77 彼にワガママを言う。彼はワガママじゃないと言う。
――あのね、冬君? 一つワガママ言っても良い?
――言ってみてよ。俺ができることなら、喜んでするから。雪姫はすぐ溜め込むでしょ? 今まで我慢してきたんだから。俺には、遠慮なくおねだりしてくれて全然良いからね?
――冬君、あのね……。
■■■
春風が濡れた髪を揺らす。微かにひんやりとした感覚をもたらして、心地よさを感じた。
夢うつつ、そんななか。
冬君に丁寧にタオルで拭いてもらって、ようやくこの状況が現実だと認識できる。
数刻前を思い返し、私は目を閉じる。
朝起きたら、冬君が目の前にいた。
その瞬間から、まるで夢を見ているみたいで。
一瞬、脳内が沸騰しそうなほど、気恥ずかしさが体内を――細胞という細胞を駆け巡るのを感じる。言葉では言い表せない程の幸福感に包まれていた。
慌てふためく冬君を見やって、私は自然と頬が緩んでしまう。この人は体面や体裁よりも、何よりも私を傷つけてないか。それを一番に考えてくれている。それは、私の服と自分の服を見やって、安堵の息を漏らしたことで明らかだった。
でも体を離そうとするから、思わず引き止めてしまう。
『……離れたらイヤだよ、冬君』
そう言って私は躊躇いなく、冬君を抱きしめていた。時間が足りない。もっともっと求めてしまう。冬君といる時間は満たされる。冬君がいないと、途端に空虚感に襲われる。だから、冬君がくれたストラップ。冬君と撮った写真。頭の中を巡る二人の想い出。全部、かけがえがなくて大切で。
(でも、足りない)
そう思ってしまう。もっと、冬君に触れたいし、もっと冬君と言葉を交わしたい。一緒に過ごしたい。欲ならどんどん溢れていく。
気持ちを告げたら、もう我慢しなくてよい。心の小瓶に蓋をしなくても良い。そう思っていたのに。蓋を外した今も、この瞬間も、上川冬希を好きという想いが止まらない。
――ゆっき、上にゃんのこと好きすぎでしょ。
そう彩ちゃんに笑われた。きっと呆れられたんだと思う。
むぅ、とその時は唸るだけだった。だって言い返せないんだ。以前は好きという気持ちがよく分からなかった。こんな気持ちは冬君が初めてだったから。だからなおさらに思う。絶対に、離したくない。
今こうしている間も、愛しさがこみあげてくる。ワガママを言っている。それも理解している。でも手櫛も好きだけど、こうやって冬君に櫛で髪を梳いてもらう瞬間って、本当に好きと思ってしまう。
「――き、ゆき、雪姫?」
冬君に呼ばれていたことに気付いて、はっと我に返る。見れば、冬君が手に何か薬剤を掌に滴らせていた。
「ちゃんと見ていてね。トリートメントをこうやって、髪に馴染ませるようにしてね。特にカールしているところを、ね」
「冬君にしてもらうのが、私は好きなんだけどな」
「流石に毎日は無理かな?」
「一緒に生活したら、できる?」
そう私がイタズラめかして微笑むと、冬君があからさまに狼狽するのが分かった。
「そ、それはそうかもだけど……」
「今日のように、また髪を洗ってくれる?」
「そ。それは俺の理性がもたない、と言うか。【恋する髪切屋】でなら、洗ってあげるか、ら――」
「私は今日のように、冬君と一緒にお風呂に入りたいよ?」
「……髪を乾かせないから、ま、前を向いて!」
冬君の慌てふためく様が可愛いって思ってしまう。あんなに包容力があるのに。時には、こんなに純粋で。恥ずかしがり屋で。そして寂しがり屋さんで。
強いだけじゃなくて。格好良いだけじゃなくて。そんな冬君が本当に愛しいと思ってしまう。
トリートメントを終えて、今度はドライヤーで私の髪を乾かす。
温風以上に冬君の手が暖かく感じた。その指先で髪を触れられるたびに、安心するし気持ち良いと思ってしまう。
つい目を閉じていると――。
「ただいまー」
「おじゃまします」
玄関から空と翼ちゃんの声が重なるのが聞こえた。本当にあの二人は仲が良いなって思う。二人の馴れ初めは、彩翔君経由で彩ちゃんから聞いている。
(あの空が、ね)
ついそう思ってしまうのは、お互いの良いも悪いも知り尽くしている姉弟だから。
でも、そうだね。空なら。転校初日、心細くしている子がいたら。
きっと学校案内くらいするかもと納得してしま――。
「空? 翼ちゃん? どうして、びしょ濡れなの?!」
思わず私は目を丸くした。
「あ、いや……その、色々あってさ」
と空が抱えているのは、バスケットボールで。
「あ――」
今でも鮮明に覚えている。
あの日。あの時。あの秋。追い詰められた私を救ってくれた空と――バスケットボール。
空が、大切なバスケットボールを投げ放ったあの日。
空が好きだったバスケットボールをあきらめることになったあの日。私は空の大切な時間まで奪ってしまって――。
「……え?」
私は目を疑った。
――お姉ちゃんにお願いがあるんだけどさ?
――なに?
――試合に勝てるように、おまじないいしてよ。この前、手に書いてもらったら、緊張せずゲームできたから!
幼い日のやりとりが脳内で再生された。セピア色にくすみ、所々ぼんやりとした遠い昔の記憶が。
試合になると緊張する弟の手に、【おまじない】と称して、私は”Sora”って書いてあげたのだ。まだ学校でローマ字も習っていなかったのに。
――お姉ちゃん、これって……?
――もう一人の空が、ドキドキ担当。目の前の空はゲームで勝つの担当ね。
ニッと私は笑ってあげた。単純な空はそれで気をよくして、試合に勝ってしまったのだから、現金なものだと思ってしまう。
幼い時の空は自分の大切なバスケットボールに、さらに【おまじい】を要求してきた。
あの時の私は『仕方ないなぁ』って笑って、バスケットボールに名前を書いた。
Sora――と。
見れば、あのバスケットボールに名前が増えていた。
Ayato,Minato――それから、空の名前の一番近い場所に、Tubasa。
視線に気付いたのか、空が妙にどぎまぎしている姿が新鮮だった。
「あ、これは……その。ちが、いや、違わないけど……。翼が、無理をして、あ、だからさ――」
私はふんわり笑みが溢れるのを実感した。視界の端に熱い感情が滲むのを感じながら。
「翼ちゃん、ありがとう」
「あ、えっと、その……」
翼ちゃんが真っ赤になって、俯く。皆まで言わなくても理解した。翼ちゃんが、空のためにバスケットボールを探してくれたんだ。
「だって……。空君のために、何かをしたかっただけなので」
「も、もう良いだろ? このままじゃ風邪ひくから、シャワー浴びるから。この話はこれで終了、おしまい!」
「はいはい」
私は苦笑する。どうせ空に聞いても教えてくれないから。それなら後で翼ちゃんに聞けば良いから。そう思って目尻から零れそうな涙を拭こうと指をのばして――。
と、自然に私の目尻を冬君がタオルで押える。それから何事もなかったかのように冬君が私の髪を櫛でまた梳く。私の気持ちに、いつでもこうやって冬君は寄り添ってくれる。
「空君、ごめん。先にお風呂いただいちゃって。浴槽、もう洗っちゃったんだけど……」
「この時期だからシャワーで大丈夫だって、兄ちゃん。ありがとう。姉ちゃんは湯船につかるの好きだからね。かなり長風呂だったでしょ?」
ニカッと空は笑って、翼ちゃんの手を引いていく。あらら? 翼ちゃん、さらに顔が真っ赤だよ? 空って、ああいうところ、本当に無頓着なんだよね。
「ねぇ、雪姫」
「なに、冬君?」
冬君に櫛で髪を梳いてもらうの、本当に好き。触れてもらうのも。こうやって寄り添ってくれるのも。冬君の膝の上で温度を感じるのも。冬君の言葉も。その全部ぜんぶ。私のなかで燻っていた過去の不安は、全部溶けてしまっている。本当に好き。大好きだって、思う。
「……あ、《《アレ》》あのまま片付けてなかった気がするけれど、大丈夫?」
「あ――」
失念していた。そういえば、後で片付けようと思って。逡巡する余裕もなく、空の声が響き渡った。
「こ、こ、このバカ姉っ! な、な、な、な、何を考えているのさ?!」
ダダダダダと足音をたてて、空がリビングに戻ってきた。
私の《《スクール水着》》を握りしめて。
さらに顔を真っ赤に染めた翼ちゃんが、リビングを覗く。
「空、ちょっとそれは変態っぽいよ?」
「空君、お姉さんに欲情しているみたい」
「姉ちゃんに欲情しないし、するワケがないでしょ! 翼はちょっと黙って!」
「いや、俺は理性がやばかったけどね。流石に雪姫と二人でのお風呂は」
「冬君、意識してくれたの?」
「意識するなって方が無理でしょ?」
「……そっかぁ。嬉しい」
「バカップル、誰がイチャつけと言った!? 姉ちゃんって、こんなに歯止め効かなくなる人だったの? 俺、この年で『おじさん』って言われたくないからね!」
「そ、そ、そんなこと、まだしないもん! 空のエッチ!」
「いやいやいや、兄ちゃんを誘ったのは姉ちゃんでしょ?! 俺は姉がこんなにビッチだって思わなかったよ?」
「だって……。冬君と離れたくなかったの。それに髪を洗うなら、冬君にして欲しかっただけ、それだけだもん……」
でも見方によれば、私から冬君を誘ったことになっちゃうのか。はしたない子って思われちゃったのだろうか? 冬君に嫌われないか、途端に不安になる。今更ながら、恥ずかしくなって体中の血液が沸騰しそうになって――そんな私を冬君が躊躇なく、包み込むように、抱きしめた。
「俺も離れたくないって思っていたから。でもごめんね、雪姫の方からそんなことを言わせてしまって」
冬君が私の耳元で囁く。その声音が、それだけで甘い。拒絶なんてされていないことを痛感して、ますます胸が熱くなる。
「それから、空君。誓って言うけどさ、やましいことは何もしていないからね。君のお姉さんを傷つけるようなこと、絶対にしないから」
私から、空や翼ちゃんの表情は見られない。ただ、何となく。空の口から苦笑が漏れた気がした。
「むしろ兄ちゃんにはしっかりと責任をとってもらわないとって思っているよ。姉ちゃんはもう冬希兄ちゃんじゃなきゃ、無理だからね」
それは私も本当にそう思う。冬君じゃなきゃイヤだ。冬君の隣が良い。冬君の全部を独占したい。一分一秒、呼吸、心拍数、その全てを感じ取りたいって思う。
だから――。
空になんて言われたって。
私も冬君の背中に腕を回す。
誰にだって。空にだって。冬君との時間は分けてあげない。誰にも譲らない。だって、冬君がおねだりしても良いって、そう言ってくれたから。
だから、おねだりをするんだ。冬君の全部が欲しい、って。
■■■
時は数刻、遡って――。
「あのね、冬君? 一つワガママ言っても良い?」
「言ってみてよ。俺ができることなら、喜んでするから。雪姫はすぐ溜め込むでしょ? 今まで我慢してきたんだから。俺には、遠慮なくおねだりしてくれて全然良いからね?」
「冬君、あのね……。私、髪を洗ってほしい。離れたくないから。一緒にお風呂に入りたい」
「え……。いや、あの、それは、ちょっとマズイって。だって大地さんも春香さんも家にいるんでしょ?」
「水着があるもん。冬君に髪を洗って欲しい。離れたくないから、一緒にいたい。それはダメなの? 離れたくないってワガママは、やっぱりダメ?」
「雪姫はさ、男がオオカミだって自覚すべきだと思うんだよね」
「オオカミの冬君は可愛いしかないと思う」
「……まいったよ、もう降参。お姫様の仰せのままに、だね」
冬君はそう言って小さく息をつく。照れくさそうに頬をかきながら。そんな冬君がますます愛しいと思ってしまう。
「それから、もうひとつおねだりさせて?」
ワガママじゃなくて、おねだり。冬君がそう言ってくれた。ワガママという言葉は後ろ向きだって私も思う。冬君が私を肯定してくれるのはもう分かっているから。
「王子様からのお目覚めをご所望します」
「もう、目が醒めているじゃんか」
そう苦笑しながら、冬君が私に唇を重ねる。この短期間に、何回こうやって唇を重ねたんだろう。
私は本当に貪欲でワガママで。何回だっておねだりをしてしまう。私は欲張りだから、冬君の全部が欲しい、って心底思ってしまう。
貪欲に――あなたの隣が相応しい女の子になりたいって、思う。
だから、やっぱり。
何度でも思う。何度だって言える。
誰にだって。冬君との時間は分けてあげない。誰にも譲らない。私は閉じこもって、諦めてばかりの女の子をもう辞めたから。
ワガママだと私は思っていた。
冬君はワガママじゃない、って言う。
それなら。
冬君の全部が欲しい。
私には閉じこもっている余裕なんか、ほんの少しだって無い。
貪欲にあなたの隣が相応しい女の子になりたいって、思うから。貪欲に、私だけを見てほしいって思うから。
貪欲に――。何度でも、私に恋して欲しいって思うから。




