72 107本の薔薇
「これ、俺の気持ちです!」
もう恥も外聞もない。ただ全力で。あの時の俺は彼女に想いを伝えたんだ。
■■■
「えっと……?」
今でも、困惑した春香さんの顔を思い出す。当時は櫻郷春香さん。ウチの学校の生徒会長で、生粋のお嬢様だった。
春香さんの第一印象はフザけたヤツ。入学式、早々、俺の茶髪を注意してきたのだ。地毛と言っても信じないので、ご指導通り染めてやった。――金髪に。真面目な彼女が憤慨していたのを、まるで昨日のように思い出す。
次の接点は、不良どもに彼女が絡まれていた時。振られた腹いせに集団で、オトシマエをつけようとしたらしい。その有り様がムカついたので、全員容赦なくブチのめした。春香さんは危なかったというのに「手加減しろ」とか「やり過ぎ」とか文句ばかり言う。だったら、反感を買うようなやり方は控えろと、売り言葉に買い言葉。言葉の応酬が繰り広げられた。
不良どもを放っておいて。
彼女が【熊さんの空手道場の門下生】と知ったのは、その後のこと。完全に俺の余計なお節介だった。
こんな俺だからバカどもから【狂犬】と言われていたが。この日を境に春香さんが【狂犬の飼い主】と言われたのは、不本意だった。生徒会長が、こんな俺と同列であって良いはずがない。
そんな切っ掛けから俺たちは始まった。
接点が増えていって。その点をつないで面になる。接地して、やがて弧を描いて円に。円と円が触れ合って。お互いの縁が重なり合う。
春香さんと一緒にいると、調子が狂う。
素の自分が出せてしまうのだ。
真面目なだけの生徒会長でないことを、もう俺は知っている。
お嬢様扱いを嫌がる。
イタズラ好きだし。からかってくるし。
負けず嫌いで、とても頑固だ。
それは今も――。
「私、先輩って言われるのは嫌いって言ったよね?」
「え、あ、いや、でもさ。それはハードルが高いって言うか。だって、先輩はやっぱり生徒会長なわけで。それにお嬢様だし、そんな――」
「会長って言われるのも、嫌いだし。お嬢様扱いはもっと嫌いなの知ってるでしょ? 大地さんの大事な一物、モグよ?」
彼女はこの時から遠慮なかった。しかし今から思い返しても、素の春香さんは言葉使いがヒドい。これは断じて俺のせいじゃない。
「……は、春香、さん……」
「本当は呼び捨てが良いんだけどね。よくできました、大地さん」
春香さんは微笑みながら薔薇の花束を受け取る。気心が知れる仲になってから、名前で呼び合うことを提案したのは春香さんだった。彼女は呼び捨てを御所望したが、俺にはあまりにハードルが高過ぎた。
でも――と思う。まだ呼び捨ての方が良かったのかもしれない。
だって春香さんは同列を求めたのだ。
俺が【さん付け】なら春香さんも【さん付け】で呼ぶ。まるで夫婦のようと、海崎や黄島にからかわれた。
学校内、生徒も教師も阿鼻狂乱になった。生徒は高嶺の花の春香さんを略奪された、と。教師は品行方正な春香さんを、俺が悪い道に引き込んだ、と。
でも春香さんが、生徒会長と櫻郷家の権力でねじ伏せた。
「やっぱり力は、必要な時に使わないとね」
爽やかに春香さんは言ってのける。
でも春香さんは、こんな俺との関係を実際のところどう思っているんだろう。この時は、そんなことばかりを考えていた。
単車で二人乗りして、一緒に走り回った。
春香さんに勉強会で散々しごかれた。赤点取って、補修になったら夏休みを一緒に遊べないでしょ? そう睨まれながら。
そして問答無用で生徒会の仕事を押し付けられた。
黄島と海崎には、呆れられつつ応援をしてもらって。
色々な時間を二人で過ごしてきた。
でも、このまま曖昧な関係はイヤだと、勇気を振り絞って、自分から踏み込んだんだ。
と春香さんが、薔薇の香を嗅ごうと顔を寄せようとして――。
「邪魔!」
声が飛んで、春香さんと誰かがぶつかる。見れば、俺と折り合いの悪い他校のサル達5人組だった。
その勢いで薔薇が一輪、アスファルトに落ちた。奴らは、気にすることなく踏み潰してしまう。
「――!」
春香さんの表情が強張る。奴らはそのまま通り過ぎようとした。薔薇を踏み潰したことにも気付きくこともなく。
「あの女、胸デカいっすよね。そりゃ先輩、ガン見しちゃいますよ」
「今度告白して絶対にモノにするから、お前これから舐めるように見るの禁止な」
「いやいやお前じゃムリだから。性欲だけのサルが相手にされるワケないじゃん」
と――。そんなくだらない話ばかりを撒き散らして。
「……待ちなさい!」
声をあげたのは、春香さんだった。
「あ?」
「人にぶつかって置いて。私の大切な宝物を踏み潰して、素通りってどういうこと?」
「はぁ?」
ようやく視線を俺たちに向ける。
「下河?」
花束と、俺の姿を見て、ポカンと間の抜けた表情を見せる。と、途端に腹を抱えて笑い出した。その理由は分かる。
俺は春香さんに告白するために覚悟を決めて今日という日を迎えた。ブラックスーツにこの身を包み、春香さんに薔薇の花束を捧げた。
覚悟を春香さんに知って欲しかったから。
奴らからしてみれば、とんだ見世物、笑いの種でしかなかったと思う。その一人が、おかしさを抑えられないと言わんばかりに、再度、薔薇を踏み潰した。
今度は明らかに、意図的に。歪んだ笑顔を、その顔にたたえて。
「誰が、笑えって言った」
ぐいっと春香さんが、ソイツの手を引く。
「あんた、もしかして噂の生徒会長さん? この駄犬の飼い主だろう? 下河に告白されたトコだって思うけどさ、犬とアンタじゃ釣り合わないでしょ。どうよ、俺に鞍替えしたら――」
馴れ合わず、喧嘩っ早い俺は不本意ながら【狂犬】と呼ばれた。そんな俺も春香さんにだけは頭が上がらない。だから春香さんが【狂犬の飼い主】と呼ばれはじめて。俺とこの人が同一視されるのは不本意だったけれど、何故か春香さんは嬉しそうだったのだ。
でも本来は一緒に見られて良い人じゃない。この人は本当にまっすぐで。心音まで綺麗で。そもそも、俺とは住む世界が違う人だから。
と、春香さんの手が動く。奴は何を勘違いしたのか、その手を恭しく取ろうとして――汚らわしいものを見るように、春香さんはその手を払った。
拳を握りしめて、その、腹部に繰り出したのは正拳突き。【熊さんの空手道場】門下生の春香さんの逆鱗に触れたのだ。この程度で済むはずがない。
「あ、が――て、てめぇ、このアマ、何しやが――」
奴らが春香さんを囲もうとした刹那、俺は衝動的に動いていた。
「俺の春香さんに、汚い手で触れるな」
あとはもう衝動に呑まれた。
落ちた薔薇が、無造作に奴らに踏み潰されたのを尻目に、俺は拳を振り上げて――。
■■■
ベンチに座って、空を見上げる。もうお昼近いが、デートどころじゃない。春香さんは埃まみれ、砂まみれ。一方の俺は頬や目尻を殴れ、見事に腫れてしまっていた。
と、春香さんは何度も何度も薔薇を数える。
「春香さん、何をしてるの?」
「もし一本多かったら、良かったのになぁ、って思ったの。でもダメだった。何回数えても107本なんだもん。残念としか言えないよ」
「あ、あのさ。薔薇の108本って……どんな意味なの?」
俺の言葉に、呆れたように春香さんが睨む。
「分かっていて、薔薇をくれたんじゃないの?」
「いや、あの、だってさ。厳さんが、これを送れば大丈夫って言うから――」
「ちょ、ちょっと、待って。高岩さんが知ってるの?」
かぁっと分かりやすく春香さんが頬を赤く染める。厳さんが知っているということは、町内会のみんなが知っているのと同意だった。俺は思わず目を逸らす。
春香さんは小さくため息をついて、それから口を開いた。
「108本は『結婚してください』って意味だよ」
「……へ?」
俺の思考は停止した。無意識に厳さんのニヤニヤとした表情が目蓋の裏側で再生された。
「あ、あんの、クソジジイっ!」
「……なぁんだ」
すっかり落胆した表情を春香さんは見せる。
「へ?」
「そういう覚悟で、薔薇の花束を渡してくれたと思ったのになぁ。残念、勝手に期待していたんだね。私、バカみたい」
春香さんはぼーっと、空を見上げる。その表情は空虚で。俺の思考はグルグル回る。体のあちこちが痛い。でも、それ以上に春香さんにそんな顔をさせてしまったことが痛い。
なんで、俺はここにいる?
春香さんにそんな顔をさせるため?
(違うだろ――)
ただ自分の気持ちを伝えたかった。それだけなのに。
気付けば、自然と俺の口から言葉が漏れていた。
「107本……」
「え?」
「107本の薔薇。この花束に俺が意味をつけさせてもらって良いですか?」
俺の言葉に、春香さんは目を丸くする。お構いなしに、俺は言葉を続ける。だって、薔薇の花束も、厳さんのお膳立ても全部言い訳だから。俺は自分の気持ちを伝えたい。ただ、それだけだった。
「107本は『あなたの隣は誰にも譲らない』それじゃダメですか?」
「大地さん、それって……」
「俺の飼い主は、春香さんってことです」
「それじゃ分からないよ」
分かっているくせに。春香さんは満面の笑顔を浮かべている。
でも俺は、躊躇することそのものが馬鹿らしかった。
「春香さんが好きなんです――」
そう言いかけた俺の唇を暖かい温度で塞がれる。
ボロボロで。メチャクチャで。どうしようもない俺なのに、春香さんはいつだってその気持ちをまっすぐに向けてくれる。
「私も大地さんのことが大好きだよ」
この笑顔は108本の薔薇を贈った後も、俺のなかで色褪せることはなかった。
■■■
「素敵です!」
ルームミラー越し、翼ちゃんが興奮しているのが分かった。一方の空は、もう明後日の方向を見ている。そりゃ親の恋バナなんて聞きたくないだろう。俺ならゴメンだ。隣を見れば助手席の春香さんは、嬉しそうに鼻歌が口ずさむ。
と、翼ちゃんの住むマンションに着いた。見れば、心配そうに立っている夫婦らしき男女が一組。時間を見れば【22:50】――そりゃ心配しない方がおかしい。翼ちゃんに合わせて俺達も車から降りたのだった。一言、お詫びをするために。
「ただいま」
にっこり翼さんが笑んで言う。
「「おかえり」」
二人がほっと安心した表情を浮かべる。うん、この子は本当にご両親に愛されている。心底そう思う。だからまず遅くまで連れ回したことを、ご両親にお詫びするべきだ。今後の二人の友人関係のために。と俺が口を開こうとした刹那――。
「すいませんでした」
空が頭を下げていた。
「そ、空君? べ、別に空君が謝る必要はないよ。ちゃんと連絡をしていたんだし!」
「それでもだよ。この時間まで連れ回してしまったんだし。心配していたと思うんだよね。これが俺じゃなくて、姉ちゃんだったらウチの父ちゃん、居ても立っても居られないはずだし」
うぐ。反論の余地もない。そう思っていると、さらに空はもう一度、頭を下げた。
「下河空です。つば――天音さんとは、仲良くさせてもらってます。これからも友人として、過ごしていきたいと思ってます。今日は本当に申し訳ないと思ってますが、できればこれからも友人として、よろしくお願いします」
「……バカ。いつも名前で呼んでくれるくせに。それに私はただの友達でいるつもりは無いからね」
翼ちゃんが呟く声は、空に届かず消えていく。でも、確かに彼女のお父さんには聞こえていたようで、微妙な表情になっていた。分かる、分かるからね、その気持ち! つい心のなかで握手をしたい衝動に駆られた。
ふふっ、と天音母が微笑む。見れば春香さんからも微笑が漏れていた。
「翼の母、美羽です。最近ね翼が空君の話ばかっりするから、どんな子なのか気になっていたの。誠実そうな子で良かったわ」
「ちょ、ちょっとお母さん! 空君の前でそういうこと言うの止めて!」
「あれ? だって事実でしょ?」
空はどうして良いか分からず、目をパチクリさせた。翼ちゃんは顔を真っ赤に染めて。そして美羽さんと春香さんは、そんな二人を見て嬉しそうに笑みを溢す。
「ほら、あなたからも」
ツンツンと美羽が旦那さんを突く。
「あ、あぁ。えーと、翼の父の颯です。転勤が続いていたんですが、どうやらしばらくはこの町で落ち着くことができそうです。こうやって翼の友達の会うのは初めてなので、戸惑っています。転校続きでなかなか友達を作れない子だったのから。だから正直、翼の素顔が見られたのは、親として嬉しいって思います。また転勤になる可能性もあるから、それが少し心配なんだけどね。そんな事情がある我が家ですが、良ければこれからも翼と仲良く――」
「私、次は一緒に行かないよ」
「へ?」
翼ちゃんの言葉に颯さんは目を見開いた。まさかココで娘から拒否されると思っていなかったんだろう。分かりますよ、颯さん。でもね、お父さんが一番の時代って、もう終わってるんだよね。少し――かなり寂しいけどさ。
「空君」
と翼ちゃんは、颯さんには見せないだろう満面の笑顔を浮かべる。
「へ?」
「今日は一緒に過ごせて嬉しかった。いつだって一緒に過ごせる時間、宝物だって思っているからね」
「あ、う、うん」
コクコク、空が頷く。
「でも、私はただの友達のままじゃいてあげないから、覚悟してね」
「へ?」
「お休みなさい。あとでまたLINKに連絡入れるから!」
そう手を振って踵を返す。
「お母さん、先に入るね」
「はいはい」
翼ちゃんはマンションの中に入っていく。ぼーっとその後ろ姿を見送る空と、切なそうに見る颯さんと。あららと笑うのは女性陣で。
「あ、あのですね」
つい俺は颯さんに声をかける。
「あ、はい?」
まさか声をかけられると思っていなかったのか、颯さんが身構える。
「俺、自治会の青年団代表をやっていて。天音さん、もし良かったらなんですけど、青年団に入りませんか?」
「へ?」
颯さんは目を丸くした。
「若いパパさんの力が必要と言うか。うちの町内、若い人もそれなりにいるんですが、高齢化もご多聞に漏れず進んでいて。それに町内会に参加しない人も多いんですよね、最近。でも、いざという時は助け合いができたらって思っているんですよ。男親ならではの悩みも含めて相談しあえたらって思いますし。どうでしょうか?」
俺はそっと手を差し出す。ぽかんと口を開けていた颯さんが、ゆっくりと俺の手をつかんだ。
「あ、あの、僕。転勤が多くて、正直、ご近所とどう関わっていけば良いのか悩んでいたんです。その、何ができるか分かりませんが、ぜひ入らせてもらえたら」
「こちらこそ、喜んで」
ぐっと握手を交わす。
何より女の子を持つ親同士、気持ちを分かち合えそうな人と巡り会えた。それが嬉しい。
これはアップダウン/スカイウイング・クラッシャーズを結成するのも良いかも、と思った瞬間、背中にゾクリと悪寒が疾走った。
女性陣が疑わしそうに、俺たちを見る。
(ウソです。ウソ。そんなこと思ってないからね)
だからお願い、そんなに睨まないで。春香さんってこういう時、妙に勘が鋭いんだよね。
「ま、私達はもう婦人会で顔見知りだけど。改めてよろしくね、美羽さん」
「はい、春香さん。また女子会をしましょうね」
一瞬で賑やかになった大人達とは対照的に。
空は、ずっと翼ちゃんの後ろ姿を――姿が見えなくなってなお、彼女の後ろ姿を追いかけていた。
俺が薔薇なら、さしずめ翼ちゃんは天使の羽根か。
今までも、きっと翼ちゃんは空に見えない羽根を渡し続けていたんだと思う。俺の薔薇の花なんか、霞むぐらいの想いを乗せて。
その羽根の本数に意味をつけるとしたら――。
空、お前はどんな意味をつける?
俺は――。翼ちゃんの天使の羽根に、すでに包み込まれている空を見たよ。
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「とりあえず、どうするの?」
空の言葉に俺はムムムと唸ってしまう。目の前には、幸せそうに眠る雪姫と上川君。雪姫はなお離さないと言わんばかりに、彼に抱きついていた。
「空、上川君のアパートを知ってる?」
「ごめん、知らない。でも父ちゃん、最近は冬希兄ちゃんとよく連絡を取り合っていたじゃんか。父ちゃんこそ知らないの?」
「……残念ながら」
こんなことなら、祖父母――師走さんと霜月さんに聞いておくべきだった。
「母ちゃんはもちろん、知らないよね?」
「むしろ知ってたら、雪姫にヤキモチで殺されちゃうかもね」
ふふふと春香さんは微笑を漏らす。これはもう仕方ないじゃない? とそう言い気で。春香さんが何を考えているのかは想像できた。でもそれはダメでしょ。
家に泊めるのはNGだ。高校生のお付き合い、そのへん節度は持ってもらいたい。
俺が上川君を起こそうと、その肩に触れようとした瞬間、雪姫に手を振り払われた。
「へ? 雪姫?」
でも見れば、雪姫がすーすーと可愛らしい寝息を立てていた。
「兄ちゃん、次は兄ちゃんのトコに行かないと。そろそろ起きてよ――」
空の言葉は途切れる。雪姫の拳が、空の鳩尾にゼロ距離で放たれたのだ。【熊さんの空手道場】で培った心技は衰えていないらしい。それだけの力があれば、悪意も撥ね返せたのではと思うが、それこそ無意味な思索か。
雪姫がそれだけ追い込まれていた。でも俺は娘のことをまるで知らなかった。それが悔しい。
同じく、そこまで追い込まれていた雪姫を上川君は救ってくれた。手を差し伸べたのが、一番近くにいた家族ではなかった。それが本当に口惜しいと思う。
でも無理なんだ。誰も彼も、雪姫にとっての上川君にはなれない。
だって……。
――雪姫が見ようとしている綺麗な世界を泥で塗ろうっていうのなら、誰だって絶対に許さない。
誰があんなに力強く、宣誓できるだろうか。
躊躇わずに。迷いなく。そんな上川君だから、雪姫はまたヘドロの底から這い上がることができたんだ。雪姫が抱えていたもの。親が知り得なかった現実は、言葉通りヘドロと言っても過言じゃなかった。
と雪姫の言葉が漏れる。
「……誰にだって、冬君は渡さないもん」
それは夢の中をさまよいっている雪姫の、かろうじて紡がれた言葉の断片。
より求めるように、雪姫が上川君を抱きしめる。
と、上川君が雪姫の髪を撫でた。
それだけ。
ただ、それだけでなのに。
それだけで、雪姫の表情がふにゃりと緩む。
「……これはどうやっても敵わないよなぁ、やっぱり」
俺はいつの間にか嘆息を漏らしていた。
「あのさ――」
プルプルと空が体を震わす。どうやら痛みからすでに復活したらしい。眠っているとは言え、雪姫の正拳突きを受けて、早々に立ち直るんだから、流石は我が息子だった。
「俺、これ殴られ損じゃない?! 何で父ちゃん、もう諦めてるのさ?」
ごめん、空。瓦10割った雪姫が繰り出す正拳突きだ。――親であっても、できれば遠慮したい。
と、そんな夢うつつの雪姫から、またしても言葉が漏れた。
107本の薔薇が霞むくらいに、ストレートな本音が紡がれて。
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「冬君の隣、絶対に誰にも譲らないからね」
愛おしそうに上川君を抱きしめる雪姫に――俺と春香さん、そして空で目を見合わせ、やっぱり苦笑が漏れた。こんな幸せそうな顔、誰にもジャマできるはずがなかった。
※作者注
空手の瓦割りは、専門の瓦を使用します。正確には熨斗瓦と言います。間違っても建築用の瓦は使用しないでください。大怪我します。良い子の皆さん、作者のお兄ちゃん(永遠のにじゅうごさい)との約束だよ☆
 




