66 幼馴染探偵
【4/30(土) 20:30】
別に意識するつもりはなかったのに、思わず本棚から手に取ったのはアルバムだった。無意識にパラパラとめくる。
いたるシーンで、クソガキ団が集合していた。
瑛真先輩、彩音、そして雪姫が中心に。両サイドを圭吾と僕が。
下河雪姫がどんな子かと聞かれたら、クソガキ団唯一の良心と言える。クールで、ニコリともしない。感情を表に出すのが下手くそ。僕らだから、あぁ今嬉しいんだな、と思うけれど、第三者からすれば無表情にしか見えなかったと思う。
だから雪女――【雪ん子】なんて名付けられた。
下河は兎角、正義感が強かった。イタズラ至上主義のクソガキ団だったけれど、誰かを傷つけたり、泣かせるようなイタズラは許さなかった。
クソガキ団は女性が強い――そのなかでも、雪姫は静かに怒るから怖かった。
町内に今でもある【熊さんの空手道場】で習っていた雪姫と彩音だ。ラーメン熊五郎・先代店主が始めた、ジュニア対象の空手道場だった。
美樹さんはココの門下生で、今や師範代である。そんなわけで、ケンカになるとクソガキ団の女性陣は――特に下河は強かった。
今でも忘れない。小学校の時、クラスで男子からからかわれていた青柳君を毅然と守る、この幼馴染のことを。
正しいことを正しく行動できる下河が憧れだったし、負けないように下河を守れる男の子になりたいと、ずっと思っていた。
だからあの時、制服がボロボロで、過呼吸を起こしていた下河を見て、何が起きたのかまるで分からなくて――。
スマートフォンが鳴り、僕の思考は中断された。
「彩音?」
「やほー、ひかちゃん」
いつものペースで彩音は声をかける。彼女の天衣無縫な様はいつも通りだった。むしろ僕の方がドキドキしてしまって、いつも通りを演じることができない。
――幸せって意味なら、私はずっとひかちゃんから幸せをもらってるよ。
――私がこれから全力で、ひかちゃんを惚れさせるだけだから。
――覚悟してね
あれから彩音の言葉に囚われている自分を感じる。妙に胸が苦しくなる自分がいて、なんてヨコシマだろうと自己嫌悪に陥る。一方の彩音は、何ら変わりなく距離をつめてくる。
「明日、ゆっきが髪を切るの知ってた?」
「そうみたいだね。上川が切るんだろう?」
僕は多分、ため息が漏れていたと思う。お店公認の恋するカフェオレ。それから冬希の告白は、アップダウンサポーターズの報告会でも大いに盛り上がり、今や町内会史の伝説にまでなっている。
もちろん、本人たちが知らないところで、ではあるけれど。
やっぱり嘆息が漏れる。好きな子のためにカフェオレを淹れる。ここまではよくある話だ。ただお店水準で、マスターを唸らせるほどのカフェオレを淹れるとなれば、話は別だ。
冬希、君は理解しているんだろうか。Cafe Hasegawaのマスター長谷川誠は、バリスタの称号を得て世界大会に出場するような人なんだ。お店の片隅で、どうでも良さそうに、トロフィーが置かれているけれど。
「ひかちゃん、気にならない?」
「へ?」
「上にゃんがゆっきをどう、変えるのか」
「……」
ゴクリと僕は唾を飲み込む。それは気になる。気にならないワケがない。
「ふふ。じゃぁ尾行しちゃおうか?」
「へ?」
「名探偵彩ちゃんにお任せあれ。見事に、謎を解いてみせましょう」
謎もナニもと苦笑が漏れる。彩音はあのセリフが言いたいだけじゃん、と声を大にして言いたかった。
「「――雪の中に埋もれた真実、私たちで溶かしましょう?」」
二人の声が重なる。電話の向こうで、ぽかんとする彩音の顔が見えるようだった。下河が書いた「君がいないと呼吸ができない名探偵」のセリフ。作中の主役二人のモデルは、間違いなく冬希と下河で間違いない。
一抹の寂しさが、心のなかで波紋を広げるのを感じながら。
「ひかちゃんが、私のセリフを取ったー!」
わーわー、きゃーきゃー、今日も彩音は僕を退屈させない。ついニンマリ笑んでしまう。一抹の寂しさを、彩音が全て攫っていくのを感じながら。それが妙に心地よいと思っている僕がいた。
■■■
【5/1(土) 13:20】
「光と黄島さん?」
冬希に声をかけられて、思わずメニュー表を落としそうになった。別にやましいことをしているわけじゃないのに、妙に慌ててしまうのはどうしてか。彩音といつも、一緒にいるのに、だ。
と、ふんわり冬希は微笑む。いつも連れ回して悪かったね、とおう言われた気がした。いつも彩音と一緒にいるのが当たり前だったのに、、最近は冬希といる時間が多かったことに今更ながら、気付いた。
「まぁ、幼馴染だから。たまに一緒に買物に行くことだって、あるよ」
「光、俺はまだ何も言ってないけど?」
言い訳じみた僕の言葉に向けて、冬希はニッと笑んでみせる。コイツ、とつい思ってしまう。下河とのことを散々からかったお返しと言わんばかりに、冬希はニヤニヤニヤしていた。
「上にゃん。ひかちゃんはこう見えて結構照れ屋さんだから、あまりからかわないであげてね。ちゃんと報告するからさ」
「彩音、報告とかいらないから!」
カァッと顔が熱くなる。いや、何でこんなに意識してしまうんだろうか。彩音がいつもより少しだけオシャレして、ツイードワンピースなせいだからか。今までと当たり前の距離なのに、それ以上に近く感じるせいなのか。冬希との何気ないやりとり。当たり前の日常なのに、まるで魔法の世界に迷い込んでしまったような錯覚すら憶える。
と、彩音がボソリと呟くのだ。
――だって、ひかちゃんをもっとドキドキさせて、困らせてあげるから。
夢うつつで、冬希と言葉を交わす。何とか平静を装いながら。何とか言葉を絞りながら。
気付いたら、僕はパフェ。彩音はチーズケーキ。それから両方に置かれたカフェオレ。女の子が男の子にキスをするコーヒーアートが描かれていた。
■■■
【5/1(土) 16:15】
黃島彩音は不思議な子だ。ちょっと茶髪。さり気なくオシャレで、ちょっと着崩して。嫌味にならない範囲でギャルといわれる容姿を好む。
そんな彩音だから実は学内でかなり人気があるし、遊びにも誘われていると聞く。いわゆる陽キャにカウントされて良い人種だと思う。
そんな彩音は決まって
――今、文芸部が楽しいから、ごめんね。
そう爽やかに後腐れなく、お断りするのだ。
彩音、それから瑛真先輩という存在がいるからか。うちの文芸部はラノベ好きから、熱い声援を受けていた。
僕はもともと小説を読むのが――そして書くのが好きだったので、近しい人が共通の趣味をもつのは、本当に嬉しい。
そして無心で、こうやって彩音と話すのはいつ振りだっただろうと、つい想い耽ってしまう。
「こうやって見ると、みんなそれぞれカラーがあって面白いね」
「うんうん。ひかちゃんは王道異世界モノでしょ、瑛真先輩は大人の恋愛やBL、ゆっきは恋愛系ミステリだけど、あの子多分どんなジャンルでも書けるよね」
それはそう思う。下河は以前、ダークファンタジーや伝奇物アクションを書いていた。恋愛要素は薄く、あったとしてもヒロインを失ってバッドエンド。今ではとても考えられないが――作風が影響されるくらいに、上川冬希の存在が大きかったんだと思う。
「芥川さんは、オールマイティーに何でも書くよね。ちょっと純文学を感じさせる、ウェットというか大人を感じさせる空気感あるよね」
「あぁ。あの子、でも本当は書きたいの別にあるから」
「へ?」
「月虹図書館って言ったら、ひかちゃん分かる?」
彩音が顔を真っ赤にして言う。18歳未満ログイン禁止の小説投稿サイトだった。
「え? 彩音も見てるの?」
「み、み、見ないし……」
彩音も真っ赤になって俯く。言ってから後悔しても遅いのだが、僕は発言のチョイスが、大失敗したことを悟る。まんまセクハラだった。
「あ、あのさ。彩音の書く恋愛小説ってドキドキするよね! 三角関係の幼馴染。しっかりお姉さん系とギャルだけど、甘えっ子。でもギャルちゃんの気持ちに主人公が気付かなくて、ジレジレすると言うか――」
「うん、彼はひかちゃんがモデルだし」
「へ?」
固まった。あれ? え? これって、え?
と彩音がふふっと笑う。
「冗談だよ。ひかちゃんが、私をからかったお返し――あ、そろそろかもね」
と彩音が腕時計を見ながら言う。俺が目をパチクリさせていると、カウンターの方が妙に賑やかになった。今まで見ない店員さんが、恥ずかしそうに入ってきて――って、あれは下河? 僕は何回も瞬きして、自分の目を疑う。
見れば、彩音も嬉しそうに視線を送っていた。僕はスマートフォンを見る。LINKのグループ通知がある。発信者は瑛真先輩だった。
『アップダウンサポーターズにお知らせ! 雪姫、Cafe Hasegawaで店員デビュー。この後すぐです。次回の報告会で詳細をお伝えします!』
僕は下河を見た。Cafe Hasegawaに来る。これだけの人がいるなか、下河はどれだけ勇気を振り絞ったんだろう。それは本当に冬希のおかげで。自分には到底為し得なかったことで。
それなのに、それなのに。
それだけじゃ収まらず。
下河はさらに一歩、もう一歩を踏み出そうとしていたんだ。
「あ、あの……。今日から入った新人アルバイトです。その、よろしくお願いします、せ、先輩――」
と下河の声が、小さく響く。店内の声が、途端に静かになる。お店に来た大半の人が下河のことを知っているからこそのまるで見守るような柔らかい視線。
今、ココに下河が立つことの意味を、みんな理解していた。
「下河雪姫です。一生懸命、頑張りますから、よろしくお願いします」
下河がペコリと頭を下げる。
あぁ、ダメだ。情けないな、って思う。感情が溢れ落ちそうになるのを必死にこらえる。僕から見ても、分かる。これだけの人がいても、彼女は呼吸している。前に確かに踏み出している。
見れば、彩音の表情も一緒だった。
お互い、知った仲だ。今さら隠しても仕方ない。
シンと静まる中、僕は拍手を送った。
つられて彩音が。
瑛真先輩や、美樹さん、マスター。カフェの店員達が。それ以外のお客さん達に波及していく。
冬希が下河の手を取る。
二人は見つめ合って、頷く。
それから、一緒にお辞儀をする。
さながら、ミュージカル公演のカーテンコールのようで。
その刹那、二人の声が重なった。
「「ようこそ、Cafe Hasegawaへ」」
拍手はさらに膨れあがっていく。それは間違いなく特別な時間だった。
■■■
【5/1(土) 17:25】
「うん、完璧だね、ワトスン君」
「彩音がホームズなの?」
ニッコニッコの彩音につい苦笑が浮かぶ。少し早めに駅のホームで待つ僕らは、中途半端な変装をキメていた。
お店でお揃い帽子、サングラスを購入。彩音は何でも似合うから良いが、僕は馬子にも衣装。失敗したコスプレのようで正直、恥ずかしい。
「うん、ひかちゃん。とても似合ってる」
そう笑顔で言ってくれるが、それは幼馴染補正というヤツじゃないだろうか。だいたい僕は自分の童顔が好きになれない。ぱっと見、チビッ子ギャングだった。
と彩音はスマートフォンを見る。
「そろそろだね」
見ればグループLINKで、
『上川君達が今、お店を出ました』
と瑛真先輩のメッセージがある。
「ひかちゃん、ゆっき達が来たよ」
そう彩音は囁く。
見れば、相変わらずお互いのことしか見れていない冬希と下河に、苦笑が漏れる。
「それじゃ、行きましょうか、ワトスン君?」
「仰せのままに、ホームズさん」
そう言って、二人でニッと笑う。必然的に、僕と彩音の言葉は重なった。
「「――雪の中に埋もれた真実、私たちで溶かしましょう?」」
まずいな、と思う。まさか今日はメープルの試合があっただなんて、思いもしなかった。人があまりにも多い。
下河は大丈夫だろうか?
如何に彼女が前向きにリハビリを頑張っていると言っても、あの日の姿がどうしてもフラッシュバックする。
息ができない。
呼吸ができなくて悶え苦しんだ、あの日の姿を。
何もできなくて、ただ名前を呼ぶしかできなかったあの日のことを。
「ゆっき」
彩音が呟く。人混みに流されて、冬希と下河の手が離れた。
大丈夫。そう口で冬希に伝えようとしているのが見えた――その表情が固まる。
近くにいたサラリーマンが、下河の体を撫で回すように触っているのが見えた。下河の顔が真っ青に色を失い、呼吸が乱れている。その息遣いを感じる。
あんまりの光景に、僕も彩音も理解が追い付かない。
「感じているのか?」
あの男はイヤらしい笑みを浮かべ、その手を止めない。不快感が喉元まで込み上げる。
「通して、通してください!」
異変に気付いた冬希が声を上げるが、混雑の中、誰もが迷惑そうな表情を浮かべるのみで、通そうとしない。僕は口をパクパクさせることしかできなかった。
ひゅーひゅーいう、下河の呼吸音がやけに耳につく。
どういたら良い? どうしたら?
冷や汗が流れる。
(これで三度目――)
また何もできないのか。
一度目は、下河家が新型ウイルス感染症に罹患した時。忘れもしない中学校二年生の7月。一部の男子が、心無い言葉をぶつけた。
――病原菌、下河菌。
今考えたら、なんて幼い言葉なんだろうと思う。まっすぐ、曲がったことを許さない下河に当てつけるような悪意。僕はでも、あの時何もできなかった。
二度目は、下河が呼吸ができなくなった2月14日。
酸素を求めて悶え苦しむ下河を見ながら、僕はやっぱり何もできなかった。
そして三度目は――たった今。
唾を飲み込む。
喉がカラカラで痛い。心臓がやけに早く胸を打ち付ける。
と、冬希の言葉が脳裏に響くいた。
『もう遅いよ。悪いな。その役目は俺がやるし、誰にも譲らない』
あの時、後悔があれほど苦くて痛いとは思わなかった。もう、何もかも手遅れだと知ったのだ。彼は下河のために、ためらいなく手をのばすことができるのに。僕は結局、いつまでたっても勇気がもてない。
下河を助けたいと思っていても、肝心な時に何もできな――。
「どけて、通して! お願いだから、通してください!」
親友の必死な声。同時に、僕の鼓膜を、かつての冬希の声が震わす。
『――何かあれば、相談したい。その時は協力してくれるか?』
僕は顔を上げる。
拳を握りしめる。
その時は、今じゃないか――。
「痴漢! あの人、痴漢してる!」
僕は腹の底から声を振り絞った。隣で、彩音は目を丸くする。それから意を決したように、彩音も声を破裂させた。
「痴漢がいます!」
その声が後押しになった。どよめく群衆。自分が痴漢扱いされたらかなわないと言わんばかりに、人の波が引く。その瞬間を冬希は躊躇わなかった。冬希の拳が男の頬に直撃する。
転がるアイツ。喚き散らす群衆。アイツが逃げようとする。
気づけば、僕の体が動いていた。
「待って。逃げられると思わないでよ?」
「ち、ちが、私は――」
「下河を傷つけたのは、あなただ。今さら言い訳なんか言わせない」
「私は金は払った。これは合意の。だって、絶対に逆らわない、言いなりの――」
「ふざけるな!」
僕は激昂していた。
言いなり?
逆らえない?
下河が今日という日を迎えるために、どれだけ努力をしてきたのか知らないくせに。金で買った? 下河に限ってあり得ない。こいつがバカだ。まんまと誰かに騙されたんだ。そして一方的に下河を傷つけた事実、それだけが残った。
「わ、私は、優秀なんだ。エリートなんだ。こんな恥が露見するわけには――見逃してくれ。こんなこと、誰でもやってることじゃないか。なぁ、少年。正義の味方気取るなよ、いくら欲しいんだ。金ならやるし、何なら――」
その間も必死に男は藻搔く。その動きに思わず、手が緩んだ瞬間だった。アイツの顔色が露骨に変わる。
「大人を舐めるなぁ!!」
人間ってココまで気持ち悪く悪意を垂れ流せるのかと思った。と、男がスーツから取り出したのは、デザインナイフ。それで僕を刺そうとする。全くの予想外の行動だった。
たん。
乾いた音が響く。
彩音が、アイツの顎を蹴り上げた。
下河と一緒に空手教室に通っていた彩音。下河に次いで怒らせちゃいけないクソガキ団ランキング2位――黄島彩音。
爪先が顎に直撃する。またしても、群衆に男の体が舞う。
阿鼻叫喚。
悲鳴。
有象無象のわめく声が聞こえるが、どうでも良かった。
「私の大切な人を傷つけるな」
彩音は静かに息を吐きながら言う。
それは、下河を心配しての言葉なのに。妙に、僕の心臓がやかましい。今まで味わったことのない感情が、僕を攻め立てる。この感情はいったい何なんだろう?
と、振り返って見れば、彩音が心配そうに僕を見ていた。
「ひかちゃん、ケガはない?」
「彩音のおかげで、ね。ありがとう。格好よかったよ」
「先に動くことができたの、ひかちゃんだよ」
彩音はまっすぐに僕を見て言う。
「ドキドキさせるの私の役目なのに、ズルいよ」
「へ?」
彩音の声がやけに耳につく。
――不謹慎かもしれないけどさ……ドキドキするじゃん。
僕は泡を吹いて気絶している男を尻目に、はにかむ彩音から目が離せなかった。
■■■
【5/1(土) 18:40】
げんなり、だった。
下河達の代わりに警察から事情聴取を受け、ようやく終わった。
警察からは、逮捕の感謝と厳重注意を受けた。曰く、危険なことはせず、周りの大人に頼りなさい、と。
言い分はもっともなのだが、誰も彼もが見てみぬ振りをしていたじゃないか。そう思うより早く、彩音が口火を切る。
――ゆっきを誰も助けてくれないから、ひかちゃんが動いたんじゃないですか。みんな、知らない振りをして。それって、大人としてどうなんですか?
僕はそんな彩音をなだめる。でも、僕が言いたかった言葉を代弁してくれた。それがたまらなく、嬉しいと思ってしまう。
でも、僕は動いたと言えるのだろうか。
目蓋の裏側でちらついたのは、あの日の下河の姿だった。
かちん。かちん。
噴水公園の時間が【19:00】を告げた。
かちん、かちん。
耳鳴りのように、時計の針が刻む音が残響する。鼓膜を震わす。
時は回る。逆回転で。僕の思考回路のなかで。
【2/14 16:00】
家の前で。
まるで水のなかで溺れるように、喉元をおさえて。
空気を求めるように。
下河雪姫は藻掻いていた。
僕や彩音がどんなに声をかけても、声は届かなくて。
制服は切り刻まれたかのように、ズタボロで。
――転んだ、転んだだけだから。
かろうじて、雪姫は声を絞り出す。転んだだけでそうはならない。そうは思いながら、口が封じられたよに、僕は声が出ない。
かちゃ。
ドアが開いた。
空君が血相を変えて走ってくる。
体を震わせて。唯一の拠り所と言わんばかりに、空君に縋る。ココに僕もいるのに。あの時、それがただただショックだった。
時はカチカチ、刻む。クルクルと、針は回って。
【5/1(土) 19:00】
噴水公園の中央のベンチに冬希と下河が座っていた。その姿を見てほっと胸を撫で下ろした――その刹那、二人が唇を重ねていた。
呆然と、僕はその光景に目を奪われる。
と、彩音が手を引っ張る。
気付けば僕は、無理やりベンチに座らされていた。その手を彩音に握られたままで。
静かに、と彩音は人差し指をを立てる。尾行はまだまだ継続中と言わんばかりに。それから、隣に私もいるんだからね、と囁かれて。
噴水の水音がこの場を包み込むなか、下河の声がやけに凛と響く。
「――私は変わりたいの。閉じこもってばかりの昨日はお終いにしたいから。だから冬君」
下河は大きく深呼吸をする。僕の呼吸まで止まりそうになりながら、下河の言葉を待つ。
「冬君。私が息ができなくなった、あの日の話をさせて」
噴水が吹き上がって。
イルミネーションに照らされて。
散った水飛沫が乱反射する。
まるで冬希と下河をスポットライトで照らすように。
あんなに今日も辛いことがあったのに。
今まだって苦しくて、たくさん傷ついたはずなのに。
彼女は起き上がって、前を向こうとしている。
きっと下河は、目を逸らさないと決めたんだ。
むしろ、過去の影に囚われていたのは僕で。
だからこそ、僕も知りたい。君が何を抱えていたのかを。
君を傷つけた奴らの正体を。
僕も――君を幼馴染として、大切に想っている。
その言葉を、しっかり伝えてたい。
僕だって守られてばかりじゃ、イヤなんだ。
もう後悔するだけの日々はウンザリなんだ。
君を守りたい。しっかりと伝えたい。君の幸せを願わせて欲しい。それが、あの時まま――幼馴染でいられなくなったとしても。
カチンカチンと僕の耳の奥そこで、時計の針が時刻を刻む。あの時から、何もできなくなって、止めてしまった僕の時間ごと進めていくかのように。
「2月14日。私ね、あの日から息ができなくなったの――」
静かな下河の声が、まるで噴水の水音をかき消すように、殷々と僕の胸を打った。
僕だって――もう目を逸らさない。
かちん、かちん。
止まっていた時計の針が、ようやく進みだす。
 




