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36 君と「月に飛び込んで」


 気まずい空気が流れる。鼓膜を震わすのは、雪姫の穏やかな呼吸。俺のうるさすぎる心音。そして店内を流れる、穏やかなBGM。と、マスターがレコードを入れ替えるのが見えた。一瞬の静寂――再び流れたのは、シナトラのfly me to the moonで。このタイミングで何て甘い曲をかけるんだ、この人は。


 ――私を月に連れていって。


 ふと、雪姫と目があって。雪姫はやっぱり顔を赤くする。俺も自分の頬が熱いのを実感する。でも、つないだ手を離そうとは思わない。

 未だに信じられないけど――。


(両想いだったんだな)


 不安になっていた自分がバカみたいで。でも未だに信じられなくて。夢じゃないんだよな?


 小さく息を吐く。それぐらいじゃ俺の鼓動はどうやっても収まってくれない。

 ただ気が付くと、雪姫の瞳に吸い込まれそうになって、目を離すことができない。


 雪姫が望めば、月でも火星でもドコでも連れていってあげたい。そう思っている自分がいて。気持ちを飲み込むのに必死だったのに、言葉にした途端、気持ちが増幅するかのように抑えがきかなくなっている。


 と、また雪姫のことしか考えられない自分がいた。


 今日の俺はバリスタで、雪姫はお客様なのだ。いつまでも客と同じ視線で居ていいわけがない。雪姫の手を離し、俺は立ち上がろうとして――。


「はい、上川君。君はアメリカン、ブラックで良かったよね?」


 いつの間にか美樹さんが、俺の前にコーヒーカップを置く。続いて、マスターがテーブルに置いたのはアップルパイで。


「苦味を抑えたカフェオレなら、アップルパイが丁度よいかなって、美樹と話していたんだよ。良ければ、上川くんも一緒に食べよう」

「え、でも、俺は接客中で――」

「ココは【cafe Hasegawa】だよ? そんな堅苦しいこと言わなくていいって」


 と言ったのは瑛真先輩で。雪姫は思わず、ペコリと頭を下げた。


「お……お久しぶりです。瑛真先輩」

「うん、久しぶりに会えて嬉しいよ、下河さん」


 瑛真先輩は優しく微笑んでそう言った。





■■■





「あ、あの。マスターさんと美樹さんも、一緒にいてもらっても良いですか?」


 と雪姫が意を決するかのように言う。俺は彼女の呼吸が心配になったが、喘鳴は今のところ見られず、ほっと安堵する。


「良いの、(ゆき)()ちゃん? 一応、上川君からも瑛真ちゃんからも、状況は聞いてたから。無理はしないくていいんだからね?」


 と美樹さんが心配そうに聞く。雪姫はコックリ頷くが――俺は雪姫の体調とともに気になることがあった。


「雪ん子ちゃん?」


 俺の呟きに、雪姫はまた顔を真っ赤に染めて俯き、マスター達はニヤニヤ笑顔を浮かべていた。


「あの、冬君、それは……。小さい時、お父さんやオジサン達につけられたあだ名で」

「マスターと雪姫は知り合いだったの?」

「……よく知ってます」


 ますます俯くが、その手だけは離そうとしなかった。それよりも既知の間柄だったことに、俺はプチパニックで。そりゃ、今回のカフェオレを相談した時、やけに見守るような暖かい視線を送られたワケだ。


「あのね、【cafe Hasegawa】ってうちの町内会でも有名なレストランなの。特別なディナーって言えばココだし、町内会や学校の会合で使わせてもらうことも多いし。その……知らない人はいなくて。だから、長谷川さんは、保育園の時からお世話になっていて――」

「雪ん子ちゃんの悪戯はまだ可愛かったけどね。他のクソガキ団の連中と言ったら――」


 マスターは懐かし気に目を細める一方、雪姫は慌てふためく。


「だ、だって、あの頃は……小さい時だったし。もう、あんなことしてませんから、そ、その話はヤメてもらえたら――」

「上川君に知られたくない?」

「知られたくない、です。だって、だって恥ずかしいもん」


 ぎゅっと雪姫はオレの手を力を込めて握るが、俺が考えていることはその真逆で。


「なんかいいなぁ」


 思わず声に出していた。


「冬君?」

「あ、ごめん。何だか羨ましいって思っちゃったんだよね。雪姫の昔のことを知りたいって思うし、何だか特別な呼び方されてるな、って」

「冬君が『雪ん子』って呼ぶの、私は絶対イヤだからね!」


 かなり真剣に言われて、俺は怯んでしまう。


「ダメ?」

「ダメだし、絶対にイヤ。私、冬君に『雪姫』って呼ばれるのが好きなの。『雪ん子』ってオジサン達のなかじゃ、悪ガキのイメージしかないから」

「あのチビちゃんが、こんなに可愛く成長したんだなって、感慨深く思っているけどね」


 マスターは微笑んで言うが、雪姫は首を横に振る。俺が『雪ん子』と呼ぶことへの絶対的な拒絶を示して。


「私は、いたずらっ子の雪姫じゃなくて、今、目の前にいる、一人の女の子として、冬君に見て欲しいもん。私が可愛くないのは知ってるけど。だからなおさら、『雪ん子』って冬君には絶対に言われたくない」

「そっか。分かったよ。ごめん、ちゃんと『雪姫』って呼ぶから」


 俺は頷いて微笑んでみせた。安心したように、雪姫の表情が晴れるので――ちょっとイタズラをしてみたくなったのは、もっと雪姫の色々な表情を見たいと思ってしまう、ワガママから。


「でも、一回だけ言ってみても良い?」

「え?」


 雪姫は目をパチクリさせた。雪姫の反応、お構いなしに俺は耳元で囁く。


「雪ん子ちゃん」


 唖然として、雪姫の顔が瞬時に真っ赤になって――その手でポカポカと俺の腕を叩いてくる。その目は羞恥心から、半分涙目で。


 まぁ、気持ちは分かる。

 もしも俺が同じ立場で、幼馴染たちとの過去を掘り下げられたら、それはそれはいたたまれない。でも、もっともっと雪姫のことを知りたいっていう、この気持は嘘偽りなくて。


「ごめんね」


 フフッと笑んで、すぐに謝る。


「もう言わないから」

「友達の時はそんな意地悪言わなかったのに。今日の冬君はとてもイジワルだよ」


 むぅっと頬を膨らます。今まで見たことがない雪姫の表情。でもこれはマズいな、と思った。怒っていると言うよりは、あからさまに落ち込んでしまっている。よっぽど昔の姿を俺に知られたくなかったんだろう。

 でもね、と思う。本当に俺は雪姫のことを知らないんだ。だから、一つ一つ知っていきたい、一つ一つ教えてほしい。ついついそう思ってしまう。


「だって、もっと雪姫のことを知りたいって思っちゃったんだ。それはダメなことなのかな?」

「……そ、そんな風に言われたら、私それ以上言えないじゃない」

「だから、ごめんって」


 俺は囁く。


「雪姫、本当にごめんね」

「しゃ、謝罪を要求します」

「どうしたら、良い?」

「ギュッって……あ、ごめん。今のなし、なんでもないから。冬君、今のは忘れ――」


 雪姫が言い終わる前に、俺は少しだけ強引に引き寄せる。自分の膝の上に乗せるように。しっかりと雪姫の希望通りに抱き締めた。


「い……イジワルな執事さんはキライです」

「もうしないよ。今度からは、ちゃんと雪姫に聞くから。だから、雪姫も昔のこと含めて教えてくれない? 俺だけ知らないって、やっぱり寂しいからさ」

「う、うん……」


 コクンと頷いて、雪姫は俺の首に手を回す。


「優しい執事さんが好きです。私を甘やかしてくれる執事さんは……大好きです。だからちゃんと、私のこと教えるからね? 私の口から冬君に知って欲しいから。イジワルはイヤだからね。それと……今度は冬君のことをもっとたくさん私に教えて欲しいです」

「うん、わかった。少しづつ、お互いを知っていくってことで」


 雪姫はコクンと頷く。


「私だって、冬君のこと全然知らないもの。もっともっと冬君を知りたいよ」


 雪姫が寂しそうに言う。


「そういうことを含めて、だと思うの。私を月に連れていって、って」

「うん、そうだね」


 俺は頷いて、雪姫の頬に自分の頬を寄せる。俺の言う言葉は決まっていて。だから耳元で優しく囁く。


「雪姫と一緒なら、喜んでだよ。でも、俺だけが雪姫を月に連れて行くわけじゃないって思ってるからね」

「え?」

「雪姫だって、俺の手を引いてくれているから。あえて言えば、二人で月に飛び込んで? かな。こうやって手を繋いで。一緒に助走して、ジャンプして。飛び込んで。今日ココでカフェオレを飲むことだってそうでしょ? 俺は準備しただけ。雪姫が勇気を出してくれたから、一緒の時間を過ごすことができた。そう思っているよ」


「……冬君も私に言ってくれるの?」

「もちろん」


 雪姫に囁く。


「――俺を月に連れて行って」


 雪姫は体を震わせた。少なくとも不安や悲しみじゃないことは分かる。あえて言えば、勇気を奮い立たせるかのように。

 頬を擦り寄せながら、俺の耳元に雪姫は囁いた。


「それは私だって。喜んで、だよ――」





■■■





「これ、私たちは何を見させられているのかな?」

「瑛真ちゃん、ごめん。煽った私が悪かったよ。今回ばかりは反省……」

「でも上川君と下河さんって、こうやって周りが見えなくっちゃうだね。可愛いねぇ。見ていて微笑ましいけど。これはなかなか楽しい」

「お父さん、全然楽しくないからね。こんなの周囲に常に振り撒かれたら、被害甚大だから」

「でも、あの【雪ん子】ちゃんがね。あんな風に甘えるんだね、って思うと感慨深いかも」

「美樹、逆かもよ? もともと下河さんは甘えたかったんだと思う。でもそれをキャッチできる人がいなかったってだけで。そういう意味じゃ、上川君は甘やかし名人かもね」




(聞こえない、聞こえない)


 周りが見えなくなっていたことは反省する。だからって、ここで長谷川家解説はいらないからな――そう思いながら、雪姫を見やる。


 表情を崩して。本当に溶けそうなぐらいの笑顔を浮かべているのを見たら、今さら距離を置くことなんかできない。


 きっと後で冷静になったら、二人で羞恥を感じてしまって。しばらく固まってしまう、そんな未来しか見えないけれど。

 それでも今は――。


「雪姫」


 大好きな人の名前を耳元で呼ぶ。何度も、何度でも。大切で愛しいと。その感情を囁きのなかに目一杯こめながら。


 友達と言い訳しなくて良いのが、こんなに嬉しいとは思わなかった。

 もっと色々な表情を見たい。雪姫の過去だって知りたいし、ドコまでも一緒に行きたい。そう思ってしまう。


 ――私を月に連れていって。


 雪姫が俺にしか聞こえないように、もう一度囁いた。


 ――君が望むなら、喜んで。

 ――俺を、月に連れて行って。

 ――冬君が望むなら、喜んで。


 そう雪姫と囁きあう。


「「二人で月に飛び込んで」」


 図らずとも、声が重なって。雪姫は俺を見上げて、本当に嬉しそうに微笑んだ。

 雪姫は、もう一度俺の胸に顔を埋めて――。





■■■





「えっと……。そろそろ、ごめんね上川君。それから下河さん。ちょっとだけ、相談をさせてもらって良いかな? 瑛真も別件で相談があるんだったよね?」


 と、マスターに言葉を投げかけられる。

 ようやく我に返って、俺達は慌てて体を離した。


 でも、やっぱり手だけは離すことができなくて。雪姫が離してくれない、と言う方が正解かもしれないけれど。それがくすぐったくて、心地よくて。


 だから、なおさら。

 羞恥心から立ち直るのに、あともう少しだけ時間が必要だった――。

引用(ウィキペディア)

”Francis Albert "Frank" Sinatra 1915-1998

「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」(英: Fly Me to the Moon)は、ジャズのスタンダード・ナンバー楽曲。日本語で「私を月に連れて行って」といった意味になる。原題は「イン・アザー・ワーズ」(英: In Other Words)

1954年に、作詞家・作曲家のバート・ハワードらにおいて制作されたもの(中略)”



様々なアーティストがカバーしている名曲で、某映画アニメのエンディングでも流れているので、聞いたことがある人がいるかも。

シナトラは、クルーナーヴォイス(低い声で囁くように歌う)で世界中を魅了した歌手です。

ぜひ、大切な人との一刻を、シナトラの声で彩ってみませんか?

店主は「My Way」もオススメしますよ。


当店の予約、音楽のリクエストは、お気軽に店主まで。

【cafe Hasegawa 店主レコードノートより】


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