路を挟んで反対側、下手な平仮名で「おさかな」と書かれた居酒屋に中年の集団が入っていく。あの位の年齢になるとああいう、お約束みたいなお店に、安定を求めるようになるのだろうか。繁華街の端にある塾から出て来たのだろう、ネオンの下に似合わしくない少年が煙たそうな顔して足早に通りを抜けて駅の方へ逃げていく。すまんね。と僕は心の中で少年に謝る。ちょっと、会釈するみたいにして駅の方を振り返りながら。そうしてすぐにまたターン。左右正面と三方に居並ぶ飲みたちに相対する。

 うんたしかに。気分は昂揚しているらしい。電車の便の都合もあるとはいえ僕は足取りも軽く、飲み会開始の三十分も前に会場となる店に着いてしまった。

『ちょっと早いけど先に店に着きました。受付やっています』

 携帯電話を取り出し結城さんにメッセージを送ると、すぐに彼女から返信。

『さすが幹事。よろしくさんです』

 との事。此度の酒宴。店の手配も参加者の取り纏めも、全て事前に準備をしてくれたのは結城さんだ。僕は別に、何もしていない。



 午後六時三十八分。定刻を少し過ぎてから飲み会は始まった。

 会場となった創作料理居酒屋「スネイルズ」は、本学学生の間でも人気の高い店で僕もこれまでに何度か足を運んだ事があり二時間飲み放題コースのシメの料理に必ず出て来る名物オムライスが最高なんだけど、そいつが出て来る頃には僕はいつも酒で味覚が麻痺していて果たして本当にそいつが最高なのかどうなのか分からない。四年生追い出しコンパ兼松岡先生古希祝いはそんな『スネイルズ』を貸切で行われ、フロア中は酒の池も乾涸びさせるほどのハイペース、開始から間もなくそこかしこに空の杯が転がった。皆が好き勝手に席を移動するものだからテーブルの上には席の主の帰りを待つ食べ掛けのサラダ、冷えた唐揚げ、泡の消えた生ビール。そうしてまた、どこからともなく補充されてくる新品の生ビール。会場中の全員が食べる事より喋る事にそして飲む事に夢中になっているようだった。大皿から飛び出す機会を失い、ドレッシングに浸ってべしゃべしゃになったレタスが少し不憫だ。

 主役の三人に目を向ける。松岡先生は常に周りを四、五人ほどに囲まれている様子だった。容姿からして、おそらくは卒業生らしい人が多い。中には、仕事帰りに駆け付けたのだろうか、スーツ姿の人もいる。それからハチロウ先輩。彼は流石に知り合いが多い。会場中を右往左往して一つ所に留まらず、誰彼となく会話を続ける。普段より饒舌に見えるのは、酔いのせいだけではないだろう。おそらくサークルか何かの後輩を煽り中ジョッキの生ビールを一気飲みさせて、それから別の後輩に煽られて自らも中ジョッキを一気に飲み干した。そんなに面白い芸とも思えないが、周囲は大いに笑っている。やった本人たちも「ちょっと、ちょっと待って」と苦しそうにしながらその口元は笑っている。何がそんなに面白いのか。

 それからもう一人の四年生、マルチ先輩。この人は本当に大学四年目の四年生で、卒業論文も無事に書き終え単位も不足なく、この三月で大学を卒業していく。卒業後の進路についてはこれはなんだか曖昧な、眉唾な話しかしていないが、いわくナントカワールドとかいう仮想空間が熱いとの事で。

「来年の九月にオープンする予定でさ。分かるかな。いまもう現実世界には土地は余っていなくて、既得権益ってやつでさ。そもそも物質っていうのは有限で、これからは電子の世界に人類社会はシフトしていくわけで。徐々に。つまりいまその仮想空間に土地を買っておけば将来的には何倍にも価値が。いや誤解しているかもしれないけどそういう危ない投資とは違っていて。これはここだけの話なのだけど大手商社やメガバンクなんかは既に多額の資金を投じて参加しているのだけども。あとは芸能人や、もちろん有名な個人投資家なんかも。ウォーレン・ベルフォートとか名前くらい聞いたことあるだろう? 無い? そうか。いやまあ、つまり。これからの。今がチャンスで。選ばれたやつだけが。世の中は。絶対に」

 近くの席で気弱そうな学生(おそらく一年生か二年生だろう)を捕まえて、まるで木星あたりの土地でも売りつけようとしているような口調で話しているのがマルチ先輩。彼は、なんというか、生き方が荒い。それでいて、世界恐慌が起きても文明社会が崩壊しても、生き延びそうな生命力を感じさせるのがマルチ先輩という男だ。まだ、大分先だが次回の世紀末まで生きていそうな気がする。

 飲み放題は続く。生ビール、生ビール、レゲエパンチ、梅酒のロック、生ビール。間断無く次々と運ばれてくるドリンクを幹事の結城さんは軽快に捌いていく。誰が何を注文したか、正確に把握して(こんな大所帯の宴会で、それをどのように行っているのかは知れないが)、フロアの中央部にいたかと思ったらドリンクが運ばれてくるタイミングでは下座に移動、店員さんからしっかりドリンクを受け取って場内に配給していく。気が休まらないだろうと思うが、彼女は行く先々での会話もそつなくこなす。そつなく、どころか、しっかりと楽しんでいるようである。さらにさらにそれでいて食事も飲酒も怠らない。飲み会の化物だ、と思う。僕も最初はドリンクを回すのを手伝おうとしたが「君は飲む方に集中」と釘を刺され、すっかりとマルチタスクスキルの無さを見抜かれてしまい、たしかに僕があれをやろうと思ったら口数も減るし箸を持つ余裕も無くし、最早いち店員さんと成り果てて飲み放題を終える事になるだろうな、と妄想しながら僕はジョッキに残ったビールを煽った。

 杯を傾ける度に喉がぐいぐいと押し広げられていくのを感じる。炭酸が気管で膨らみ、胃の中で蒸発したアルコールが湯気になって顔面の方へと昇ってくる。三杯目の中ジョッキに手をつけはじめた辺りで、舌が仕事を怠け始める。これはまた。今日も僕はオムライスの味を憶えられずに、オボロゲニ。

「君、顔が真っ赤だけと大丈夫かい」

 向かいの席に座っている、今日初めて会った卒業生に心配される。お水、頼もうか? と聞いてくる卒業生の気遣いを、僕は大丈夫ですとはっきりした口調で固辞する。まあ、赤くなっているだろうなと思う。鏡を見なくても分かる。呂律も、実はほんの少し危うい。危ういのではっきり丁寧に話す。見た目ほど、酔っているわけではないのです。とまるで酔っ払いの常套句みたいな台詞を吐いて、ジョッキの中に残っているビールを飲み干した。飲み干して、顔に出やすいタイプなのです、と付け加えて弁解する。僕はまた追加の生ビールを注文する。心配無用である様を卒業生に見せつける。顔には出やすいタイプですが僕は自分で言うのも恥ずかしいのですが、人並み以上にはイケる口なのです。ところで先輩は、いつの卒業生でしょうか。

「俺は、ハチロウくんと同級生だよ。うん、元だけど。同じ松岡先生のゼミ生。八年も大学にいて、ついに卒論を書き終えられなかったあいつを笑ってやろうと今日はやってきたのだけれども、なんだこちらが笑うはずが、本人が一番楽しそうに笑っているじゃないか」

 会場の奥手、窓際の方からハチロウ先輩の哄笑が聞こえてくる。彼のいる席は随分と会話が盛り上がっている様子。彼の身の上を考えれば、笑っている場合じゃないのにと思うが、これからの事を考えればこそ、今は酒に飲まれて笑っていたい気分、煩悶から逃れたい忘れたい考えたくないのかもしれない。お酒がそういう時に優しい事を、僕らはその短い人生の中で体験的に知り、あるいは松岡先生の長大な叙事詩の一節から読み聞かせられて知っていたのだった。

「春になると、思い出すね。ハチロウくんと二人で花見に出かけた日の事。お互いにまだ大学四年生だった。彼の車で彼の運転で、有名な高田公園の桜を観に行ったんだ。行きは高速道路を一時間半走らせて向かい、帰りは下道を二時間半かけて帰ってきた。桜は、どのくらい観ていたかな。あまり記憶になくて。その間俺たちはずっと酒を飲んでいたよ。青い春だ。青いスバルのインプレッサ。格好いい。羨ましかったな、ハチロウくんの車。俺たちは彼の車の中で、桜の下でずっと飲んでいた。俺たちというのは勿論、俺とハチロウくんの事だ。俺たちは雰囲気を出す為に、コンビニでジーマを四本買って走り出した。花見なのにzima(冬)っていうのが、無学な若者らしさだね。行きの道中でそれぞれキッチリ二本ずつ空けて、途中のサービスエリアで缶ビール数本と日本酒の四合瓶を一本買い足して、とにかく飲みながら走った。決して緩い時代だったわけではないよ。たしかその前年の秋に、法改正で飲酒運転が厳罰化されていたはずだ。当時の俺たちは、政治も経済も興味は無かったが、そんなニュースにばかり敏感だったからよく覚えている。なのになぜそんな事を? うん、だから。青い春だったんだよ。ただ」

 花見を終えたハチロウ先輩は彼を家まで送り届け、その後の帰り道で一人になった所を警察に掴まり一発で運転免許取り消し処分となったそうだ。不憫。


 ******


 僕が酒とそれから彼女と出会った日の事について少し語る。

 大学に入って間もない頃。基礎演習のクラスで親睦会をやろうと当時も僕の指導教授であった松岡先生が言い出して、半ば強引に右も左も分からない駅前の繁華街に僕らは連れ出された。投げ込まれた、初めて来た夜の街に浮かれた。見慣れたわけでもないと思うが、あの頃は今よりもっと、あるいはもう少しだけネオンの花は豪奢に余計に咲いていたように思える。

 店に入って全員が行儀良く学校の授業の始まりみたいに行儀良く席に着いて、先生は一言「好きにしていいよ」とだけ言った。懐の深い一言だった。女子たちが恐る恐るドリンクメニューを開いて数人で覗き込む。気の利いた男子が先陣を切ってカシスオレンジを注文すると宣言した。それって美味しい? 甘い。ジュースみたいなものだよと言うので僕も同じものを注文した。カシスが何者かは分からないがオレンジは知っていた。オレンジジュースのオレンジだろうと自分なりに予想したのだ。

 ノンアルコールのドリンクを頼む者が数名と、アルコール類を頼む者が数名。酒を頼む者の方が多数派だったように思う。大学とは、自由な場所なのだとこの時初めて思った。「履修」という慣れないシステムでもって自分で自分の時間割を作った時なんかよりももっとずっと自由を感じた。僕らはもう自分で自分の好きな飲み物を、あるいは好きではない飲み物あるいは未知の未開拓の飲み物を頼めるのだと。

 浮かれた気持ちのまま僕は人生で初めて酒を飲み、まあ周囲、その他のクラスメイトたちも大凡は似たような境遇だったように思える。先陣を切ってアルコールを宣言した彼も、高校生の頃に二度、三度、我々より先に何度か酒を味見した程度。浮かれてカシスオレンジやマリブオレンジやファジーネーブルを舐める僕たちを横目に、松岡先生はビールやハイボールに赤ワインを慣れた様子で煽った。途中、先生が煙草を吸い始めると「私もいいですか」と遠慮気味に女子学生の一人も煙草を吸い始めた。先生は嬉しそうに彼女にライターと灰皿を貸し渡す。彼女はウーロン茶をゆっくりしたペースで飲みながら、煙草もゆっくりしっとり吸った。これはどうやら高校の時分より味見程度では済まない様子。彼女の喫煙姿は随分と様になっていた。

 きっちりと二時間で終わりの短い親睦会ではあったが、慣れない僕らは大いに浮かれて大いに酔っ払った。初めてゴーカートに乗った子どもみたいにアクセルをベタ踏みにして酔った。初めて酔う、その陽気が楽しかった。途中で真っ赤になって横になり眠る者が出た。グラス一杯飲み終えてやっぱり残りの時間はノンアルコールでいいやという者もいた。だけど僕は二杯三杯と、四杯五杯と飲んでも気分が悪くなる事は無く、彼―最初に酒を頼んだ彼に言わせればどうやら僕はそれは酒に強いという事らしい。なるほど。むしろ普段より気持ちが良くなっていく様子をああこれが酔うという事なのかと冷静に、いや陽気に意識しながら分析しながら、僕はこれは素晴らしい事だと思った。そうしてこの素晴らしいがいつまでも続くような高揚感で、またカシスオレンジを追加で注文した。二時間の間に何杯頼んでも良い。そのシステムもまた素晴らしい。

 思い返せば酒呑みの家系であった。父は冠婚葬祭や盆に正月、親戚一同の集まりで酒を飲んで気分を良くする度に「こいつも将来は呑兵衛になる」と僕の未来を勝手予言した。酔った父の姿を見てああはならないだろうと思ったがいざ、実際に酒を飲んでみるとなるほど血は争えない。まあ飲めないより飲めるに越したことはない。酔って気持ちが良くなるとこれまで理由も無く忌避していた酒呑みの血にも感謝、具体的に言ってアセトアルデヒド脱水素酵素に感謝したい気持ちだった。

 酔いが回り過ぎてぐでんぐでんになっていく学生たちを松岡先生は余裕綽々、変わらぬ笑みで眺めている。さすがは歴戦の酒豪。そうして綽々と締めの日本酒を所望した。

「若いのに君はお酒強いなあ」

 そう先生が声を掛けたのは僕ではなく、先生のその傍らにいた。「先生。手酌はあかんですよ」徳利を先生の手から取り上げてお酌しながら、自らも日本酒を戴く結城さんだった。

「その歳で日本酒が分かるのは良いね。いや重畳」

 ジュースのようなカクテルを飲んで有頂天になっている僕を、僕の遥か前方を彼女はスポーツカーでぶっ千切っていった。ように感じた。流線形のフォルム、徳利。日本酒。先生と結城さんと、二つ並んだ御猪口。どうやら彼女は親睦会の最初から日本酒を飲み続けていたらしい。なぜ日本酒なのかと訊けば「名前、知っていたのこれだけやったから」との事。言われてみれば、カシスとかマリブって、なんだ。なんだろう?今でも良く分からない。

 松岡先生と結城さんが飲んでいたのは、駅前ロータリー天上の看板。この街で、象徴的に酒呑みたちを見守る看板。

 名酒、朝日山。

 大学一年目の春の話。



「2」

 時刻は間もなく午後九時になろうとしていた。一次会場である『スネイルズ』から出ると繁華街は花盛り。地方都市とはいえ、県内で一番の歓楽街。週末という事も相俟って往来を行き交う人は多い。夜は二次会へと進んでゆく。僕らと同じようにして別の店から出て来たばかりの酔いどれ達が満足そうな顔しながら「まだまだ」と叫ぶ。まだまだ。夜はこれかららしい。満足そうな顔をして、まるで満足していないから不思議だ。人間の欲望は果てしないという事なのかしらん。はて、熱くなった息を大きく吐いて少し夜空を見上げると月は遠く見えず。ネオンの森は満開だった。誘うような暖色の光。陽気が溢れて騒がしい。かくいう我々の集団も街を彩る賑やかしの一味。酔いに任せて声のボリュームは上がり、店内にいた時とまるで変わらず、辺りに構わず好き勝手な事を好き勝手に喚いて収拾がつかない。特にハチロウ先輩とその周囲。

「ではここから先は各々という事で」

 結城さんが仕切ろうとするが、すっかり出来上がってしまっている集団は、ハチロウ先輩を中心とする第一党が彼の両腕や服の袖服の裾を引っ張って、明るい方へと彼を連れ去ってしまった。今夜は帰さんぞとハチロウ先輩のかつてのご学友がベタな台詞を吐き、遠ざかりながらハチロウ先輩は僕に向かって「後で、合流するから、電話」となんだか叫んでいた様子だが、あの様子では今晩はもう彼と再会する事は無さそうだ。無論、途中でこちらから電話を掛ける事もない。

 それから数名は明日も用事があるとか金欠だとかの理由で帰路に着き、残ったのは松岡先生、マルチ先輩、結城さん、そして僕の四人だ。ふむ、丁度良い。

「最初からこれで良かったんですよ先生」

 僕は思わず愚痴っぽい調子で零す。もとより今日は先生の祝いと四年ゼミ生の追い出しコンパなのだ。ハチロウ先輩が離脱したのは止むを得ないとしても、この面子が、今夜は丁度良いはずなのだ。なんなのだ先程までのランチキは。まあまあ、と結城さんに宥められる。あれはあれで結構楽しかったよ、と。大人だ。はんなり宥められた僕は少し熱くなった顔を冷やそうとまた大きめに息を吐き出す。脳は正常。身体だけが熱く、平熱の思考はその温度差でもって普段より一層僕を冷静にさせる。

「先生、お食事は足りてました? ずっと卒業生と話されててお箸があまり進んでなかったみたいですけども」

 河岸を変えるにあたり、結城さんが松岡先生の意向を確認する。彼女は周囲に気を遣いながらも随分とお酒を飲んでいたように見えたけれど、まるで酔っている様子がない。そもそも僕は結城さんが酔っている様子など終ぞ見た事がない。酔わないのだ、彼女は。傍ら。マルチ先輩は僕よりもなお赤い顔をして携帯電話を気にしている様子だった。


 本日2軒目の会場となる『くしやき道場』へは、マルチ先輩の道案内でやってきた。勝手知ったるという口振り足振りだったので常連なのですかと尋ねたら、店長と知り合いである風な事を匂わせるばかりでハッキリした事を言わない。どうやら常連ではない素振り。

 『スネイルズ』より駅に向かって歩きロータリーを右折。駅から離れ、繁華街の中心より離れるに連れて少しずつ飲み屋もネオンも減っていく様子は迷宮の奥深くへ潜っていくようであり、いやあるいは深く昏い森の中へと樹海へと歩を進めてゆくようでもあり、街と夜とを分ける最後の街灯が立つギリギリの境界の際にその店はあった。駅から押し寄せる喧騒の波は、この水際で緩やかに絶える。飾り気の無い白い看板に店名が書かれていて、看板は飾り気も無ければ主張も弱く、弱々しい光で申し訳程度に入口を照らす。客商売で飾り気が無いというのは、商売気が無いのとイコールだ。常連と店主が喋っていて飛び込んできた一見の客には注文も取らずに水だけ出して放置、みたいな地雷臭が、店の佇まいから仄かに感じる。そんな僕の心配をよそに、マルチ先輩は入口の引き戸を躊躇なく開けて店内に入っていく。僕と結城さんは顔を見合わせ「信用ならねえ」というアイコンタクト。二の足を踏む僕らの横を通り、無垢な笑顔を浮かべた松岡先生が次いで店内に入っていったので、仕方なく僕らも後に続いた。先生は、こういう時に人を疑わない。性善説なのだ、基本。見習うべき純粋さ。時々心配にもなる。

 店内は外観からはちょっと想像し難い明るさだった。三十代後半から四十代後半くらいだろうか。長身でラガーマンのようながっしりとした体つきの店主が、人好きのする笑顔で迎え入れてくれた。マルチ先輩は店長と初対面のようなそうでもないような挨拶を交わして、僕ら四人は小上がりへと促された。店内には僕らの他に二組。僕らとは別の小上がりで飲むおじさん三人組と、カウンターで一人飲みをするおじさんが一人。カウンターの端には不釣り合いな大きめのテレビが置かれ、テレビモニターの中では松本人志が素人のおじさん達の奮闘ぶりを見て笑っている。すげー深夜感のあるバラエティ。

「働くおっさん劇場や……」

 なんで、と首を傾げる結城さんの呟きを拾った店主がこれもまた柔和な笑顔で「録画だけどね」と返す。まったくもって問いに対する答えになっていない。


 先生と結城さんの前にはハイボール。僕の前にはウーロンハイ、先輩の前に生ビールが置かれて二次会がスタートした。ここから先は時間無制限で、付け加えて言うなら何本勝負なのかももう判然としない。なんとなく夜が延々続くような明けないような地に足着かない心地良い錯覚の中で杯を空けていく。僕は一杯目のウーロンハイを飲み干して、僕はもうそれがウーロンハイなのかただのウーロン茶なのか区別がつけられなくてなっていて、優しい顔で注文を受けてくれる店長に次はもう少し強めでとお願いした。

 お通しにすごく優しい味の煮物が小鉢で出て来て四人の前にそれぞれ置かれて、僕らはそんな気遣いをまるで無視するみたいに濃い味付けの串焼きを頼む。シロ、カシラ、砂肝。それからレバ刺し。脂と塩分が僕の舌を刺激する。喉が乾かないように一層酒を飲むペースが上がっていく。濃い味のウーロンハイもすぐに三杯目、四杯目と進んでいく。時折思い切って摘まむレバ刺しが、良いアクセントになる。先生も結城さんもこれには気を召したのか、よく手が伸びる。マルチ先輩だけは、自分が推薦した店の割には箸が重く、どうやらもうお腹のほうはいっぱいらしい。ジョッキの柄から手を放そうとせず延々飲み続ける。

「しかし君は、卒業後はどうするつもりなんだい」

 具体的に、と。一人沼に沈んでいくマルチ先輩に先生が核心をついた問いを投げかける。

「姫川の辺りでヒスイが取れるのです。そうしてそれを高く買い取ってくれる人がいて」

 一攫千金なのだという。おそらくそれはきっと。法に詳しくない僕でも分かる。おそらくきっと違法だ。たぶん密漁の類なのだ、それはきっと。先生は遵法の意識があるのかないのか、その行為の善悪については特に触れずに「それは生活できるだけの収入になるのか」「最初に採取のノウハウは誰かが教えてくれるのか。技術は」とにかくマルチ先輩の生活を案じた事ばかり訊く。それでいて真っ当な職に就きなさいだの、ありきたりな事は決して言わない。学生の選択を全面的に支持し、その上で心配しているのだと分かる。心配されている先輩は緩慢な動作で重たそうにビールジョッキを持ち上げたりテーブルに戻したりして具体的な事は何も答えない。いや、答えられないのだろう。きっと。


「俺は十二年後のお前だよ!」

 不意に別の席で飲んでいたおじさんの一人が声を掛けて来た。酔っ払い特有の大きな声。ワイシャツにネクタイ。羽織っていたらしい背広は、自分たちの席の座布団の上に丸めて投げ置かれている。

「なあ信じてもらえないかもしれないが、俺は十二年後のお前なんだよ。お前は十二年前の俺。十二年前の俺は今ちょうど大学を卒業するくらいの頃だろう。懐かしいな。分かるよ。信じていないだろう。見た目も随分変わってしまったし、ああ酒も飲んでるからただの酔っ払いの戯言にしか聞こえないかもしれない。けど確かに。信じてもらえないかもしれないけど俺は未来のお前なんだよ」

 話しかけてきたおじさんは、本人が言うには十二年後のマルチ先輩なのだという。三十四歳? もっと年上のように見える。短く切り揃えた髪型はおでこが随分と広く見えるし、よれよれのワイシャツに張りのないズボン、田舎の寂れた漁村の浜辺に打ち上げられたイカみたいに乾涸びたネクタイは元の色を想像も出来ないほどに薄い淡い水色。自称未来のマルチ先輩が元いた席の方に目をやると、一緒に飲んでいたおじさん達はこちらの様子を一向に介する素振りもなく、楽しそうに残った二人で酒を飲み続けている。どうやらやばい人たちなのだろうか。貴方が本当に未来の俺だというのなら、卒業後の俺の進路を当ててみせろとマルチ先輩が相手する。

「十二年後からきた俺に聞きたい事がそんな事か? ひと月足らず未来の話? そんな事は来月になれば分かるだろう。そんな事より十二年後の進路の方がずっと気にならないか。いや、すまない。けどこれは残念ながら今の俺には教えられないのだけれども」

「失礼ですが十二年後も二十四年後も。先輩がネクタイを締めてスーツ羽織るようなお仕事に就かれるとはちょっと今の私たちには想像が」

 出来ませんねえと結城さんがはっきりと告げる。僕も同意見だ。しかしその喋り方の胡乱げな具合に百パーセント未来のマルチ先輩ではないとも言い切れない、二人に似通った何かを感じる、どうやら僕も酔いで正常な判断が出来なくなりつつあるのかもしれない。

「十二年後には私たちは君たちはどんな酒の肴で飲んでいるんだい。何か。十二年前の君にとって想像も出来なかったような『これ』というものはあるかい? 十二年前の人類が食べていなかったような何かは」

 先生が研究者みたいな顔をして質問する。気鋭。気持ちが若い。先生は十二年後も今の我々が想像も出来ないような酒のアテで、今と変わらずにこうして酒場にいるのだろう。ゼミ生賑わう宴会場に。社会人になった卒業生たちと安居酒屋に。一人、誰も知らない夜の街に。うーん、と頭を捻る十二年後のマルチ先輩。

「案外、失っているものの方が多いかもしれませんよ」

 僕たちの話に聞き耳を立てていた店主が追加で、再度注文したレバ刺しを爽やかな笑顔でテーブルの上に置いていく。新鮮なレバーからはかつて僕が子どもの頃苦手に思っていた生臭さはまるで感じられない。むしろ好ましく思える。二皿目だが依然箸が進む。十二年前の僕に「十二年後のお前、レバー好物になっているぞ」と伝えても、信じてもらえないだろうなあ。まったく。これだから過去ってやつは。疑い深い。



「3」

 まだ未来の自分と語り合いたいと言うマルチ先輩を残して、僕と先生と結城さんは一足先に店を出た。自分たちが飲み食いした分だけ会計しようとしたら店長に止められた。理由を呑み込めない僕たちに店長は「あちらの人たちが」と自称未来のマルチ先輩たちの方を示す。奢ってくれるという事だろうか。見ず知らずの人たちにそこまでしてもらう謂れも無い。僕たちはそんなわけにはいかないと食い下がるが、店長は「よくある事なので」と常連を庇う。そうなるともう僕たちには何も出来ない。世の中には常連客にしか分からないハウスルール、一見客の僕らにとっての不条理であっても罷り通る理屈が、世の中には確かに存在する。結局、損するわけでもない僕らは狸に化かされたような心持ちで店を出た。得はしたが釈然としない。釈然とはしないが店の外に出て数歩歩いたらどうでもいいかと思えた。良い店だった。いつか大人になったら社会人になったら僕もああいう類の行きつけの店を持つのだろうか。

 次の予定も決まらずに僕らはなんとなく駅の方へと向かって歩き出す。縁からまた中心へ。明かりが徐々に濃さを増し暗闇は薄れていく。時刻は、時計の針はもう少しで十二時へ。近付いていく。駅が近付き、また夜が近付く。深い深い夜が近付いてくる。満開のネオン。喧騒。朝へ帰ろうとする人を乗せたタクシー。何台かのタクシーとすれ違って僕らは繁華街へ戻ってきた。さて。と先頭を歩いていた松岡先生が僕らの方へ振り返る。

「君たちはどうする。まだ少し飲めるかい?」

 送り出す四年生たちは二人とも無事に送り出した。駅前のロータリー。バスターミナルから今日の最終かもしれない便が吐き出されて、すぐに別の、今日の最終かもしれない便が入ってきた。ベンチに座る人たちは誰もそのどちらにも乗るつもりはなく、ただ入ってくるバスを迎え、出ていくバスを見送る。僕は結城さんの顔を見た。結城さんも僕の方に顔を向ける。視線を合わせたかったが焦点がぼやけてままならなかった。太陽の日の光の下で全て明らかにされるような感情の機微の全てまでは読み取れなかったが、それでもおそらく彼女は今とても楽しんでいる楽しい夜を過ごしていてきっとその終わりを惜しんでいるのではないかとそんな風に思って、僕は彼女より先に「まだ飲めます」としっかりした口調で答えた。泥酔した舌を必死で動かしてはっきりと答えた。結城さんは一軒目を出た時と然程変わらぬ様子で「もう少し先生と飲みたいですねえ」と柔らかい口調で答えた。

「よし。それじゃあ、語り明かそうか。今日は―」

 先生が再びネオンの並木の満開の下へと歩き出す。僕らもそれに着いてゆく。喧騒の中心に近付くほどに笑い声叫び声全ては意識の彼方へと追いやられて、ごうごうと鼓膜の奥で意味を持たない言葉になってゆく。視線をほんの少しつま先へ向ければ天上から零れたネオンが若干、アスファルトの上に散って淡く光っている。僕はすぐに視線を上へと戻す。目の前には結城さんがいて、その少し先には先生もいる。僕は着いてゆく。ネオンの下をふらふらと揺れながら歩いてゆく。



 雑居ビルの二階は人の気配が薄い。四方を囲うアスファルトは冷えて心地良く、幅が広く勾配も緩い階段は酔いどれ達の為に誂えたように上りやすい。上り切って目の前にすぐ重厚な木造の扉。そして山桜のようにひっそりと咲く店頭のネオンが僕たちを出迎える。三軒目。bar『涅槃』。解脱にも、眠りに就くにもまだ早い研究者が五十余年の酒遍歴の末に辿り着いた隠れ家。大人の遊び場だ。

 扉も壁も夜との境界を失ってしまったかのように薄暗い店内。カウンターの向こう、バーテンダーと色とりどりのリキュールの瓶たちだけが少し強めのライトで照らされている。どうやらこの店のマスターらしい。松岡先生よりは若く見えるが、先生に負けず劣らずのナイスミドルだ。僕はこれまでロマンスグレーのバーテンダーは映画の世界にしかいないと思っていた。しかしどうやら五十年間酒を飲み続けると人はスクリーンの向こう側へも行けるのだ。先生はいつも僕に僕たちに僕たちの知らない世界を見せてくれる。マスターは松岡先生に気が付くと快く自分の目の前、カウンター席へと誘う。僕と結城さんもそれについてゆく。僕らの他に店内に客はいない。街の喧騒はもう遥か彼方。BGM、音量を目一杯絞ったJAZZを主張し過ぎない隠し味のそれを確かに感じる。

 先生は、自分はウィスキーを注文しそれから僕たちに好きにしていいよと促した。そんな風に言われても僕はこういった店でこんなシチュエーションでどんな風に振る舞っていいか分からない。頭の中になんとなく浮かんだこの場になんとなく合いそうな言葉、振り絞って「ジントニックを」とマスターに告げた。先生はとてもとても優しい顔で僕に微笑みかける。いいねと言われた。何がいいのかは分からなかったが僕はそれが少し嬉しかった。結城さんは少し甘ったるいような、だけどどこかで嗅いだ事のあるような独特の匂いのするカクテルを注文していた。彼女はアマレットという名前のリキュールを使っているんだよと教えてくれた。僕は名前の通りの香りだなとぼんやり考え、先生はやっぱり優しい笑みを浮かべていた。その顔はどこか嬉しそうにも見えた。それぞれのグラスがそれぞれの目の前に運ばれて僕らは今夜何度目かの乾杯をした。これが最後かもしれないし、最後ではないかもしれない。このまま夜が無限に続く気がした。つい先ほどもそんな風に思った。なんだろう。もう思い出せない。先生は僕たちに他愛の無い話題を一つ二つ振って、僕らはそれに答えて、そうして僕らは先生に他愛の無い話題を振った。六十万時間の大スペクタクル映画をコマ送りで観賞するような勿体ない気軽さで僕らは先生の人生を聴いた。

「君らくらいの歳の頃に、仲間たちの間で悪い遊びが流行った。誰が一番、一度にたくさんの女性と付き合えるかというゲームだ。うん、本当に良くない。省みればなんとも傲慢で無頼だ。結果的に多くの人の心を傷つけてしまった。仲間内でも僕は特にその遊びが上手だった。大学三年生の夏に、僕は同時に七人の女性と交際をしていた。そんな関係に納得している子もいたし、納得していない子もいた。中にはそういう自分以外の複数の女性の存在を知らせない子もいたし、自分から目を閉じ耳を塞いだ子もいた。僕にとって、当時の僕にとってそれらはどうでもいい事だった。何度も言うけど、ゲームだったんだ。ジェンガのゲームみたいに。時に慎重に言葉を選び、時に大胆に行動に移す。塔が崩れないように均衡を保つ遊び」

 先生がウィスキーをおかわりする。僕も同じものを。結城さんは先程とは違う、今度は甘い匂いのしないカクテルを注文した。

「そうして大学三年生の冬に、僕は八人目の女性と出会った。彼女は少し……うん。少しだけ他の女性と違っていたな。綺麗な人だった。花のように美しい女性は他にもいたが、彼女は花そのものだった。他人の目を自然惹きつけるような無機質。彼女の視線に射られると体温が少しだけ冷える気持ちがするんだ。我儘な人だった。僕は彼女に言われてもゲームを辞めるつもりはなかったし他の七人の女性との関係を終わらせるつもりは無かった。だけど結果的に全ての関係は崩壊した。彼女は最初にこの女性、次にこの女性、次、次と。一人ひとり指定しながら僕に他の女性たちとの関係を断ち切らせた。僕は謂われるがままに言葉の鉈を振り下ろして、瞬く間に彼女以外の全ての恋人と別れた。我儘な女性だったな。彼女と僕とは何一つ趣味が合わなかった。彼女は僕が当時好きだった音楽を全て否定した。僕は彼女のお蔭で随分と海外の音楽を聴くようになった。三年生から四年生になる間の春に彼女と別れた。彼女は花そのものだった。花が、散って消えるのが当たり前というように自然、僕の前から姿を消した」

 先生の部屋の片隅には彼女が残したマイルス・デイヴィスのアルバムが一枚、消えそびれた花びらみたいにいつまでも、今もまだ部屋の片隅に残っているのだという。



「3.5」

 空を見上げると随分と明るい。星と月はすべて消えて、太陽もまだおそらく地球の裏側にある。天井を覗き込めば所々底の見えない深い深い深い真っ暗い夜空があって、それを満開のネオンの花が隠し照らし染め上げている。背の高い建物に四方を囲まれた道を歩く。ネオンは夜空の底から建物の木の根まで漏れなく照らす。僕は上を向いて数歩歩いて右に左にふらつき、今度は足元を見て歩いて左に右にふらつく。視界は地上と宙を絶え間なく行き来する。宇宙を歩いているようだった。星の無い宇宙。暗闇に花だけが咲いている。駅を左手に大通りを横切り渡る。信号は赤と青が同時に点灯していてどうにもあてにならない。あてにはならないが、バスとタクシーはヘッドライトを点けたまま誰も動こうとしないので勝手に渡った。こんなに満開の森の中で、誰も動こうとしない。終電を終えた駅舎もまだ明るく咲き誇る。まるでみんな目を開けたまま眠ってしまったかのようだ。夜は終わらない。夜が終わらない。全ての居酒屋とバーが眠ったまま咲き続けている。

「先生のそういう話、聞きたくなかったです」

 三軒目のバーをどのようにして出たのか憶えていない。初めて連れて行ってもらったバー。自分がどこにいるのかもよく分かっていなかったはずだが、それでも、腐っても大学生。幾度となく夜の街を歩いた。記憶が飛ぶほど酒を飲む事などドブに吐いて捨てるほどで、五感の全てが酩酊しても酔いどれとしての第六感が僕を正しい方向へと、多分正しい方向へと歩かせる。

 先生と、それから結城さんとどのようにして別れてどのようにして店を出たのか憶えていない。結城さんは先生に、珍しく、あまり明るくない口調でそう言った。私、先生のそういう話、聞きたくなかったです。僕はどこへ向かって歩いているのだろう。彼女は。先生はどんな道を歩いてきたのだろう。明るい方へ。花の。ネオンの咲く方へ。

 大通りを渡り切りそのまま暫く歩いて一本裏の道に入ってゆく。通りの入り口には三味線抱えた弁財天を象った小さな石造が出迎え、その傍らに見知った顔が倒れている。ハチロウ先輩だった。道路の上に全身を投げ出し死んだように眠っている。あるいは本当に死んでいるのかもしれない。むかし先生から聞いた昔話。桜の花の満開の樹の下で死んだように眠っていた同級生の話。いやあれは。本当に死んでいたのだったか。寝ていただけだったろうか。物語のオチを、結末を思い出せない。ああこんな事になるのなら途中で電話してあげればよかった。こんな先輩ではあるがいなくなるのはやはり惜しい。こんな事になるなら電話に出てあげればよかった。こんな事になるならこんなに。

 飲み過ぎなければよかった。

「先輩。」

 こんな所で眠っていては風邪を引いてしまいますよ。僕は彼を起こそうと彼の背に手を触れると。途端に彼の服と身体とは全て桜の花びらになって夜に散ってしまった。花びらは香る桜のそれとは程遠い、瑞々しい十代の匂いがした。



「4」

 夜を越えて輪廻も越えた頃に、この街の酔いどれ達が最後に辿り着く居酒屋がある。『おでん屋』は名前の通りおでん専門店だ。ノスタルジーで、それでいてストロングスタイルな店。誰もが知っているし、選ばれしものしか辿り着けない。客はみな例外なく二階席に通される。酩酊した客たちを殺す目的で作ったとしか思えないような急な階段だ。二階席は畳敷きの広間になっていて、いくつかのテーブルにいくつかの夜が転がる。階段から上がってきて右手奥の席には手つかずのおでん盛り合わせと紫蘇焼酎のお湯割りをテーブルの上に残したまま突っ伏している中年がいて、それはいつ来ても必ず同じ形で鎮座するオブジェだった。決まって手つかずのおでん盛り合わせと紫蘇焼酎のお湯割り。別の席では若い(僕と変わらないくらいの年齢だろうか)カップルがこの期に及んで大根を譲り合っている。よく沁みた大根を、同じような眼鏡をかけたカップルが少しずつ摘まんでは互い譲り合いそうして幸せそうに二人サワーを飲んでいる。いったい何度グラスを空にすれば、あんな幸せな酒に辿り着けるのだろう。いったい。

 店は始発電車がやってくるまで開いていると聞いた事がある。具体的に何時が閉店なのかは誰も分からない。あるいは始発さえ来なければ、夜さえ終わらなければ、僕らはこの座敷から永遠に出られないのかもしれない。社会人らしいスーツの集団が、歯の欠けた古い櫛のように何人か倒れ、それでもまだ何人かは元気にビールを飲み続けている。まるで何かの我慢大会だ。彼らはおでんを食わない。代わりに乾いた刺身を大事そうに眺めながら酒を飲む。

 僕の目の前にはお通しの小鉢と、それから格好つけて頼んだ日本酒が一合。洒落気のない徳利と御猪口を、僕はじっと睨んでいる。誰かが水、頼んだとほうがいいよと耳打ちしたような、耳打ちされたような気がした。頼んで堪るか、と歯を食い縛る。歯を食い縛り、喉を食い縛って震える右手で必死に徳利を持ち慎重に慎重に杯を満たした。水分でひたひたになった瞳からお酒が零れないように、力強く睨んで、僕は徳利から御猪口に持ち替えそれを口元へ運ぶ。酒の一滴は血の一滴だ。また誰かが僕に耳打ちする。大学に入学してから、色々な人と酒を飲んだ。色々な人が僕に酒の飲み方を教えたがった。大学には何故かやたらと、そういう事をしたがる人が多かった。最初は生ビール、男はカルアミルクを飲んではいけない、チェイサーは大事、つまみは塩が至高、己の限界を知る事が大事、飲み過ぎ注意、酔っても他人に迷惑を掛けてはいけない。それから、えーと。

「手酌はあかんよ」

 二杯目を飲もうと手にした徳利を僕はいつの間にか隣にいた女性に制される。結城さんだ。

 日本酒は手酌で注いではいけない。日本酒は一人で飲んではいけない。日本酒は、誰かと一緒に。

 僕はほんの少し救われたような気持ちがして、追加の御猪口を一つ、それからよく沁みた大根を一つ注文した。


 ******


 日曜の朝は大いに晴れた。

 大学の近くにまるで草原みたいな何もない公園があって、そこは春になると一面に黄色の菜の花と淡い桃色の桜の樹が同時に満開に咲いて空と地とを埋め尽くすのだそうだ。

 まだ肌寒い三月の終わり。もう春の足音が聞こえそうな四月の始まり。この町では桜の花は別れの季節にも出会いの季節にも間に合わない。僕らはそんなものに感傷を抱かない。いや感じる事はあっても、浸る事はなくて。

 今はまだ何も咲かない緑色の草原、水色の空の向こうから、ゆっくりと。柔らかい太陽の光に目を細め、結城さんがこちらに向かって歩いてくる。



<了>

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