78 「あなたの隣でしか呼吸をしたくない」と君は言う
「名残り惜しいけど、ずっとこうしちゃいられないね」
すっと雪姫が俺から体を離す。この刹那、言い得ない空虚感を感じたけど、それはきっと上手く隠せたはずだ。
「こら」
雪姫が頬をふくらませる。
「冬君にそんな顔されたら、また離れられなくなっちゃうじゃない。冬君の寂しがり屋さんめ」
雪姫は俺の額にそっと口づけをする。思わぬ行動に俺は顔が熱い。雪姫に触れてもらってよやく、自分の感情が隠し切れていなかったことに気付く。
「ご飯、作らないと。あり合わせになるけど、ごめんね」
「俺、食べていって良いの?」
「むしろ、帰ろうと思っていたの? そんな寂しそうな顔しているのに、もぅ」
「いや、だから、俺の気持ちを見透かすの無し――」
恥ずかしくなってそっぽ向くが、雪姫の前ではそれは無意味で。あっという間にゼロ距離で埋めてくる。
「離れたいと言っても離してあげないって、私は言ったよ? それに冬君が寂しがり屋なのだって、今さらだからね。そういうところも含めて、私は好きなんだから。私は冬君に遠慮しいって決めたから。だから冬君も遠慮しないで。私も、冬君におねだりして欲しいよ?」
俺は多分、呆けた顔をしていると思う。雪姫に遠慮しないって決めたのに、ドコかでブレーキをかけ遠慮していたんだろうか。こういう時にいつも気付かされる。雪姫は閉じこもって弱い女の子じゃない。本当は芯があって、真っ直ぐで。誰かのためにこうやって気持ちごと寄り添える子だと思う。ただ、その芯を汚泥で埋められただけなんだ。
思わず、俺は雪姫を抱きしめた。
「もう冬君ったら」
雪が頬を緩ませる。そう言いながら、俺の背中に改めて腕を回す。この近すぎる距離感に安堵する自分がいた。
「――でも本当に名残惜しいけど、お昼を作らない、と……」
そう言いながら、満足そうに吐息を漏らす雪姫を尻目に、盛大な溜息が一つ。
「そのやりとり兄ちゃん達、何回目?」
心底呆れたと、ゲームをしていた空君に睨まれた。
■■■
しゃー、と台所から水音が聞こえる。俺も手伝うよ、という申し出は雪姫に丁重にお断りをされた。
――だって、離れたくなくなっちゃうから。それに今日は、私が冬君におもてなしをしたいの。
それに、ね。
そう雪姫は付け加えた。これからイタズラするぞ、って表情で。間違いなくクソガキ団の【雪ん子】として、悪い笑顔を浮かべていた。
――冬君には、空が翼ちゃんのこと覗かないように見張っていてもらわないとね。
むしろ雪ん子と言うよりは、小悪魔じゃないだろうか。そんな表情を見せる雪姫も可愛いと思っちゃうんだけどさ。
爆弾を投げ放たれ、空君は慌てふためく。言葉にならない反論を含めて、天音さんのことをどう想っているのかは推して知るべし、だった。
雪姫が台所に行ってしまったので、仕方なく、空君がゲームしているのを尻目に、ソファーでスマートフォンを操作する。
写真アプリを開けば、今までの色々な雪姫の様々な表情が飛び込んできた。リハビリを開始当初の不安、驚き、戸惑い、緊張。全てが入り混じった、そんな雪姫の素顔。アプリをフリックしていけば、いつの間にか自然と俺に笑いかけてくれるようになっていた。
そんな雪姫の表情を見ていたら、自然と頬が緩んでしまう。
と水音が鼓膜を震わす。意識しないようにしていたのにな、と俺はため息を漏らす。
キッチンから聞こえる水道の音が、つい先ほどの雪姫の姿を否応なしに呼び起こす。忘れるな、って言う方が無理だった。
お湯に濡れて、艶やかで。
どことなく色香を感じさせて。
それなのに無邪気で。
その双眸が俺を誘うんだ。理性に抗うことで、精一杯だった――。
■■■
雪姫の髪を洗い流す。ここまでは無心でできた。スタイリストの卵――自分の領域だから。でも洗い流して、髪のお湯をきって。タオルで包んであげて。
その後で気付いた。雪姫の白い肌も。紺色の水着も。【3-1 下河雪姫】と書かれたゼッケンも。全部、心臓に悪かった。
「やっぱり、冬君に髪を洗ってもらうの好き」
吐息を漏らして。うっとりして。どこか溶けそうな目でそんなことを言う。嬉しい――でも、それ以上に、鼓動が打ち鳴らす。自分が知らない雪姫の表情に、翻弄されている自分がいた。
「じゃ、次は冬君の番だね」
「へ?」
俺は目をパチクリさせた。まるで予想をしていなかったから。言われるがままに、俺はシャワーチェアに座らせられる。
いつ以来だろう、って思う。母さんは、髪を洗うのが下手くそで、普通に耳にお湯を入れてきたのを今でも覚えている。
だからいつも、お風呂に一緒に入るのは父さんで。寂しがり屋の母さんは、無理やり、お風呂に入ろうとしてきた。
でも二人が忙しくなってからは、一人で過ごすことが多くなった。
父さんに髪を切ってもらうにしても、洗髪は自分でした。だって、あの人は俺に構っている時間なんかないから。
幼馴染と過ごす時間もそうだ。そんなくだらない理由でみんなの時間を奪う権利、俺にはない。
結局は、どこまでいっても上手くコミュニケーションが取れない俺は、一人で過ごすことが多かった。シャワーを浴びる時間。この瞬間が一番、孤独を感じる時間だった。
だから。
シャワーを浴びて、誰もいない部屋に戻る瞬間、とてもうすら寒い。お湯で暖かかくなった温度なんか、一瞬で冷え込んでしまう。
だから――。
今、細胞という細胞が沸騰しそうになるのはどうしてか。
「冬君、こんな感じで良いかな?」
「う……ん。ありがとう」
上手いか下手かと言われたら、上手いとはお世辞でも言えない。だって本職でもなければ、そういう勉強をしてきたワケでも無いから、そりゃ当然で。
でも暖かい。雪姫の手で髪を掬われ、優しく指の腹で皮膚をマッサージされ。お湯をかける時も、耳や目に入らないように、気にかけてくれるのが分かる。
気付けば、俺の髪が洗い終わっていた。
「あの、雪姫? その、ありが――」
「次は背中を洗うね」
「へ?」
俺の言葉は待たない。すぐに洗身タオルにボディーソープをつけて、背中を擦ってくれる。最初は優しく。でも、じょじょに強く。くすぐったさと、心地よさが同居する変な感覚だった。
緊張と。雪姫への欲情を抑えるのに必死だった俺は、その行為を無抵抗に受け入れてしまっていた。
「冬君の背中って大きいよね」
洗身タオルでごしごしっと擦りながら、雪姫は言う。と、その体勢のまま雪姫が腕をのばして、俺に胸にまで洗身タオルを回す。
「い、ゆ、ゆ、ゆっき、ゆき、雪姫、雪姫?」
「えへへ、冬君に“ゆっき”って言われるの新鮮だねー」
「い、いや、俺をからかわないで。ちょ、ちょっと、離れて、お、お願いだから!」
「イヤ」
と雪姫は言い切る。背中に体を密着させたまま、雪姫は俺の胸や肩を手探りで擦る。その度にボディーソープで雪姫の体が滑る。もう二人とも泡まみれだった。
「ゆ、雪姫。ダメ、これは本当にダメだって」
「だからイヤ。だって私、片時も冬君と離れたくないもん」
「い、いや。でも俺の理性が、マズいって――」
「だからイヤだよ。冬君にはしたない子って思われても、エッチな子って思われても、冬君は私を拒絶しないの分かっているから。それなら、もう私に躊躇う理由はないもん。髪を洗って欲しい、もっと触れて欲しい、冬君をドキドキさせたいって思っていたけれど――そんな顔されたら、止まるわけないじゃない」
「そんな顔?」
思わず自分の頬に手を当てる。
「もぅ。ほっぺまで、泡がつくよ」
「す、すでに全身泡だらけだよ」
「そうだね。でも、泡ぐらいじゃ冬君の表情は隠せないからね」
雪姫が俺の頬にすり寄る。
「冬君も男の子だね。ヒゲがチクチクする」
「そ、そりゃ、俺も男だし。男性ホルモンがあるから、ね。だから雪姫はもう少し、警戒心ってものをさ――」
「うん、男の子だなって思うよ。でもね、私の前では男の子の意地は見せなくても良いかな?」
「へ?」
「だってさ、今の冬君、捨てられた仔猫みたいなんだもん。ずっと、何かを我慢しているみたい」
雪姫がシャワーノズルに手をのばす。より密着して、雪姫の体温がより熱を俺の体に灯す。シャワーの微温湯じゃかき消せないくらいに、体が芯まで熱い。
「そ、そんなこと――」
カプッと、雪姫が俺の喉を脇から甘く噛む。
「い、痛ッ。って、雪姫? 口に泡がつくから!」
「シャワーで流したから大丈夫だよ。私は冬君に遠慮も妥協しないって決めたんだからね。全部、今すぐ晒せって言わないけど。でも、それでもだよ? 私に支えさせて欲しいかな?」
「へ?」
「私が弱いことは重々承知しているけれどね。冬君に支えてもらってばかりだけど。でも私だって、冬君のことを支えたいって思っているよ」
「それは……俺だって、数えきれないくらい雪姫に支えられているから……」
見透かされているのとも違う。分かりやすいワケじゃないと思う。ファンタジーじゃないから無条件に伝心するワケもない。絆というには、二人は幼い。出会ってからの期間だって短い。それなのに、お互いの不安や心の揺れが、こうも理解してしまう。あえて言うとしたら――キモチが浸透してしまうのだ。溢れてしまう以上、どう足掻いても止められるはずがなかった。
俺は小さく息をつく。だったら、観念するしかない。そもそもだ。散々格好悪い姿を雪姫には見せてきたのだ。最早、今さらだった。
「……ただ、思っちゃったんだ。こっちに来てからは相棒がいたけど。いつも、シャワー浴びる時間帯は、俺一人だったから。あ、今は一人じゃないんだな、って――」
んぐっ。思わず息が一瞬止まる。するりと雪姫が、脇からぬけて正面から俺を抱きしめた。
「うん。冬君は一人にしないし、させない。これからは寝る前に、冬君にお電話しようかな」
「え……。あ、うん。ごめん、なんか情けなくて。本当に格好悪くて――」
「だから。私だって冬君を支えたいの。それに冬君が寂しがり屋だって、私は知っているよ? そういうトコも含めて全部、冬君だもん。そういう感情も、そうじゃない感情も全部、吐き出して欲しいって思うよ」
にっこりそう笑って言う。チロッとのぞかせる小さな舌が、イタズラめかして妙に艶やかだ。
「……ごめん、違うね。吐き出して欲しいし、隠しても私が吐き出させてあげる。私の前では素顔を見せて欲しい。誰にも見せない顔、私だけの顔を。でも誰にも冬君のそんな顔は見せてあげない。だって、私だけの冬君だもん」
まるで小悪魔な雪姫は、俺のそんな感情を咥え込むように、口吻をする。抱きしめられながら。その小さな掌で俺の弱々しいキモチを覆うように。
「もっと吐き出して欲しい。でも私だけがその表情を独り占めしたいの。絶対、誰にも見せてあげないんだから」
シャワーの音を掻き消すくらい。雪姫の囁きが、鼓膜を震わす。
あまりに鼓動が早まるので、視野が白濁として。視覚も感情も不透明で。
だってね。そう雪姫が囁いた。私が、冬君のことで遠慮する理由なんて、何もないから。本当は素肌だって、どんなコトだって、晒して良いって、そう思っているよ? そう雪姫は言う。
ビクンと体が震えるのは臆病だからか。
どうしようもなく、雪姫を求めてしまって。ずっと空白だった隙間を埋めるように、雪姫を抱きしめてしまう。でも、ドコかで傷つけてしまうことが怖いとも思ってしまう。
――怖がらないで。少しずつで良いから、吐き出して?
そう雪姫が囁いた。
■■■
「兄ちゃん、顔が真っ赤だけど大丈夫?」
空君に声をかけられて、ハッと我に返る。そう言う空君だって、顔が赤い。
見れば、空君もテレビ画面には【ゲームオーバー】の文字。
ランキング82位とあるので、珍しいと思った。空くんが好んでプレイするネット対戦型バトルロイヤルFPS「フォーリンナイト」
このゲームで、空君は概ねトップを示す、ナンバーワンを何度も獲得していた空君だ。そうでなくても10位圏内。この成績はちょっと珍しかった。
「ん……。ちょっと、意識しただけだから。ごめん」
素直にそう言う。誤魔化してもきっと、墓穴を掘るだけな気がした。
「姉ちゃんがあんな風に暴走するなんて、ね」
空君の表情に呆れと苦笑が混じる。
と、俺は空君を招き寄せて、この会話をあからさまにはぐらかす。
「この後シャワー浴びるにしろ、そのままじゃ風邪ひくよ」
と肩にかけてあったタオルを取り、髪を包んであげた。
「え、いや、俺もすぐシャワー入るし。だ、大丈夫だって、兄ちゃん――」
照れてますます赤くなる空君を引き寄せる。
「君が風邪をひいたら、天音さんが悲しむでしょ」
「う、それは……」
安易に想像できたのか、空君が言葉を詰まらせる。最初こそ恥ずかしさから抵抗していたが、空君は次第に俺に身を任せてくれた。
「……に、兄ちゃん。こ、これはヤバいヤツだ」
「ん?」
「姉ちゃんがダメな子になるの、分かる気がする」
「ダメな子って……」
思わず苦笑が浮かぶ。これでもスタイリスト、理容師の卵だと思っているので、お客さんがリラックスできるよう心がけているつもりだ。雪姫は、誰よりもロク別だと思って接して髪を触るから。自分のなかで明らかに差があるけれど――。
「――ありがとうね、兄ちゃん」
「へ?」
「姉ちゃんの特別になってくれて」
「……なれているのかな?」
そうだったら嬉しい。そうでありたいと思う。そうなるように努力をしている。でも、時々、自分の弱さが、こうもあっさり雪姫に浸透してしまう。
「冬希兄ちゃんじゃなきゃダメなんだと思う。姉ちゃん、スク水で襲うのどうかと思うけどさ。今までだったら、あんなに自分の気持ちを晒すとか、ワガママをいうの本当に有り得なかったからね」
「そう、なの?」
「兄ちゃんは今の姉ちゃんしか知らないから、そう思うんだろうけどけど。でも、なおさら感じるよ。多分、姉ちゃんは兄ちゃんじゃないとダメだから」
「そうだったら、嬉し――」
「そうだよ。絶対、兄ちゃんじゃないと無理。だから、これからもあんな姉ちゃんだけど、受け止めてくれたら嬉しいよ。きっと周りが見えなくなって、今日みたいに暴走するかも、だけどさ。その時はしっかり言ってもらって良いから――」
「俺にとっては、ぜんぶ可愛い雪姫だけど、ね」
「……そ、そういうこと平然と言うもんな、兄ちゃんは。俺は無理。意識したら絶対にそんなこと言えないよ」
俺は目を細め、つい唇が綻んでしまう。きっと空君は、誰かを意識してその言葉を紡いでしまった。それこそ、自分の衝動に突き動かされるように。
「むしろ意識して言う必要はないかな?」
「え?」
「目を閉じて思い浮かんだ人がいるなら、きっと空君にとって大切な人だと思うし。気持ちが溢れたら、言葉なんか自然と出ちゃうよ」
「う……うん」
空君はコクンと頷く。タオル越し、髪をポンポンと叩いてあげた。終了の合図だ。
「今ので、何となく感覚は分かったでしょ? せめてタオルドライくらい、してあげる?」
「へ?」
見れば、シャワーから上がった天音さんと、それから雪姫がじっとこちらを見ていた。
「に、兄ちゃん?!」
「俺は雪姫を手伝ってくるね」
そう言って、すっと立ち上がって、雪姫のもとへ歩む。俺が掴むより早く、雪姫の掌がのびて。
天音さんが、空君のもとへ歩む。
すれ違う瞬間の彼女は、意識するまでもなく、たった一人しか見ていない。双眸にそんな意志を宿していた。
その刹那、雪姫が俺の腕にしがみついた。
その声が俺の鼓膜を震わせて――雪姫じゃないとダメなのは、むしろ俺の方だった。
■■■
――冬君がいないと、私は息ができない。冬君がいなかったら、呼吸ができない。あなたの隣でしか呼吸をしたくない。だから絶対に離さない。私、冬君がいるから呼吸ができる。冬君がいないと、私は息ができないんだからね。
【とある中学生たちの会話】
「お兄さんと仲が良さそうで」
「いや、なんで怒っているし」
「別に怒ってないけど? ただ仲が良いなぁ。ラブラブだなぁって思っただけ。別に放っておかれたとか思ってないし」
「男同士だし! 兄ちゃんが心配してくれただけだし! むしろ、こういうことするの翼だけ……だから。翼以外にしようなんて思わないし」
「……」
「つばさ?」
「……お風呂上がりの顔、あんまり見られたくないの。覗かないで」
「いや、う、うん? でも大丈夫? のぼせた? 耳まで赤いけど?」
「耳も見ないで!」
「どうすりゃいいんだよ?」
「そんなにお兄さんと仲良くしたいなら、二人でフォーリンナイトもすればいいじゃない……」
「あ、それ良いね」
「へ?」
「相棒モードで、俺と翼。兄ちゃんと姉ちゃんでやる? あのバカップルにどれだけ俺らの息がピッタリか、見せつけちゃおうか?」
「え……あ、え? 空君?」
「初心者だからって、手加減はなしでさ。とことん叩きのめしてやろう。翼の射撃本当に綺麗だからさ。衣装も本当に可愛いし。ま、現実の翼には負けるけどね」
「そ、空君?!」
「ん?」
「そういうトコ、そういうトコなんだからね!」
「へ?」
「本当に、もぅ――空君のバカっ!」




