76 3バカ ⇒ 4バカ
小川のせせらぎを聞きながら、俺はどんな顔をして良いのか分からない。
岩場に座り込んで、濡れたジャージを乾かそうと務める。隣に座る翼を、俺は正視できず、ただ石を小川に投げ放つ。
ひゅっと、風を切る。石が3回ほど川面で跳ねて、そして沈んだ。
「空君、すごいっ」
と感嘆の声をあげるが、俺は翼の方を向けない。
「えいっ」
翼が真似をして投げてみるが、一回で沈んでしまう。負けず嫌いの翼だ。その後も頬を膨らませながらチャレンジするも、最後まで成功することはなかった。
「むー」
悔しそうに翼が頬を膨らます。俺は苦笑しながら、石を取る。
「平べったい、こういう石が良いよ。こうやって持って。横に回転がかかるように、ね」
俺は翼の手を取って、添えるように力をいれる。もともと運動神経は良いし、センスがある子だ。翼は意図を理解して、腕にスナップをきかせる。
――石が2回跳ねて、そして小川の中に沈む。
「空君、見てた? 見てた? 私、できたよっ!」
翼が、あまりの嬉しさにぴょんぴょん跳ねて、俺にしがみついてくる。
「つ、つば、翼、分かったから! すごいから、すごいよ! すごく見えちゃうから、お願いだから正面に立たないで!」
もう俺は何を言っているのか分からない。濡れて冷たいのを承知でジャージの上衣を翼にかける。
「へ?」
翼は目を丸くした。翼は濡れた自分の姿を見る。慌てて、胸を押さえた。ジャージで隠れたから良かった。でもTシャツから透けた淡いピンク色が、網膜の奥に焼き付いて残像が離れてくれない。
「……空君のエッチ!」
「――ッ」
いや、だって俺も健全な中学生だから。無防備で距離感ゼロな翼が悪い。
「空って、ちょっとムッツリなトコあるもんねぇ」
湊? 今、このタイミングでそういうことを言うの止めてくれな――とまで思って、俺は痛みで顔が歪んだ。翼が俺の手の甲を問答無用で、つねってきたのだ。
「……つ、翼、痛ひ……から」
「……バカ。他の子もそういう目で見たら、絶対にダメだからね」
「み、見ないし!」
(どんな変態なの、翼のなかでの俺のイメージ?!)
と、後ろで彩翔と湊がクスクス笑っているのが聞こえた。
「そういえば、さ。つーちゃん、濡れるの覚悟でバスタオル持ってきてたよね? そっちの方が良かったんじゃない?」
「イヤ。空君はエッチだから脱がないし、返さない」
「え、えぇ? そういう目で見ないって。何なら、目を閉じて――つ、翼、痛い、痛いからッ」
さらにぎゅーっ手の甲をとつねられるので、何が何やら、どうして良いのか全く分からない。
「……絶対に他の子をそう言う目で見たらイヤだからね」
「それぐらいで、勘弁してあげて」
耐えききれなくなったのか、彩翔がクスクス笑う。遅いよ? もっと早く助けろ、と心のなかで舌打ちした。この状況、本当に意味が分からない。
彼女持ちの彩翔君、どういう公式あてはめたら翼の気持ちが分かるのか、ちゃんと教えて?! 本当に何が正解なのかまったく分からな――。
「ちょっと良いこと教えてあげるね。空にね『みーと二人でデートだよ』って言ったら、そこから血相変えて、【沢】まで走ってきたからね」
彩翔、余計なことを。そうと思ってから、はっと気づく。
「あ、そう言えば翼がデート中だったのに、ごめ――って、え? 湊と?」
俺は目をパチクリさせた。
見れば、俺のジャージを口元まで引き上げて半分、顔を隠しながら翼はまじまじと俺を見やる。その耳が心なしか赤い。
「他の人と私がデートしてるって思ったの?」
何故かぶすーっと頬を膨らませる。
「いや、あの、その……」
「スゴい顔してたからな。空もヤキモチ妬くんだなぁって。なんか感心しちゃったから」
「普段のつーちゃん見てたら分かるじゃん。他の男子にはメチャクチャ塩対応だからね。つーちゃんみたいな子が、男子の家に遊びに行くとか、理由は一つしかないじゃんね」
彩翔と湊が後ろで何やらゴニョゴニョ言っているが、耳に入ってこない。それより目の前の翼に目を奪われてしまう。無事で良かったって思う。グチャグチャした感情や思考が晴れていくと、今度は腹正しさが沸々と湧いてきた。
結果論としえ、怪我一つなかったのは良かった。でも下手をしたら大怪我する可能性だってあった。俺のバスケットボールを探してくれた――そこは純粋に嬉しい。でも翼が怪我をしたらと思うと、頭の中が真っ白になる。だから、だったんだと思う。
「翼、なんでこんなことをしたの?」
自分が思う以上に、語気が強かった。
■■■
「――なんでこんなことをしたの?」
その俺の言葉を聞いた瞬間、翼の表情が歪んだ。唇をぎゅっと噛んで、感情を溢さないように、必死に耐えているようだった。
「空、それはれちょっと言い過――」
湊の言葉を翼が遮る。
「空君はそうやって、またウソをつく」
翼は、キッと睨むように俺を見る。でも、その瞳から零れ落ちる滴を見て、俺は二の句が告げられない。ウソって、言っている意味が――。
「私、みーちゃんから聞いたよ。空君がどれだけ、このボールを大切にしていたのか。バスケを始めた日に、お義父さんに買ってもらったって。試合に勝てるように、お姉さんに名前を書いてもらった、って」
み、湊?! お前、何を言ってくれてんの――。
「1on1じゃ、あんなに楽しそうなのに。バスケ部の話をすると、途端に苦しそうで。今にも泣きそうな顔をするクセに」
「え……?」
それはまるで知らなかった、俺の表情のことだった。
「バスケ部の子とすれ違いそうになったら、途端に避けるでしょう? でもその後に、あの子達がどれだけ頑張っているとか、練習量アップし過ぎで故障したらどうするんだ、とか。そういう言葉が口から漏れているの、気付いている?」
俺は思わず、自分の口を押える。まったく無意識だった。
「そんなの、練習を見ていた人じゃないと、言えないからね。私のプレイだって、そだよ。私が報告する前に『今日も活躍したんだろ?』とか。上手くいかなかった時に『調子悪い時もあるよね』って。上手く誤魔化しているつもりだろうけど、そんなのちゃんと見てないと言えないからね、バカ! こっちは、どれだけ空君と友達になりたくて、君のことを見てたと思ってるの?」
「………」
翼の涙で潤んだ目が、俺の弱さまで見透かす。
「このバスケットボールにしてもそうだよ。空君の想い出がたくさんつまっているはずだよ。形ある想い出があれば、また思い出せるから。でもね、人間の記憶ってさ、とても冷たくてさ。あんなに仲良かった人のことも、過ごした街のことも、すぐに忘れちゃうから」
「……翼?」
俺は失念していた。天音翼って子はソツなく器用に何でもこなす。人の輪の真ん中で、誰にも優しくて。
かたや俺は、他者との距離を離すことに努めた。姉ちゃんを守るために放課後の時間を確保する。暴力沙汰になっても構わない。でもその時は、絶対バスケ部に迷惑をかけない。そんな約束事を自分の中でだけ打ち立てた。
そんなこと、周囲のクラスメートが知るはずがない。話すつもりもない。
だから、翼の友達が俺であることに違和感。それが奴らの評価だった。
――なんで下河なんだよ。
――身の程を知れよ。
――お情けで声をかけてもらってるクセに調子にのんな。
あえて俺に聞こえるように、奴らは囁いてくる。
でも、と思った。それさえ、どうでも良くなった。
翼はアイドルをもてはやされるのを嫌う。素顔は負けず嫌いだ。時に湊顔負けのヤンチャさもあって。他人行儀に遠慮されるのを一番に嫌う。「天音さん」呼びに戻した時の、ご機嫌の悪さは、教室内の空気を、一瞬で主苦しく塗り替えたほどだった。
俺が「翼」と呼んだ時。
本当に翼は、嬉しそうに笑ってくれた。
何より、転校を繰り返してきた翼は、素で自然に接することを求めていたのだ。もしかしたら、次に転校になることまで考えて、思い出作りをしていたのかもしれない。
この沢に工事が入れば、このボールだって、ドコに行くのかも分からない。目を閉じれば、重機にこのボールが押し潰され、瓦礫に埋もれる。そんな未来だってあったはずだ。
翼の言う通りだと思う。俺はバスケットボールを膝の上に乗せた。
このボールを失くしたことで、バスケそのものを諦めた。そう何度も自分に言い聞かせてきたから。
「――もう良いと思うんだよね。お姉さんにはお兄さんがいるでしょ? 空君が犠牲にならなくても、大丈夫だと思うの。だからさ、空君」
翼はその目から雫をこぼしながら、でも小さく微笑む。
「最後の試合、応援に来てくれる?」
俺は目をパチクリさせた。いや、もちろんコッソリ行くつもりだったけれど――。
「ちゃんと、私を応援してね?」
「へ?」
「彩翔君やみーちゃんが、一番なのは知っているけど」
「言っている意味がわからないんだけど――」
「……だって。空君達、幼馴染の関係に私が入り込めるはずないから。ワガママ言っているって分かってるけれど。でも、今回は私を一番に応援して欲しいから……」
しゅんと俯く翼に俺は手をのばす。
それはもう衝動的だった。
「バカだな、そんなこと思っていたのかよ」
その綺麗な髪を。今は濡れて、艶かしさすら感じる髪を無造作に――犬を愛でるように、掻き撫でる。でも、最後は冬希兄ちゃんをイメージして、手櫛で髪を整えてあげることも忘れない。
「ちょ、ちょっと、空君?!」
翼が抗議の声をあげるので、俺はニッと笑ってみせた。
「――ココ最近、ずっと一緒に過ごしているモノ好きは誰だって話じゃん。本当にバカだよな」
「……え?」
「それに俺たち、もうとっくに4バカだって思っていたよ?」
「そ、空君……」
「だから、俺が怒る気持ちも分かって。翼とボールを天秤にかけたらバスケットボールなんて、“そんな”だから――」
ぎゅっと、翼の――もとは俺のジャージの袖を掴む。気丈に、冷静に。そう努めていたのに。
――空って感激屋だよね。そういう空だから、俺は最高だって思うけどね。
――泣き虫のクセに、遠慮ばかりするんだから。そういう顔は私達の前だけにしてよ。
かつて言われた幼馴染たちの声が耳の奥で反響した。
「本当に感激屋だよな」
「つーちゃんになら、空が泣き虫だって知ってもらっいても良いかもね」
好き勝手に言うあいつらの声。それも、どうでも良いくらい――本当に良かったと心の底から思う。
失うことにならなかった。
何とか間に合った。
擦り傷程度で、怪我に至らなかった。
だから本当に良かった――そう思うのに、おかしい。視界が曇って、気持ちが抑えきれない。
「……翼が無事で、よかった」
耐えきれず、そう呟いた瞬間だった。暖かい温度が、俺を包み込む。
「つ、つばさ……?」
「私の知らない、空君の顔が見れたから。今は私にだけ独占させて?」
見れば、翼も俺と同じような表情を浮かべていて――。
「ば、バカ。今はみ、見ちゃイヤだよ」
さらにぎゅっと、翼に包み込まれて。
小川のせせらぎは穏やかで。
春風が優しく頬を撫でる。
頬を伝った跡が、冷たい。
俺と翼の抑えきれない感情が一緒に溶け込んで。
だから。
もうちょっとだけ、欲張りになりたくて。
俺も翼を包み込む。
情けないな、って思う。
何で今、俺が泣いてるんだろう。
でも、あぁ――そうか。と思う。翼の言う通り、ずっとウソをついてきたんだ。全部、本音なら飲み込んできたから。
■■■
ちゃぷん。
小川に石が投げ放たれる音を聞いて、我に返る。彩翔が石を投げて――ちゃぷん、ちゃぷ、ちゃぷ、ちゃぷんと。憎たらしいことに、4回程跳ねて、そして沈む。彩翔のこういう何やらせてもセンスで結果を出す姿は、本当に腹がたつ。――でも、今回は彩翔のおかげで助かった。
俺も翼も慌てて離れようとして――何故か、俺は翼の袖を掴んでいた。それこそ無意識に。
「あ――」
「そら君……」
「あ、ごめ、離す――」
「仕方ないなぁ。空君が寂しがり屋だって、今日でよく分かったから。だから、はい」
と躊躇うことなく翼が手を握ってきて、俺が戸惑う。顔が熱い。胸の鼓動が早まった。
「それじゃ、こうしようよ」
と湊が俺の隣に腰をかけて手を握る。湊の隣には、自然と彩翔が。
「へ? あ? え?」
「だってさ。私たち、とっくに4バカなんでしょう?」
ニシシと湊は笑う。翼は照れ臭そうに俯いた。でも、髪に隠れてチラッと覗かせる唇の端が嬉しそうに、綻ばせるのが見えて、思わず俺は安堵の息を漏らしていた。
と――。
「くしゅ、くしゅんっ」
翼が可愛らしくクシャミをして片手で口を押さえる。小川で体を冷やし、さらに俺の濡れたジャージを着こんでいるのだ、当然か。このままじゃ、風邪を引いてしまう。
「このへんで、今日は解散かな。つーちゃんが、風邪をひいちゃうもんね」
と湊が苦笑しながら言う。
「そうだな。早くシャワー浴びた方が良いと思う」
俺もコクンと頷く。と、湊はまるでイタズラを思いついたかのように、ニンマリ笑んだ。
「じゃあ、後は頼んだよ。空」
「へ? あ、うん。そりゃ、ちゃんと家まで送るけどさ――」
「本当に空ってさ、こういう時は鈍チンだよね」
「へ?」
なんで俺が非難を受けなくちゃいけないわけ?
「いつも湊は唐突すぎるんだって。ちゃんと説明して欲しいんだけど?」
「いや、単純な話なんだけどね。つーちゃんの家よりココからだと、空の家が近いじゃん? 下河家でシャワー浴びたら早いよね、ってこと」
「「な、な、な、な、な――」」
俺と翼の声が見事に重なった。
「おぉ。やっぱり仲良しだよね、君たちってさ」
「おま、お前、みな、湊! 冗談言うのも大概にしろって!」
「別に冗談なんか言ってないよ。効率の話でしょ? 体を冷やす前にシャワー浴びた方が風邪ひかないじゃん」
「いや、それで言えば、湊の家だって近いだろ!」
「当初はその予定だったんだけどね。汚れるの覚悟だったから。つーちゃん、着替えも持ってきてるけどね。でも、よく考えたら、今日は家にお兄ちゃんがいたんだよね」
「へ?」
俺は首を捻る。湊が一緒なら、光さんがいても関係なくない?
「だから空は鈍チンなんだって。私は彩音さん推しだからさ。誤解を招くようなシチュエーションはできるだけ作りたくない、って思っちゃうワケよ」
「いや、誤解を招くって……。むしろ俺の家のほうが誤解を――」
「つーちゃん、もう下河家の常連さんだって春香さん言っていたよ?」
あのバカ母、湊に何をリークしてくれてんの?! それに常連じゃない。冬希兄ちゃんの次に良く来てくれる程度だから!
「それにね。本当はこんなに時間をかけるつもりはなかったんだよ。朝の5時から、【沢】にいるからね。つーちゃん、空と1on1するのを楽しみにしていたからさ。流石の空でもこの意味は分かるでしょ?」
「……そ、それは、好きだからだろ?」
見れば翼が耳まで赤く染めている。でも、と思う。そんなこともう今さらだった。
「翼、バスケが本当に好きだもんな」
俺は心底そう思っている。好きなことに夢中になれる。結果を出してレギュラーを獲得している目の前の三人は、本当に尊敬する。コートを走り回る三人は、それぞれ本当にキラキラ輝いていると思う。
陽光の乱反射で、【沢】の小川が煌めく以上に、燦々と。爛々と。
と――何故か空気はピシリと凍りつくのを感じた。
「へ?」
意味がわからず俺は目をパチクリさせる。
「「「この鈍チンっ!」」」
どうしてか、3人に怒られた。




