65 君と君を取り巻く悪意について
【5/1(土) 16:50】
「お待たせしました。季節のケーキセットです。ご注文は以上でよろしかったでしょうか?」
「はい。あ、店員さん。良ければ連絡先を教えてもらっても――」
ピクッ。俺は表情筋が動かないように、冷静になるように努めた。音無先輩をはじめバイトメンバーは俺以外女子だ。たまには勘違いして、こんなコトを言う奴らが少なからずいる。そのための対応マニュアルがあるし、俺やマスターが出るのは、最後の手段だ。
「お、おい。マズイって。止めた方が……」
「何だよ? ちょっと地味だけど、新人の子だろ? こういう子なら押せば絶対ゲットでき――」
思わず不快感から、表情が動くのが自分でも分か――。キュッと、頬を弱い力で摘まれた。
「冬君、顔が怖いよ。目が怒ってる」
見れば声をかけた男子と、その連れが顔を青くしている。
「す、すいませんでした……」
「こ、殺される――」
失敬な。ちょっと感情が表に出たかもしれないが、そんな酷いことしないし。
と、瑛真先輩と音無先輩が隣で、苦笑混じりにため息をつく。
「上川君、手品でも無い限り、スプーンはそっちの方向には曲がらないからね」
「私的には面白そうだから、もっとやれだけどね」
見れば下膳しようとしていたパフェスプーンが、3本束になっていた。
「もぅ。冬君は心配性なんだから」
と俺の頬を両手でさする。
「へ?」
「笑顔、笑顔。私は大丈夫だよ。こんなに皆さんに応援してもらったし、マニュアルもちゃんと読んだからね」
「う、うん……」
雪姫に頬を優しく撫でられて、トゲトゲした感情が抜け落ちていくのを感じる。
「おぉ。本当に二人の世界に没入しちゃってる感じ? これは見てるこっちの方がドキドキしちゃうわ」
「でしょ? 適度にブレーキをかけてあげないと、大惨事だからね。好きすぎて歯止め効かなくなるんだよ、この二人」
音無先輩と瑛真先輩が何やら言っているが、耳に入ってこない。それよりトラブルがあっても雪姫の呼吸が落ち着いている。そっちの方が重要だった。
と雪姫は背筋をのばす。
「お客様、申し訳ありません。当店ではスタッフの個人情報開示について全てお断りをしています。また、スタッフへの度重なる要求は、迷惑行為に該当する場合があります。場合によっては退店をお願いする場合もありますので、ご了承ください――冬君、こんな感じでいいかな?」
「グッド」
「上川君、グッドじゃないから。何でそこで、二人とも擦り寄るし」
瑛真先輩が何故かぼやくが、完璧なマニュアルに沿った対応だと思う。思わず雪姫の髪を撫でてしまう。気持ちよさそうに、そして嬉しそうに雪姫が目を細めた。
「……は、はい。なんか、すいませんでした」
「本当にごめんなさい……普通に怒られるより、心にクルのはどうしてなんだ……」
ずんと落ち込んでいる。しっかり反省してくれているのだから、根は悪い人達じゃないのかもしれない。
「いえ。分かっていただけたらありがたいです。それと、ああいう風に声をかけてもらったということは、お誘いを受けたってことだと思うんですけど、ごめんなさい」
「「へ?」」
「私、心に決めた大好きな人がいるので」
そう言って雪姫は、俺の顔を見る。まるで向日葵の花が一面咲くような笑顔をみせた。そんな雪姫の表情と、ストレートな物言いに俺の頬が自然と緩んでしまう。
「……今まで、たくさんお断りされたけど、コレが一番キツイ……」
「何で、目の前でイチャつくか……」
イチャつくとは失礼な。ちゃんとお仕事しているし、目と目があっただけじゃないか。
「く、空気でイチャついてる……」
「音無ちゃん、こんなもんじゃないから。私たちがストッパーにならないと、本当にこの二人、周りが見えなくなるからね」
「しかし上川君があんな顔するなんてねぇ。雪ん子ちゃんもだけど」
「お父さん、感心している場合じゃないから! 毎回スプーン曲げられたらかなわないから!」」
「瑛真ちゃん、お店の経営まで考えてくれるようになって、お母さん嬉しい。ストッパー瑛真ちゃん、これからもよろしくね」
「わざと上川君と雪姫を大炎上させたいって、お母さんの目が言ってる! ちょっと、本当にやめてよ!?」
「ストリッパー瑛真ちゃん……」
「音無ちゃん! お嬢様がストリッパーとか言っちゃダメ!」
何やらカウンターが賑やかだった。今日日の女子高生がストリッパーを知っているのもどうかと思う。先輩たち、年齢詐称も甚だしいんじゃないだろうか。
「冬君、ストリッパーって何?」
「……」
コテンと首を傾げて聞く雪姫を見て、時々、この子は確信犯なんじゃないかと思う時がある。天使な時も小悪魔な時もある雪姫さんに――俺はそっと囁いた。
「雪姫が俺の前だけで、やってくれたら喜ぶヤツかな」
「――」
言葉なく、雪姫が真っ赤になる。はい、ダウト。絶対、知っていたね。
物書きさんの語彙は侮れないと思った瞬間だった。
■■■
【5/1(土) 17:40】
ガタン、ゴトンと電車に揺られる。区間としては二駅、10分程度で中区に行き着く。
爺ちゃん達の店に行くのに慣れたものだが、今日はやけに新鮮に感じる。隣に雪姫がいるだけで、嬉しさがこみあげてくるから、俺って単純だ。
「雪姫、大丈夫?」
「もぅ。冬君は心配しすぎだよ」
クスリと雪姫は笑う。そりゃ心配ぐらいする。今日は野球の試合があるのか、安芸市をホームにする安芸楓maple――通称メープルの真っ赤なユニフォームを着た人が多い。
安芸市に拠点を置く自動車メーカー【楓モーター】がスポンサーなのだが、スポンサー以上に、市民の応援がパワフルだった。安芸市民たるもの、メープルを応援スべし――と市長は流石に言ってないが、テレビのローカル放送、ラジオはメープルの特集が必ずある。
乗客の大半がこれから応援に行くのか、ユニフォームを身にまとっている。おかげで座るスペースすらない有様だった。この人の多さ、雪姫の体調が気になって仕方がない。でも、こうやって雪姫の笑顔を見て、胸を撫で下ろしている自分がいる。
「雪姫もメープルを応援してるの?」
「どちらかと言うと、になるかな。みんな応援しているから、私もって感じ。中学校までは、家族で球場に応援に行ったこともあるよ」
「ユニフォーム着て?」
「うん。お父さんとお母さんもメープル大好きだからね」
思い出してクスクス笑う。
「ん?」
「お母さん、応援すると性格激しく変わるから。それだけメープル愛が大きいんだけとね」
「へぇ」
春香さんが、と思うが何となく納得する自分がいる。下河家の前で、カケヨメジャイアントを応援しちゃダメな気がしてきた。
(まぁ、それだって朱音が応援していたから、程度なんだけどさ)
幼馴染が、試合になると激しくエールを送っていたのを思い出して苦笑いが浮かぶ。
と、雪姫が何故か俺の頬はを抓る。
「痛ひ、雪姫さん?」
「……何だか、分からないけど面白くない。冬君が違う女の子のこと考えていた気がした」
「雪姫と一緒にいるのに、考えるわけないじゃんか」
と言いながら冷や汗たらたら。朱音に対してそんなヨコシマな感情は持ち合わせてないが、雪姫にはセンサーでもついているんだろうか。
でも、とも思う。今日を乗り越えて。少しずつ踏み出して。行ける場所を増やしたら、野球の応援にも行けるかもしれない。そんな近い未来を思い描くと、自然と頬が緩んでしまう。
と電車が停まる。降りる乗客はゼロ。乗る人がさらに増える。と、人の流れに押し流されて、雪姫と繋いだ手が離れる。
「雪姫」
思わず声をあげるが、人の流れに押されて、雪姫の方に必死に行こうとするが、波にもまれて溺れるように、雪姫との距離をつめることができない。
雪姫が口をパクパクさせた。
――大丈夫。
そう表情は言うが、すぐに固まる。ビクンと体が震え、顔面蒼白という表現じゃ足りないくらいに、雪姫の顔から血の気が引いていくのが、分かった。
ひゅー。ひゅーひゅー。
全ての音が停止して、雪姫の呼吸がけが、聞こえる――そんな錯覚。
雪姫の背後の男が下卑た笑みを浮かべ、手をのばして雪姫の下半身に触れていた。
「なんだ、感じているのか?」
この瞬間、俺の理性は全て吹き飛んだ。
「通して、通してください!」
そう叫ぶが、迷惑そうな顔を浮かべて誰も道を譲らない。せめて、あの男だけでも雪姫から離さないと。そう思って、届かないとわかりながら、雪姫に手をのばそうと――。
「痴漢! あの人、痴漢してる!」
男子の声。誰かが、あの男を指さした。
「痴漢がいます!」
女の子のヒステリックな金切声が飛ぶ。
途端に、ほんの少しだけ道が開けた。
迷わず、俺は床を蹴る。
背広を着た、真面目そうな印象の中年だった。俺は雪姫をあの男から引き離す。
「ち、違う。話が違う! 合意のうえだ。金は払っ――」
最後まで話を聞くつもりは毛頭なかった。握りしめた拳を彼の頬に叩きつける。群衆のなかに、その体が呑まれていくが、それもどうでも良かった。
「雪姫、雪姫!」
恥も外聞もなかった。ただ、雪姫を抱きしめる。
体がガクガク震えていた。
喉元がひゅーひゅー鳴る。手が冷たい。唇が青紫になっているのが見て取れた。
その手が、宙へとのばす。何かを探すように。
「ふ、ゆ君……?」
「ここにいるから」
がしっと雪姫の手を掴む。雪姫が目を俺に向ける。息が、少しずつ落ち着いて――縋り付くように、俺の胸にその顔を埋めた。
「冬君……」
「うん、ココにいる」
「ふ、冬君、冬君――」
声が震えている。その目から、感情が流れ落ちる。俺は、ただただ受け止めることしかできなかった。
視線が交差する。
いたたまれない感情。好奇の眼差し。無関心を装いながらの興味本位。色々な視線から雪姫を守るように抱きしめた。
(手を離してしまった――)
支えると誓ったのに。傍にいるって言ったのに。これじゃ、無関係を装い視線を送るだけの人たちと何も変わらないじゃないか。
言い得ない後悔が、俺を侵食していった。
■■■
【5/1(土) 18:10】
「大変な想いをさせましたね」
深々と駅員さんが頭を下げる。
「彼女さんがそんな状態じゃ、事情聴取も難しいと思うので、無理はしなくて大丈夫とのことでした。幸い、目撃者が多数いますから。ただ、確認が必要となれば、彼氏さんの方にご連絡をさせてもらって良いですか?」
その手に温もりを感じながら、俺はコクコクと頷くことしかできなかった。
駅前――噴水公園のベンチで、俺は雪姫とイルミネーションを眺めていた。陽はすっかり落ちた。【恋する髪切り屋】に行く時間だが、とても向かう気力はなれない。手と手は握ったままだが、心なしか二人の間に距離がある。
「雪姫」
「冬君」
発した声は同時だった。
「「あ」」
また重なる。
「その、ごめん」
「ごめんなさい」
また言葉が重なった。
と、雪姫がぐっと手を強く握りしめる。距離を埋めるように、俺の腕にしがみついた。
「ゆ、雪姫?」
「……守ってくれてありがとうって、言いたいのに。ずっと言えなくて、ごめんなさい」
「いや、守ったと言うか。むしろ手を離してしまって。雪姫を本当の意味で守ることができなかった。ごめ――」
「でも、諦めずに私の方へ来ようとしてくれた。嬉しかったの。あの瞬間も一人じゃないって分かって。誰も助けてくれなくても、冬君は助けてくれるって、そう信じていたから」
「雪姫……」
「でも」
絞りだすような声。
「イヤだった。気持ち悪かった。冬君じゃない人に触られるのが、あんなに気持ち悪いって思わなかった。冬君と離れるのが、あんなに辛いだなんて思わなかった。大丈夫だなんて、言わなければよかった。イヤだよ――離れたく、ないよ」
最後は、言葉にならないくらい、感情が破裂する。
俺は、無意識に雪姫を抱きしめていた。
自分が許せないと思っていた。傍にいるのに、雪姫を守ることができなかった自分自身が。
でも、今の自分が一番許せない。
雪姫が不安な時に、距離を空けてしまった自分が。本当に最悪で、最低で――。
でも、その感情を押し留めたのは雪姫の存在だった。
自分が自分を否定しても、雪姫は傷ついていくばかり。
だったら。
そうなら。
そうならば。
もう、俺がこの手を離さなければ良い。
俺の覚悟が足りなかったんだ。
雪姫は、今まで数えきれないくらい傷ついてきた。
人と交わるだけで過呼吸に陥るって、そういうことだ。
当たり前に息をすること。それもできないって、どれだけ辛かったんだろう。
雪姫が息ができないのなら。
俺が、君に酸素を送ろう。
あなたの肺の代わりに、いくらでもなる。
だから。
人がどう見ても。
どんな風に見られても良い。
深い、深い口付けを彼女に捧げる。
俺しか考えられないくらい。傷つける世界なんか放り出して。俺のことだけ考えて欲しいと、心の底から思う。
噴水の水が湧き上がって。
水が散って。
イルミネーションの光が、雨のように乱れて。
乱反射したのは。
俺も溢れる感情が止まらなかったから。
■■■
「雪姫、ごめん。その……外でちょっと強引だった――」
発した言葉は、雪姫の唇で強引に塞がれた。
「冬君にしてもらって、イヤなことなんかないもん」
「え、えっと……」
「もっと上書きして欲しい。もう誰にも触れさせないで欲しい。冬君だけだから。冬君が欲しい。あなたじゃないとイヤ。あなたが傍にいないって思っただけで、こんなに苦しいなんて思わなかったの」
「……雪姫、無理をしてない? 今日はもう帰ろう」
思わず雪姫を覗き込む。その憔悴しきった表情を見たら、今日はこれ以上、外で過ごすことは無理だと思う。こんな状態で髪を切るなんてもっての外だった。
と、雪姫の双眸が俺をとらえて離さなかった。その目に強い意志を宿して。
俺は次に言うべき言葉を見失ってしまう。
「――無理じゃない。こんな理由で帰るとか言わないで。冬君に変えてもらうことを、私は楽しみにしていたんだから。弱い雪姫も、昔の雪姫も冬君と出会って変わった雪姫も、全部雪姫だから。私は変わりたいの。過去のことに引きずられて、閉じこもっているのはもうイヤなの。冬君に、変えて欲しい。変えてもらうなら、触れてもらのなら冬君が良いの。私は負けないから。負けたままでいたくないから」
「え?」
予想外の雪姫の言葉に、俺は目をパチクリさせた。
「……外に出たら、こんなに悪意があって。みんなが無関心。そんなこと分かっていた。だから出たくなかった。だって、閉じこもっていたら息ができるから。苦しくならないから」
「うん……」
「でもね、外に出ても不安は無いよって。傍にいてくれるって。そう言って呼吸させてくれた人がココにいるの」
雪姫が俺の頬に触れた。また、唇を求める。
「その人はね、外に連れ出しただけじゃなくて。私が拒否してきた人たちを、また私に繋げてくれたの。この世界はね、悪意だけじゃないよって言ってくれた――」
雪姫の唇に唇で触れる。
「……私は変わりたい。冬君に守ってもらうだけじゃイヤだ。冬君を家でずっと待っているだけじゃイヤなの。あなたが、私以外の人に笑いかけるのが耐えられない。例えば、今日のCafe Hasegawaでのように」
「あ、あれは仕事で――」
また雪姫に言葉を塞がれる。クスリと雪姫が微笑んだ。
「分かってる。だから、同じ時間を過ごしたいって思ったんだよ。あなたの傍で。あなたは優しいから、その笑顔を振りまくのは仕方ないし、みんながその笑顔に癒やされても良いと思ってる。でもね、冬君は私の冬君なの。傍でそう主張してあげるんだ。誰にも渡さないし、譲らないよって」
と雪姫は言葉を切って、俺を見る。
「だから、私は変わりたいの。閉じこもってばかりの昨日はお終いにしたいから。だから冬君」
雪姫が求めるより早く、俺が唇を奪う。雪姫の覚悟を感じたから。だったら、俺は雪姫の傍で支える。その覚悟を示すだけ。ただ、それだけだった。
もう絶対に、この手を離さない。そう誓う。
雪姫が大きく息を吸い込んだ。
「冬君。私が息ができなくなった、あの日の話をさせて」
噴水の水がまた湧き上がって。
水音が、踊るように。
イルミネーションの煌めきは、まるで流れ星が落ちるようで。時間が遡るように。時計の針を巻き戻すように。
雪姫にとって、色々なことがあった。
その積み重ねだった。
それは俺が知らない時間で。
まだ雪姫のことを知らなかった俺は、能天気に暮らしていた。
そして俺を知らなかった雪姫。
まだ他人だった二人。
その間も、悪意は静かに蓄積していたんだ。
ヘドロのようにねっとりと、雪姫の感情が絡めとるように。
「2月14日。私ね、あの日から息ができなくなったの――」




