75 空君のバスケットボール
「みーちゃん、あのね」
スマートフォン越し。いつになく真剣な天音翼の声に、私は面食らう。本当なら、この後、空達と一緒に1on1をする予定だったので、天音翼のお願いに困惑するしかなかった。
でも、友達は、居てもたってもいられない、そんな様子で。
真剣な翼の声に耳を傾けて――私は目を丸くする。
多分、私が断っても、翼は目的を達成しよう とする。それは少し――いただけない。
この子は、こんなにも空のことを想っている。だからすぐに行動ができてしまう。それが眩しいと思うし、危なっかしいと思ってしまう。
あの日。
空が退部を勝手に決めたあの日。
あの日。
雪姫さんを守ると空が決めたあの日。
あの日。痛いくらいに打ち付けた雨音が、まるで昨日のことのように、耳の奥底で谺する。
羨ましいな、って思う。
あのニブチンな空を変えようとしている翼。アイドルだから――可愛いからじゃないって分かっている。見てくれで心が動くほど、あの空は軽くない。何より翼自身がアイドルと言われることを、嫌がっている。
空はその人の人なりしか見ない。誰かのために一生懸命に行動ができてしまう。でも表舞台には絶対に立とうとしなかった。そして、いつも私や彩翔に押し付けてくる。私がぐいぐい引っ張って行くから。彩翔が明るくその場を和ませるから。
――湊ちゃんって本当に頼れるー。
――彩翔君、行動力あるよね。
――それに比べたら、下河って何なんだろうね。
――なんで、アイツとつるむの? 二人と全然釣り合ってなくない?
何も知らない人たちが、雑音を無節操に垂れ流す。
うるさい、うるさいから。
何も知らないくせに。
無責任に勝手なことを言うな。
だから、私も彩翔も言うべき言葉はもう決まっていたんだ。
「私たちの幼なじみをバカにするな」
「俺たちの幼なじみをバカにすんな」
不要なことまで思い出してしまう。
記憶が撹拌されて、混濁して。沈殿した先に、眠っている感情はずっとソコにあって。
あの日、あの時――。
思い返すだけで、体が冷たくなる。
耳の奥底で、今も雨音が鳴り止まない。
■■■
【中学二年生 九月】
――あの日。
ボールをドリブルする音が聞こえないくらい、雫が地面を打つ。それでも、あの時の私は楽しそうに笑っていたんだと思う。
「ほとんどさ、私の言いたいことは彩翔が言っちゃったんだよね」
「じゃぁ、もうよくない?」
空が辟易した表情を浮かべるのが可笑しい。でも私の腹の虫ら収まらない。だって、空にはもっともっと言いたいことが山ほどある。
「良くないよ。空は、私達を信頼していなかった。勝手にいなくなろうとしたじゃんか。コレ怒るなって言う方が、ムリだと思わない?」
シュッと私がシュートを決める。今日の空はやっぱり”らしく”ない。彩翔に続いて私にまで。徹底的にポイントを奪われて――攻めようとする意志は感じるけれど、すぐに私にボールを奪われてしまう。
「だからさ」
私は笑う。
「本当はね」
私は微笑む。その手が再びシュートを決める。今度はリングにあたって、跳ね跳んで。空は慌ててボールを追いかける。
「墓場まで持っていこうと思ったんだけどね」
空がドリブルするも、すぐに私にカットした。
「私ね、空が初恋だったんだよ」
空が目を丸くする。
きっと、そんなことを思ってすらいなかったんだろうな、って思う。
「い、や、あ。でも、お前、彩翔と――」
「安心して、ちゃんと彩翔のこと大好きだよ。でも今は私の初恋の話をしてるの」
私は小さく息をつく。
「空はさ、私のことをどう思っていたの?」
私はドリブルを続ける。
「どうって……手のかかる、もう一人の姉ちゃんだって思ってるよ」
そう言うと、私は不満そうに頬を膨らませた。
「前と言っていることが違うよ」
「前は前だろ」
と空は苦笑を浮かべた。
私はあの時の、勇気を振り絞って出した言葉が、今でも記憶を震わせる。
――空はさ、私のことをどう思っているの?
小学校の卒業式の時、そう空にそうやて投げかけた。
「空は『手のかかる妹』って言ったんだよ、あの時」
「……だって、もう妹なんて言えないだろ」
空が絞り出すように呟いた。
「だったら――」
ドリブルをしていたその手から、ボールが離れて転がっていく。もう限界だった。我慢していた感情。飲み込んでいた気持ちが、反射的にこみ上げてきた。
「だったら。だったら……もっと私たちを頼ってよ、バカ空っ!」
吐き出すように私は叫んでいた。それは溜め込んでいた消化不良の感情だった。
空は目を点にしていた。
空に言いたいことがたくさんあった。
「彩翔が私を好きでいてくれたことは嬉しかったよ。今じゃ私もちゃんと彩翔が好きだよ。でも、空。私たちは三人じゃなきゃ、意味が無いの! 勝手にいなくなるな! 悩む時は一緒に悩ませてよ!」
気付くと、私は激昂していた。唖然と、空が私を見る。
「そ、それは、う、うん。悪かったって……」
「今回だけじゃないよ! バスケ部の練習メニューだって、生徒会との部費交渉だって。全部自分で道筋たてたクセに、私達に託して、すぐにいなくなるじゃん! どうしていなくなるのよ! 一緒に考えてよ!」
「いや、だって。あの時は湊と彩翔が副部長で……」
「私と彩翔が付き合った時だってそう。私達が頼んでないのに、勝手に距離を置く。勝手にいなくなる!」
「……だって、俺はあきらかに邪魔で――」
「誰が邪魔なんて、言ったの?」
雨が降りしきる。破裂した感情とシンクロするように雨が振り続ける。
経年劣化で、公園のタイルはボロボロで。所々、水たまりが小さな池を作っている。覗き込めば、なんてひどい顔をして私は――笑っているんだろう。
「私は――私たちは、やっぱり三人が良いよ」
私はボールを拾う。弱々しくドリブルをしながら、ゴールを狙う。
スリーポイントシュートが――嘘のように、決まる。でも、目が痛くてボールがどこに転がったのかも分からない。
それでもなお、私は空からボールを奪おうと追いかける。
「み、湊?」
空のドリブルの音が、雨でほとんどかき消されて。
と。ずんと腹に響く音が、雨音をかき消すかのように一瞬、鼓膜を震わせた。それでも私は、空を追いかけることを止めない。
「このゲーム、絶対に終わらせない。空がいなくなるんだったら、このゲーム、絶対に終わらせてあげない――」
声が枯れて、喉が痛い。それでもお構い無いしに私は叫んでいた。
■■■
【中学三年生 5/2】
私は小川に、足首をひたらせながら、懐かしさと失われた切なさを感じていた。
通称――【沢】
小川を竹林と、裏山で囲む。かつては抜け道を通って、真上の通称“休憩場”まで行くことができた。高さ3メートル程度。岩肌に天然の足場があり、大人には禁止されていたが、ロッククライミングに興じる悪ガキも少なくない。――私たち三人もご多聞に漏れずお世話になった。
愛着があるこの場所も、黄色いテープが引かれ関係者以外立ち入り禁止とデカデカと書かれていた。
一年前の豪雨の影響による土砂崩れと川津波。
竹は薙ぎ倒され、山肌は露出していた。所々に積み上げられた土嚢。泥臭い匂い。今だに豪雨の傷跡が拭えていない。この場所に砂防ダムが建設予定らしいので――私たちの思い出の場所が、完全に消えてしまうのも時間の問題だった。
翼は土嚢を登り、少ない足場を利用しながら、上を――“休憩所”を目指していた。
本当にこの子は、と思う。
この子は空しか考えていない。
――みーちゃん、あのね。私、空君のことが好きなんだ。
恥ずかし気もなく言うのだ。そんなつーちゃんを私は羨ましいと思う。私が自分の恋心に気付くのが遅かったら、空は私を見てくれたんだろうか――そんなことを思って、でもそんな考えは、すぐに捨てる。
もう終わったことだ。この苦しかった感情も含めて、全部、彩翔が包み込んでくれたから。
だから今なら、笑って言える。初恋の人は空だったよ、って。
――みーちゃんのお眼鏡にかなうように、私、がんばらなくちゃ。
翼はそう言って笑う。
私は空のおかんじゃないから、審査なんかしないから。私が渋い顔でそう言うと、まるで鈴を鳴らすような笑みを翼は溢す。
――だって。みーちゃんがね、彩翔君のことはもちろん、空君のことを大切に想っているの知っているから。
翼の言葉に打算も計算もない。ただ純粋にそう思ってくれていることを感じる。
絶対に、この関係は誰にも理解されないと思っていた。
私も彩翔も、“何でも”できない。
空がいてくれたから。
彼が一生懸命、考えてくれらから。時には根回しをして、準備をしてくれていたから。私たちは、行動ができただけだ。
空が支えてくれると信じていたから。私たちは行動することができた。
あの日。空が部活をやめたあの日。
あの日。
空が雪姫さんを守ろうと決めたあの日。私と彩翔が本音を晒したあの日。
その次の日。
私も彩翔も熱で倒れて。二人の看病のため、それぞれの家に来てくれた空。まるで昨日以前と変わらない笑顔を浮かべてくれたことが嬉しくて――また感情が破裂して。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
だけど、悔しかった。結局、何も空にしてあげられないことが――。
そして、時はめぐる。
――あのさ、湊。翼と一緒にいるのが、お前らと同じくらい楽しいのにさ。いつも胸がドキドキするんだよ。これって何なんだろう?
一昨日のこと。空は真面目な顔で私に相談をしてきた。おかげで、フォーリンナイトの勝率がなかなか上がらなくてさ、そうぼやく幼馴染に、私は半ば呆れなて。
そして得心する。そっか、と。今、空は初めて恋愛感情と向き合っているのだ。そして案の定、向けられている好意に気付いてない、と。
「この鈍感マンめ」
私は悪意を隠さずに言ってやる。
「な、何だよ? 俺、別に鈍感じゃないし」
「じゃあココで問題です。今も、それ以前も空を好きな子がいました。それは誰でしょう?」
「は? そんな子いるわけないじゃん」
「それいけ鈍感マン☆」
私は思いっきり、空の頭頂部めがけてボールを投げ放ってやった。予想外の行動と痛みに空は悶絶するが、知ったことじゃない。ボールがコロコロと転がって、ドリブル練習をしていた彩翔の元に転がる。
「彩翔はどう思う?」
「……ま、天音さんとちゃんと向き合うべきだと思うよ」
「い、痛ッ、い、意味わかんないし」
「空はさ、気を遣って距離を置いたり、釣り合いを気にしたりするけどさ。あれ、地味に傷つくからな」
「いや、だって、俺なんか――」
「一緒にいたいって思う人に対して『俺なんか』って、それ拒絶でしかないから。俺らはバーカって言ってやれるけどさ。天音さんには、間違ってもそんなこと言うなよ?」
「う……。そ、それは……」
心当たりがあるんだなろうな。空の目が泳いでいるもん。世話の焼ける弟だよ、本当に君は。彩翔も心底、呆れたと言わんばかりにため息をつく。
「鈍感マン、新しい顔だよ☆」
彩翔が容赦なく、空めがけてバスケットボールを投げはなった。今更ながら、某国民級アニメヒーローとちびっ子達に、ごめんなさいを言いたい。
「同じ手は食う――……痛ッ」
バスケットボールはもう一個あるのを忘れてたね。空が怒り狂っているのを尻目に、私はレイアップシュートを決めた。
「み、湊! 卑怯だろ、それ!」
なんとでもおっしゃい。
勝負から目を離した空が悪い。
それから、翼ちゃんとの距離を置こうなんて思っちゃダメだよ。だって、あの子は本気で、空のことを好きなんだから。
でも――そもそも距離を置けるワケがない、か。
だって天音翼は、下河空に遠慮しないってもう決めているんだから。
■■■
石がパラパラと崩れた。
何度目だろう。
滑る音がして、また翼が川に落ちる。私は慌てて駆け寄るが、持ち前の運動神経でバランスを立てなおした。
目的のモノは、未だ封鎖された真上の【休憩場】に鎮座していた。
「つーちゃん、もう無理だって。大会前に怪我を――」
「ごめんね、みーちゃん」
翼は笑う。
「でも、これ。私のワガママだから。絶対、誰にも譲れないんだ」
そして、また岩肌を登ろうとする。何度、落ちても、また岩肌にかじりついて。断層がちょうど砂岩で、ちょっと力を入れたら、サラサラと崩れていく。ココを登るのは至難のワザだ。
上の抜け道を通れたら、ってつい思ってしまう。
幼馴染の思い出の場所として、紹介したけれど。よく見つけたよね、とつーちゃんには、本当に感心する。
でも、もう無理だ。無茶だって思ってしまう。いい加減、つーちゃんを止めないと、本当に怪我をして――。
「あと、ちょっと!」
天然の足場に乗り、最新の注意を払いながら、つーちゃんは手をのばした。
頂上に鎮座した、バスケットボールに指先が触れて。
ボールが川に落ちる。
油性マジックで【SORA】と描かれているのが、私の目からもはっきりと見て取れた。
あの日。
空が退部を決めたあの日。
雪姫さんを傷つけた先輩たちに投げ放ったバスケットボール。
あの日。あの時。空がバスケットボールを諦めようとしたあの日。
空が片時も離さなかったバスケットボール。
あの日。
あの時。
雪姫さんが、過去の事実を漏らした昨日の独白。つーちゃんは雪姫さんの話を聞いてから、ずっと引っかかっていたのだ。
いつか見た【沢】――”休憩場”に置き去りにされていたバスケットボール。その遠い、薄い、脆い記憶を辿って。
ぱらっ。砂が落ちる。
ざざっ。
また翼の足が滑った。
「つーちゃん!」
今度は背中から、翼が落下していくのが見えた。私は駆け寄ろうとするが、とても間に合わない。
「天音さん?!」
彩翔の声。小川の中、水飛沫を撒き散らして走る足音。音が奔る。小川の岩に足をかけ、影がまっすぐのびた。
「翼ッ――」
つーちゃんが、空中で体をひねる。その声の方へ。
満幅の信頼をこめて。
あぁ、そうだったよ。アイツは試合の時、練習では見せなかったパフォーマンスを、ココぞって時にこそ発揮するのだ。
水飛沫が散る。
私には、まるでその飛沫という飛沫が。水泡が。滴が――無数の羽根のように見えた。
まるで噴水が吹き上がるように、水が迸って。
小川のせせらぎ、鳥のさえずり。まるで何事もなかったかのように、私達に囁く。
「……つーちゃん? 空?」
小川のなかを漂うように、空が手を振る。下敷きになる形で、空がしっかりと翼を受け止めていた。
と、バスケットボールが流れてくる。翼は空に抱きしめられながら、手を伸ばす。
「つばさ?」
「……あの、空君。約束破ってごめん。心配かけてごめんなさい。でも、どうしてもこのボールを空君に渡したくて。お姉さんの話を聞いてから、みーちゃんと一緒に来た【沢】が頭から離れなく――」
翼の言葉は、空によって塞がれた。包み込むように、空が抱きしめたから。何一つ躊躇うことなく。
バスケットボールが、小川の流れに乗って流れていくのを、彩翔が拾い上げる。彩翔も全身びしょ濡れだった。
と、私は彩翔の隣に行く。
彩翔の手を握って。
ただ、この二人を見守る。
不器用なクセに。でも、お互いのことしか考えていなくて。二人ともそれが見え見えだから。――本当に手がかかるったらありゃしないよ。
「そら君?」
「――翼が無事でよかった」
安堵したように空が息を漏らす。その声が少し震えていた。そつなく立ち回って、アシストをしてくれるのが、下河空って男の子だ。誰よりも行動ができるけれど。誰よりも心配性で。色々な人のことを気にかけすぎで。そして――実は、ちょっと泣き虫で。
彩翔が人差し指で、くるくるとバスケットボールを独楽のように回していた。まるでそっちの方は見ていませんよ、とそう言いた気で。
翼が、空を抱きしめようとしたのを尻目に。
私と彩翔は岩場に腰をかけて、川の音色にただ耳を傾ける。
翼の決意を彷彿させるお願いを思い出しながら。
うん。君たちはとっとと付き合えば良いって、思うんだよね。
■■■
――みーちゃん、あのね。空君のバスケットボールを探したいの。あのバスケットボール、空君の宝物だったんでしょう? やっぱり、空君が全部諦めるのって、何か違う気がするんだ。
――え? もし、あの時、空君の傍にいたら? そうだね。お話すると思うよ、空君と。しっかりと、一番良い方法を相談したいって思うかな。
――だって、お姉さんも空君も悪くないじゃない? だったら、悪いことをした人たちに反省させたいし。
――なんで、そこまでするか、って?
――みーちゃんも、彩翔君だって、一生懸命考えた結果だと思ってるよ。それは、空君もそうだって思うけどさ。悩んで、袋小路に入り込んだら見えなくなっちゃうから。誰でも良いと思うんだ。光を照らすのは。照らせる人が、光を照らしたら良いと思うの。
――思い出ってさ。失くしちゃったら、もう思い返すこともできないからね?
――だって私は、空君が好きだから。好きな人の幸せを願いたいの。改めて言うと、ちょっと照れくさいけどね。
――あ、ごめん、みーちゃん、前言撤回しても良い?
――好きって言葉じゃ足りないよ。私、空君のこと大好きだから。




